烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 ファイノンは、キュレネが遺した空間を、冷たい保管庫ではなく、人々の眠りを守る揺篭として語った。そこに流れた日々は幻想ではなく、記憶に支えられながらも本物の時間だったのだと。
 アナイクスはその言葉を受け止め、億質を情報と物質の中間層、記憶を演算する基盤として整理していく。カリュプソーは、街とは建物ではなく生の連鎖であると語り、ファイノンはその巨大な構造の中でも、最初に手を伸ばしたのはキュレネだったと譲らなかった。理性は分け、記憶は繋ぎ、願いはその両者を結ぶ。


031 存在の輪郭を示す

 未知のものを未知のまま怖れるのではなく、知っているものとの距離を測る。アナイクスの講義はいつもそうだった。答えを与えるより先に、問いの置き場所を決めさせる。ファイノンはそれを懐かしいと思いながら、同時に少しだけ苦手だとも思っているように見えた。

 

「ただし、重要なのは、億質や夢境という外部概念に飛びつきすぎないことです。便利な類推は、時に誤読を招く。オンパロスの人々が今ある状態を、メモキーパーと同種であると断定するのも、ピノコニーの夢境と完全に同じ機構だと見なすのも、どちらも早計です。彼らは彼らです。オンパロスはオンパロスとして、固有の条件下で成立しているのですから」

 

 ファイノンはゆっくり頷いた。そこは、よく分かる気がした。彼の目の前にいる人々は、分類名ではない。億質、夢境、記憶生命体。

 どの言葉も手がかりにはなる。けれど、あの母親が抱きしめていた子どもや、袖で目元を押さえていた娘や、互いの名を何度も呼び合う人々を、それだけで言い尽くすことはできない。

 

「うん。僕もみんなを、別の何かの例としてだけで見たくはないな」

「あなたらしい答えです。」

「駄目かな?」

「いいえ。むしろ、その警戒は必要です。理論化とは、対象を扱いやすくする行為でもある。扱いやすくなった瞬間、人はしばしば相手が生きていることを忘れてしまう」

 

 その言葉は、いつものアナイクスにしては少しだけ静かだった。ファイノンは目を瞬かせる。叱られているのではない。諭されているのでもない。

 むしろ、同じものを別の角度から見ていると言われたような感覚があった。アナイクス先生は理論で、人を見失わないために線を引く。自分は人の側から、理論に飲まれないように足を踏ん張る。たぶん、そのどちらも必要なのだろう。

 

「だからこそ、ここから先は慎重に扱うべきです。記憶とは何か。生命とは何か。存在の連続性はどこで保証されるのか。肉体を持たぬ者が、なお本人であると言える条件は何か。……問いは多い」

 

 アナイクスの声が一つ低くなる。講義というより、研究課題を列挙する響きだった。トリビーの瞳が少しずつ丸くなり、アグライアは微笑みを保ちながらも、視線をアナイクスとカリュプソーの間で行き来させている。

 ファイノンは、早くも話が遠くへ行きそうな気配を察したのか、青い布の端を掴む指先に少しだけ力を込めた。

 

「例えば、同一人物性の問題があります。」

「それは……そう言われると、僕は少し困るな。どう答えるべきか迷ってしまう。だって、僕の魂の元はケビン・カスラナで、その過程にケイオスがあって、今の僕に至っているわけだから。」

 

 至るところで悲鳴が上がった。それは、自分が誰なのか分からないと言っているに等しい発言である。アナイクスは一瞬言葉に詰まったが、それでも話を止めることはなかった。

 

「肉体がなく、記憶を器として存在する者を、我々は以前と同じ人物と呼べるのか。記憶が連続していれば同一なのか。感情の傾向が保存されていれば同一なのか。それとも、他者からの認識、すなわち『この人はこの人である』という関係性の継続が必要なのか」

「ふむ。自己認識と他者認識の重なりか」

 

 カリュプソーが面白そうに目を細める。

 

「さらに、環境側の演算がその人物の反応を支えている場合、その意志は本人のものか、環境によって補完されたものか。あるいは、その区別自体が無意味となる段階があるのかもしれぬ」

「ええ。その場合、生命とは個体内部に閉じるものではなく、関係性と環境によって成立する動的な現象と見なす必要がある」

「記憶を素材にした疑似宇宙において、個は世界から切り離せぬ。興味深いな。ならば、オンパロスの民は世界に保存されているのではなく、世界と共に生きているとも言える」

「その表現は詩的ですが、検討に値します。」

 

 ファイノンは、黙って二人を見ていた。最初は必死に追おうとしていた。記憶、生命、同一人物性、自己認識、他者認識、環境による補完。ひとつずつ頭の中に並べ、広場の人々の姿に当てはめようとする。けれど、言葉はあまりにも早く枝分かれしていった。

 たった今まで手の中にあったはずの話が、いつの間にか高い場所へ昇っていく。彼の視線はアナイクスからカリュプソーへ、カリュプソーからアグライアへ、そしてトリビーへと移った。

 アグライアは静かに聞いている。けれど、翡翠色の瞳の奥には、理解を急がず受け止めようとする慎重な光があった。トリビーは途中まで頷いていたが、今は赤い髪を揺らしながら、少しずつ目を丸くしている。カリュプソーは実に楽しげで、アナイクスは珍しく水を得た魚のようだった。いや、彼の場合は水ではなく、未整理の概念群と呼ぶべきかもしれない。

 

「……うーん、」

 

 ファイノンは小さく息を吸った。誰かが止めなければ、この二人は本当に数日語り続けるのではないか。そう思ったのは、おそらく彼だけではなかっただろう。

 広場の風がまた衣の裾を揺らし、白い石畳の上を光が滑っていく。人々はまだ、すぐそばで生きている。難しい言葉の向こうへ遠ざけてしまうには、あまりにも近い場所で。

 

「では、次に魂と記憶の差異について――」

「待って、先生」

 

 ファイノンが、おずおずと手を挙げた。

 その仕草は、神話を背負った英雄というより、補習の途中で本当に分からなくなった学生のそれだった。白銀の髪が風に揺れ、蒼穹の瞳が少しだけ困ったように細められる。けれど、その声には逃げるための軽さはない。分からないまま頷きたくない、という真面目さがあった。

 

「会話の展開が早すぎて、アグライアとトリビー先生が目をまわしそうだ。……というより」

 

 彼は一度だけ、広場の人々を見た。名を呼び合い、手を握り、そこにいることを確かめている人々。その姿を見てから、少し気まずそうに笑う。

 

「僕も、あまり理解できてないかも」

 

 そう言ったファイノンの声は、困ったように柔らかかった。けれど、その言葉をそのまま額面通りに受け取るには、彼の蒼い瞳は少しだけ澄みすぎている。

 完全に分からなくなった者の顔ではない。むしろ、手の中にある答えの輪郭を見つめながら、それを今ここでどう差し出すべきか迷っている顔だった。

 広場には、まだ人々の声がある。再会を喜ぶ笑い声。誰かの名を呼ぶ声。近くで手を握り合う親子の、言葉にならない息遣い。アナイクスとカリュプソーの議論は美しく、精密で、深く、今のオンパロスを語るには必要不可欠な要素なのだろう。だが、そのまま進み続ければ、目の前にいる人々がいつの間にか「研究対象」や「現象」になってしまう気がした。

 少なくとも、ファイノンにはそう思えた。今この場にある温度を、紙面の上の概念へ閉じ込めたくなかったのである。だから彼は手を挙げたのだ。分からないから、ではない。分かっているふりをしたくないからでもある。けれど何より、ここにいる人々の名と顔を、話の中心へ戻したかったからだった。

 アナイクスは、挙げられた手を見た。薄緑の髪が風に揺れ、黒い眼帯の金装飾が光を受ける。露わになった片目は、いつものように鋭い。けれど、ファイノンが何を避けようとしているのかを測るように、ほんの少しだけ沈黙が長かった。

 

「……いいでしょう。」

 

 淡々とした返答に、トリビーが小さく笑った。赤い髪が肩先で跳ね、丸い青の瞳が面白そうに細められる。アグライアは何も言わず、ただファイノンの横顔へ静かに視線を向けていた。

 

「おお、すまなんだ。モネータの娘(アグライア)タレンタムの娘(トリビー)。少々、話が先へ進みすぎたようだな。」

 

 カリュプソーが穏やかに言う。勇猛な鹿の角が陽を受け、石畳へ落ちる影がゆっくり揺れた。その声には、長い時を見届けてきた者らしい余裕がある。話を遮られたことへの不快は見えない。むしろ、ファイノンがどこへ話を戻そうとしているのかを、楽しむように待っているようにも見えた。

 

「さて、簡単に言い直しましょう。つまり――」

 

 アナイクスがこめかみに指を添え、説明を圧縮しようとした。先ほどまで枝分かれしていた同一人物性、自己認識、環境による補完、記憶と魂の差異。そうした概念を、どうにか場にいる全員が受け取れる形へ切り直そうとしているのだろう。彼の指先は、講義の時と同じように宙で小さく止まる。

 そこへ線を引き、ここで分け、あれとこれを接続する。そんな見えない板書が、彼の周囲に浮かんでいるようだったが、その答えを待つより先に、ファイノンが再び口を開いた。

 

「あの、たぶんなんだけど」

 

 声は控えめだった。だが、先ほどの「分からない」よりもずっと芯がある。彼は一度、広場の人々へ視線を向けた。手を握る者。空を見上げる者。自分の頬に触れ、そこに感覚があることを確かめる者。肉体ではない。かつてと同じ生命のかたちでもない。それでも、そこに在る者たち。

 ファイノンの白銀の髪が風に揺れ、胸元の金装飾が小さく光った。英雄めいた姿のまま、彼はひどく素朴な言葉を探していた。

 

「今のオンパロスって、かつて蓄積してきた“膨大な記憶”を基に、“演算(生命循環)”を続けてるんだよね?」

 

 アナイクスの片目が細められる。カリュプソーは静かに顎を引いた。肯定とも、続きを促すとも取れる仕草だった。ファイノンはその反応を見て、ほんの少しだけ息を整える。

 

「だったら……僕たちは今、“剥き身の魂の状態のまま生きてる”って認識でいいのかな?」

 

 その一言が落ちた時、広場の空気がわずかに止まった。

 剥き身の魂。あまりにも乱暴な要約だった。学術用語としてはまあまあ雑で、概念としては危うく、アナイクスなら真っ先に訂正しそうな言葉である。だが、そこには妙な手触りがあった。

 肉体という覆いを持たず、記憶を器にしながら、それでも世界の中で名を呼ばれ、応え、誰かを想う。ファイノンが見ていた人々の姿を、いちばん近い距離で掬い上げるなら、たしかにその表現は、ひどく不正確でありながら、ひどく分かりやすかった。

 アグライアは一度、目を伏せた。金糸を扱う白い指先が、衣の端をそっと押さえる。その表情から内心を断じることはできない。ただ、彼女の沈黙は、今の言葉を軽んじていないものに見えた。トリビーもまた、いつものようにすぐ茶化しはしなかった。赤い髪が風に揺れ、青い瞳がファイノンと広場の人々とを行き来している。

 アナイクスは、しばらく何も言わなかった。聞いておきながら先に答えを出すとは何事か。そう言いたげな沈黙ではある。

 だが、ファイノンには分かった。先生は怒っていない。少なくとも、本当に不快に思っている時の沈黙ではない。むしろ、苦労して積み上げた議論を数行へ圧縮され、しかもその圧縮が完全には外れていないことに、どう反応すべきか測っている時の顔だった。

 

「……あなたは」

 

 やがて、アナイクスが口を開いた。声は低い。

 

「本当に、説明する側を困らせるのが上手いですね。」

「えっ、外れてた?」

「外れている部分は多い。非常に多い。そもそも“魂”という語を不用意に用いれば、形而上学、神話体系、記憶の運命、肉体依存性、人格連続性のすべてが混線します。剥き身、という表現も比喩としては危うい。肉体を欠くことと無防備であることは同義ではありませんし、記憶を器とする状態を魂のみの露出と断定するのも早計です。」

「あ、はい。」

 

 ファイノンは素直に頷いた。怒られているようで、怒られていない。訂正されているようで、否定されてはいない。長年補習を受けてきた者の勘が、そこだけは正しく働いたらしい。

 

「ですが要約としては、肝心な部分を拾っています。」

「拾えてたの?」

 

 アナイクスは続けた。青緑の布が腰の後ろで揺れ、彼の立ち姿に冷たい線を引く。その言葉に、ファイノンの瞳がわずかに開く。

 

「ええ。今のオンパロスの民は、滅亡後に漂う亡霊ではない。肉体を完全に喪失した死者でもない。一方で、以前と同じ肉体を基盤とする生命でもない。」

「うん。」

「膨大な記憶と、それを維持する演算、そして互いを互いとして認識し続ける関係性によって、生命としての連続性を保っている。あなたの言葉を借りるなら、肉体という厚い覆いを持たぬまま、魂に近い輪郭で生きている――そう表現する余地はあります。」

 

 広場のざわめきが、再びゆっくり戻ってくる。どこかで誰かが笑った。別の場所で、名を呼ぶ声がした。ファイノンはその音を聞きながら、自分の言葉が完全には拒まれなかったことに、少しだけ肩の力を抜いたようだった。

 

「じゃあ……“死んだ”んじゃないんだね。」

 

 それは問いの形をしていたが、ほとんど確認に近かった。ファイノンは最初から、そうであってほしいと思っていたのだろう。いや、そうだと感じていたのかもしれない。

 目の前で人々が笑っている。手を伸ばせば、誰かが応える。ならばそれを死と呼ぶことには、どうしても抵抗があった。アナイクスは、その抵抗を正面から受け止めるように、静かに頷いた。

 

「付け加えるとしたら、“滅亡した”のでも“死んだ”のでもありません。オンパロスはようやく、宇宙規模の巨大な演算機構(知恵の星神)の手を離れ、生きている。概ね、そういうことです。」

 

 その言葉に、ファイノンはしばらく動かなかった。生きている。単純な言葉だった。けれど、その単純さは、ここまで積み上げられてきた理論のどれよりも重く、そして柔らかかった。

 ファイノンの指先が、青い布から離れて風に揺れた布は、少し遅れて彼の脚へ寄り添うように落ち着いた。彼は広場を見た。名を呼び合う人々。抱き合う親子。涙を拭う娘。自分の手のひらを確かめる子ども。みな、かつてと同じではない。けれど、そこにいる。そこにいて、誰かを想っている。

 

「……そっか、生きてるんだ。」

 

 誰に聞かせるでもない呟きだった。アナイクスは訂正しなかった。カリュプソーもまた、悠然と目を伏せるだけだった。アグライアは静かに息を整え、トリビーは赤い髪を揺らしながら、ファイノンの横顔を見上げている。

 彼女たちが何を思ったのか、ファイノンには分からない。ただ、その場にいる誰もが、今の言葉を急いで別の理論へ置き換えようとはしなかった。

 その沈黙が、彼にはありがたかった。彼は雰囲気を壊したかったわけではない。むしろ、壊したくなかった。難しい議論の美しさも、先生たちの知的な熱も、カリュプソーの悠然とした言葉も、すべて大切だった。けれど、それ以上に、目の前で人々がようやく取り戻しつつある静かな実感を、遠い場所へ押しやりたくなかったのである。だから、剥き身の魂などという、乱暴で、少し危うい言葉を選んだ。

 学者のための言葉ではなく、人々のそばへ戻るための言葉。誰かが自分の胸に手を当てて、「では、自分はここにいていいのだ」と思えるかもしれない言葉。アナイクスはそんな彼の横顔を見ていた。やがて、ほんのわずかに口元を動かす。

 

「エリュシオンのファイノン」

「うん?」

「次からは、先に“自分なりの見解があります”と言いなさい。“理解できていない”と言われると、こちらが補習の範囲を見誤ります」

「えっ、僕はそこを怒られるのか……」

「当然です。あなたは私の生徒なのですから。」

 

 ファイノンが困ったように笑うと、ようやくトリビーが吹き出した。アグライアの目元も柔らかく緩み、カリュプソーは喉の奥で低く笑った。重くなりすぎた空気が、ほんの少しほどける。

 広場を渡る風は変わらず穏やかで、白い石畳の上には、午後の光が淡く伸びていた。だが、近くにいた何人かは、今の会話を聞いていたのだろう。彼らは互いに顔を見合わせ、自分の手を見下ろし、それから隣にいる者へ視線を移した。誰かが胸元を押さえる。誰かが笑おうとして、うまく笑えずに目を伏せる。

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