星降るドームで杯を囲み、ようやく自分の席へ腰を下ろしたファイノン。ヒアンシーは、その穏やかな時間に紛れるように、休日の過ごし方を尋ねる。
返ってきたのは、木材を運び、柱を立て、家造りを手伝っているという無邪気な答えだった。戦っていないから休みだと笑う彼に、仲間たちは揃って沈黙する。
役目を楽しめることと、心身を休められていることは同じではない。善意を責めず、それでも定義は正さなければならない。
ヒアンシーは、優しさの形をした労働の奥に、休息を知らない青年の姿を見つめる。笑顔が穏やかであるほど、問いは重くなった。
給仕の方が運んできてくださった水差しは、星明かりを受けて淡く透き通っていました。中の水面が揺れるたび、天井から降る光が細い銀の線となって器の縁を走ります。
キャスたんがそれを受け取り、皆様の杯へ少しずつ注いでくださったので、アナイクス先生のためにファイノン様が席を立つ必要は、ひとまずなくなりました。
ファイノン様は「ありがとう」と素直に礼を言い、また椅子へ座り直されました。けれど、その手は水差しの方へ少しだけ伸びかけていて、給仕の方が重そうにしていれば自分が受け取ろうとしていたのだろうと、見ているだけで分かってしまいます。
動作の初速が速いのです。困っている人を見つけてから、手を伸ばすまでの間に、ほとんど迷いがありませんでした。
それは美徳です。誰かが転びそうになった時、誰かが重いものを持っている時、誰かが困った顔をしている時。その一瞬の迷いのなさに、きっと多くの人が救われてきたのでしょう。
けれど、美徳だけでは済ませられないこともあるのです。
人々の暮らしに手を貸し、崩れたものを直し、新しい営みのために力を尽くすこと。誰かのために動き続けるその時間を、ファイノン様は労働とは呼ばないのでしょう。むしろ、それこそが彼にとっての安らぎなのかもしれません。
戦っていないから休み。命を賭けていないから穏やか。誰も傷つかず、誰も叫ばず、暗黒の潮も迫らず、世界の終わりもそこにない。ならば、それはもう十分に休息なのだと。
そこまで考えた時、胸の奥がすっと冷えました。それは価値観の違い、という言葉で片づけられるものではない気がしたのです。
もちろん、人によって休み方は違います。人によっては、静かに眠ることが休息になったり、花壇を整えることで心が落ち着く場合もあります。誰かと話すこと、歌うこと、歩くこと、手を動かすこと。
それらが安らぎになること自体は、何もおかしくありません。けれど、ファイノン様のそれは、もう少し深いところで何かがずれているように思えました。
わたしと同じ考えにたどり着かれたのでしょうか。アグライア様は、こめかみに指を当てて、そっと目を伏せられました。金の葉冠が、星明かりの下でかすかに揺れています。
「筋金入りだねぇ、坊やのそれは。」
サフェル様は苦笑を浮かべて、肩をすくめていらっしゃいました。いつもの軽口も、今はすぐには出てこないご様子で、カップの縁を指先でなぞっていらっしゃいます。水を手渡されたアナイクス先生は何もおっしゃらずにそっと瞼を閉じられ、モーディス様もまた腕を組んで、低く息を吐かれました。
皆さんの表情はそれぞれ違います。けれど、その沈黙が示しているものは、きっと近かったのだと思います。どうやらファイノン様にとって、休息とは「命の危険が存在しない時間」を指すのではないか、ということ。
その認識は、あまりにも常人とかけ離れています。けれど、それはファイノン様が常人ではないから、という簡単な話でもありません。
彼が英雄だから。ケファレだから。永劫回帰を越えた方だから。そういう大きな言葉で包んでしまえば、たしかに説明はつくのかもしれません。けれど、医療に携わる者としても、彼の友人としても、そこで納得してしまってはいけないのだと思いました。
永劫回帰を繰り返した長い歳月の中で、ファイノン様には、立ち止まるという選択肢がほとんど与えられてこなかったのだと思います。
足を止めれば、誰かを救えない。ほんの少しの遅れが、そのまま喪失へ繋がってしまう。そうして生まれた喪失は、次の輪廻へ持ち越されてしまう。歩みを緩めたその瞬間に、どこかで誰かの未来が閉ざされてしまうかもしれない――そんな状況の中で、走り続けるしかなかったのでしょう。希望を繋ぐために、未来へ可能性を残すために。
だからこそ、なのでしょうね。そうして積み重なった無数の時間の果てに、「何もしない」という状態だけが、ファイノン様にとっては、どうしても馴染まないものになってしまったのかもしれません。
わたしには、――わたしたちには、すべてを知っているとは言えません。彼が巡ってきた時間のすべてを、同じ重さで背負えるわけでもありません。けれど、痛みの痕跡なら分かります。傷跡が皮膚に残るように、長く続いた緊張は、身体の奥にも心の奥にも残ってしまうものなのです。
氷と炎を内包しながら、崩れそうな身体を継ぎ接ぎにして巡り続けてこられた方。眠ることも、食べることも、ただ生きることさえ、いつしか戦いの外側へ押しやられてしまった方。もしも休息という感覚そのものが、長い旅路の中ですり減ってしまっているのだとしたら。
それは、今のファイノン様を表すには、あまりにも痛ましいことです。そんなふうに考えていた、その時でした。静寂の水面に小さな波紋が広がるように、アグライア様が静かに口を開かれました。
「ファイノン。休息とは、誰かの役に立つことと同義ではありませんよ。」
その声は、糸を引くように穏やかでした。叱責ではありません。けれど、誤魔化しを許さない静けさがありました。
アグライア様は杯へ視線を落としたまま、少しだけ目を伏せていらっしゃいます。金糸を扱う時と同じように、言葉の端を丁寧に整えているように見えます。わたしはその様子を見ながら、思わず背筋を伸ばしてしまいました。
ああ、これはきっと、とても大切なことを伝えようとしている時の空気です。ファイノン様は、その言葉を受けて、ゆっくりと瞬きをされました。
「? うん、わかってるよ。だけど僕は、みんなの笑顔が見られるなら、こうして何かを手伝う方がずっと楽しいんだ。アグライアだって、人の服を仕立てるのが楽しいって言ってただろう?」
「それは、……ええ、まあ。」
返された言葉には、淀みがありませんでした。迷いも、ためらいもない。まるでその答えだけが最初からそこにあり、問いかけはただ、それを表へ引き出すためのきっかけに過ぎなかったかのように。
厄介なのは、その言葉の内側に何の駆け引きも見当たらないことです。見栄でもなく、誰かに評価されたいという願いでもありません。自分が我慢すればいい、という悲壮な決意の色も、少なくとも今の表情からは読み取れませんでした。ただそう信じて、そう在ろうとしているだけなのです。
善意というものは、ときにとても強くて……理屈よりも頑固で、損得よりも揺らぎにくいものですから。だからこそ、それを覆す言葉は、なかなか見つからないのです。
アグライア様は静かに息を整えました。「そこを突かれちゃねえ?」 サフェル様は口元に笑みを残したまま、しかし目だけは少し細めています。
モーディス様は何かを言いかけたように顎を上げ、それから一度、言葉を飲み込まれました。アナイクス先生は水の入った杯を卓へ置き、指先で縁を一度だけ叩く。そこに苛立ちがあったのか、思考の区切りだったのか、わたしには断定できません。
そして、本当の問題は、その先にありました。
沈黙が長く続いてしまったからでしょうか、ファイノン様は気遣うように言葉を添えてくださったのですが……その内容が、わたしたちには少し、いえ、かなり刺激が強すぎたのです。
「ケファレとしてかろうじて生きてた頃は、ほとんど死んでたようなものだったしね。だから今は、自分の足で歩いて、
一瞬前まで緩やかに流れていた空気が、不意に凍りつきました。
誰かがそれを命じたわけではありません。ただ、その言葉が落ちた瞬間、場にいた誰もが反応を忘れてしまったのです。
ファイノン様の声音は、少しも暗くありませんでした。むしろ、今の恵みを確かめるような、穏やかで前向きな響きさえありました。自分の足で歩ける。誰かの話を聞ける。何かを持てる。手伝える。笑顔を見られる。だから嬉しいのだと。
きっと、ファイノン様にとっては本当にそうなのでしょう。けれど、その「嬉しい」の下にある比較対象が、あまりにも低いところに置かれているように、わたしには思えてしまいました。
生きていること。歩けること。燃え尽きず、崩れず、誰かの傍へ行けること。それらが、すでに休息や幸福の範囲に入ってしまっているのだとしたら。
(……それは、あまりにも)
言葉になりませんでした。喉の奥に、何か柔らかくて重いものが詰まったような感覚になります。イカルンも鳴きません。腕の中で、ただ小さな翼を畳み、ファイノン様の方をじっと見つめています。
「……烈日卿」
低く響く声が、沈黙を破りました。
ケリュドラ様でした。椅子の背にもたれたまま、わずかに顎を上げる。その声音は平坦で、感情の起伏をほとんど感じさせません。けれど、どこか盤上の一手を見極めるような冷静さと、見過ごせない違和を拾い上げる鋭さが、その奥に潜んでいました。
「ならば僕の護衛となる栄誉を蹴ったのは何故だ?」
ファイノン様は、ほんの少しだけ目を丸くされました。まさかそこを掘り返されるとは思っていなかった、というようなお顔です。それから、少し困ったように笑われました。
「オクヘイマも、君も、絶望の前に膝を折ることはなくなったからだよ。カイザーの側に仕える騎士に、もう“黒衣の剣士”は必要ない。そうだろう?」
「む……」
ケリュドラ様の眉間に、深く皺が寄りました。けれど反論はすぐには出てきません。言葉を探すように視線がわずかに逸れ、組まれた腕に力が入る。
「残念だ、ワタシの後輩が増えると思ったのだがな」
セイレンス様が、椅子の背にもたれたまま、淡々とそう言いました。声音は平らでしたが、場に落ちた重さをわずかにずらすような響きがありました。
冗談なのか本気なのか、その境目は少し分かりにくいのですが……それでも、その言葉を聞いたサフェル様が小さく息を吐いて、トリスビアス様たちの表情にも、ほんの少しだけ動きが戻りました。けれど、沈んでしまった空気の重さは、まだそのまま残っているようでした。
思わず息を呑む方がいらっしゃいました。額に手を当てる方もいれば、そっと視線を逸らす方、遠くの星空を見上げる方もいらっしゃいます。
あまりにも無垢で、あまりにも無防備な一言でした。悪意はありません。むしろ、優しさからこぼれた言葉なのだと思います。だからこそ、その重さは、誰にも予測できなかったのでしょう。
ファイノン様は、皆様の反応に気づいているようで、でも、まだ全部は分かっていないようにも見えました。青い瞳がほんの少しだけ揺れて、それでもすぐに、いつもの穏やかな笑顔へ戻ろうとされる。
その様子が、わたしには少しだけ、心配に映ってしまったのです。言葉は風に溶けることなく、その場に留まり続けます。
ケファレとしてかろうじて生きていた頃は、ほとんど死んでいたようなもの。自分の足で歩いて、誰かを手伝えるだけでも嬉しい。
その二つの言葉が、星降るドームの明るさの中で、静かに重なっていました。祝福のように降る星明かりでさえ、その痛みを完全には柔らげられないように思えます。
重く沈んだ沈黙の中で、人々はそれぞれ異なる仕草を見せながら、同じ結論へ辿り着いていました。声に出す者はいません。それでも、その認識だけは確かに共有されていたのです。奇妙な連帯感にも似た気配が、静かに場を満たしていました。
これは、ただの働きすぎではない。
ただ休み方が下手なだけでもない。
ファイノン様の中では、休息の基準そのものが、長い長い戦いの中で、命の危険がない場所まで削り取られてしまっているのかもしれません。あるいは、存在の消滅か。
(じゅ、重症です……!)
わたしはというと、医者としての経験が静かに警鐘を鳴らしていました。問題は、その異変を抱えている本人に、まるで自覚がないことです。
痛いと言わない。苦しいと言わない。そもそも危ないとも思っていない。ただ、以前より楽だから大丈夫なのだと、自然に笑ってしまう。傷は見えずとも、放置してよい類のものではありませんでした。
医療に携わる者として、それを見過ごすという選択肢はありません。――けれど、どう伝えればいいのでしょう。
善意を責めずに。今を喜ぶ気持ちを否定せずに。それでも、あなたの基準はあまりにも痛ましいのだと、どうすれば傷つけずに伝えられるのでしょうか。
わたしはグラスを机に置きました。指先に残っていた冷たさが、少しずつ薄れていきます。腕の中のイカルンが、そっと頬を寄せてきました。小さな温もりに支えられながら、わたしはファイノン様を見つめます。
(――ああ、キュレたん……どうやってファイノン様を休ませていらしたんですか……)
星明かりの下で、彼はまだ穏やかに座っていました。まるで自分の言葉が、どれほど皆様の胸を揺らしたのか、まだよく分かっていないかのように。
Q.(――ああ、キュレたん……どうやってファイノン様を休ませていらしたんですか……)
A.これが答えよ~♪
柔らかな葉陰に差し込む昼の光の下でな、あの子たちはよく並んで座っていたものだ。ちんまい頭が二つ並ぶだけでも可愛くて何の。今でも思い出すと、つい頬が緩んじまう。
キュレネちゃんがふとした拍子にファイノンの手を取って、「ねえ、今日はお昼寝をしましょう?」と穏やかに誘うんだよ。理由なんて大層なものはない。ただ、その時そうするのがよいと感じたから――それだけで、あの子は自然にそう振る舞う。ああいうところは、本当にあの子らしい。見ているこっちまで、なんだか優しい気持ちにさせられてなあ。
するとファイノンはな、ぱっと顔を明るくして頷くんだ。「うん!」なんて弾む声で応じるくせに、目はまだきらきらしていて、ちっとも眠そうじゃなかった。うちの坊やは、疲れている様子なんてこれっぽっちも見せやしないもんだから、うちでも苦労したもんだ。けどなあ、ああやって元気いっぱいに返事する姿を見ると、つい甘やかしたくなっちまってな。ほんと、可愛かったよ。
それでも、キュレネちゃんは不思議とそれが分かるんだろうなあ。うちの倅は、あの子の隣にいられるのが嬉しくて仕方ないって顔をしていてさ、どこか誇らしげで……ああ、あの顔、今思い出しても可愛かったなあ。
キュレネちゃんはそんな様子を咎めたりはしなかったよ。ただ静かに隣へ腰を下ろして、木の幹にもたれながら、やわらかな声で物語を語り始めるんだ。遠い昔の話や、風の精のいたずら、誰かが見た夢の続き――特別な意味なんてなくていい。ただ穏やかに流れていく言葉を、あの子は丁寧に紡ぐんだよ。
最初はきちんと聞いていたファイノンの視線がな、だんだんと揺れてくるんだ。瞬きの間隔が長くなって、肩の力が抜けていく。やがて言葉の合間に小さな呼吸が混じって、頭がこくりと傾く。その仕草がまた、子どもの頃と何も変わらなくてさ……ああ、本当に可愛かった。
キュレネちゃんも同じ気持ちだったんだろうな。あの子は語りを止めない。ただ声をさらに柔らかくして、眠りへと導くように続けるんだ。そうしているうちに、ファイノンは抗うこともなく、静かに目を閉じる。
ああ、あの光景は何度見てもいいものだったよ。あの子たちがああして穏やかに過ごしているのを見ると、胸の奥がじんわりと温かくなってな……つい、ずっと見ていたくなっちまうんだ。ほんと、可愛かったなあ。
※ヒエロニュモスさん=ファイノンパパは、親バカになりました。