終末を退けたオンパロスに、静かな時間が戻りはじめた。けれど、火を追い続けた者たちは、勝利のあとに訪れた安息を、すぐには受け取れずにいる。
医務室を離れたヒアンシーは、休憩所でイカルンを抱きながら、仲間たちに必要なものを考えていた。傷は塞がっても、張り詰めた心が眠り方を思い出すには、別の手当てがいる。とりわけファイノンは、痛みを後ろへ下げ、穏やかに笑ってしまう人だった。
ならば、命じるのではなく、そっと思い出してもらうしかない。これは、救済のあとに残された、小さくも大切な課題である。
医者としては、「もう、しっかり休んでくださいね!」と、寝台の前で両手を腰に当ててお伝えしたくなる患者さんがいらっしゃいます。
傷を抱えたまま笑ってしまう方。眠れていないのに「平気です」とおっしゃる方。痛みの場所をお尋ねしても、なぜか先に周りの方のご心配をなさってしまう方。
そういう方々は、決して悪い方ではありません。むしろ、たいていはとてもお優しいのです。だからこそ、誰かに心配をかけたくなくて、だからこそ、ご自身の痛みを後回しにしてしまわれるのだと思います。そしてファイノン様は、そのどれにも当てはまってしまう方なのです。
本当に、どうしましょう。ヒアンシーは、白紙に書きつけた短い言葉を見つめたまま、知らず知らずのうちに唇を引き結んでいた。
窓の外では、庭の葉が風に揺れている。雨上がりの光を含んだ緑が、医務室の床に淡い影を落とし、薬草の束が静かに香っていた。いつもなら落ち着くはずの匂いも、今は考えを深くするばかりである。
彼がそれを善意で行ってしまう方であることは、わたしにもよく分かっていました。誰かを騙そうとしているわけではありませんし、都合の悪いことを隠そうとしているわけでも、医師を困らせようとしているわけでも、もちろんありません。結果として、そうなってしまうだけで。
ただ、純粋に心配をかけたくないのだと思うのです。そうすることで誰かが安心してくださるのなら、その方がいいと。ご自身の痛みで周りの方のお顔を曇らせてしまうくらいなら、少し笑っていた方がいいと。きっと、そういう順番で考えてしまわれるのでしょう。だからこそ、そのときの彼の表情は自然で、声音も穏やかで、言葉にも嘘らしい嘘が混じらないのです。
問題は、そこなのです。明らかな嘘であれば、見抜くことはできます。言葉が詰まったり、視線が泳いだり、声が上ずったり、普段と違う仕草が出たりすれば、診察の手がかりにもなりますから。特にファイノン様は、普段であればそうした変化がとても分かりやすい方ですし。
けれど、ご本人の中でそれが嘘として扱われていない場合は、話が変わってしまいます。本気で「大丈夫」と思おうとしていらっしゃるのなら、その声はとても穏やかに響いてしまうのです。ファイノン様の厄介なところは、まさにそこでした。
「ぷ~?」
肩に止まっていたイカルンが、小さく鳴いた。白く丸い体を少し傾け、小さな王冠をかたむけながら、ヒアンシーの顔を覗き込む。さきほどまで腕の中でむにむにされていた相棒は、いつの間にか肩へ移動していたらしい。青緑のたてがみが、窓から入る風にふわりと揺れる。
黙り込んでしまったパートナーを心配してくれたのだろう。あるいは、また難しい顔をしていますよ、と言いたかったのかもしれない。ヒアンシーは視線を落とし、小さな相棒へ問いかけた。
こんなに心配しているのに、
眠りが浅くなっている――どころか、今はもう、ほとんど眠れていないことくらい、ケファレの神像近くに佇む人影の噂を耳にして、わたしも知っています。半神だから睡眠が不要だとおっしゃるのも、理屈としては間違っていないのですけれど……それでも、体調を整えるためにも、頭やお身体を休めるためにも、眠れるのであれば、やはり眠っていただきたいと思うのです。
「そう思いませんか、イカルン?」
「ぷる!」
返事なのか、相槌なのか、それともただ元気よく鳴いてくれただけなのかは分かりません。けれど、少なくとも否定ではなさそうでした。
それもそうですよね。医療の現場では、イカルンは不思議なくらいこちらの意図を汲み取ってくれるのです。包帯を取ってほしい時や、器具を寄せてほしい時、それから患者さんの不安を和らげるためにそばにいてほしい時も。言葉を交わせなくても、いつも必要なことをしてくれる、とても頼もしい相棒なんです。
でも、こういう日常では、やっぱりちゃんと言葉を交わすことも大切だと思うのです。たとえ返ってくるのが「ぷる」だけでも、それがとっても嬉しいんです。
「ファイノン様は、きっと『大丈夫だよ、僕は平気さ』って言いますよね」
「ぷるる!」
「それで、本当に大丈夫そうなお顔をするんです。困ったことに、とっても自然に」
「ぷ?」
「そうなんです。神悟の樹庭でクラスメイトだった頃も、熱があるのに平然としていたことがありましたし」
「ぷ!?」
イカルンの丸い目が、わずかに大きくなりました。翼がぴくりと震えます。その驚き方があまりに素直で、わたしは思わず小さく笑ってしまいました。
「そうなんですよ〜。講義の前に普通に挨拶して、ノートも取って、質問にも答えていて。少し顔色が白いかな、とは思ったのですが……ファイノン様はもともと白銀の髪と青い瞳の方ですし、みんなも光の加減かなと思ってしまって」
言いながら、わたしは当時の光景を思い出しました。
神悟の樹庭の廊下は、いつもどこか静かで、落ち着いた空気に包まれていたのです。高い窓から差し込む光が床に長く伸びて、石造りの壁には、古い知識の匂いと、若い学生たちの足音がやわらかく重なっていました。
講義前のざわめきや、紙をめくる音、小さな声で復習をする声――そうしたものが、ひとつの穏やかな流れになっていたのを覚えています。
そんな中で、ファイノン様はいつもと変わらないご様子で立っていらっしゃいました。白銀の髪はやわらかく、窓からの光を受けて、まるで薄明のように淡く輝いていて。青い瞳は穏やかで、人のお話を聞くときには、ほんの少しだけ目元が和らぐのです。
誰かに声を掛けられれば自然に微笑まれて、困っている生徒さんがいれば、当たり前のように手を差し伸べていらっしゃる。とても、とても自然で――だからこそ、その時のわたしには、熱がある方のお顔には見えなかったのです。
「それで、あとで聞いたら、案の定ふらふらだったみたいで」
「ぷる!」
「ね、心配になっちゃいますよね~、イカルン~?」
「ぷるる~」
イカルンは首を傾げました。丸い瞳がじっとこちらを見つめています。その様子からして、どうやら誰のお話をしているのかは、ちゃんと分かってくれているみたいですね。
それも無理はありません。わたしがどうしてもアナクサゴラス教授の――もとい、アナイクス先生の助手として出張しなくてはならなくなった時、イカルンを連れて行けなくなることは、これまでにも何度かありましたから。
そのたびに、誰かへお留守番をお願いすることになるのですが……たまたま通りかかったファイノン様にお願いしたこともあれば、石板で確認を取ってお願いしたこともありました。ファイノン様はいつも、少しだけ驚いたように瞬きをしてから、ふわりと優しく笑って、引き受けてくださるのです。
『もちろん、構わないよ。イカルンが退屈しないようにすればいいんだね?』
そんな声が、今も耳に残っているのです。イカルンも、きっと覚えているのでしょうね。小さな翼獣は、わたしの肩の上で少しだけ胸を張りました。
たぶん、面倒を見てもらったのではなく、自分がファイノン様の面倒を見ていたのだと言いたいのかもしれません。けれど実際には、事故現場に立ち会っていたファイノン様がほんの少し目を離した隙に、屋台の林檎をぱくぱくと食べてしまって……。
その後始末や謝罪回りをさせてしまったのは、イカルンの方なのです。思い出すと、つい「あらあら……」という気持ちになってしまいます。
果物売りの店主さんは、以前わたしが診させていただいた患者さんでして、お礼のつもりにと、イカルンがよく食べることを覚えていて声を掛けてくださったそうなのです。
ですから、お咎めはなかったのですが……それでも、ファイノン様にも店主さんにもご迷惑をおかけしてしまったと思うと、ひやりとしてしまった出来事でした。
「はいはい。イカルンも、とってもえらかったですよ」
「ぷる」
満足げな声でした。
その可愛らしさに思わず頬が緩みそうになってしまいましたが、わたしはすぐに気持ちを引き締め直します。今は、ただ懐かしんで終わらせてよいお話ではありませんから。
脳裏に、真白の髪を揺らす青年の姿が浮かぶ。
直近で拝見したお顔色は、特に悪いようには見えませんでした。少なくとも、表面上は。お話しぶりも穏やかで、歩き方にも大きな乱れはなくて。
どなたかとお話しされている時の笑みも、いつものように柔らかくて、周りの方を安心させるものでした。白と青と金の衣装もきちんと整えられていて、背に流れる青い布も、風を受けて軽やかに揺れていたのです。
けれど、それで安心できる相手でもないのです。ファイノン様は、普通の隠し事でしたら、驚くほど分かりやすい方なんですよ。たとえば、何か気まずいことを聞かれた時。ほんの少し声が裏返ってしまったり、視線が横へ逃げてしまったり、言葉が一拍遅れてしまったり。
誤魔化そうとして、かえって誤魔化せていないこともあるのです。ご本人は平静を装っているつもりでも、蒼い瞳がそっと揺れてしまうのですよね。そういうところは、むしろ隠し事には向いていない部類なのだろうと思います。
けれど、不思議なことに……自分自身の苦痛や苦悩に関することだけは、少し事情が違う。そこだけ、まるで別の技術のように、静かに、綺麗に、見えなくなってしまうのです。
表情は穏やかなままですし、声もいつも通り。誰かの問いにも自然に応じてくださいます。笑みには無理がないように見えますし、言葉にも引っかかりがありません。むしろ周りの方を気遣う余裕すら見せてしまわれるのですから……本当に困ってしまいます。
それが本当の余裕なのか、それとも余裕に見えるほど身についてしまった癖なのか……わたしには、簡単に断じることができません。けれど、医師としての感覚は、そこに小さな警鐘を鳴らしているのです。
彼から教えられるまで、彼の異変に気づけなかったという事実。それは、わたしの胸に細い棘のように残っています。誰にも悟らせない。弱音も吐かない。助けを求めない。気づけば全部、ご自身の中へ押し込めてしまわれる。あまりにも自然に、あまりにも見事に。
永劫回帰という言葉の重さは、わたしも理解しているつもりです。けれど、そのすべてを本当に分かっているかと問われれば、きっとそうではないのでしょう。
何度も何度も同じ痛みを越えて、同じ喪失を抱えながら、それでも前へ進まなければならなかったのだとしたら……弱音を吐く余裕なんて、なかったのかもしれません。助けを求めるよりも先に、次の誰かのために動くことを選び続けてこられたのでしょう。
そうして積み重ねてきたものは、もう単なる我慢ではなくて……その方の生き方そのものになってしまったのだと思います。
「……イカルン」
「ぷ?」
「ファイノン様は、嘘をついているわけではないのだと思います。」
わたしは、紙の端をそっと撫でました。そこには先ほど書きつけた、安息についての短い覚え書きがあります。文字はまだほんのわずか。けれど、その少なさこそが、今のわたしが手探りで考えている証のように思えたのです。
「ただ、ご自身のことだけ、上手に見えない場所へ置いてしまわれるのだと思うのです。誰かのための痛みならすぐに気づけるのに、ご自身の痛みだけは、少し遠くへ……。それはきっと、ご本人でも気づけなくなってしまうくらい」
「ぷる……」
イカルンは静かに鳴いた。先ほどまでの弾むような声ではない。小さな翼が畳まれ、丸い体がヒアンシーの首元へ寄る。その仕草は、言葉を失ってもなお、何かを分かち合おうとしているように見えた。
ヒアンシーは、そっと相棒の背を撫でる。
「だから、ぱっと見の診断では安心できません。熱があるかどうか、顔色が悪いかどうか、歩き方がふらついていないかどうか。もちろん、それも大切です。けれど、ファイノン様の場合は……元気そうに見える時ほど、注意が必要かもしれません。」
言葉にしてみると、やっぱり困ってしまう状況なのです。
患者さんが苦しそうにしていらっしゃれば、すぐに手当てができますし、痛いとおっしゃってくだされば、その場所をきちんと探すこともできます。眠れないと打ち明けてくだされば、少しでも眠りやすくなるように環境を整えることもできますから。けれど、「大丈夫ですよ」と笑ってしまわれる方の痛みは、その笑顔の奥を、そっと見つめるところから始めなければならないのです。
そして、彼の笑顔は、まるで陽だまりのようにとてもあたたかい。人懐こくて、柔らかくて、見ている方の心をふっと軽くしてしまうような、そんな優しさがあります。
エリュシオンの方々がおっしゃるように、麦畑を渡る風のようで、黎明の光を含む白い髪にも、とてもよく似合っていて……だからこそ、その奥に影があったとしても、周りの方は気づくのが遅れてしまうのだと思うのです。一部で密かに“ファイノン様七不思議”のひとつとして数えられていたのも、無理はないのでしょうね。
どうして、あれほど分かりやすい方なのに、ご自身の苦痛だけはあんなにも上手に隠せてしまうのか。
どうして、限界に近いはずなのに、困っている方を見つけると、自然と足が向いてしまうのか。
どうして、「大丈夫」とおっしゃる声が、あんなにも本当に大丈夫そうに聞こえてしまうのか。
笑い話のように名づけられた七不思議ではありますが……医療に携わる者として見れば、少しも笑っていられるものではありません。
可愛らしい噂として流してしまうには、あまりにも危ういのです。人の優しさは、とても尊いものですが、それが必ずしもご自身を守ってくれるとは限りません。むしろ、優しい方ほど、ご自身を守る順番を後回しにしてしまわれることがあるのです。
ヒアンシーは深く息を吸った。
薬草の香り。乾いた布の匂い。窓から入り込む風の湿り気。イカルンのあたたかな体温。そうしたものをひとつずつ確かめながら、医師としての自分を胸の内で立て直す。
(焦ってはいけませんよ、ヒアンシー! けれど、見過ごしてしまうわけにもいきません!)
ファイノン様の「大丈夫」は、きっと、ただの言葉ではないのです。誰かを安心させるための微笑みであり、長い旅路の中で身につけてしまわれた鎧であり、もしかすると、ご本人にとっては本当にそう信じていたい願いでもあるのだと思います。
ならば、それを無理に剥がしてしまってはいけません。けれど、このままそっとしておけば、きっとまた、ご自身の痛みだけを置き去りにしてしまわれるのでしょう。
「……うう、どうすれば良いのでしょうか」
声に出してみても、すぐに答えが見つかるわけではありませんでした。
イカルンが、ヒアンシーの肩の上で小さく首を傾げる。青緑のたてがみが揺れ、小さな王冠が陽光を受けてきらりと光った。その仕草は、分からないから一緒に考えましょう、と言ってくれているようにも見えた。
ヒアンシーはその光を見つめ、白紙の余白へもう一行を書き足した。診断終了の合図に関する記述である。少し考えてから、その下に小さく続ける。むしろ、特定の人物に至っては、観察開始の合図かもしれません。書き終えた文字を見つめて、彼女は困ったように、けれど確かに頷く。
答えはまだ見つかっていません。けれど、見つけなければならない問いの形だけは、少しずつ見えてきている気がします。あとでファイノン様のことを先生にも確認しませんと。
窓の外で、風がまた庭の葉を揺らした。隣室では後輩たちが忙しなく資料やカルテをめくり、確認する音がかすかに響いている。
終末を越えた世界は、やわらかな光の中で息をし始めています。けれど、その光の下でさえ、見えにくい傷は残っているのだと思うのです。笑顔の奥に隠れた疲れも、穏やかな声の下に沈んだ痛みも、きっと。
だからヒアンシーは、もう一度イカルンを抱き直した。まだ処方は決まっていません。けれど、見逃さないと決めることもまた、治療の最初の一歩なのだと思うのです。
「一緒に、ちゃんと見ていきましょうね。イカルン!」
「ぷる!」
イカルンの返事は短かったが、その声は確かにヒアンシーの胸の奥へと静かに届いていた。
個人的に、永遠の1ページでファイノンに話しかけると、わりとそんな感じのような印象を受けました。