アナイクスとカリュプソーは、オンパロスの人々が記憶と演算、そして互いを互いとして認識する関係性によって、生命としての連続性を保っているのだと語った。
議論は記憶、魂、同一人物性へと広がり、やがてファイノンはおずおずと手を挙げる。難しい理論を否定するためではない。人々の名と顔を、話の中心へ戻すために。
彼はその状態を「剥き身の魂のまま生きている」と言い表した。不正確で、危うく、けれど人のそばに届く言葉。アナイクスはそれを退けず、オンパロスは死んだのではなく、生きているのだと告げた。
生きている。その一言は、理論としてではなく、もっと身近な響きとして、少しずつ人々の間へ広がっていこうとしていた。
誰かがそれを聞き、隣の者へ小声で伝える。伝えられた者は、初めのうち怪訝そうに眉を寄せ、それから自分の手のひらを見下ろす。白い石畳の上に落ちる影は確かにそこにあり、風が吹けば衣の裾は揺れ、名を呼べば誰かが振り返る。けれど、それでも人々はすぐには頷けなかった。
あまりにも長く、世界は終わりへ向かっていた。終末を受け入れるために心を固くしていた者ほど、今さら「生きている」と言われても、その言葉の柔らかさをどう抱きしめればよいのか分からないようだった。
「これ、本当に現実なんだろうか……」
ぽつりと、誰かが言った。声は小さい。けれど、その不安は近くにいた者たちの胸にも同じように触れたのだろう。数人が顔を見合わせ、誰もすぐには笑わなかった。
「実はまだ、長い夢を見ているだけじゃないか?」
「夢にしては、やけに足元の石が硬いぞ」
「ははは!誰か、私をつねってくれ!いや、強すぎるのは困るが」
そんな声が、あちらこちらでぽつぽつと上がり始めた。初めは遠慮がちだった軽口が、やがて少しずつ広がっていく。誰かが隣人の腕をそっとつねり、つねられた者が大げさに肩を跳ねさせた。
周囲に笑いが生まれる。けれどその笑いは、いつもの朗らかなものとは少し違っていた。泣き出す代わりに笑っているような、笑わなければ今にも膝から力が抜けてしまいそうな、そんな危うさを含んでいる。ファイノンには、その気持ちがよくわかった。彼自身もまた、これが現実なのかと疑ってしまう瞬間が、まだどこかに残っているのだ。
「……やっぱり夢じゃないか?」
「いや、夢ならもう少し気の利いた内容にしてくれぇ! 終末の後まで心臓に悪いのは勘弁してほしい!」
その言葉に、今度こそ大きな笑いが起こった。広場の一角から波のように広がり、白い石畳へ明るく跳ねる。トリビーがくすくすと笑い、赤い髪を揺らしながら、少し背伸びをするように人々の方を見た。アグライアの目元も、ふっと柔らかく緩む。
アナイクスは何も言わなかったが、露わな片目がわずかに細められている。カリュプソーは悠然としたまま、遠い時代の祭礼を見守るように、人々のざわめきへ耳を傾けていた。
ファイノンもまた、その笑い声を聞いていた。賑やかだな、と胸の内で小さく思う。白銀の髪が風に揺れ、青い布が足元で静かに流れる。彼は笑っている人々を見て、少しだけ口元を緩めた。けれど、その笑みは長くは続かない。ひとしきり笑ったあとで、ふと黙り込む者がいることに気づいたからだ。
さっきまで冗談を言っていた男が、自分の手首を握ったまま動かなくなる。隣人に腕をつねられた女が、痛みを確かめるように眉を寄せ、それから急に目元を押さえる。子どもを抱きしめていた母親が、何度もその髪を撫で直す。何度も。何度も。そこにいることを、消えていないことを、指の腹で確かめるように。
無理もないだろう。つい先日まで、彼らは終末の只中にいたのだ。死を覚悟した者がいた。故郷との別れを受け入れた者がいた。愛する者の名を胸に刻みながら、明日が来ることを諦めた者がいた。誰かを置いていく覚悟をした者も、誰かに置いていかれる痛みを飲み込んだ者もいただろう。
ファイノンは、そのすべてを記憶として知っているわけではない。ただ記録として抱え、残っているだけだ。
時間が残されていなかったから、ひとりひとりの最後の夜を見ていたわけでも、すべての祈りを聞き取れたわけでもない。けれど、失われる寸前の世界がどれほど冷たいかだけは、彼の身体の奥にまだ残っているようだった。
だから彼は、笑い声の中の沈黙を見落とせなかった。広場の中央で、老いた女が空を見上げている。誰かの名を口の形だけで呼び、声にはしない。近くの青年は、その横で自分の胸に手を当てていた。鼓動を探しているのか、ただそこに自分があることを確かめているのか、遠くからは分からない。別の場所では、兄妹らしき二人が互いの頬をつつき合い、つつき返されて笑ったあと、どちらからともなく抱き合っていた。
「……みんな、何度も確かめてる。」
ファイノンが小さく呟く。誰に向けた言葉でもない。けれど近くにいたアグライアには届いたらしく、彼女は静かに視線を上げた。金髪の毛先が肩口で揺れ、白い花飾りが午後の光を受けて淡く光る。
「ええ。きっと、確かめずにはいられないのでしょう。」
断定しない声だった。けれど、その柔らかさは、目の前の人々へ向けられたものでもあり、ファイノンへ向けられたものでもあるように聞こえた。ファイノンは頷く。ほんの少しだけ、喉の奥で息を詰まらせるようにして。
人々は何度も空を見上げた。何度も周囲を見渡した。何度も隣にいる誰かへ声をかけた。本当に生き残ったのだと確かめるために。あるいは、失われなかったものを数えるために。空は高く、雲は薄く流れ、光は白い石畳の上へ静かに降りている。
それはただの景色だった。今のオンパロスにとってはあまりにも当たり前の、なんでもない午後の景色。けれど、その当たり前が戻ってきたことを、人々はまだ信じ切れていない。
「おい」
少し離れたところで、ひとりの男が友人らしき相手を呼んだ。呼ばれた方が振り返る。たったそれだけのことだった。けれど、呼んだ男はしばらく黙り込んだあと、照れくさそうに笑った。
「いや……返事があるって、いいなと思って」
その言葉に、隣の者たちが一瞬静まり、それから誰かが「本当にな」と答えた。名を呼べば、呼ばれた名に応える者がいる。それだけのことが、どれほど奇跡のように思えたのだろう。笑い声は今度、先ほどよりも低く、深く広がっていく。ふざけているのに、ふざけきれない。泣きたいのに、泣くだけでは足りない。そんな不器用な音だった。
終末とは、多くを奪う。命を奪い、故郷を奪い、未来を奪う。そして時には、人が当たり前だと思っていた幸福の輪郭さえ奪い去る。
呼べば返事があること。隣に誰かがいること。手を伸ばせば、その手に温度めいたものが返ってくること。そうした小さな確かさを、ひとつずつ疑わなければならない場所まで、人々は連れて行かれていた。
(……――)
僕はいま、誰の名を呼ぼうとしたのだろう。返ってくるはずのない返事を期待して、うっかり零れ落ちかけた音色は、やわらかな春風のように胸の奥でほどけていく。
ファイノンは、彼らがここにいることを、ひどく大切なものとして受け止めていた。世界が救われた、などという大きな言葉よりも、誰かが誰かを呼び、返事が返ってくるという小さな出来事の方が、今はずっと胸に近い。
彼は一歩、そちらへ踏み出しかけた。泣きそうな者がいる。まだ信じられずにいる者がいる。ならば、隣に行って、何か言葉をかけた方がいいのではないか。そう考えたのだろう。足元の青い布が揺れ、白い衣の裾が一拍遅れて動く。だが、その足はすぐに止まった。
誰かが、泣き出しそうな女の肩へ手を置いていた。別の誰かが、膝をついた老人の傍らに腰を下ろしている。子どもの手を握る母親の隣に、若者が水の入った杯を差し出した。
ファイノンが駆け寄るよりも早く、人々は互いの不安へ手を伸ばし始めていたのである。それを見て、彼はわずかに目を見開いた。それから、ほんの少しだけ肩の力を抜く。自分が行かなくても、誰かが誰かの隣にいる。その事実は、嬉しいようで、どこかまだ慣れないものでもあるらしかった。
自分の手から離れ、自分の知らない場所で、世界が少しずつ支え合いを取り戻していく。その光景を、彼は目を逸らさずに見届けていた。
「行かなくてよろしいのですか。」
静かに、アナイクスが問う。声はいつも通り淡々としているが、どこか確かめるような響きがあった。ファイノンは一度彼を見て、それから広場へ視線を戻した。
「……うん。今は、たぶん」
言い切るまでに少し時間がかかった。けれど、ファイノンは小さく頷く。その言葉は、安堵に似ていた。けれど、どこか不慣れでもあった。
「僕が行かなくても、大丈夫そうだ」
誰かの涙の前で足を止めることに慣れすぎた青年が、誰かの涙を他の誰かへ委ねることを、ようやく覚えようとしている声だった。アグライアは何も言わず、ただ静かに彼の横顔を見つめる。トリビーは少しだけ口を開きかけ、結局にこりと笑うだけにした。カリュプソーは遠い時代を眺めるように目を細め、アナイクスはほんの短く息を吐く。
その中には、歴々の黄金裔たちの姿もあった。
火を追う旅を続けた英雄たち。神々へ刃を向け、何度も世界の終わりへ立ち向かった者たち。彼らもまた、この静かな時間の中に立っている。
かつての彼らにとって、このような午後はあまりにも遠かったのかもしれない。誰も武器を構えていない。誰も次の犠牲を選んでいない。誰も終わりへ向けて走り出そうとしていない。ここにあるのは、人々の声と、石畳の上を滑る光と、風に揺れる衣の音だけだった。
ファイノンは、その静けさの中で、ようやく自分の呼吸の速さに気づいたように見えた。ほんの少しだけ、胸元へ手を当てる。脈を探すためではない。
たぶん、そこにあるものを落ち着かせるための仕草だった。金装飾の縁に指が触れ、すぐに離れる。彼は何も言わない。けれど、その横顔には、長い旅の途中で何度も見失いかけたものを、やっと遠くに見つけた者のような静けさがあった。
人々はまだ確かめ続けている。名を呼び、返事を聞き、隣人の肩へ手を置き、自分が世界の中にいることを何度も確かめている。その姿を見ながら、ファイノンは思ったのかもしれない。
ここにいるのは、市民たちだけではない。火を追った者たちも、神話に名を刻まれた者たちも、同じようにこの世界の中へ戻ってきたのだと――黄金裔たちもまた、平穏の中にいるのだと。
それは、誰かが大声で宣言するようなことではなかった。けれど、風の中に確かにあった。白い石畳に伸びる影の中に、互いの沈黙の中に、そしてファイノンが一歩を踏み出さずに見守ることを選んだ、その小さな間の中に。
この平穏は、誰よりも遠かったものなのかもしれない。けれど今、彼らはその遠かった場所に立っている。まだ戸惑いながら。まだ、信じ切れないまま。それでも、確かに。
(……記憶、魂、同一人物性、か。)
胸の奥でその言葉がゆっくりと沈んでいく。指先がわずかに震え、視線はどこにも定まらないまま宙をさまよう。僕って、じゃあ、どんな存在になるんだろうか。
永劫回帰。というその言葉を知る者は、今もまだ多くない。知っている者でさえ、その重みを正確に量れるとは限らなかった。
世界が何度終わり、何度やり直され、何度同じ場所へ辿り着きながら、同じではない痛みを積み重ねてきたのか。記録として残せるものには限りがあり、語るための言葉にも限界がある。たとえ神話が壮麗な韻律でそれを飾ったとしても、その内側にあったものは、もっと冷たく、もっと単純で、もっと耐えがたいものだったのだろう。
繰り返される終末。繰り返される喪失。繰り返される別離。終わらぬ痛み。終えられぬ孤独。輪廻のたびに記憶を持ち越せる者は限られていたとしても、失ったものの影は、どこかに残ってしまうものだった。説明できない既視感。胸の奥へ沈殿した痛み。理由の分からない涙。初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい誰かの声。夢のように曖昧で、それでも消えない感覚。
断片だけが残る記憶は、人々の生活の中にもひっそりと沈んでいたのかもしれない。市場の賑わいの中でふと振り返る者。何もない空を見上げ、なぜか胸元を押さえる者。見知らぬ相手の無事に、理由もなく安堵する者。誰もそれを永劫回帰とは呼ばない。呼べるはずもない。
けれど、世界は何度も終わり、そのたびに誰かが何かを失ってきた。そうして積み重なったものは、名前を与えられないまま、人々の仕草や沈黙の端に残っていたのだろう。
ファイノンは、そのすべてを完全に語ることはできない。語ろうとすれば、きっとどこかで言葉が追いつかなくなる。四億を超える火種。繰り返された終末。砕けた魂。置いてきた名前。拾い集めた願い。運び続けた記憶。
そうしたものは、ひとつの物語に整えるにはあまりにも多すぎた。だから彼は、今もただ広場を見ている。笑っている人々を、確かめ合う人々を、互いの名を呼び合う人々を。