烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

34 / 35
<前回のあらすじ>
 生きている。
 その一言は、理論ではなく実感として人々の間へ広がっていった。
 彼らは自らの手を見つめ、隣人の名を呼び、返る声に笑い、時に涙した。終末を越えたばかりの世界では、ただそこにいることさえ、何度も確かめなければならない奇跡だった。
 ファイノンは泣きそうな者のもとへ歩み寄ろうとして、すぐに足を止める。人々はすでに互いの肩へ手を置き、支え合い始めていた。すべてを背負わずとも、世界は少しずつ歩き出している。その光景を前に、彼は平穏の輪郭を探し始める。


05 安らぎを学ぶ英雄たちの星夜
034 安らぎを結ぶ指先


 さりとて、安息とは、与えられれば誰もが等しく受け取れるものではない。少なくとも、火を追う旅を歩み続けてきた黄金裔たちにとっては。

 

 終末は越えられた。暗黒の潮は遠ざかり、砕けかけていた日々には、少しずつ人の声が戻ってきている。

 誰かが水を汲む音。石畳を直す槌の音。炊き出しの湯気が立ちのぼる匂い。子どもたちが、恐る恐るではなく、本当に笑う声。そうしたものが、かつて戦いの気配ばかりを抱えていた空気の中へ、やわらかな温度を取り戻しつつあった。

 星々は、もう閉ざされた天蓋の内側だけにあるものではなかった。遠い天外から降る光は、記憶の揺籃にやわらかく触れ、白い石畳の上に淡い影を落としている。

 けれど、傷が癒えるまでに時間が必要なように、張り詰めた心が休み方を思い出すにも、また時間が必要なのだ。終末を退けた勝利のあとに訪れるものが、歓声や祝宴だけではない。人々の傍らで幾度となく痛みや不安に寄り添ってきたヒアンシーは、そのことを誰よりもよく知っていた。

 

 包帯を替える手つきなら覚えています。熱を測り、脈を取り、呼吸の浅さを確かめて、痛みの場所をお聞きすることもできます。眠れない夜に付き添って、恐怖で震える指をそっと包み、涙をこぼす方の隣に座ることも、医師として、看護師として、何度もしてきました。

 けれど、休むことを忘れてしまった方に、どうすれば「休んでいいのですよ」とお伝えできるのでしょうか。

 そればかりは、薬草の配合表にも、治療記録にも、きれいな答えとしては載っていないのです。だからこそ、ゆえにこそ、わたしはこうして頭を抱えてしまうのです。

 

 医務室の窓は半分だけ開いている。外から入ってくる風は穏やかで、雨上がりの庭を撫でたあとのように、少しだけ湿り気を含んでいた。

 棚には乾かした薬草の束が並び、清潔な布と小瓶、香油の器、古びた器具を手入れし直した小物たちが、彼女らしい几帳面さと賑やかさで収まっている。陽光は白いカーテンを透かし、床に淡い四角を落としていた。

 その中で、ヒアンシーは腕を組み、淡い桃色の髪をふわりと揺らしながら小さく唸る。片手は頬に添えられ、指先が口元を行き来した。考え事をしている時の癖だ。

 前髪のくるんと跳ねた先が、呼吸に合わせてほんの少し揺れる。青緑の瞳は机の上に広げた紙を見ているようで、実際にはもっと遠く、目に見えない誰かの疲れを追っているようだった。

 

「うーん……」

 

 やがて、腕の中のイカルンを無意識にむにむにと揉み始めたものの、名案が舞い降りてくる気配はない。もちもち、みょーん。ぷるるん。もちもち、ぽよん。

 

「ぷるっ!?」

 

 小さな声が跳ねた。

 そこでようやく、ヒアンシーは自分の手が相棒のふっくらもちもちした頬を、考え事の延長で存分に揉んでいたことへ気づく。白く丸い翼獣は、青緑のたてがみを揺らし、小さな王冠をかたむけながら、眠たげな目で抗議するように彼女を見上げていた。

 

「あっ、ごめんなさい、イカルン! 考え事をしていて……ついやってしまいました。」

「ぷるる~」

 

 怒っているのか、許してくれているのか。あるいは、もう慣れていますよと言っているのか。言葉を失った相棒の鳴き声を完全に訳せるわけではない。

 けれど、長く一緒にいたからこそ分かる温度はある。少なくとも、今回の彼の声には本気の不満よりも、「またですか」とでも言いたげな気配が強かった。

 ヒアンシーは眉を下げ、イカルンの頬を今度は優しく撫でた。丸い体は手のひらにやわらかく沈み、翼がぱたた、と一度だけ揺れる。その仕草はどこか愛らしい。けれど、彼女の胸の内にある問いは、愛らしさだけではほどけないものだった。

 

 休憩してくださいね。そうお伝えするだけなら、とても簡単なのです。眠ってください、とお声を掛けることもできますし、無理をなさらないでくださいとお伝えすることも、医務室で働く者として、これまで何度も繰り返してきました。

 患者さんの額にそっと手を当てるように。包帯を巻き直すときのように。熱が下がるまでは寝台から降りてはいけませんよ、と優しく念を押すように。

 けれど、「休む」という言葉は、思っているよりもずっと難しいものなのです。身体を横たえれば休める方もいらっしゃれば、温かいお茶を飲めば、ほっと息をつける方もいらっしゃいます。誰かの声を聞いて安心できる方もいれば、ひとりきりの静けさの中でようやく肩の力を抜ける方もいらっしゃいます。

 ですが中には、椅子に腰掛けていても、意識だけはまだ戦場を歩き続けているような方もいらっしゃるのです。次に何が起きるのかを警戒してしまったり、誰かの助けを求める声を探してしまったり、空いた手でまた新しい役目を見つけようとしてしまったり……。終末の時代、わたしはそういう方々を何人も見てきました。

 眠っているはずなのに指先が震えてしまう方。ほんの小さな物音で目を覚ましてしまって、思わず武器を探してしまう方。お食事の前でも、ご自身より先に周りの方のお皿が満たされているかを確かめてしまう方。傷が塞がったあとでも、ご自身の痛みだけはたいしたことがないと笑ってしまう方……。

 そういう方々は、決して弱いわけではありません。むしろ、強くあろうとしすぎてしまった方々なのだと思うのです。

 長いあいだ、誰かのために立ち続けてこられた方ほど、いざ立ち止まろうとすると戸惑ってしまうものです。戦い方を忘れないように剣を握り続けてきた方がいらっしゃるのなら、その反対に、休み方を忘れてしまった方だって、きっといらっしゃるはず。

 

「ぷぷ……?」

 

 イカルンが小さく鳴いた。心配そうに、というよりは、考え込みすぎて眉間に皺が寄っているヒアンシーを現実へ引き戻そうとするような声だった。

 

「大丈夫です。大丈夫、なのですが……」

 

 ヒアンシーははっとして、相棒を抱き直す。そこまで言って、自分でも少しだけ困ったように笑ってしまった。まるで同じことをしている。

 大丈夫だと言うだけなら、とても簡単なことなのです。けれど、その言葉がどのように使われるのかを、わたしはよく知っています。心配をかけたくないとき。まだ頑張れると思いたいとき。誰かに立ち止まってほしくないとき。痛みをそっと隠してしまうとき。人は驚くほど自然に、「大丈夫です」と口にしてしまうものなのです。

 そのお声が穏やかであればあるほど、表情がやわらかければやわらかいほど、聞いている側は少し安心してしまいます。

 けれど、医療に携わる者として感じるのは、大丈夫そうに見えることと、本当に大丈夫であることは、いつも同じとは限らないということでした。

 

(眠り方そのものを、思い出す必要があるのかもしれません……)

 

 そう思った時、胸の奥でひとつ、静かな痛みが揺れた。終末を越えたからといって、心まで一緒に安らげるわけではない。昨日まで走り続けていた人に、今日から何もしなくていいと言ったところで、すぐに頷けるはずもない。使命や責任は、服のように簡単には脱げない。

 火の粉を浴び続けた布に、焦げた匂いが残るように。長く緊張していた身体には、終わったはずの危機がまだ残る。ましてや、黄金裔の仲間たちは。

 ヒアンシーは、机の上に置かれた白紙へ視線を落とした。何かを書こうとして、まだ一文字も書けていない紙。休息についての案をまとめるつもりだったのに、筆先は迷ったまま止まっている。

 

 黄金裔の皆さんは、ずっと、誰かの願いに応えるために歩き続けてこられました。誰かを守るために立ち上がり、誰かを救うために走り、誰かの明日へ火を繋ぐために、ご自身を削りながら進んでこられたのです。

 ですから、「手を止めてください」とお伝えしても、きっと戸惑ってしまわれるのでしょう。困ったようなお顔をなさりながらも微笑んでしまう方もいらっしゃるでしょうし、何かできることはないかと周囲を見回してしまう方もいらっしゃると思います。ご自身では休んでいるつもりでも、気づけば別の形で動いてしまっている……そんな方も、きっと少なくないはずです。

 そして、その上で申し上げるならば……特にファイノン様は、その代表格なのではないでしょうか。お名前を思い浮かべた瞬間、わたしの指先は紙の端をそっと押さえました。

 

 白銀の髪に、穏やかな青い瞳。人懐こい笑みを浮かべて、誰かに呼ばれれば自然に振り返り、困っている方を見つければ、迷うより先に足が向いてしまうような方です。頼られれば断れず、断るという選択肢そのものを、ふと忘れてしまうこともあるのでしょう。

 きっとご本人にとっては、それは特別なことではないのだと思います。彼にとって誰かのために動くことは、呼吸をするのと同じくらい自然なこと。手が届くなら伸ばして、運べるなら持って、聞けるなら耳を傾けて、支えられるなら支える。それを誇るでもなく、苦労だとおっしゃるでもなく、ただ当たり前のようにしてしまわれるのです。

 だからこそ、少しだけ困ってしまうのです。ご本人が善いことをしていらっしゃるからこそ、周りも止めにくくて。誰かの助けになっているからこそ、なおさら言葉を選ばなければならなくて。

 けれど、休息を必要としていることに気づかないまま、また次の誰かのために歩き出してしまわれるのなら、それは見過ごしてよいことではありません。

 疲れているから休むのではなく、誰かが困っているから動く。その優先順位があまりにも身体に染みついていて、ご自身の限界を測ることさえ、つい後回しにしてしまわれるのです。

 

 そういう人を、ヒアンシーは何人も見てきた。傷を抱えたまま笑う人。眠れていないのに平気だと言う人。痛みを隠して、周囲を安心させようとする人。そして、その人たちはいつも、本当に優しい顔をしていた。

 イカルンが、ぽす、とヒアンシーの腕に額を押しつけた。小さな翼獣の体温はあたたかく、ふわふわした毛並みの奥に、確かに生きている鼓動がある。ヒアンシーはそれを感じながら、ゆっくり息を吸い、ゆっくり吐いた。患者さんに教える時と同じように。まずは自分の呼吸から整えるように。

 

「……そうですね。焦ってはいけませんよね。」

「ぷる?」

「休むことを忘れてしまった方に、いきなり『休んでください』と言っても、きっとびっくりしてしまいます。眠れない方に、眠りなさいとだけ言っても眠れないのと同じです。まずは、怖くない形で。息をつける形で。ここにいても大丈夫なのだと、少しずつ思い出していただかないと!」

 

 言葉にしてみると、まだ輪郭はぼんやりしていました。けれど、何かの入口には立てたような気がします。今のうちにメモを取っておきましょう。今後の方針として。

 ヒアンシーは白紙の上へ、ようやく一行を書きつける。安息は、治療ではなく、思い出していただくもの。それから少し考えて、首を傾げ、下に小さく付け足した。でも、医師としては、きちんと見守ること。

 その一文に、イカルンが満足げに「ぷる」と鳴いてくれました。きっと、褒めてくれているのですよね。ええ、そういうことにしておきましょう。先ほどわたしがむにむにしてしまったせいもあって、少しずれてしまった相棒の小さな王冠を、指先でそっと直してあげました。

 

 窓の外では、風が庭の葉を揺らしている。陽光は穏やかで、世界は少しずつ、終わりではない時間の中へ戻ろうとしていた。

 けれど、その歩みは誰にとっても同じ速さではない。早く歩ける人もいれば、立ち止まったまま足元を見つめている人もいる。走り続けたせいで、止まり方を忘れてしまった人も。

 ならば、寄り添う者が必要だ。急かすのではなく、置いていくのでもなく。大丈夫ですよ、と隣で言い続ける誰かが。

 ヒアンシーは紙を両手で持ち上げ、そこに書かれたまだ短い言葉を見つめた。答えには程遠い。処方案と呼ぶには、あまりにも頼りない。

 けれど、どんな治療も最初は小さな観察から始まる。体温を測ること。呼吸を聞くこと。痛みの場所を尋ねること。そして、相手が言葉にできない疲れを、急がず待つこと。ヒアンシーは胸の中で、そっと決意を結び直した。

 

「皆さんに、ちゃんと休んでいただくために――まずは、何が安らぎになるのか。そこから、考えてみましょう!」

 

 イカルンが翼をぱたぱたと揺らす。小さな体が、応援するように彼女の腕の中で弾んだ。その愛らしさに頬を緩めながらも、ヒアンシーの瞳は真剣なままだった。

 救済のあとにも、まだオンパロスには癒やして差し上げるべき傷は残っているのだと思います。たとえそれが、目には見えないものであったとしても。




※イカルンは、本作では「彼」ってことにしました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。