終末を越えた英雄たちに必要なのは、成果も役目も求められない「遊び」の時間なのかもしれない。
花を育て、雲を眺め、誰かと笑う。ただ過ごす営みこそ、役に立たなくてもここにいてよいと身体へ教える祝福になる。そう気づいたヒアンシーは、休息を強制から祝福へ変える処方案を書き上げた。
だが診療室を出た彼女を待っていたのは、心配する後輩たちだった。仮眠も食事も足りている――そんな説明は、善意に満ちた正論の前では通じない。イカルンにも背中を押され、彼女は休暇を言い渡される。誰かの安らぎを考えた医師は今、休むことを学び始める。
星々は天外から優しく光を降らせ、人々は記憶の揺籃の中で語り合い、笑い合い、ときには戸惑いながらも、新しい日々の歩き方を探している。
火を追う旅の果てに辿り着いた、束の間ではない平穏。長い長い喪失を越えた者たちにようやく手渡された、ご褒美のような時間。診療室の外へ出てみれば、その気配は、紙の上で考えていた時よりもずっと確かに世界へ満ちていた。
白い石畳には、修復の跡がまだ残っている。欠けた縁を埋める新しい石は、古い石より少しだけ明るく、夕暮れの光を受けて淡く浮かび上がっていた。
広場の端では、炊き出しの鍋から湯気が立ちのぼり、子どもたちが焼き菓子を両手で抱えて走っている。大人たちはそれを追いかけたり、笑って手を振ったり、壊れた街灯の下で明日の作業の相談をしたりしていた。
どれもが、終末の前には当たり前にあったのかもしれない。それでも今は、まるで奇跡のように見える。
(……そう、本来ならば)
わたしは、腕の中のイカルンを抱き直しながら、ゆっくりと歩みを進めました。休暇なのですから、急ぐ必要はありません。
そう自分へ言い聞かせてみても、つい視線はあちこちへ向いてしまいます。包帯を巻いた子どもが走っていないか、足を引きずっている方はいないか、顔色の優れない方はいらっしゃらないかと、どうしても気になってしまうのです。
穏やかな時間を差し出されても、いざとなると、どう過ごせばいいのか分からなくなってしまう方々がいると理解しています。ですが、そのお気持ちは、わたしにもよく分かるののようでした。
役目を果たしてこられた方ほど、手を止めることが難しいものです。ずっと走り続けてこられた方ほど、立ち止まった瞬間に、胸の奥で何かがそわそわしてしまうのでしょう。
ましてや黄金裔の皆さんは、ただの戦士ではありませんでした。神々の火を追い、世界の終末を越えるために選ばれ、何度も何度も大切なものを失いながら、それでも前へ進み続けてこられた方々です。ですから、休むということが案外難しいと感じても、当然のことなのだと思います。
かく言うわたしも、樹庭の後輩たちから「休んでください」と半ば追い出されるように医務室を出された身ですから、それを他人事のように語れる立場でもありません。
(――ありません。ありませんが……!)
だからこそ分かってしまったのです。休めない方というのは、ご自身が休めていないことに、まず気づいてくださらないのだと。
「ぷる」
「はい。分かっています。わたしのことも含めて、ですね」
「ぷるる」
「……イカルン、最近少しだけ返事が鋭くなっていませんか?」
「ぷぷん」
小さな相棒は、何も知らない顔で空を見上げた。青緑のたてがみが星明かりを受けて、雨上がりの虹の名残のように揺れている。ヒアンシーは苦笑しながら歩き続けた。
やがて、彼女は星の降るドームへ辿り着いた。家に帰る前に、少しだけ散歩をしていこうと思ったからだ。
天井とも空ともつかない高みから、光が優しく降っている。閉ざされたものではなく、遠い天外へ繋がるものとしての星々。記憶の揺籃に降る光は、水面に落ちる花弁のように静かで、白い床や柱、集まった人々の髪や衣服に淡い銀を置いていた。
広場のざわめきはここでは少し遠く、代わりに、誰かの笑い声や、低く交わされる会話、杯の縁が触れ合う小さな音が穏やかに響いている。
「あら。ヒアンシー、よければこちらへ。」
「やっほー、天空のお嬢ちゃん」
「アグライア様、サフェル様!」
人々の心配りが嬉しいような、困ったような、そんな笑みがあちこちに浮かんでいました。どうやら似たような境遇の方々が、この星の降るドームへ自然と集まってしまったようです。
長い休暇を取らされたわたしが、休み方を探して歩いてきた先に、同じように手持ち無沙汰な黄金裔の皆さんがいらっしゃるなんて。偶然にしては、少し出来すぎているような気もいたしますね。少し前までイベントの主催をなさっていたアグライア様は、指先で黄金の糸を編み込みながら、ぽつりと言葉をこぼされました。
「……少し、手持ち無沙汰ですね。」
白と金を基調とした衣が、星明かりを受けて静かに光っている。淡い金髪の毛先が肩口で揺れ、髪に飾られた白い花と金の葉冠が、ほんの小さく光を返した。
サフェルによって絡まった糸をほぐしていたらしい。彼女は優雅に立っていたけれど、指先の糸はすでに整えられていて、もう手を動かす理由がなくなってしまったのだろう。落ち着いているように見えて、手を止めることに慣れていないのかもしれない。そう、ヒアンシーには見えた。
「それは、……うん、まあ、確かにね~。ライアの仕立て屋はさ、オクヘイマの一等地もらえちゃってさ、運び込む準備もとっくに終わってるし? そこで働くことになったあたしたちも、やることなくなっちゃったんだよね~。」
「他の作業をお手伝いしようとすると、皆さん、遠慮なさるのです……。」
近くにいた皆様は、どこか気まずそうに視線を逸らしたり、小さく肩を竦めたりしながらも、そっと頷いていらっしゃいました。きっと、皆様それぞれに似たような事情がおありなのでしょう。
戦場にいた頃は、考えるべきことがそれこそ山のようにありました。後ろには守るべき人々がいて、それぞれ果たすべき役目があり、次に何をするべきか迷う暇などなかったのです。
けれど今は違います。暗黒の潮は退き、終末は越えられ、明日にも誰かが命を落とすような切迫した状況ではありません。
本来なら、喜ぶべきことなのでしょう。けれど、長いあいだ走り続けてきた方ほど、その平穏をどう受け取ればいいのか分からなくなってしまうのだと思います。心だけが、まだ戦場に置き去りにされているような感覚、とでも言えばよいのでしょうか。
その習慣が残ってしまったおかげというか、せいというか……ともあれ、働きすぎてしまう黄金裔の方々は、決して少なくなかったのです。
わたし自身、怪我人や病気で苦しむ方々を放っておけませんし、キャスたんは不安そうなお顔を見つけると、言葉を尽くして励まそうとしてくださいます。
アグライア様は、人々がきちんとお食事を取れているか、安心して眠れる場所はあるか、寒さや暑さをしのげているかと、衣食住のあらゆることが気になって仕方ないご様子でした。先ほどの「手持ち無沙汰」というお言葉も、もしかすると、ご自身の手が空いていることへの戸惑いだったのかもしれませんね。
アナイクス先生は、再建に必要な理論や現象の整理を始めると、つい時間を忘れてしまわれるのです。涼しいお顔で立っていらしても、指先はいつの間にか石板へと走り、視線も星そのものではなく、その配置から導き出される何かを追っていらっしゃるようで。
わたしが見ているかぎりでは、あれは休憩というより観察でして……観察は先生にとって、きっと呼吸のようなものなのでしょうね。少しだけ、困ってしまいますけれど。
モーディス様は、やはり民が集まる場所の様子を見回らずにはいらっしゃらないご様子でした。腕を組み、どこか不機嫌そうにも見える横顔で広場を眺めていらっしゃいますが、その視線は危険を探すというより、人々が安心して過ごせているかどうかを確かめているように感じられます。
赤と金の気配を帯びた王の立ち姿は、戦場から遠ざかった今でさえ、誰かの盾であろうとしているように見えてしまうのです。
サフェル様もまた、軽口ばかり叩いているように見えて、実際には誰が無理をしているのか、きちんと見ていらっしゃるのだと思います。
濃紺のフードの猫耳が星明かりの下でぴくりと揺れ、銀灰色の髪が影を含んで跳ねる。その宝石を弄ぶような指先も、誰かが顔を伏せれば、ふっと動きを止めるのです。口元にはいつもの胡散臭い笑みがあっても、その青い瞳は、不思議と見逃さないのでしょう。
(……それだけではありません!)
セイレンス様は、こうして人々が集まる場所へ足を運ばれては歌を披露し、お仲間の人魚の皆さんとご一緒に、そっと一曲贈ってくださるのです。
終末を越えたあとも、心の傷はすぐには癒えません。けれど彼女の歌声が流れると、不思議と皆様の肩から力が抜けていくのが分かるのです。水面を撫でる風のような声が星の光に溶けて、誰かのまぶたをほんの少しだけ重くする。あれは、治療記録には書けないのですけれど、確かに癒やしと呼べるものなのだと思います。
オクヘイマの主が、何かを命じるわけではなく、ただそこに立っていらっしゃるだけ。それでも威風は失われておらず、「大丈夫だ、この国はまだ立っている」と、言葉なく示してくださっているように感じられます。あれはもう、存在そのものがお仕事なのではないでしょうか。
トリビー様たちもまた。失われたもの、守り抜いたもの、誰がどのように戦い、どのような願いを託したのか。
預言の聖女であられた方として、人々へこれまでの顛末を語っていらっしゃいました。終末を越えた今だからこそ、忘れてはいけない記憶があります。トリスビアス様は静かな声でそれらを語り継ぎ、耳を傾ける人々は時に涙し、時に笑い、そして最後には前を向いていくのでした。
(こ、こうして並べてみると、やはり皆さん、あまり休めていない気がします……!)
ヒアンシーは、思わずイカルンを抱く腕に力を込めた。イカルンが「ぷ」と短く鳴いたので、慌てて力を緩める。相棒は抗議するように翼を一度だけ動かしたあと、星降るドームに集まった面々を順番に見回した。その仕草は、ほらね、と言っているようにも見えた。
それぞれに癖があり、それぞれに役目がありました。そして、それぞれの胸の奥には、置いてきた戦いの残響が、まだ静かに残っているのだと思います。
世界が平穏へ戻ろうとしている今、人々は安心して笑い、泣き、眠り、明日の話をすることができています。けれど、ずっとその明日を守る側に立ってこられた方々は、ご自身がその明日の中でどのように息をすればいいのか、まだ少し戸惑っていらっしゃるのかもしれません。
(忘れてはいけませんよ、ヒアンシー。休息は、強制ではなく祝福として。)
診療室で書いた言葉が、ヒアンシーの胸の内で静かに響くようだった。紙の上では少し大げさに見えた一文も、今は星明かりの下で、確かな輪郭を持ち始めている。
誰かに「休みなさい」と命じるのではない。誰かが自分から腰を下ろしたくなる時間を、みんなで分け合えるようにすること。
それが必要なのだと、改めて思いました。……思ったのですけれど、自分たちで言うのもなんですが、わたしたちと比べても、ひときわ休むことが下手な方がいらっしゃるのです。
その方のお姿は、まだこの場所にはありません。けれど、もし今ここにいらっしゃったなら、きっと当たり前のように誰かの杯を満たし、足りない椅子を運び、寒そうな方へ外套を貸し、誰かが困っていればそちらへ足を向けて、最後にようやく自分の席を探すのでしょう。
そんな光景は、誰の目にもごく自然なものとして浮かび上がり、ヒアンシーはわずかに眉を下げた。自分はもう自覚があるから、あとは調整するだけだけれど。
「……やっぱり、まずは皆さんからですね!」
「ぷるる?」
「もちろん、特に注意して見守るべき方もいらっしゃいますけれど。まずは、休んでもいい時間を作ることからです!」
イカルンは小さく首を傾げたあと、納得したように「ぷる」と鳴きました。
あまりにも予想通りの光景に、思わずイカルンと顔を見合わせてしまいます。星々は変わらず優しく降り注いでいて、人々は語り合い、笑い合い、ときには戸惑いながらも、新しい日々の歩き方を探していらっしゃいます。
でしたら、黄金裔の皆さんにも、そしてあの方にも。いつか、ただそこに座って星を眺めるだけの時間が、きちんと届きますように。