ケリュドラへ提言しに行った日を境に、ファイノンの周りには以前にも増して人が集まるようになった。誰かに頼られ、声をかけられ、隣に座られること。それは彼にとって、守りたかった日常のひとつであり、苦しみではなかった。
けれど、賑わいは時に、自分自身へ向けるはずだった問いを遠ざける。
星明かりの下、人々が草花の上に身を横たえ、思い思いに夜空を見上げる天文観察会。そこでファイノンは、外套の内側から、失われたはずの髪飾りを見つける。それは、かつて彼がキュレネへ贈った、麦の穂を象った小さな形見だった。
砕けて消えたはずのもの。もう二度と戻らないと思っていたもの。
そして、彼女がこの場所に残していった、物語の続き。
羽ペンとインク瓶にも刻まれていた見覚えのある文字を前に、ファイノンはようやく気づく。血と火の章で終わらせず、泣いても、笑っても、眠ってもいい場所を用意した彼女の
青い外套を揺らしながら、ファイノンは星明かりの下をゆっくりと歩いていた。その傍らにはヒアンシーとイカルンの姿もある。彼女たちもまた静かに歩みを進めながら、微睡みの庭に満ちる穏やかな空気へそっと目を細めていた。
微睡みの庭には、眠りを誘うような静けさがある。どこかで噴水の水が絶え間なく流れ、その澄んだせせらぎが耳に心地よく響いていた。噴水を囲うベンチに腰かけて目を閉じると、エリュシオンの泉の音にも聞こえてくるのだから不思議だ。
けれど今回の目的は、そこではない。
ファイノンは心当たりのある場所へ向かって歩き出した。草花は足音を責めず、風は行き先を急かさない。キュレネが何かを隠し置くとしたら――そんな想像には、自然と見当がつく。陽だまりの園へ続く小径の脇には、誰かの暮らしからそっと抜き出されたような品々が並んでいた。
豪奢な宝ではない。神々の奇跡でもない。けれど、そのひとつひとつに、かつてのオンパロスで確かに誰かが笑い、働き、日々を重ねていた気配が残っている。
ファイノンの足が、不意に止まった。
視界の端に映った瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。
「ファイノン様!?」
「なになに、あたしが集めたお宝特集に興味でもあるのかにゃ?」
ザグレウスの銅像。その側に置かれていたのは、どこかの村で作られたのであろう素朴な細工物だった。飾り気は少なく、形も少し歪んでいる。見慣れたはずの木の色。ありふれた手仕事の跡。けれど、その歪みを見た途端、なぜだか呼吸が浅くなる。
「どったの救世の坊や……ホントにどした?」
僕はこれを、知っている。
そう思ったのは、目で形を確かめたからではない。指先が触れるよりも先に、心のほうがそれを覚えていたのだ。だから彼は、どうしても目を逸らせなかった。
「あ、それ手作りのやつで。たぶんどっかの子供が作ったヤツ、だろう、ね~……って」
「はは、うん。僕と彼女がエリュシオンで作ったものなんだ。」
言いながらファイノンの指先が、壊れ物をなぞるかのようにそっと表面を撫でる。――ざらり、とした。
それは、他でもないファイノンが覚えのある感触だった。怪我をすると危ないから、ささくれは削ってしまおう――そう言ってナイフを手に取り、不格好になりながらも丁寧に削った跡。その時の木の匂いも、隣で笑っていた声も、指先に触れた瞬間によみがえってくるようだった。
その一部だけ不器用に荒い感触を覚えた瞬間、星明かりの庭は遠のき、記憶の奥で、黄金の麦畑が風に揺れた。あの頃の、エリュシオンへと。
それは、幼い頃のカスライナが、キュレネと一緒に作った木工の花籠だった。
指先に残るざらつきが、記憶を引き寄せる。遊びに行くたびに両手に溢れるほど木の実を抱えて駆け回っていた頃。拾った実を落とさず持ち帰る方法はないかと困っていた彼に、キュレネが「それじゃあ、籠を作りましょう」と得意げに提案してきたのだ。
エリュシオンの木から樹皮を少しだけ剥ぎ取り、それを細い紐のように引き伸ばす。そこまでは覚えている。問題は、その先だった。――カスライナは、編めなかったのだ。
どうして皆こんなものを簡単に作れるのか、本気で不思議だった。指に絡みつく樹皮は思うように動かず、形になりかけては崩れ、崩れてはまた絡まる。何度やり直しても上手くいかない。繰り返すうちになんとなく形になるものだから、不格好でも、それでも、あの頃の自分は妙に意地になっていた。
今度こそ、と意気込んで。失敗しても諦めない。何度も何度も。たかが籠ひとつなのに、どうしても完成させたかった。木の実を入れるためだったのか、キュレネに褒められたかったのか、もう分からない。ただ、夢中だったことだけは覚えている。
『ふふっ♪ 頑張り屋さんのあなたに、ちょっとした助っ人を呼んであげる。ほら、エリュシオンの花。キュレネよ~♪』
『きゅ、キュレネ……』
『お手本を見せてあげるわ。』
『ありがとう、キュレネ!』
『……ふふふっ。ええ、どういたしまして!』
隣で見ていたキュレネは、しばらく楽しそうに笑っていた。そして、とうとう見かねたように隣へ腰を下ろすと、少年の手元へ自分の指を重ねたのである。こうするのよ、と。
引っ張りすぎたら痛がっちゃうわ、と。樹皮が痛がるかどうかなんて分からないのに、彼女は本気でそう言った。だからカスライナも、僕の力は強すぎたんだと納得し、そういうものなのかもしれないと頷いた。
少女の指は器用だった。細い樹皮が、彼女の手の中で少しずつ形を持っていく。輪になり、底になり、持ち手になり、やがて小さな籠になる。
魔法使いの魔法のようだとカスライナが言えば、彼女は可笑しそうに笑っていた。籠のその一部だけ、少年が最初に作ったところがざらりと凸凹していた。今、ファイノンの指先に触れているのは、まさにその場所だった。不出来だったはずなのに、キュレネはそこを直さなかった。
『ここは、あなたが作ったところだもの。』
そんなふうに言って、彼女は誇らしげに笑ったのだった。
ファイノンの目が、ほんのわずかに細まる。
指先に残るざらつきが、次々と記憶を引き寄せてくるようだった。木の匂いがした気がした。草を踏みしめる感触が蘇る。高く澄んだエリュシオンの空。籠いっぱいに詰めたラズベリーの赤。走るたびに揺れる持ち手。隣を歩くキュレネの笑い声。――胸の奥に浮かんだのは、痛みよりも先に懐かしさだった。
『うふふ、おばさまには内緒にしてね♪』
あの声が、風に混じったような気がした。
もちろん、嘘が苦手な彼は内緒になどできなかった。夢中になって野山を駆け回り、日が暮れてから泥だらけになって帰れば、母アウダダに揃って叱られるに決まっている。しかもキュレネは、その最中でさえ頬をふくらませ、こっそりラズベリーを味見していた。さらには、視線だけで「あなたも食べる?」と訴えてくるのだから、ちゃっかり共犯になるしかなかった。
結局、其れも含めて二人で叱られた。当然のことである。けれど、叱られている間でさえ、キュレネは悪びれるどころか、いたずらが成功した子供のような顔で笑っていた。その笑顔を見ると、カスライナも困ったように笑うしかなかったのである。
(……軽い。)
指先に伝わる重みは、拍子抜けするほど頼りなかった。こんなにも小さなものだったのか、とファイノンは思う。
成長した今では当たり前のことだけれど、幼い頃の感覚とは、まるで違った。
あの頃は、両手で抱えるだけで誇らしくて、籠いっぱいに木の実を集めれば、それだけで世界を手に入れたような気分になれた。ラズベリーを詰め、木の実を詰め、時には花を詰める。帰り道では揺れる持ち手を何度も確かめ、落としていないか気にしていた気がする。
今の自分の手には、あまりにも小さい。それなのに、触れていると不思議なほど多くのものが蘇ってくる。木の匂い。陽射しの温度。隣を歩くキュレネの足音。何度も使い、傷み、直し、それでも手放そうとは思わなかった日々。
籠にそっと額を預けると、白い髪がくしゃりと乱れた。木の匂いはもうほとんど残っていない。それでも、指先に伝わる感触だけで十分だった。
ファイノンは、しばらく何も言わなかった。なにも、言えなかった。
キュレネは、英雄の記録だけを残したのではない。戦いの跡だけを拾い上げたのでもない。こんな小さな籠のことまで、こんな拙い手仕事まで、日暮れの帰り道に笑い合っただけの記憶まで、彼女はファイノンが忘れずに抱き続けていた記憶を、そっと物語として編み上げてくれた。
それは、世界を救うために刻まれた記録ではなかった。誰かに称えられるために残された証でもない。ファイノンが思い出せなくなっていた日々を、キュレネがそっと拾い集めてくれていた――ただ、それだけの記憶だった。
ファイノンは、小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけほどけるような気がした。安堵だったのかもしれない。けれど、それだけではなかった。
帰れないと思っていた。あの日々はもう失われたのだと。
エリュシオンの空も、ラズベリーを摘んだ帰り道も、母に叱られながら顔を見合わせて笑った時間も、すべて過去の向こうへ沈んでしまったのだと思っていた。――なのに、ここには残っている。
自分でさえ零してしまいそうだった記憶を、キュレネは拾い集めていた。英雄だった自分ではなく。黄金裔でもなく。ただ木の実を抱えて走り回り、編み物に悪戦苦闘していた少年のことを。
その事実が、どうしようもなく胸を締めつけた。
ありがとう、と言いたかった。けれど声にすれば、何かが崩れてしまいそうな気がした。だからファイノンは何も言わず、木工の花籠を胸の近くへそっと引き寄せる。指先に伝わるざらつきが、遠い日の自分へ繋がっている気がした。籠いっぱいのラズベリーを抱え、隣で笑うキュレネを見失わないように歩いていた、あの頃へ。
ファイノンはしばらく目を伏せる。涙は出ない、と彼は思った。蒸発するようになってからは、
ただ胸の奥が温かかった。そして、その温かさと同じくらい痛かった。
失ったはずのものに、もう一度触れてしまったからだ。けれど同時に、それが失われていなかったことを知ってしまったからでもあった。――その痛みさえ、今はどこか愛おしく感じられた。
……
…
それは、彼だけではなかった。
ファイノンが木工の花籠を胸元へ引き寄せたその瞬間、サフェルはふいに尻尾をひと振りして身を引いた。けれど、いつものように軽口で場をさらうには、そこに漂うものがあまりにも静かすぎたのである。
オンパロスにおいて、サフェルは盗賊だった。
疾風より速い盗賊。そう名乗り、真実も秘密も鮮やかに盗み去ることを生業としてきた。誰かが隠したもの、手放したもの、忘れたふりをしたもの。そういう気配には妙に鼻が利く。
だからこそ、サフェルは分かっていた。ここに並べられた品々は、値打ちのある蒐集品ではない。誰かの人生から剥がれ落ちた小さな欠片であり、失くしたと思っていた帰り道そのものなのだと。
古ぼけた人形なんて、値打ちものにもなりはしない。けれど、その証拠とばかりに、彼女は、これらを「お宝」と呼んでいた。軽薄な冗談ではない。むしろ逆だった。宝石や財宝なら、価値は金額で測れる。
けれど、誰かが失いたくなかった記憶や、手放したくなかった日々には値段が付かない。だからこそ、それらは本当の意味での宝なのだと、サフェルは知っていた。
盗めるものなら、彼女は数え切れないほど見てきた。宝石も、財宝も、秘密も、時には預言が齎す真実さえも。けれど、人が心の底から大切にしていたものだけは違う。それは値段では測れず、力ずくで奪ったところで手に入らない。誰かを想う気持ちもまた、そうだった。
だからサフェルは、何も言わなかった。
ここにあるのは、誰かが守りたかったものだ。忘れられないように、失われないように、誰かが必死に拾い集めたものだ。その献身の跡を前にしては、軽口を差し挟む気にもなれない。
奇跡というものは、案外こういう形をしているのかもしれない、と彼女は思った。誰にも気づかれないほど静かで、けれど誰かの願いだけは確かに叶えている。――そんな奇跡を起こすためなら、自分をただのこそ泥だと偽る者もいるのだと、サフェルはよく知っていた。
ヒアンシーもまた、息を呑んでいた。
彼女のそばで、イカルンが心配そうにぐるぐると空を飛んでいる。ときには、ヒアンシーが好む腹を差し出して。
医師である彼女は、人が痛みに触れた時の沈黙を知っている。診察室で告げられた別れの言葉に、返事もできず立ち尽くした者。失った家族の名を呼ぼうとして、声にならなかった者。長いあいだ蓋をしていた傷へ不意に触れられ、何も言えなくなった者。泣き叫ぶより前に、まず言葉が消えることを、ヒアンシーは何度も見てきた。
だから分かった。――あれほど故郷に帰りたがっていたファイノンが、花籠を抱きしめる姿は、ただ懐かしい品を見つけた者のそれではない。失われたと思っていた時間に再び出会ってしまった者の顔だった。
彼の横顔には痛みがあった。けれど、それは傷口を抉られた時の苦しさとは少し違う。痛いほど懐かしく、痛いほど温かい。忘れたくなかったものが、まだ自分の中に残っていたと知った時の痛みだった。
ヒアンシーは胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。
この人は、どれほど多くのものを背負ってきたのだろう。どれほど多くの別れを見送り、どれほど多くの記憶を抱え続けてきたのだろうか。
そして、同じ沈黙が、少しずつ周囲へ広がっていく。
視線の先にあるのは、豪奢な宝でも、神々の遺した奇跡でもない。かつて誰かが確かに生き、笑い、働き、日々を営んでいた証だった。
見慣れた意匠に懐かしさを覚えて息を呑む者もいれば、故郷の祭具を見つけて言葉を失う者もいた。あの
「これ……うちの村の織り方だ……。」
誰かが、震える声で呟いた。
「おじいちゃんが作ってた祭具と同じだわ」
「まだ残っていたのね……」
続く声は、どれも小さかった。けれど、小さいからこそよく響いた。驚きからか、喜びからか、それとも懐かしさからか。きっとそのどれもだったのだろう。
サフェルは黙って、その声を聞いていた。
普段なら、ここでひとつ冗談を挟むところだった。しんみりした空気をひっくり返して涙を笑いに変えることくらい、彼女にはできる。けれど今は、それをしてはいけない気がした。盗人にも、盗んではならないものがある。これはたぶん、人がようやく取り戻した沈黙だった。
誰かがそっと工芸品へ手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
その仕草は、壊れやすい夢を前にした者のようでもあった。触れたら消えてしまうのではないか。けれど触れなければ、本当に戻ってきたのだと信じられない。そんな迷いが、指先の震えに滲んでいる。
ヒアンシーは、胸の前でそっと手を重ねた。ここにあるものは、治療ではない。傷口を塞ぐ薬でも、痛みを消す魔法でもない。むしろ、塞いだつもりでいた傷へ、もう一度やさしく触れてくるものだった。けれど、その触れ方は残酷ではない。忘れなさい、と命じるのではなく、覚えていてもいいのだと寄り添うような優しさだった。
記憶の花園には、オンパロスに生きた者たちの面影が息づいていた。黄金裔を象徴する装飾品が並び、都市国家ごとに異なる紋様が壁や柱を彩っている。
村々で受け継がれてきた織物や陶器。祭りの日の祭具、子供たちの玩具、軒先に吊るされた小さな工芸品。飾られているのは、王宮を満たす財宝ではなかった。誰かの家にあり、誰かの手に馴染み、誰かの暮らしを支えていたものたちである。
「っ……これは、母さんが使ってた水差しだ!」
その声に、近くにいた人々が振り返った。
「パパ、それほんとー?」
「ああ! 欠けたところまで、同じだ……!」
父親らしき男は、笑おうとして失敗した。
口元は確かに笑っているのに、目元には涙が浮かんでいた。隣にいた者が思わずつられて笑い、けれど次の瞬間には自分も目元を押さえてしまう。笑いたかったのか、泣きたかったのか、自分でも分からなかったのだろう。
ヒアンシーは、その光景を見つめながら、喉の奥が熱くなるのを感じていた。――これを見たら、きっと皆、泣いてしまいますね。先ほど自分が口にした言葉が、現実になっていく。けれど、それは悲しいだけの涙ではなかった。戻らないはずのものが、完全ではなくとも、確かにここに残されていた。失われたものを抱えたまま、それでも笑えるかもしれないと知った時、人はこんな顔をするのだと。
「なんだか……帰ってきたみたいだ」
誰かが、ぽつりと言った。
サフェルは、そこでようやく小さく息を吐いた。
胸の奥に、妙な痛みがあった。盗んだことのある宝石より、隠したことのある秘密より、ずっと厄介で、ずっと扱いに困るもの。帰る場所。失くしたと思っていた名前。誰かに覚えられていたという事実。――それらは、値段など付けられない。
少し離れた場所で、ファイノンはまだ花籠を抱えていた。サフェルから見れば、その姿はあまりにも無防備だった。英雄でも、救世主でも、世を背負う白き烈日でもない。ただ、失くしたはずのものに触れて、呼吸の仕方を思い出そうとしている青年。
ヒアンシーも、同じ姿を見ていた。そして彼女は、静かに思う。この場所は、オンパロスの民のためだけに編まれたのではないのかもしれない。覚えていてもいい。泣いてもいい。帰りたいと思ってもいい。そう告げるための花園ならば、その言葉はきっと、誰よりも長く記憶を背負ってきた彼にも向けられている。
けれど、ファイノンはまだそれを知らない。だから今はただ、彼の隣に立っていようと、ヒアンシーは思った。何かを言うのではなく、何かを急かすのでもなく。彼が花籠を抱えたまま、遠い日の温度に触れていられるように。
微睡みの庭に、いくつもの声が重なっていく。
これは誰の家にあったものだ。これはどこの祭りで使ったものだ。これは祖母が編んでいた柄だ。これは子供の頃に遊んだ玩具だ。声は途切れ、笑いに変わり、涙に濡れ、また誰かの記憶を呼んでいく。
そのすべてを、星明かりが静かに照らしていた。