永遠の1ページに設けられた区画について、アナイクスから再提出を命じられたファイノン。求められたのは施設の概論ではなく、自分がそこで何を感じたかを書くことだった。
ヒアンシーとキャストリスに誘われ、微睡みの庭、陽だまりの園、星の降るドームを巡るうち、ファイノンはそこにキュレネらしい優しさを見出していく。
戦い終えた者が鎧を外し、眠り、笑い、次の朝を待つための場所。けれど、その理解は彼自身には届かない。皆はここで休んでいい。皆はここで未来を待てる。そう思う一方で、ファイノンは自分を平和なオンパロスに残してはならない“兵器”として捉え、天外の害悪を排除するために使われるべきだと考えてしまう。
彼の無自覚な提言を前に、黄金裔たちは静かに危機感を共有し、彼をこの地に引き留めようとそれぞれの手を伸ばす。
ケリュドラへ提言しに行った日を境に、ファイノンの周りには以前にも増して人が集まるようになった。もとより人に好かれる性質ではあったが、それに輪をかけて、と言おうか。黄金裔が集まるのである。
もっとも、ファイノン自身、それを苦行に感じることはなかった。幸いにして彼は、人の輪の中にいることも、一人きりの静寂も同じように楽しめる性格だった。誰かと肩を並べて語り合う時間も好きだったし、風の音だけを聞きながら考え事をする時間も嫌いではない。なにせ、エスカトンでは最も市民と距離が近く、親身になってくれる黄金裔としても名を馳せた黄金裔である。
だから、人々が
かといって、それを窮屈だと思ったことはない。誰かが相談を持ち込み、誰かが食事に誘い、誰かが他愛もない話を聞いてほしいと訪ねてくる。そのどれもが、彼にとっては守りたかった日常の一部だった。
そして不思議なことに、そうした賑わいの中にいる時ほど、ファイノンは自分のことを考えなくて済んだ。誰かの悩みを聞き、誰かの未来を案じ、誰かの笑顔に安堵する。その積み重ねは温かく、心地よい。けれど同時に、自分自身へ向けるはずだった問いを、静かに遠ざけてもいた。
だからこそ今、この場所で感じる静けさは少しだけ特別だった。
人々は自然に群生する草花の絨毯の上へ思い思いに身を横たえ、頭上に広がる星空を見上げている。あれは何の星座だろう、あの並びはどんな物語に見えるだろうと、ひとつひとつの星を指差しては好き勝手な想像を語り合い、その声は夜気に溶けるように穏やかに響いていた。
誰かに呼ばれることもなく、期待を向けられることもなく、ただ花々の香りと風の気配だけが寄り添っている。久しく忘れていたわけではないはずなのに、どこか懐かしい孤独だった。
その孤独は寂しさではなく、むしろ優しい余白に近い。けれどファイノンは、その余白を自分のために使うことに慣れていなかった。天文観察会にも顔を出してみたものの、星々の話に耳を傾けるより、芝生に寝転がってぼうっと空を眺めていることの方が多かった。
ごろりと横たわったまま寝返りを打つ。草の匂いが鼻先をくすぐり、視界の端で花々が揺れた。その拍子に、外套の内側から小さな硬い感触が指先に触れる。
「ん……? なんだろう」
何気なく取り出したそれを見て、ファイノンは息を止めた。
どう見ても、ファイノン自身が選んで身につけるようなものではない、女性物の麦の穂を象った髪飾りだった。どこか心配そうなヒアンシーの視線にも気づかないまま、彼は少し戸惑うようにもたつき、それを星明かりへ透かすように掲げる。
僕がこれを見間違えるはずがない。葉の重なり方も、留め具の癖も、金属を削る時に誤って付けてしまった小さな傷の位置も、彼女の形見として持ち続けた頃のままだった。内側に刻まれたイニシャルまで、記憶の中のものと寸分違わない。
あの決戦で、自分と共に砕けて消えたはずのものだった。永劫回帰の果て、何度も失われたものの一つ。最後の戦いの中で手放し、もう二度と戻らないと思っていたもの。指先でそっと縁をなぞる。
それはファイノンが初めてオクヘイマで作った髪飾りだった。まだ手先も今ほど器用ではなく、出来栄えだって飛び抜けていたわけではない。それでも、彼女に贈るものだからと、その時の自分にできる全てを注ぎ込んだ。
何度も形を直し、納得がいかずに最初から作り直し、気づけば夜遅くまで机に向かっていたことを覚えている。ハートヌスには「そこまでやる必要があるのか」と呆れられながらも根気強く付き合ってもらったし、シタロースには贈り物にする時の入れ物を何日も悩んで相談し、取り寄せまで頼んだりもした。
何故だか周囲には妙な勘違いをする者もいて。だからこそ、「婚礼式はまだなのか」と聞かれた時も、流石にキュレネが可哀相だろうと思って慌てて否定したのだが、その結果として周囲から信じられないものを見るような目を向けられたことも、妙に印象に残っている。
けれどそれ以上に、渡した時のことも。少し照れくさそうに笑ったことも。その笑顔を見て、自分まで嬉しくなったことも。――忘れたことなど、一度もなかった。
ファイノンは髪飾りを胸元へ引き寄せる。不思議なことに、冷たい金属のはずなのに、そこには微かな温もりが残っている気がした。
まるで、持ち主がほんの少し前までそこにいたかのように思えた。けれど、それはきっと錯覚だろう。外套の隙間から落ちたのならば、ファイノンの体温がうつったと考える方が自然だ。過去にとどまり続ける彼女が、今ここにいるはずがないのだから。
そんな理屈を並べた途端、どこか拗ねたような幼い頃のふくれっ面が脳裏をよぎった。腰に手を当てて、彼女は言うのだ。
『もう、ファイノンったら。……それじゃあ、ちっともロマンチックじゃないわ。』
ファイノンは目を閉じる。
風が吹く。
花の香りが揺れる。
その優しい気配の中に、彼は確かに彼女を感じていた。姿は見えない。声も聞こえない。それでも。――それでも、この場所の至るところに滲むように残された優しさが、どうしても一人の女性を思い出させる。
ファイノンは小さく笑った。そして同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。無性に、会いたいと思った。エリュシオンのいつもの場所で、抱きしめて喜びを分かち合えなくたって、ブランコに揺られている彼女を一目でも見られたなら、と。そしてただ一言、ありがとうと伝えたかった。走り続けられたのは、終止符を打ってくれた開拓者と、物語を綴り続けてくれた彼女のおかげだったから。
けれど、その願いはもう叶わない。だから代わりに、彼は髪飾りを大切そうに握りしめる。残されたものを抱くことしかできなくても。
ふと、髪飾りを握る指先が別の感触を思い出した。
そうだ、とファイノンは外套の内側を探る。記憶から再現された品々が、この空間には残されている。ならば、いつも持ち歩いていたあの筆記用具にも、何か痕跡があるのかもしれない。
取り出したのは、使い慣れた羽ペンとインク瓶だった。何度も手にしてきたものだ。けれど改めて星明かりの下へ掲げてみると、持ち手や金具の細部に見覚えのない細工があることに気づく。瓶の底を見て、キャップを外し、羽ペンを傾ける。やっぱりあった、と予想が的中したファイノンは笑った。
羽ペンには無名の英雄、キャップにはエリュシオンのファイノン、瓶には魂の持ち主。どれも見覚えのない刻印だった。少なくとも、自分で入れた覚えはない。だが文字の癖には覚えがある。やわらかく繊細な花弁のような、この文字は彼女のものだった。
「……ここまで、残してくれていたんだな」
その声は、誰に聞かせるためのものでもなかった。
ファイノン自身でさえ、言葉にするつもりはなかったのかもしれない。ただ、胸の奥に触れたものが、呼吸に混じって零れ落ちた。
星明かりの下で、青い外套の青年は紙面から顔を上げ、微睡みの庭へ視線を向ける。そこには眠りを恐れなくていい静けさがあり、陽だまりの園には帰る場所を失った者たちを迎えるような温もりが満ちていた。
彼は、それを見ていた。
「これを見たら、きっと皆、泣いてしまいますね。」
きっとそれぞれの思い出の品に、そういったものが残されているはずですから。そばでヒアンシーが、そう呟いた。
声音は穏やかだったが、胸の奥にこみ上げるものを抑えているのが分かる。医師として多くの痛みに触れてきた彼女でさえ、この場所の優しさには、すぐ言葉を整えられなかったのだろう。イカルンもまた、いつもより少し静かに、彼女のそばで羽を揺らしていた。
ファイノンは小さく頷いた。
「うん。……泣いても、いい場所だから」
言ってから、ファイノンは少しだけ瞬きをする。自分の口から出た言葉なのに、どこか遠くから聞こえたような気がした。
泣いてもいい。眠ってもいい。笑ってもいい。そんな当たり前の許しを、彼は人へ向けることならできる。迷うことなく、疑うことなく、優しい声で言える。けれど、自分へ向けられた途端、その言葉は意味を失ってしまう。
「そうですね。ファイノン様も、ですよっ?」
「はは、ありがとう。」
それは、まだ彼自身にも見えていない盲点だった。いや、見えていたとしても、きっと彼は困ったように笑って首を振っただろう。僕は大丈夫だよ、と。皆が休めるなら、それでいいのだと。
吟遊詩人がこの時の彼を歌にするなら、白き烈日の輝きではなく、その影に寄り添う調べを選んだに違いない。すべてを照らす光でありながら、自分だけは光の届かぬ場所に置いてしまう青年。民の涙を受け止める庭を見つめながら、自分の涙の置き場所を知らない番人の姿を。
もし神話に余白があるのなら、血と火の叙事詩の果てには、花の名を持つ章が続くのだろう。
その章に、勝利も敗北も大きく刻まれることはない。剣を掲げた英雄の名も、王冠を戴いた者の栄光も、そこでは一歩退くのかもしれない。
ただ、生き延びた者たちの穏やかな息遣いがある。失われた日々を慈しむ静かな時間がある。朝の水を汲む手、炉に火を入れる背中、眠る子の髪を撫でる指先。そうした、世界を本当に支えていた小さな営みが、花びらのようにそっとページへ降り積もっていく。
ファイノンは、その景色を想像した。
戦いの記憶は消えない。消してはいけない。けれど、それはいつまでも燃え続ける炎でなくてもいい。土の奥に眠る種のように、静かに抱かれていてもいいのだ。
痛みは痛みのまま、別れは別れのまま、それでもいつか芽吹くものがあるのなら。失われた日々が未来の誰かの足元で花を咲かせるのなら。――それは、きっと悪くない結末だ。
だからこそ、その結末を守るための礎は必要なのだと、ファイノンは思う。誰かが安心して眠り、笑い、朝を迎えられる未来があるのなら。その未来を脅かすものを退けるために、自分は天外の防衛機構となるべきなのだと、その考えは静かに胸の奥へ根を下ろしていた。
「……はは、こういうサプライズをしてくるのも、
小さく零れた笑みは、星明かりの下でひどく柔らかかった。
ファイノンは、相も変わらず手の中の羽ペンとインク瓶を見つめている。そこに刻まれた見慣れた癖のある文字。ふとした拍子に花弁のように跳ねる線も、最後だけ少し楽しげに丸まる癖も、間違えようがなかった。
キュレネの文字だ。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。痛みではない。悲しみだけでもない。失われたものへ手を伸ばした時、そこにまだ微かな温度が残っていたような、そんな感覚だった。
彼女はここにいない。それは分かっている。
それでも、この場所の名にも、花々の揺れにも、星明かりの降り方にも、彼女の心が滲んでいる。泣いてもいい、笑ってもいい、眠ってもいい。そんな言葉を、キュレネならきっと歌うように差し出したのだろう。
「一緒に過ごせた時間は多くはありませんでしたけど、――わたしにも、わかります。キュレたんのぬくもりを、こうしてまた感じられるだなんて……」
ヒアンシーの声は、少しだけ震えていた。
ファイノンは頷く。うまく返事を探せなかった。何かを言えば、この胸に満ちているものの形が崩れてしまいそうだったからだ。
ただ、思う。
ああ、本当に。
彼女は、最後まで物語を信じていたのだな、と。
血と火の章で終わらせず、その先に花の名を持つ頁を用意して。帰れなかった者たちのために、帰る場所を編んで。泣き疲れた者が、いつか笑えるように。
それは、あまりにもキュレネらしい祈りだった。だからファイノンはもう一度だけ、困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「せっかくだし、寝転んでいるだけじゃもったいないな」
そう言って、ファイノンはゆっくりと立ち上がった。草花の上に寝転がっていたせいか、髪や肩には小さな葉がいくつか付いていて、動くたびにぱらりと零れ落ちる。気恥ずかしそうに笑った後、近くにいるヒアンシーに声を掛けた。
「少し近くを歩いてくるよ。」
「あっ、待ってください。わたしもご一緒します!」
「もういいのかい?」
「はい。わたしもキュレたんのサプライズを見つけたいですし」
花々の間を抜ける風は穏やかで、夜の空気はどこまでも優しい。微睡みの庭も、陽だまりの園も、まだ見ていない景色がたくさんある。それならば。とファイノンには、その気持ちがよく分かったので、ヒアンシーの準備が整うのを待った。
そうしてイベントの主催者であるアグライアに向かって軽く手を振り、彼らは星明かりの下、永遠の1ページを歩き出した。