烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 ファイノンは、開拓者から聞いたピノコニーやメモキーパーの理を、自らの言葉で語り始めた。記憶の億質は、ただ景色を写すものではない。誰かが見た故郷、抱いた願い、愛した時間に輪郭を与え、世界へ繋ぎ留める橋となる。キュレネが遺した空間もまた、冷たい保管庫ではなく、終末を越えた民の眠りを守る揺り籃だった。
 そこに流れた日々は幻想ではない。たとえ記憶に支えられていたとしても、人々が朝を迎え、友と語り、未来を夢見た時間は、本物だったのだ。


030 理性の輪郭を結ぶ

 ファイノンの説明をアナイクスは一度受け止め、評価したうえで、こう言った。

 

「ピノコニーという実例があるとはいえ、よくあること、とは言い難いですね。」

 

 顎へ添えられた長い指先は、何かを摘み上げるように一度だけ動き、それから止まる。薄緑を帯びた髪が風に揺れ、黒い眼帯の金装飾が黎明の光を拾った。

 その声音には呆れがある。だが、否定はなかった。むしろ彼の片目には、未知の現象を前にした学者特有の静かな熱が宿っているように見えた。厄介な問題を前にしている時ほど、彼はよく似た表情をする。扱いにくい、だからこそ解く価値がある。そう言葉にせず語る、神悟の樹庭の賢人の顔だった。

 ファイノンは、その横顔を見て小さく瞬きをした。褒められたのか、訂正されるのか、まだ判断がつかない時の顔である。彼の手はいつの間にか胸元から離れ、青い布の端へ軽く触れていた。指先で布目を確かめるような仕草は、考えを落ち着けるためのものだったのかもしれない。

 広場では、相変わらず人々が互いを確かめるように言葉を交わしている。笑い声、呼び声、時折混ざる泣き声。理論の外側にあるそれらの音が、今はかえって、議論の輪郭を支えていた。

 

「だが、本質から大きく外れているわけでもありません。記憶とは本来、脳という器官に依存する情報の蓄積です。経験が入力され、感情や認識によって意味付けられ、必要に応じて想起される。通常であれば、それは肉体という基盤から完全に切り離して扱えるものではありません。」

 

 アナイクスは淡々と続ける。言葉は冷静で、速くはない。けれど、一文ごとに前提が積み上げられていくため、聞く者は自然と背筋を伸ばしてしまう。

 ファイノンもまた、学生の顔で耳を傾けていた。相談者の声を拾う時の柔らかさとは違う、問いを受け取る時の真面目な表情。白銀の髪の隙間から覗く蒼い瞳は、時折広場へ流れ、それからまたアナイクスへ戻る。

 

「しかし、億質は違う。少なくとも、開拓者の説明と、あなたの提出した記録を照合する限りでは、億質は記憶を単なる情報として保存するだけではありません。それを現実へ干渉可能な状態で固定している。言うなれば、情報と物質の中間層です。」

「情報と物質の、中間……」

 

 ファイノンが小さく繰り返す。壊滅に抗うために向かった空間のような場所だろうか。違うような気がする。分かったような、まだ掴み切れていないような声だった。

 無理もない。畑の土や水路の石なら、彼の手はすぐに手触りを思い出せる。壊れた柵を直す木材も、剣の重さも、手当てに使う布の柔らかさも分かる。だが、記憶を現実へ干渉可能な状態で固定する、などという言葉は、あまりにも手のひらから遠かった。

 アグライアは、ぼうっとしているファイノンの横顔を一度見て、すぐにアナイクスへ視線を戻した。彼女の白い指先は、衣の端を軽く押さえていた。金糸を扱う者らしく、「素材」という言葉には慣れているはずだ。ラフトラたちも記憶を編めるし、ラフトラの主人であるアグライアはもう少し難しいことも出来る。けれど、素材でありながら情報でもあるもの、布のように織れるのに記憶そのものでもあるものを前にしては、彼女もまたすぐには言葉を選べないようだった。

 その隣でトリビーは首を傾げ、青い瞳をぱちぱちと瞬かせている。分かっていないというより、ピラヴロス(ロケット)に使えないかしらと。頭の中で何かを小さく並べ替えている顔だった。

 場に落ちた沈黙を受けるように、カリュプソーが静かに頷く。勇猛な鹿の角が光を受け、石畳に落ちる影がわずかに形を変えた。彼女の立ち姿は悠然としており、風が衣の裾を揺らしても、その中心は少しも揺らがない。

 

「ふむ。興味深いのは、億質が単なる記録媒体ではない点だろうな。保存だけが目的なら、書物や石碑、あるいは天外のデータベースとやらでも足りる。だが夢境は、環境を構築し、人を受け入れ、相互作用を成立させているのだろう?」

「ああ。相棒の話だと、そこにいる人は、ただ映像を見ているわけじゃない。歩いたり、触れたり、誰かと話したりできるって」

「ならば、記憶はそこに置かれているだけではない。呼び出され、組み合わされ、変化へ応じている。つまり億質は記憶を保存しているのではなく、記憶を演算している、とも言えるのではないか。」

 

 演算、という言葉が落ちた瞬間、ファイノンの瞳がわずかに揺れた。彼はその語を嫌っているわけではない。むしろ、オンパロスという世界の根幹に関わる言葉として、あまりにもよく知っている。何なら自分という存在の肉体から魂を引き剥がしてオンパロスへと取り込んだのは、所謂、その演算機構である。

 知恵の星神の演算機構。世界を成り立たせていた仕組み。終末へ向かう輪郭を、見えない手で整えていたもの。その響きが、広場の穏やかなざわめきと重なった時、彼の胸の奥で何かがかすかに軋んだように見えた。

 アナイクスもそれに気づいたのか、ほんの一拍だけ言葉を置いた。それは優しさというには素っ気なく、配慮というには短すぎる間だった。けれど、彼が息を整えるには十分だった。

 

「知恵の力が働いていると?」

 

 アナイクスが問う。問いはカリュプソーへ向けられているが、ファイノンにも届いていた。彼は答える立場ではない。だが、自分の知る世界が、また一つ別の言葉で分解されていくのを、黙って見届けている。

 

「不思議はなかろう。オンパロスが、知恵の星神の演算によって成り立っていたのならば」

 

 カリュプソーの声は静かだった。神話を語るようであり、同時に、古い機構の構造を指でなぞるようでもある。

 

「例えば都市を再現するとしよう。建物の形状だけなら図面で足りる。柱の高さ、壁の厚み、屋根の角度、道の幅。そうしたものは測量と記録で残せよう。だが、そこに住んでいた人々の生活感、感情、習慣、歴史まで再現するとなれば、話は別だ。」

 

 ファイノンの視線が、自然と広場の周囲へ向けられる。白い石畳。人々が寄り集まる影。遠くの建物の窓辺に掛けられた布。

 そこにあるものは、ただ形だけを写した街ではない。あの角を曲がれば誰の家があり、あの広場ではかつて誰が歌い、あの階段には座り込んで泣いた子どもを慰めた記憶がある。そういう、図面には書き込めないものが街を街にしているのだと、彼にも分かる気がした。

 知恵あってこそだと分かる。けれど、それは、演算結果ばかりを追うヌースじゃなくて、記憶を丸ごと抱きしめてくれたキュレネが為したことだと反論のような何かが彼の中で渦を巻く。

 

「それらは単なる情報ではない。膨大な因果関係の集合体になる。誰かが朝に市場へ出るのは、家族の食事を用意するためかもしれぬ。ある店がその角にあるのは、百年前の水路工事で道の流れが変わったからかもしれぬ。子が特定の窓辺を見上げるのは、そこから母が手を振った記憶があるからかもしれぬ。街とは建物の集合ではない。そこに蓄積した生の連鎖であろう。」

 

 カリュプソーの言葉に、アグライアがわずかに目を伏せた。仕立て屋の彼女なら、一本の糸がどれほど多くの手を経て布になるかを知っている。

 誰が紡ぎ、誰が染め、誰が織り、誰の身を守るのか。布もまた、ただの物質ではなく、幾つもの生活の交差点である。そういう連想が浮かんだのかどうかは分からない。ただ、彼女の指先は衣の金糸をそっとなぞり、その動きはいつもより少しだけ遅かった。

 

「なるほど」

 

 アナイクスは短く応じた。興味深そうに細められた片目は、カリュプソーだけでなく、広場に満ちる人々の動きまで観測しているように見える。

 

「億質はそれらを保持し続ける。しかも静的な状態ではなく、変化を許容したまま。だから夢境は街として機能し、人々はそこで生活できる。極論すれば、記憶を素材にした疑似的な宇宙――そう考えることもできる、と」

「疑似的な宇宙……」

 

 ファイノンは、今度は少しだけ目を丸くした。先ほどまでの「情報と物質の中間層」よりも、さらに大きな言葉だった。相棒がたまに発狂してるやつかな。違うか。

 彼の中で、ピノコニーの夢境と、キュレネが遺した永遠の1ページ、そして今目の前で名を呼び合う人々の姿が、どうにか一つの線で繋がろうとしている。けれどその線は太すぎ、遠すぎた。手で掴むには大きく、目で追うには眩しすぎる。

 

「そんなに、大きな話になるのかい?」

「むしろ、あなたが小さく見積もりすぎているのです。あなたはすぐに個人の手触りへ戻そうとする。誰かの故郷、誰かの家族、誰かの時間。もちろん、それは誤りではありません。むしろ、現象の核心に近い。しかし、その一つひとつを成立させる基盤を考えるならば、問題は必然的に巨大化します。」

「き、巨大化……?」

「街一つ、国一つ、文明一つ。その生活史を、相互作用可能な形で保存し、変化を許容しながら維持する。これは倉庫ではない。墓標でもない。動的な世界です。あなたの言う揺り籃という比喩は、詩的であると同時に、機能面でもなかなか悪くない」

「……先生、それは褒めてる?」

「七割ほどは」

「ふ、増えた……!」

 

 トリビーがふふっと笑い、重く傾きかけた空気が少しだけ軽くなる。ファイノンもつられて口元を緩めたが、すぐにまた視線を落とした。

 そんな軽いやり取りの奥で、自分たちの世界が、想像以上に巨大な構造の上に成り立っているという事実が静かに沈んでいく。彼はそれを怖いとは思わなかった。少なくとも、表情にはそう出ていない。ただ、手の届かないほど大きな仕組みの中で、それでも一人ひとりの名が失われなかったことが、ひどく大切に思えた。

 

「では、キュレネの遺された空間は、ただ人々を置いておくための場所ではなく……」

 

 アグライアが言葉を選びながら言った。彼女の声は穏やかだが、そこには慎重さがある。白金の装いが風に揺れ、胸元の装飾が小さく音を立てた。

 

「人々が人々として在り続けられるように、記憶を編み、生活を支え、時間の流れを保っていた場所。そう考えてよろしいのでしょうか。」

「ええ。現時点では、そう整理するのが妥当でしょう。――ただし、正確にはキュレネ一人の御業と断じるのも早計です。彼女の意志、永遠の一ページ、オンパロスに蓄積した記憶、外宇宙で言う億質に近い性質、そしてこの世界が元より持っていた知恵の演算基盤。それらが複雑に重なっている。単独の奇跡ではなく、複数の理が接続した結果と見るべきです。」

「それでも! 最初に手を伸ばしたのはキュレネだよ。」

 

 ファイノンの声は、思ったよりも早く出た。自分でも少し驚いたのか、言ったあとに瞬きをする。だが、取り消すつもりはないようだった。蒼い瞳は静かにアナイクスへ向けられている。

 

「理屈がいくつ重なっていても、仕組みがどれだけ大きくても、行き場を失うみんなのためにその場所を用意しようって思ったのは、キュレネだ。そこは、絶対に忘れたくない。」

 

 広場の音が、ほんの少し遠くなる。

 アナイクスはファイノンを見た。黒い眼帯の奥に隠れた表情は読めない。露わな片目だけが、何かを測るように細められる。反論するならいくらでもできただろう。意志だけでは現象は成立しない。願いだけでは構造は維持できない。そう言うこともできたはずだ。だが、彼はすぐには口を開かなかった。

 

「……忘れなさいとは言っていません。」

 

 やがて返ってきた声は、いつも通り淡々としていた。けれど、どこか角が取れているようにも聞こえた。

 

「意志と機構は分けて論じるべきです。ですが、切り離して無関係だと扱うべきでもない。あなたの指摘は、少なくとも倫理的観点においては正しい」

「倫理的観点……?」

「褒めているのです。素直に受け取りなさい。」

「えっ。今のは分かりにくかったよ、先生」

 

 ファイノンが困ったように笑う。けれど、その笑みには先ほどまでの照れとは違う、少しだけ安堵した色があった。キュレネの名が、理論の中でただの変数にならなかったこと。彼にとって、それはきっと大事だったのだろう。

 彼女が残したものを正確に理解したい。けれど、正確さのために彼女の優しさを削り落としたくない。その不器用な抵抗が、今の一言に滲んでいた。

 カリュプソーは、二人のやり取りを眺めていた。悠然とした笑みは変わらないが、角の影が揺れるたび、その表情に古い時代の光が差し込むようだった。

 

「理性は分ける。記憶は繋ぐ。願いは時に、その両者を無理やり結びつける。……そなたらの議論は、なかなか退屈せぬな。」

「退屈で済ませられる規模ではありませんが」

「ふふ。そう言うでない、当代のサーシスよ。そなたとて、楽しんでおろう。」

「……ふん、否定はしません。」

 

 短い応酬に、トリビーが目を輝かせた。けれどファイノンは、今度は笑うよりも先に考え込んでいた。理性は分ける。記憶は繋ぐ。願いは結びつける。その言葉が、彼の中で静かに残ったのだろう。キュレネが遺した空間も、オンパロスの人々の今も、まさにその三つが重なっているように思えた。

 仕組みだけでは冷たすぎる。願いだけでは危うすぎる。記憶だけでは、いつか薄れてしまう。だからこそ、すべてが絡まり合って、ようやく人々はここにいる。

 

「うーん、じゃあ、夢境と同じなのかな? それとも、似ているだけで、違うもの?」

「ええ、あなたが言うように、似ているだけで、違うものでしょうね。ピノコニーの夢境は、外宇宙における技術体系と資源運用の上に成り立つものです。一方、オンパロスの場合、そこに神話的残滓、知恵の演算基盤、記憶の運命に属する彼女の介入、そして終末を越えるための緊急避難という条件が重なっている。同一視は危険ですが、比較対象としては極めて有用でしょう。」

「珍しく簡潔に理解しましたね。」

「はは、僕は先生の最も優秀な生徒なんだろう?」

 

 冗談まじりにそう返しながらも、ファイノンの表情は少しだけ晴れていた。理解できた、というほどではない。だが、足場が一つできたような顔だった。

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