終末を越えたオンパロスには、笑い声と星明かりが戻りつつある。休暇を命じられたヒアンシーも、その穏やかさを確かめるように街を歩く。
だが星降るドームで出会った黄金裔たちは、糸を整え、人々を見守り、歌や記憶を届けながら、なお役目を手放せずにいた。平穏を守り抜いた英雄ほど、その中でただ過ごす方法を知らない。
誰かに休息を命じるのではなく、自ら腰を下ろしたくなる時間を分かち合うこと。ヒアンシーは、まだ姿を見せない誰よりも休むことが苦手な青年を思い浮かべながら、まずは仲間たちのために安らぎの場を作ろうと決める。
そんなことを願っていた、その時でした。
星降るドームの入り口の方で、小さなざわめきが起こったのです。大きな騒ぎではありません。誰かが驚いて声を上げたわけでも、慌ただしい足音が響いたわけでもありません。ただ、人々の視線が、波紋のようにそちらへ向いていっただけでした。
わたしもつられて振り返ります。イカルンが腕の中で「ぷ?」と小さく首を傾げました。
最初に見えたのは、青い布でした。星明かりを受けて、遠い海のさざ波のように揺れる青。次に、白銀の髪。黎明前の薄い光をすくい上げたような柔らかな白が、歩みとともにふわりと揺れています。胸元の金装飾は、星の光を受けて静かにきらめいていました。
ざわめきの正体は、ファイノン様でした。けれど、その方はただこちらへ歩いてきたわけではありません。
入り口の近くで、少し足元を気にしていたご老人へ自然に手を差し出し、段差を越えるまでそっと支えて、すぐそばで小さな子どもが落としかけた布包みを受け止め、「大丈夫、まだ温かいよ」と笑って返していました。
さらに、冷えた肩を抱いていた若い方には、どこから持ってきたのか薄い掛け布を渡して、「ここは星明かりが綺麗だけど、じっとしていると少し冷えるから」と穏やかに声をかけていたのです。
その一連の仕草が、あまりにも自然でした。どこからどう見ても、誰かに頼まれたわけではありません。自分が何か特別なことをしているという顔でもありません。歩くついでに、息をするついでに、困っている方の手元へ少しだけ温もりを足していく。そんなふうに見えてしまうのです。
(……ほら、やっぱりです!)
わたしは思わず、イカルンと顔を見合わせてしまいました。イカルンもまた、たいへん納得したように「ぷる」と鳴きます。まるで、先ほど想像していた光景が、そのまま現実になってしまいましたね、と言っているようでした。
しかも、ファイノン様の両手には銀のトレーがひとつずつありました。すらりとした腕に支えられたその上には、人数分のカップが整然と並べられています。淡い紫色の液体が、彼の歩みに合わせてゆらゆらと揺れ、その表面には天井を彩る星々の光が映り込んでいました。
青い外套を優美に揺らしながら現れたその姿は、まるで星明かりそのものが人の形を取ったようでもあり、けれど同時に、畑仕事の帰りに近所へ差し入れを持ってきた青年のようでもありました。
「やあ、みんなで星を眺めてたのかな?」
声は、いつものように穏やかでした。人懐こくて、ほんの少し照れたような、けれど聞いた人の肩から力を抜いてしまうような声音でした。
「ファイノン様、こっちの席あいてますよ!」
わたしが声をかけると、ファイノン様はぱちりと瞬きをして、それからふわりと優しく微笑んでくださいました。
「ありがとう。それじゃあ、僕も遠慮なくお邪魔させてもらおうかな」
「……とか言って坊や、ハナからそのつもりだったんじゃないの~?」
サフェル様が、猫耳のついた濃紺のフードを揺らしながら、にやりと笑いました。指先では、いつの間に取り出したのか、小さな硬貨のようなものをくるりと弄んでいらっしゃいます。青い瞳が星明かりを受けて、まるで面白いものを見つけた猫さんのように、きらきらと輝いていました。
ファイノン様は、少し困ったように眉を下げていらっしゃいます。その口元には、ほんの少しだけいたずらを見つけられた子どものような照れが滲んでいて。
けれど目元はどこか楽しそうに細められていました。困っているはずなのに、責められているというよりは、仲間に見透かされたことを素直に受け入れているような、柔らかな表情でした。
「ばれたか」
その返事に、周囲から小さな笑いがこぼれました。
彼は皆さんの輪のそばへ来ると、まず手近な台の位置を確かめました。少し傾いていた脚を軽く直し、トレーを置いてもカップが滑らないことを確かめてから、ようやく銀のトレーを下ろします。
さらに空いている椅子をひとつ引き、座面に落ちていた花びらを指で払ってから、こちらへ視線を向けました。
「ヒアンシー、ここで大丈夫かな? イカルンが飛び降りても危なくない位置の方がいいと思って」
「は、はい。ありがとうございます」
「ぷる!」
イカルンがなぜか胸を張った。椅子に飛び降りる予定があるのかもしれません。ないのかもしれません。分かりませんが、ファイノン様はそれを見て、ふっと笑っていました。二人だけが分かる何かがあるのでしょう。
「ファイノン、それは?」
アグライア様が静かに尋ねました。金糸を指先に残したまま、青緑の瞳をカップの中へ向けています。星明かりを受けた金の葉冠が、ほんのわずかに光を返しました。
「はは、実は、父さんたちに『せっかくみんながいるんだから、行っておいで』って送り出されてね。……久しぶりに、エリュシオン特製ぶどうジュースを作ってさ。よかったらどうかな、と思って持ってきたんだ。」
そう言って、ファイノン様は少しだけ照れたように、やわらかく微笑まれました。
その笑顔は、なんだか今の世界にとてもよく似合っていたのです。誰かを励まそうとしているわけでも、導こうとしているわけでもありません。ただ、隣に座って、一緒に空を見上げて、同じ時間を過ごそうとしているだけ。そんな、穏やかで優しい微笑みでした。
長い長い火を追う旅の果てに、ようやく辿り着いた安息。きっとあの表情には、言葉にできない安心や穏やかさが、そっと宿っているのでしょう。
見ているだけで、胸の奥に張りつめていたものが、少しずつほどけていくようでした。終末を越えたあとも、この世界にはちゃんと温もりが残っているのだと、わたしはそう感じたのです。
照れを隠すように、ファイノン様はカップを配り始めました。まず冷えやすそうな方へ、次に遠くに座っている方へ、それから手の空いていない方へ。
順番は自然なのに、よく見るとちゃんと気配りされているのです。トリビー様たちには小さめのカップを選び、モーディス様には少し大きめのものをお渡しして、セイレンス様には歌の後でも喉に優しいようにと、薄く冷やしたものを差し出していらっしゃいました。
どうしてそこまで自然にできてしまうのでしょうか。わたしの医師としての目が、また少しだけ細くなります。いえ、今は休暇中なのですが。休暇中なのですけれど。
「ヒアンシーも。診療室から出てきたところなら、少し甘いものの方がいいかなと思って」
「あ、ありがとうございます。……あの、なぜ診療室から出てきたところだと?」
「君の後輩さんたちが、さっきものすごく頼もしい顔で『ヒアンシー先生を休ませます』って話していたからね。また缶詰めだったんだろうなって。」
「そ、そうでしたか……!」
思わぬところから包囲網の余波が届いていました。わたしはカップを両手で受け取りながら、少しだけ視線を泳がせます。イカルンはというと、たいへん満足そうに「ぷるる」と鳴きました。あなたもそちら側なのですね、イカルン。
皆さんそれぞれ礼を述べながらカップを受け取ります。どこかすっきりとした甘い香りが、ふわりと広がりました。熟したぶどうの香り。けれど重たくなく、夜の空気に溶けるような爽やかさがあります。終末を越えたあとだからこそ味わえる、何気ないひとときなのでしょう。
「へっへーん、いっただきまーす!」
そう言うなり、サフェル様がひょいとカップを取られました。軽い……いえ、あまりにも軽やかな動きです。盗むというより、星明かりの影をひとつ、指先でそっと摘み上げたみたいな早さでした。
「って、サフェルさん。それ、僕のグラスじゃないか。ちょっと口をつけてるから、新しいのをあげるよ。ほら」
「いいのいいの。今さらでしょ?」
「今さらって……」
「だってあんた、昔からそういうの気にしないっしょ? あたしも気にしないし」
「いや、僕が気にしなくても、普通は気にする人がいると思うんだけど……」
「……坊やは、昔から変わらないねぇ」
ファイノン様とサフェル様のやり取りにくすりと笑ったのは、トリスビアス様でした。
「ファイちゃんもフェルちゃんも、昔から変わらないわね」
その声音には、遠い昔を知る者だけが持つ穏やかな懐旧が滲んでいました。呆れでもなく、諦めでもなく、ただ愛おしむような響きです。星々の下、ふたりの言い合いを見守るその眼差しは、長い旅路の果てに、ようやく見慣れた故郷の景色へ辿り着いた旅人のようでした。
「え、そうかな? 僕、大人っぽくなったって自負してたんだけど」
「坊やは坊やのまんまだよ! どう考えても、あたしの方が成長したでしょ、姉さんたち!」
「あら。ふふふ、師匠の仰る通りですね。成長した人間は、そう簡単にむきになりませんよ。」
アグライア様が、口元に手を添えてやわらかく笑います。白い衣の裾が、座った姿勢でも上品に流れ、金糸が星明かりの中で細く光りました。
「僕は僕のプライドのために抗議しなくちゃいけない……! 流石に、オクヘイマへ来たばかりの頃の僕ではない、と……おも、思うんだけど……」
「いや、ごめん。坊や、そのもじもじ具合は変わらずだわ」
「えっ!?」
途中まではきりっとされていたのに、後半になるにつれてだんだん自信がなくなっていくご様子で……そのしおれていくファイノン様を見て、つい、わたしまでくすっと笑ってしまいました。
「でも、分かる気がします」
「ヒアンシーまで?」
「はい!」
わたしはカップを両手で包みながら、こくりと頷きました。ほんのり冷たい陶器越しに、ぶどうの香りがふわりと近づいてきます。
つい先ほどまで診療室で後輩たちからお茶をいただいていた手が、今はこうしてファイノン様の差し入れを受け取っているのだと思うと……なんだか少しだけ不思議で、でも、とても嬉しく感じてしまいました。
「ファイノン様は昔から、誰かに何かを渡している印象があります。神悟の樹庭でご一緒させていただいた講義でも、よくキャンディやクッキーをいただいていましたし」
「それは……そうだったっけ?」
ファイノン様は本当に不思議そうに首を傾げました。ご本人には、自覚がないのでしょう。ええ、やはりそういうところです。
「ついたあだ名は、“おなかすいたノン”でしたよね……」
「可愛らしいあだ名ですよね」
キャスたんが穏やかに微笑みます。淡紫の気配をまとったその横顔は静かで、けれど声には少しだけ楽しそうな温度がありました。
「生徒から教師に至るまで片っ端から声を掛けて配り歩いていましたからね。“おなかすいた?”が合言葉のようだった、あるいは、“次の授業で遭遇できるだろうか”と私の教室にまで噂が届くほどです。」
アナイクス先生が、いつもの涼しい声でそう付け加えました。薄緑の髪が星明かりを受け、黒い眼帯の金装飾が鈍く光っています。語り口は平静でしたが、先生の片目にはどこか面白がるような光が宿っていた気がしました。
「そ、そんな……アナイクス先生の教室まで届く噂ってなんだ……!?」
ファイノン様は少しだけ肩をすくめました。青い瞳が困ったように揺れている。隠し事をしているわけでもないのに、妙に照れていらっしゃるところが、また昔と変わらないように見えてしまうのです。
けれど、そういうところなのです。
誰かのために花を摘み、誰かのために食事を運び、誰かのために話を聞く。大それたことではなくても、気づけば自然とそうしている方なんです。救世主というより、近所のお兄さん。神話の英雄というより、誰かの帰りを待つ家族のような温かさ。
だからでしょうか。トレーを抱えて現れた姿も、あまりにも自然でした。けれどその自然さこそが、わたしには少し気がかりでもありました。
「まっ、あんたの場合は昔から世話焼きだったし?」
サフェル様がグラスを揺らしながら言いました。青い瞳はいたずらっぽく細められていますが、声の端には、昔を知る者だけが持つ遠慮のなさがありました。
すると、今度はキャスたんまで深々と頷きます。何かを思い出したように、少しはにかみながら。
「そうですね。ファイノン様は、
「えっ」
「ほ~ら、満場一致!」
「ふん。まるで自覚がないのが厄介だな。」
モーディス様が腕を組んだまま、低く呟きました。責めるというより、どうにも放っておけないものを見る声音です。
「え、ええ……君もそう言うのか……?」
一番言わなさそうなのに、とでも言いたげな顔でした。やがて、わたしたちの視線を一身に受けていることに気づかれたのでしょう。ファイノン様は困ったように笑います。けれど、そこでふと、穏やかな顔のまま言ったのです。
「うーん……でもさ、みんなも似たようなものじゃないか」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。この服だって、アグライアが仕立ててくれたものだし、僕が都会でやっていける知識をくれたのもアナイクス先生とトリビー先生たちだ。他にもあげるなら、……」
実に見事なブーメランでした。
確かに、ええ。反論の余地が、ちょっとないかもしれません。
アグライア様の金糸は、人々の衣を整え、寒さから守り、心まで少し明るくする。アナイクス先生の知識は、時に難解で長いのですが、それでも再建の足場を確かに支えている。トリスビアス様たちは、失われた記憶を語り継ぐことで、人々が前を向くための道を照らしてくださっている。
皆さん、誰かのために動いている。だからこそ、この場に集まっているのかもしれません。休みたいからではなく、休むことを覚えたいから。あるいは、誰かと一緒なら少しだけ手を止められるような気がしたから。
「いやいや、あたしは違うから」
指折り数えて、仲間を褒め殺しにしていると無自覚なファイノン様を前に、サフェル様が即座に言いました。その表情には、標的にされたらかなわない、とでも言いたげな色が浮かんでいました。
「本当に?」
「本当に!」
「そうかな。昨日も迷子の子供を三時間探して、母親のもとまで送り届けてくれたって聞いたけど」
「だっ……誰がそんなことォ……!」
「
「ぐう……サイアク……! 情報代として今度あいつの宝庫から、お宝かっぱらってやんなきゃ」
「それは情報代なのか、ただの盗難なのか、興味深い問題ですね。」
「樹庭の坊やは、そこ掘り下げなくていいから!」
今度こそ、皆様が笑いだしました。
星の降るドームに、明るい声がふわりと広がっていきます。高い天井から降る光は変わらず静かで、けれどその下で交わされる笑い声は、確かに生きている人々のものだと、そう感じられました。誰かのための号令でも、戦いの前の誓いでもありません。
誰かのための号令でも、戦いの前の誓いでもありません。ただ仲間同士で交わされる、他愛ない笑い声です。どうしてこんなにも尊く感じるのでしょう。
誰かを救うためではなく、何かを成し遂げるためでもなく、ただ一緒にいて、笑って、手元の飲み物の香りを楽しむ時間。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなって、いっぱいになってしまいそうでした。
わたしはそっとグラスを包み直しました。ほんのり冷たい感触に、思わずほっと息がこぼれます。甘いぶどうの香りがふわりと広がって、エリュシオンの優しさと穏やかさが、そのまま伝わってくるようでした。
もしかすると、こういう時間こそが、わたしたちがずっと欲しかったものなのかもしれませんね。
そして同時に、こういう時間の中だからこそ、確かめられることもあるのだと思いました。ファイノン様が笑って、皆様が笑って。その笑顔が、誰かの役目ではなく、ただ同じ場所にいることの嬉しさから生まれている。
今はまだ、それだけで十分なのだと思います。
休息は、強制されるものではなくて、きっと祝福のように訪れるものですから。
診療室で書いた言葉を胸の奥でそっと抱き直しながら、わたしは星明かりの下で、静かに微笑みました。