烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 アナイクスは、終末を越えたオンパロスの人々がいま何によって存在を保っているのかを語り始めた。
 永遠の一ページに留め置かれた彼らは、肉体ではなく記憶を器として輪郭を保つ。外宇宙の理に照らせば、メモキーパーやピノコニーの夢境にも似た在り方――だが、同じではない。
 そこへ先代の理性のタイタン、カリュプソーが姿を現す。彼女はファイノンをケイオスと呼び、成し遂げられた悲願を静かに讃えた。照れを隠す青年は話題を戻し、今度は自らが知る夢の国の仕組みを語ることになる。


029 揺篭の輪郭を語る

 説明を任されたものの、ファイノンはすぐには口を開かなかった。広場の向こうでは、まだ人々が互いの名を呼び合っている。

 声の重なりは、終末を越えたばかりの世界にしては明るく、しかし時折、ふいに途切れる。笑い声のあとに訪れる短い沈黙。触れた手が、相手の肩からなかなか離れない間。そこにあるすべてが、今この場の問いと結びついているように思えた。

 人々は確かにそこにいるけれど、かつてと同じように肉体を持ち、血を流し、空腹を覚え、疲労に膝をつく存在ではない。呼吸も脈拍も持たぬまま、それでも名を呼べば振り返り、笑い、悩み、誰かを案じる。そうした有り様を、ただ天外の便利な仕組みとして語ってしまうことに、ファイノンはわずかなためらいを覚えたのかもしれない。

 

「ええと……相棒から聞いた話を、そのまま僕の言葉で言うなら」

 

 彼は視線を少し上げた。黎明の光を含んだ雲が薄く流れ、白銀の髪の上に柔らかな明るさを落としている。胸元の金装飾に触れかけた指は、今度はきちんと下ろされた。何かを確かめるような仕草を、途中で自分から止めたのだろう。

 アナイクスはそれに気づいたようだったが、あえて指摘はしなかった。ただ片目だけで、躊躇う彼に静かに続きを促している。

 

「ピノコニーでは、記憶の億質っていうものが、夢境を作る基盤になっているらしいんだ。街並みとか、建物とか、娯楽施設とか……そういう目に見えるものだけじゃなくて、人の記憶や感情、願いみたいなものまで織り込んで、ひとつの世界みたいに形作る。」

「記憶を素材とする建築、というところでしょうか?」

「現実の石や木を積み上げるのとは違うけど、そこにいる人にとっては、ちゃんと歩けて、触れられて、過ごせる場所になるんだって。」

 

 アグライアが静かに言った。金髪の毛先が肩口で揺れ、白い花飾りが光を返す。その声音は穏やかだったが、彼女の視線は広場の人々の方へ向いている。衣の裾から流れる白い布が、風に合わせてわずかに膨らんだ。

 記憶や思いを織る仕立ての線を読む者らしく、彼女は「素材」という言葉を、単なる比喩としてではなく受け止めようとしているようにも見えた。

 

「うん。たぶん、近いと思う。ただ、普通の建材みたいに、切って、運んで、積むものじゃないんだろうね。相棒は『夢の素材みたいなものかな』って言ってたけど……聞けば聞くほど、それだけじゃ足りない気がするよ。」

 

 ファイノンは少しだけ眉を寄せる。難しい理論を難しいまま扱おうとする顔ではなかった。おそらくアナイクスやカリュプソーの二人や理性の半神どちらか単身であれば、遠慮なく開拓者やマダムヘルタから聞きかじった通りの言葉で説明をしたのだろう。

 けれど、ここには、童女の姿をしたトリビーや学者ではなく仕立て屋のアグライアがいる。だから、それは、自分の手の中にある素朴な言葉で、なんとか輪郭を与えようとしている表情である。彼は昔から、そういうところがあった。学者のように体系立てて説明するより、誰かが迷わず受け取れる形へと、言葉を削り直そうとするのだ。

 

「誰かが確かにそこにいた、っていう記録を、世界の中へ留めるための媒体……なのかな。たとえば、ある人が見た故郷の景色とか、家族と過ごした部屋の匂いとか、雨の日に聞いた足音とか、そういう、普通なら心の中にしか残らないもの。薄れてしまえば失われるし、語り継がれなければ消えていくはずのもの。それが、億質を通せば、世界で形を持てるように、なるんだと思う。」

 

 言いながら、ファイノンの視線は広場の石畳をゆっくり辿っていた。そこに実在するものを見るというより、かつて失われかけた街並みを重ねているようにも見える。

 夕暮れの市場。誰かが家族を待った窓辺。古い祭りの日の喧騒。数多の街並み(記憶)は、今はまだ新生を待つ世界の中で、それらは完全な肉体を伴う現実ではない。それでも、人々が互いの名を呼び、手を伸ばし、笑い合うための居場所として、確かに機能している。

 

「それで……えーっと、メモキーパーたちは記憶を保存したり、整理したり、ときには再構築したりできるんだって。それは、失われた歴史を保管する書庫にもなるし、誰かの人生を追体験するための舞台にもなる。……って、相棒とマダムヘルタは話してくれたよ。僕は最初、すごいな、便利だな、くらいにしか思えなかったけど」

「今はどうなのかちら?」

 

 トリビーが首を傾げる。赤い髪の毛先が、白金の衣の肩先でぴょこんと跳ねた。青い瞳は明るいままだが、問いの底には子供らしい好奇心だけではないものがある。神託を届ける小さな聖女として、彼女は時折、無邪気な顔のまま核心へ手を伸ばす。

 

「……便利、だけじゃないよ。」

 

 広場の方で、子どもが母親の袖を握っているのを見てから、ファイノンはゆっくりと口を開いた。便利という言葉で片づけてしまうには、あまりにも惜しい。

 

「石は風雨で削れる。鉄は錆びる。木は朽ちる。けれど、記憶はそれとは違う。忘れられれば失われるけど、物みたいに壊れるわけじゃない。曖昧で、形がなくて、触れられない。だからこそ、形を与えられた時に……そこにいた人の時間まで、一緒に残るんだろうね。」

 

 最後の方は、説明というより独り言に近かった。アナイクスは何も遮らない。露わになった片方の瞳だけが、わずかに細められている。黒い眼帯の金装飾が陽を拾い、彼の薄緑を帯びた髪の影が頬へ落ちた。いつもの講義なら、彼はこのあたりで補足を入れるはずだった。

 定義の曖昧さ、用語の不正確さ、論理の飛躍。指摘できる点はいくつもある。けれど今は、ファイノンが自分の言葉で考え切るのを待っているようだった。

 

「誰かが見た景色。誰かが抱いた願い。誰かが愛した故郷。そういうものに輪郭を与えて、世界の中へ繋ぎ留める橋。億質がそういうものなら……終末を越えたオンパロスの光景も、きっとそれに近い理屈で成立しているんじゃないかな。」

「随分と詩的な説明ですね。」

 

 アナイクスが言う。だが、声には否定の棘がない。ファイノンは少しだけ身構えたあと、そのことに気づいたのか、困ったように笑った。

 

「先生の説明みたいに正確には言えないから」

「正確さだけが理解ではありません。あなたの場合、飛躍は多いですが、肝心な骨組みを拾うことはある。」

「それって褒めてる?」

「半分ほどは。」

「半分かあ……うーん、いい方なのかな。」

「ふ。そこもまた、彼のよいところであろう。」

「あなたに言われずとも知っています。私の生徒ですから。」

「おや。」

 

 トリビーがくすくす笑い、アグライアも目元を和らげる。カリュプソーは悠然としたまま、ファイノンとアナイクスの言葉を聞いて微笑んだ。

 鹿の角の影が、石畳の上に長く伸びている。彼女の沈黙には、長い時間を生きた者だけが持つ重みがあった。肯定とも否定とも言わない。けれど、ファイノンが今触れようとしているものを、軽んじてはいないように見える。

 その時、風が広場を渡った。まるで、物語が始まる前触れのように。人々の衣の裾が揺れ、石畳の上に落ちていた小さな紙片が、くるりと回って誰かの足元へ止まる。そうだよ。ファイノンはそれを見てから、少しだけ息を吸った。彼女のくれた時間も、空間も。あたたかな音色のする言葉で表現するべきだと思ったからだ。

 

「キュレネが遺した空間は、たぶん、ただの避難所じゃなかったんだと思う。」

 

 その名が彼の口から出た瞬間、場の空気がわずかに静まった。

 誰かが大声を出したわけでも、音が消えたわけでもなく。それでも、その声で、その言葉が耳に届いた者たちの呼吸が、同じ場所で一度だけ揃ったように見えた。ファイノンは気づいているのかいないのか、遠くを見るような目のまま続ける。

 

「終末を越えた民を一時的に収める箱庭でも、失われた生命を並べておく冷たい保管庫でもない。そんなものだったら、みんなはきっと、あんなふうには笑えなかった。」

 

 視線の先で、老いた男が若い娘に何かを話していた。娘はうなずきながら、時々袖で目元を押さえる。今の彼らに肉体はない。少なくとも、かつてと同じ肉体ではない。

 それでも、その身振りのひとつひとつに、積み重ねた生活が宿っている。泣く時に袖を使う癖。相手の話を聞く時、少しだけ首を傾ける仕草。手を握る強さを、ほんの少し緩める気遣い。そうした細部が、そこにいる者たちをただの記録ではなく、人として見せていた。

 

「そこは、膨大な億質によって支えられた、巨大な記憶領域だった。滅びと一緒に散ってしまうはずだったオンパロスの歴史そのものを、抱き留める場所。……揺り籃、って言えばいいのかな。」

「揺り籃、ですか……」

 

 レポートと同じ言葉が語られる。幾重に歳月が過ぎ去ろうとも、きっと彼の中では、その印象のままなのだろう。金糸を扱う指先が、無意識に衣の端をなぞる。アグライアの声には、言葉の手触りを確かめるような柔らかさがあった。

 

「ええ。冷たい保管庫ではなく、眠りを守るための場所。そう考えると、少し……彼女らしい気がします。」

「うん。」

 

 ファイノンは頷く。返事は短く、それ以上の言葉はなかったけれど、その一音にいくつものものが滲んでいた。

 彼自身より贈られるキュレネへの信頼。彼女がそうするだろうという確信。あるいは、そうしてくれたことへの感謝。断定しきるには静かすぎるが、少なくとも彼の中では、それはごく自然な結論として沈んでいるようだった。

 

「都市の記憶は、街並みになった。人々の営みは風景になって、故郷を想う心は、ちゃんと居場所になった。市場のざわめきも、家の窓から見える光も、誰かが帰りを待っていた道も……そういうものを、全部ただの背景じゃなくて、その人たちが生きてきた証として残してくれたんだ。世界そのものが、自分の過去を忘れたくなかったみたいに。」

 

 ファイノンの声は、少しずつ低くなっていた。広場に響くには小さい。けれど、近くに立つ者たちは誰も聞き逃さない。彼の言葉の先にある景色を、同じように見ようとしているようだった。

 

「そして、そこにいた人々自身も、記憶によって存在してる。魂だけが世界に留まり続けているような有り様……って言うと、少し怖く聞こえるかもしれないけど。実際には、ただ漂っているわけじゃない。誰かが朝を迎えて、誰かと話して、誰かを待って、誰かの未来を願う。そういう時間が、ちゃんと流れてるんだよ。」

「幻想ではなく?」

 

 カリュプソーが静かに言った。

 

「うん。幻想じゃなく。」

 

 今度ははっきり頷いた。そこだけは、迷わなかった。

 

「記憶によって支えられた世界であっても、そこで過ごした時間は本物だ。誰かが友だちと話したことも、家族を想ったことも、もう一度生きたいって思ったことも、全部。たとえ肉体がなくても、それは消えていいものじゃない。そうだろう?」

 

 言葉の最後に、わずかな熱が宿った。怒りではない。強い主張というより、見過ごせないものを前にした時の彼の声だった。

 かつて誰かが泣いていれば立ち止まり、傷ついていれば庇い、失われかけたものがあれば自分の手で掬おうとした、その性質の延長線上にある声。アナイクスが以前、厄介な生徒だと評した理由が、こういう瞬間ほど鮮明に輪郭を持つ。

 アグライアは、その横顔を静かに見ていた。真正面からではない。少し斜め後ろ、白い衣の肩と青い布の揺れ越しに、ファイノンの表情を見ている。

 その位置からだと、彼の顔は半分だけ光に照らされ、もう半分は薄い影を帯びていた。英雄譚に描かれるような眩しさではなく、まだ自分の言葉に戸惑いながら、それでも人々の存在を守ろうとする青年の横顔だった。

 

「だから、キュレネが残したものは……奇跡とも、技術とも言えるのかもしれない。神話の時代なら、神々の御業と呼ばれたんだろうね。でもオンパロスは、もう少しずつ神々の時代を越えようとしている。知識は神秘に名前を与えるし、理論は奇跡を分解しようとする。先生なら、きっとそうする。もうしてるかもしれないな。」

「おや。あなたの中で、私は随分と容赦のない存在らしい」

「ふふん、根拠ならあるよ! 先生の研究部屋に積まれてある論文を読み上げてあげようか?」

「ふ、否定はしません。」

 

 淡々とした返答に、トリビーがまた笑った。赤い髪が跳ね、白金の衣の袖が小さく揺れる。その軽い笑い声が、重くなりかけた空気をそっとほどいた。ファイノンも、つられるように少しだけ笑う。けれどすぐに、視線はまた人々の方へ戻った。

 

「でも、たとえ理論で説明できたとしても、目の前のこれを全部理解したって言い切れる人は、少ないと思う。僕も、分かったつもりにはなりたくない。あそこにいる人たちは、材料でも、記録でも、観測対象でもないから」

 

 その言葉に、アナイクスは何も言わなかった。肯定も急がない。ただ、薄緑を帯びた髪が風に揺れ、青緑の布が一拍遅れて腰の後ろで流れた。彼の片目は、ファイノンではなく、広場に立つ人々へ向いている。学者としての観察か、教師としての沈黙か、そのどちらともつかない横顔だった。

 

「少なくとも一つだけ、確かなことがあるよ。オンパロスの人々が過ごしていたあの静かな日々は、偽物じゃなかった。記憶によって支えられた世界でも、そこに流れていた時間は本物だった。誰かが朝を迎えて、誰かが友と語って、誰かが未来を夢見た。その積み重ねは、ちゃんと存在していたんだ。」

 

 広場の風が、そこで一度だけ強く吹いた。白い石畳に落ちた影が揺れ、人々の衣の裾が同じ方向へ流れる。ファイノンの青い布もまた風を含み、少し遅れて彼の脚に寄り添うように落ち着いた。

 彼はそれを直すでもなく、ただ立っていた。白と青と金の英雄的な姿で、しかし語った言葉は、ひどく素朴だった。そこにいた人々の時間を、偽物ではなかったと言いたい。ただ、それだけのために、彼は難しい理論を自分なりの言葉へ置き換えていた。

 カリュプソーは長い沈黙のあとで目を伏せ、トリビーは先ほどよりも静かに、ファイノンを見上げている。アグライアは手元を一度だけ握り、すぐにほどいた。彼女たちが何を思ったのか、ファイノンには分からない。けれど、誰も彼の言葉を笑わなかった。それだけで十分だった。

 やがて、アナイクスが顎へ指を添えた。講義を続ける時の手つき。だが、その片目には、いつもの皮肉だけではない光があった。

 未知の現象を前にした学者の興味か、あるいは、長年問い続けてきた生徒が自分の言葉で一つの答えに触れたことへの、ほんのわずかな反応か。ファイノンには判別できない。ただ、次に先生が口を開く時、きっとまた自分の言葉は試されるのだろうと、なぜか少しだけ懐かしく思った。

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