英雄たちに必要なのは、ただ眠ることではない。ここにいても大丈夫だと、心と身体へ少しずつ教え直す時間である。
診療室へ泊まり込み、安息の方法を考えるヒアンシーもまた、後輩とイカルンから温かな茶を差し出され、休息を受け取る難しさに気づく。
香り袋、穏やかな呼吸、静かな景色、隣り合う沈黙、温かな飲み物、力を抜く触れ合い、日々に隠れた小さな幸福。勝利にも成果にも数えられないものこそ、人を明日へ連れ戻すのかもしれない。
彼女は休息を命じるのではなく、その人が安らぎへ辿り着ける道を整えようと、白紙へ新たな処方を書き始める。
そして何より、もしファイノン様のように「何もしない」ことが苦手な方でしたら、少し違うアプローチも考慮しませんと。
何もするな、と言われると落ち着かなくなってしまう方もいらっしゃいますよね。手持ち無沙汰になると、つい誰かのお手伝いを探してしまう方も。
でしたら、最初から完全にじっとしていただくのではなくて、失敗も成功もなく、成果を求めなくてもよい、そんな穏やかな営みから始めてみるのはいかがでしょうか。
キャスたんのように小さな花壇のお世話をしていただくこと。わたしのように野鳥の数を数えてみること。サフェル様のように雲の形を眺めてみること。小石の模様を見つけてみること。風に揺れる葉の音へ耳を澄ませてみること。香り袋の布を選んでいただくこと。
どれも、誰かを救うためのものではありませんし、世界を背負うためのものでもありません。ただ、時間を過ごしていただくためのものなのです。
役に立たなければならない、という焦燥感に追われる日々は、もう終わったのですから。そのことを、頭ではなく身体で、少しずつ思い出していただけたらと思うのです。もし直接そうお伝えできて、それがきちんと届いたのなら……それは治療というより、祝福に近いのかもしれません。
ファイノン様が提出されたレポートを拝見したのですが、なるほど、と感じるところがありました。彼の記憶が語るように、そしてキュレたんのお言葉どおり、終末を越えてこられた皆さんが、ご自身へ贈る小さなご褒美なのだと思うのです。
もう走り続けなくても大丈夫。もう全部を背負わなくても大丈夫。今だけは、どうか、ただ休んでいてくださいねと――そう考えていた、そのときでした。
扉の向こうで、また足音がしたのです。今度は数人分。小声で何かを相談しているようでした。わたしはそっと耳を澄ませます。
「先生、また難しい顔してるかな」
「お茶、飲んでくださったかな」
「イカルンがいるから大丈夫だと思うけど」
そんな断片が、廊下の向こうから微かに届いてきました。
わたしは思わず、机の上のポットへ視線を向けました。中身はまだ半分ほど残っています。慌てていただくものではないと分かっているのに、なぜか少しだけ急いでしまいそうになるのです。イカルンが、ぷる、と小さく鳴きました。
「分かっています。急いで飲むのは休憩ではありませんよね。」
「ぷる」
「……はい。ゆっくりいただきます。」
「ぷん」
後輩たちの気配は、やがて遠ざかっていきました。皆さんもお忙しいのです。診療室には、まだまだするべきことがたくさんありますし、再建のさなかにあるこの世界では、怪我も病も不安も、すぐには消えてくれません。だからこそ、わたしはここにいるのですが……。
それでも、ここにいる理由があるからといって、休まなくてよい理由にはならないのですよね。――それは、ファイノン様にも。黄金裔の皆様にも。そして、きっとわたしにも、同じことが言えるのだと思います。
けれど今の状況は、無理もないことなのです。黄金裔の皆さんは長いあいだ、誰かの願いに応えるために歩き続けてこられました。誰かを守るために立ち上がって、誰かを救うために走り続けて、誰かの明日へ火を繋ぐために、ご自身を削りながら進んでこられたのですから。
そんな方たちに、ある日突然「はい、おやすみしてくださいね〜」なんてお伝えしたところで、素直に頷けるはずがなかったのです。
役目がなくなってしまうことに不安を覚える方もいらっしゃるでしょうし、立ち止まった途端に、これまで置いてきた喪失や後悔が追いついてきてしまう方もいるのかもしれません。ですから、いま必要なのは、休息そのものだけではなくて、休息へ辿り着くための理由なのだと思うのです。
誰かに「休んでください」と言われるから休むのではなく、ご自身から腰を下ろしたくなる時間。誰かの役に立っていなくても大丈夫だと思える場所。何かを成し遂げなくても、ただ笑っていていいひととき。
たとえば――そう、遊びの時間、だとか。
「そう、そうですよ! どうして気づかなかったんでしょう!」
ヒアンシーはぱっと顔を上げた。桃色の髪が肩の上でふわりと跳ね、青緑の瞳に明るい光が戻る。イカルンも驚いたように翼を広げ、小さな王冠を揺らした。
「イカルン、遊びです!」
「ぷ?」
「遊びです! 成果を求めず、勝たなくてもよくて、誰かを救わなくてもよくて、ただ楽しいからする時間です。もしかすると、皆さんに必要なのは、そういう時間なのかもしれません!」
「ぷる!」
今度の返事は、少し弾んで聞こえました。
勝敗のないおしゃべり。目的もなく歩く散歩道。思わず吹き出してしまうような冗談。みんなで囲む食卓。何かを作っても、上手にできたかどうかではなく、作っているあいだ笑えたかどうかを大切にする時間。
そういうひとときの中で、人は少しずつ、「何もしなくてもいい自分」を思い出していくのではないでしょうか。
終末を越えた今、本当に必要なのは、お薬や治療だけではないのかもしれません。もちろん、それらもとても大切です。痛みを和らげる薬も、眠りを助ける香りも、こわばった身体をほぐす手当ても、必要な方にはきちんと届かなければなりません。
けれど、それと同じくらい、「もう休んでもいいのですよ」と心から信じられる時間も、大切なのだと思うのです。そして、その穏やかな時間を、大切な誰かと一緒に分け合えることも。
ヒアンシーは新しい紙を一枚取り出し、中央に大きく書いた。休息は、強制ではなく祝福として。それから少し考えて、もう一行を添える。治療から、遊びへ。役目から、ただ過ごす時間へ。
書いた文字を見つめていると、胸の中に小さな灯りがともるようでした。まだ答えは完成していませんし、具体的にどうすればよいのかも、これからゆっくり考えていかなくてはなりません。どなたを、いつ、どこへお誘いするのか。どのような形ならご負担にならないのか。ファイノン様のように、すぐ誰かのお手伝いへ向かってしまわれる方には、どのようにお伝えすればよいのか。
分からないことは、まだまだたくさんあります。けれど、問いは少しだけ変わってきたように思うのです。どうすれば休ませられるのかではなく、どうすれば休んでもいいと思える時間を一緒に作れるのか。
ヒアンシーは杯を持ち上げ、残りのお茶をゆっくり飲んだ。温かさは少し薄れていたけれど、それでも喉を通ると、胸の奥にやわらかく広がっていく。
窓の外では、風が庭の葉を揺らしている。遠くで誰かが笑う声がした。廊下では後輩たちの足音が、忙しなく、それでも確かに明日へ向かって続いている。夜と呼ぶにはまだ明るいが、勤務時間はとっくに終わっている。帰るかどうかは、もう時間の問題ではなかった。
「まずは、わたしも今夜はちゃんと帰ることから……でしょうか。」
「ぷる!」
イカルンの返事は、今日いちばん力強かった。
「そ、そんなに力強く肯定しなくても!」
「ぷるる~」
診療室に、小さな笑いがこぼれた。
休息とは、静かに横たわることだけではありません。
誰かと笑い合うこと。温かいものを両手で包むこと。今日あった良いことをそっと数えてみること。急がず、成果を求めず、ただ今ここにいるご自身を、やさしく許してあげること。――それを、どうか皆さんにも思い出していただけますように。
そう願いながら、ヒアンシーは紙束を丁寧にまとめた。まだ名前のない処方案。けれど、その最初の頁には、彼女らしい丸みのある字で、確かにこう記されていた。
遊びの時間を、処方の候補に入れること。
その一文を見つめて、ヒアンシーはふわりと微笑んだ。医師として、天空の末裔として、そして誰かの痛みを見逃したくない一人の友人として。
終末を越えたあとにも、人はまだ癒やされていく。ならば、その癒やしはきっと、包帯や薬草だけでなく、笑い声や、寄り添う沈黙や、何もしなくても許される時間の中にも宿るのだろう。
診療室の紙束をまとめ、香り袋の試案と休息についての覚え書きを鞄へ入れ、イカルンの小さな王冠を直してから、ヒアンシーはようやく扉を開けた。
窓の外は夜へ傾ききる少し前で、昼の名残を含んだ薄青い光が廊下の石床に静かに伸びている。薬草と清潔な布の匂いに慣れきっていた肺へ、外気の冷たさが流れ込む。帰り道を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
今夜こそ、ちゃんと家へ帰ります。
結果から申し上げますと、わたしの「今夜はちゃんと帰ることから」は、半分だけ叶ったのでした。
「ヒアンシー先輩!」
「ヒアンシー先生!」
廊下の角から、三つ四つの足音が同時に駆けてきた。白い袖が跳ね、記録板が揺れ、誰かの髪飾りが慌ただしく光を返す。
後輩たちは、まるで応急処置に駆けつける時のような勢いでヒアンシーの前へ並ぶと、息を切らしながら、それでいて妙に決意に満ちた顔をした。善意である。間違いなく、善意だった。けれど、善意というものは時に、こちらが説明を挟む余地もないほど足が速いものである。
「働きすぎです、ヒアンシー先輩!」
「そうですよ、ゆっくりしてくださいヒアンシー先生!」
「夜はちゃんと帰るって言って、ここ数日ずっと診療室に泊まってましたよね!」
「あ、あの、それはですね、仮眠も食事もきちんと取っていまして……」
「家に帰っていません!」
「バルネアも診療室のものです!お家でゆっくり浸かってください!」
「休憩は取っていても、休暇ではありません!」
なんということでしょう。正論です。
しかも、心配と善性に満ちた、とても勢いのある正論でした。
ヒアンシーは思わず、腕の中のイカルンを見下ろした。助けを求める視線だったかもしれない。けれど白く丸い相棒は、青緑のたてがみを揺らしながら、たいへんきっぱりと「ぷる」と鳴いた。
おそらく、後輩たちに賛成している。もしくは、このことに関して自分だけ中立を装うつもりはない、という顔である。
「イカルンまで……!」
「ぷるる」
頼もしい相棒は、時にとても厳しい。
「勤務表はこちらで調整済みです!」
「急患対応の連絡網も確認しました!」
「先生がいなくても回せるように、ちゃんと引き継ぎもしました!」
「ですから、数日間の休暇です!」
「数日間!?」
ヒアンシーの声が、廊下にやわらかく反響した。思わず一歩下がる。すると後輩たちも一歩進んだ。誰も怒ってはいない。
むしろ、全員が泣きそうなくらい真剣で、心配で、けれど押し切ると決めているご様子でした。こういうお顔をしている患者さんのご家族を、わたしはこれまで何度も見てきたのです。どうか休んでください。どうか無理をしないでください、と。
そう言葉にされる前から、もう目がすべてを語っているようなお顔でした。けれど、いざ自分がその対象になると、どうにも落ち着かなくなってしまうものなのですね。
「ですが、まだ確認したい記録もありますし、香り袋の試作も、休息案の整理も……」
「それも休暇明けでお願いします!」
「ヒアンシー先生の『もう少しだけ』は、だいたいもう少しでは終わりません!」
「わ、わたし、そんなに信用が……?」
「あります! だからこそです!」
あまりにもまっすぐな返事だった。
後輩の一人が、そっとヒアンシーの鞄を持つ。別の一人が、診療室の扉へ丁寧に札を掛けた。さらに別の一人が、「緊急時はこちらへ」という連絡先の控えを差し出す。その手際は、包帯を巻く時よりも早いのではないかと思うほどだった。
ヒアンシーはしばらく目を瞬かせていたが、やがて、ふっと肩の力を抜いた。胸の奥にあった小さな抵抗が、後輩たちの騒がしいほど真っ直ぐな心配に押されて、ゆっくりほどけていく。
自分が休むことを、誰かがこんなにも真剣に考えてくれていた。その事実は、少し照れくさく、少し申し訳なく、そして何より、とてもあたたかかった。
「……分かりました。では、数日間だけ。皆さん、無理をしないでくださいね。困ったことがあれば、必ず連絡をお願いいたします!」
「はい!」
「もちろんです!」
「でも、先生も連絡が来るまで診療室に戻ってこないでくださいね!」
「うっ……はい」
最後の一言だけ、ほんの少しだけ胸にちくりとしました。けれど、イカルンが満足そうに翼をぱたぱたと揺らしているのを見て、これはもう本当に決定事項なのだと、そう思うことにしました。
こうして、ヒアンシーは神悟の樹庭にある診療室を、後輩たちの善意に背中を押されるような形で後にし、数日間の休暇を取ることになったのである。
全く関係なくなるけど、無凸のファイノンとキュレネは最初のガチャで確保してたんですけど、前回の復刻で無事に完凸しました。光円錐は間に合わなかったけれども。
未来の己の心変わりを怖れながらも――今のところ、黄金裔が箱で最も推しなので、ケリュドラやアナイクス先生も頑張ってお迎えに上がりたいところ……。それ以前に復刻来てくれてたアグライアたちは、ファイノンとキュレネの連続招待を優先して見送ってしまったので……!