終末を越えた英雄たちは、星降るドームでなお休み方を探していた。そこへファイノンが、エリュシオンの葡萄ジュースを携えて現れる。
老人へ手を貸し、子どもの荷を受け止め、仲間の杯を満たす姿は、想像どおりの世話焼きそのものだった。けれど今夜、彼が届けたものは救済でも使命でもない。昔を知る仲間たちにからかわれ、互いの善意を指摘し合い、ただ笑うための時間である。
ヒアンシーは、その笑顔が誰かを安心させるためではなく、同じ場所にいられる喜びから生まれたものかを見守る。安息は命じられずとも、分かち合う杯の中へ静かに満ちていく。
星降るドームには、先ほどよりも、ふんわりとやわらかな空気が満ちていました。人々の話し声は穏やかで、誰かが笑えば、その声が天井の星々へすうっと吸い込まれて、淡い光になって降りてくるように感じられます。
カップの中で揺れるジュースは、夜空をひとしずく溶かしたみたいな色をしていて、両手で包むと、ほんの少しだけひんやりしているのに、不思議と胸の奥がじんわり温かくなるのでした。
ファイノン様は、皆様の輪の中に座っていらっしゃいました。白銀の髪が星明かりを受けて淡く光り、青い布が椅子の横で静かに垂れています。胸元の金装飾は、英雄譚の挿絵に描かれる紋章のように眩しいのに、彼が笑うと、その輝きはエリュシオンの麦畑に降る陽射しのように、ふわりと優しく見えるのでした。
先ほどまでトレーを運び、椅子を整え、皆様へカップを配っていたその手は、今ようやくご自分のグラスを包んでいらっしゃいます。
ようやく、です。ここはとても大切なところですから、見逃してはいけません。医師としても、休暇中の身としても、わたしはきちんと確認しておきたいのです。
「ヒアンシー、どうしたんだい?」
じっと見ていたことに気づかれたのでしょう。ファイノン様が、少し不思議そうにこちらを向かれました。青い瞳が、星明かりを映して穏やかに瞬きます。
こちらを責めるでもなく、ただ気にかけるだけの声音でした。そういうところなのです。見られている側のはずなのに、すぐ相手を気遣ってしまう。……もう少しだけ、ご自身のことも気にしていただけたら、わたしとしてはとても安心なのですが。
「いえ。ファイノン様が、ちゃんとご自分のグラスを持っていらっしゃるなと思いまして」
「えっ、そこ?」
「大切なことです!」
「そ、そうなのか……? 水分補給はちゃんとしてたよ?」
ファイノン様は少しだけ戸惑ったように笑いました。その横でサフェル様が、口元を手で隠しながら肩を震わせています。
アグライア様は穏やかな微笑みを浮かべ、キャスたんは何かを納得したようにこくりと頷いていらっしゃいました。アナイクス先生だけは、あくまで涼しい顔でグラスの縁を見つめていらっしゃいます。けれど、その耳は確かにこちらへ向いているように見えました。
今なら、その問いを口にしても許される。そんな気がしたのです。医療記録の前で尋ねれば、どうしても診察になってしまいますし、真剣な面談の場でお聞きすれば、きっとファイノン様は「大丈夫だよ」と、いつものように穏やかに答えてしまわれるでしょう。
けれど今は違います。星の下で、仲間たちと、エリュシオン特製のぶどうジュースを飲みながら、他愛ないお話で笑っている時間です。
休息は、強制されるものではなくて、祝福のように訪れるものですから。でしたら、こういう時間の中でお尋ねするのが、きっと一番自然なのだと思ったのです。
「そうだ、ファイノン様」
「うん?」
「普段は、どのようにお休みを過ごされているのですか?」
それは、ごく何気ない問いかけでした。少なくとも、わたしはそう思っていたのです。食事の席で、相手の日常を尋ねる。お茶を飲みながら、休みの日の過ごし方を聞く。
ごく自然で、平和で、何なら少し微笑ましい質問ですよね。休息案を考えている医師としても、友人としても、たいへん妥当な確認だったはずなのです。……の、はずだったのですが――ところが、その場にいた何人かの黄金裔は、なぜか同時にぴたりと動きを止めてしまいました。
アナイクス先生は、グラスを持つ手を止めて、静かに額へ指先を添えて。何かの誤謬を予見した学者の仕草、とでも言うのでしょうか。サフェル様は分かりやすく顔をしかめて、猫耳がわずかに揺れました。アグライア様は手元の杯をそっと卓へ戻し、金糸を扱う時のような慎重さで視線を伏せていらっしゃいます。
モーディス様に至っては、まるで戦場で不穏な風向きを察した王のように、赤金の気配を帯びた眼差しを細めていらっしゃいました。
空気が変わったわけではありません。誰かが怒ったわけでも、
善意から放たれる言葉ほど、防ぎようのないものがあるのだと。
ええ、相手はファイノン様です。思いもよらない方向から、思いもよらない爆弾が転がってくる可能性は、充分にありました。わたしがうっかりそのことを、忘れてしまっていただけで。
「僕?」
ファイノン様は、ぶどうジュースの入ったグラスを中身が零れないように両手で包み、少しだけ視線を上へ向けられました。
考え込むように首を傾げる仕草には、何の気負いもありません。まるで今日の空模様を思い出すような、あまりにも穏やかなご様子。白銀の髪が頬にかかり、青い瞳がゆっくりと瞬いています。その表情はとても素直で、飾り気がなくて、隠し事をしているようには少しも見えませんでした。
だからこそ、……少しだけ、怖いと思ってしまったのです。そう感じてしまったわたしは、きっと悪くないはずですよね。
「ええと……最近なら」
ファイノン様は、少しだけ嬉しそうに言葉を探していらっしゃいました。
ええ、本当に嬉しそうで……これから楽しい予定のお話をされる方のように、目元がふわりと柔らかくなっていたのです。
「おじさんたちが、みんなの住む家を作るって言っててさ。木材を運んだり、柱を立てたり、壁の位置を相談したり。屋根の形で少し揉めた時は、日差しと雨の入り方を見ながら決めたりもしたよ。」
あの……?
「あとは、荷車が足りない時に運搬を手伝ったり、土台を固めたり……あ、そうだ。昨日は水場に近い家の床が湿気を吸いやすいって話になって、換気口の位置も少し見直してきたんだ。今のお休みって言うなら、大体はそれかな?」
そう言って、ファイノン様はにこりと笑いました。
その場にいた黄金裔たちは、揃って沈黙しました。
もちろん、わたしも例外ではありません。イカルンも腕の中で「ぷ……?」と不思議そうに鳴き、次の瞬間、何かを察したように「ぷる!?」と羽を震わせました。……ええ、そうですよね、イカルン。今のお話は、どう考えても休息とは呼べませんよね。
木材を運んで、柱を立てて、土台を固めて、壁や屋根の相談までして……必要なところへ手を貸して、人々がこれから暮らすお家を築くために汗を流していらっしゃるんですね。
それは確かに、終末を越えたオンパロスにとって、とても大切な営みです。新しい世界を形にしていく行為であり、人々の明日へ繋がる、尊い労働でもあります。
(――ええ、労働なのです!)
どこからどう見ても労働でした。しかも率先して。善意と責任感に突き動かされながら、当然のように。にもかかわらず、ご本人はそれを「今のお休み」とおっしゃるのです。
休息とは何だったでしょうか。少なくとも、木材を担ぎながら過ごす時間を、一般的には休暇とは呼ばないはずです。いえ、呼びません。さらに言うなら、呼ばせません。もっと言うなら、呼ばせられません。医療従事者として、ここは強く申し上げたいところでした。
ただ、ファイノン様は本当に不思議そうなのです。
皆様がなぜ黙ってしまったのか、まだ分かっていないお顔でした。蒼い双眸が、こちらからアグライア様へ、アナイクス先生へ、モーディス様へと移っていきます。まるで自分だけが知らない何かを聞き逃してしまったかのように。
「あの……ファイノン様」
最初に口を開いたのは、キャスたんでした。声はいつものように穏やかでしたけれど、その手元のカップが、ほんの少しだけ揺れているように見えたのです。
「
キャスたんの言葉を受けて、ファイノン様は青い瞳をきょとんと瞬かせました。まるで予想もしなかった指摘を受けたかのような表情です。
どうやら、本当にそう思っていらっしゃるみたいです。だからこそ、わたしも続けて口を開きました。見過ごすわけにはいきませんでした。医者としても、そしてお友だちとしても、このままにしておくのはよくありませんから。
「ファイノン様、いいですか? 世間一般では、それは休息ではなく、
「え? でも、戦ってないよ?」
あまりにも自然な返答で、わたしは思わず言葉を失いかけました。けれど、ここで引いてはいけません。
これはとても大切な確認なのです。診療室で後輩たちに休暇を取らされた身とはいえ……いえ、むしろ取らされた身だからこそ、ここはきちんとお伝えしなければなりません。
「それは、そうだろうけど……でも、僕のこれだって、アナイクス先生の趣味と実益を兼ねた
沈黙が、二度目に降りました。
先ほどよりも、少し深い沈黙でした。
アグライア様が静かに目を伏せられました。サフェル様は「うわ」と声には出さず、口の形だけでそう言って、肩をすくめていらっしゃいます。モーディス様は何かを堪えるように腕を組み直されて、そのままじっとファイノン様を見つめておられました。
トリスビアス様は隣の方と顔を見合わせ、セイレンス様はそっとグラスを卓へ置かれます。ケリュドラ様は椅子の背にもたれながら、まるで盤上で予想外の一手を見た時のように、興味深そうにファイノン様を眺めていらっしゃいました。
あまりにも自然な返答でした。強がりではありませんし、冗談でもありません。ましてや、ご自身を犠牲にしているという自覚など、どこにも見当たらないのです。
ただ本当に、ファイノン様はそう思っていらっしゃるのでしょう。けれど、居合わせた皆様は、きっと同じことを感じてしまったのだと思います。このままではいけません、と。たいへんに失礼ながら、そのお気持ちは、ほとんど満場一致だったように見えました。
そんなわたしたちの戸惑いをよそに、アナイクス先生は無言でグラスを空にされました。それから、いつもの涼しいお顔のまま、静かに口を開かれます。
「第一に、私の研究を自由工作と呼ぶのはおやめなさい。第二に、今は私の話ではなく、あなたの休日の過ごし方についてでしょう。」
「樹庭の坊や、ツッコミどころそこなの?」
サフェル様が、すかさず身を乗り出しました。猫耳がぴくりと揺れます。
「そしてあなたは、自分の休息の定義を速やかに見直すべきです。」
「えっ、先生がそれを言うのかい……?」
ファイノン様の声には、心からの困惑が滲んでいました。分かります。分かってしまうところが、たいへん問題なのですが。
「それはわたしも同意見です、アナイクス先生!」
思わず力強く頷いてしまいました。すると、アナイクス先生がこちらへちらりと視線を向けられます。その目は、いつも通り涼やかで……ええ、とても涼やかでした。
「ヒアシンシア。今は私の話ではない、と言ったはずですよ。」
「うっ……はい……」
固まった空気へ切り込むように放たれたアナイクス先生の言葉は、まさしく正論でした。正論ではあるのです。けれど、普段の先生を知る者からすると、どうしても説得力というものがですね……その、少々……はい。
おそらく、その場にいた何人かは同じことを思ったのでしょう。サフェル様の口元が引きつり、モーディス様がわずかに視線を逸らし、アグライア様は咳払いのように小さく息を整えられました。キャスたんは困ったように微笑んでいらっしゃいます。
優しい方です。とても優しい方なのですが、その優しさが「今の発言はなかったことにはできません」と、そっと告げているようにも感じられました。
「先生、もしかして……ぶどうジュースで酔っちゃったのかな?」
その静寂を破ったのは、当のファイノン様でした。彼はとても真剣なお顔で、アナイクス先生を見つめていらっしゃいます。
「確かにエリュシオン産で馴染みがないかもしれないし、ぶどうから作られた飲み物ではあるけど、
案の定、ファイノン様にも綺麗に流されてしまいました。それは……そうですよね……。アナイクス先生は何も言わず、ほんの少しだけ目を細めました。
「あっははは! 救世の坊や最高!」
サフェル様はとうとう声を上げて笑い、トリスビアス様たちも肩を揺らしています。アグライア様の口元にも、困ったような、それでいてどこか懐かしむような笑みが浮かんでいました。モーディス様は低く息を吐き、キャスたんは「水は、皆様でいただきましょうか」と、場を和らげるようにそっと言いました。
星降るドームに、再び笑い声が戻ってきました。けれど、わたしの胸の奥には、先ほどまでとは少し違う重さが残っていたのです。
ファイノン様は、今も本当に不思議そうにしていらっしゃいます。責められているとも、無理をしているとも思っていないご様子で。ただ、戦っていない時間を休みと呼び、誰かの暮らしを支える労働を、ご自身にとって楽しいものとして語っていらっしゃるのです。
その善意は、とても温かくて、尊いものです。わたしたちが何度も救われてきた、大切なものでもあります。
けれど……温かいものが、いつも安全とは限らないのです。痛みに慣れすぎた方が「平気です」と笑ってしまう時と同じように、役目に慣れすぎた方が「楽しいよ」と笑う時にも、見逃してはいけないものがあるのだと思います。
わたしはグラスを両手で包み直しました。甘いぶどうの香りが、さきほどより少しだけ遠く感じられます。腕の中のイカルンが、心配そうに「ぷる」と鳴きました。
「……大丈夫です、イカルン」
小さく答えながら、わたしはファイノン様を見ました。
彼はもう、アナイクス先生のために本当に水を取りに行くべきか迷っているようでした。立ち上がりかける気配があったので、サフェル様がすかさず「座ってなって」と肩を押さえます。
「水を注文しましたから、給仕の方をお待ちしましょう……?」
「そういえば、その手があったね。思いつかなかったよ。」
ファイノン様は目を瞬かせ、それから困ったように笑いました。その笑顔は、やはり優しい。優しいからこそ、放っておくわけにはいかないのだと、わたしは静かに思ったのでした。
天然なノン? ノンデリなノン? 挟めて楽しかったです(現実逃避)