星降るドームで、ファイノンは自分の足で歩き、誰かを手伝える今が嬉しいのだと穏やかに語る。
だがその言葉の裏には、休息を「命の危険がない時間」としか捉えられなくなった、永劫回帰の深い傷があった。働けることも、生きていることも、彼にとってはすでに安らぎなのだ。善意を否定せず、それでも痛ましい基準を見過ごすことはできない。
黄金裔たちは沈黙のうちに異変を共有し、ヒアンシーは、これはただの働きすぎではなく、休息そのものを失いかけた重症なのだと悟る。星明かりの祝福は、彼の内側に残る戦場まで、まだ届いてはいなかった。
その場にキュレたんからの答えが降ってくるわけではありません。エリュシオンの木陰も、優しい物語の声も、今この星降るドームにはありませんでした。
あるのは、淡い光に照らされた杯と、誰もすぐには言葉を選べずにいる沈黙。そして、その中心で困ったように微笑むファイノン様だけです。……ですから、わたしが言わなければなりませんでした。頑張るのです、ヒアシンシア。
「……ファイノン様?」
自分でも分かるくらい、声の
でも、患者さんの危うい自己申告を見逃してはいけない時の声なのです。包帯を巻く時よりも、薬をお渡しする時よりも、もっと慎重に、そっと痛みに触れなければならない時の声。その変化を感じ取ってくださったのでしょう。ファイノン様も表情を改められました。
「は、はい」
先ほどまでの気安さが、蒼い瞳からすっと引いていきます。星明かりを映していた目元が、ほんの少しだけきゅっと引き締まって、背筋もすっと伸びました。
神悟の樹庭で怪我をされた時のことを、思い出していらっしゃるのかもしれません。あの時と同じように、医者としてのわたしの空気を感じ取ってくださったのでしょう。軽口を挟むこともなく、きちんとこちらへ向き直ってくださいます。
その姿は、診察の結果を待つ患者さんみたいで……少しだけ、胸がきゅっとしました。けれど、ここは診察室ではありません。星降るドームで、周りには大切な仲間たちがいらっしゃいます。だからこそ、わたしは言葉を選ばなければいけませんでした。
傷つけないように。でも、曖昧にはしないように。優しさを否定せずに、それでも危ないところだけは、ちゃんとお伝えできるように。
「今の発言は、患者さんの自己申告として、たいへん、とても、ものすごく! 問題が、あります!」
「そうなのかい?」
「そうなんです!」
わたしは迷わず断じました。そう言わざるを得なかった、と言うべきでしょう。けれど当の本人は、なおも腑に落ちないご様子です。自分の言葉のどこに問題があったのか、それすら分かっていないようでした。
それが、いちばんの問題なのです。わたしが続けて説明しようと、息を整えかけた、その時でした。ファイノン様の指先が、杯の縁からふっと離れます。
視線がわずかに揺れて、それから、何かを決めたように顔を上げられました。言葉を探すよりも先に、身体が動いてしまったような、そんな自然な動きでした。わたしが口を開くよりも、ほんの一瞬だけ早く。
「ごめんよ。」
ファイノン様は、少し困ったようにグラスへ視線を落としました。指先が杯の縁をそっとなぞります。先ほどまで紫の光を映していたジュースは、星明かりの下で静かに揺れていました。
「僕としては、あの頃よりずっと楽なんだ。ケファレの神体として市井を見守っているだけだった時は、できることが限られていたから。今は手伝える。話も聞ける。力にもなれる。だから、何もしていないよりずっといいと思って……それだけ、だったんだけど……」
ファイノン様は、場に満ちる空気の変化に気づいているのかいないのか、そのまま言葉を続けられました。それはとても自然で、少しも飾り気がありません。
言い訳ではありませんし、取り繕おうとしているわけでもありません。ただ、誰かの力になりたいというお気持ちが、そのまま声になっているだけなのです。……でも、だからこそ、誰もすぐには言葉を返せなかったのでした。
その言葉に偽りはありません。善意であることも疑いようがありません。けれど同時に、その善意がファイノン様ご自身を置き去りにしてしまっていることも、誰の目にも明らかでした。
正しいからこそ、厄介なのです。誤りであれば止められますし、無茶だと切り捨てることもできます。けれど、ファイノン様の言葉は、誰かを救おうとする真っ直ぐなお気持ちから生まれているもの。その言葉を止めたり否定することは、そのままファイノン様のお心を否定することに繋がってしまいます。だからこそ、誰も簡単には否定できないのです。
アグライア様は伏せた睫毛の奥で、何かをそっと整えていらっしゃるようでした。静かに杯を見つめていらして、金糸を扱う指先も、今だけは何も編まずに、膝の上でやわらかく重ねられています。
サフェル様は一度だけ口を開きかけて、それからすぐに閉じられました。いつもの軽やかな言葉なら、きっといくらでも紡げるはずなのに、今はそれだけでは届かないと分かっていらっしゃるのだと思います。
アナイクス先生は目を細めていらっしゃいました。考えを組み立てているのか、それとも言葉の形を慎重に選んでいるのか、その横顔からははっきりとは読み取れません。
キャスたんは胸の前で手を重ねて、祈るようにファイノン様を見つめています。セイレンス様は、今にも音を添えられそうなのに、その旋律がまだ見つからないような、静かな気配をまとっていらっしゃいました。
人は長い旅の中で、気づかないうちに少しずつ形を変えてしまうものです。誰かのために手を伸ばすことを繰り返していると、それはやがて当たり前になって、いつの間にか生き方そのものになってしまうのですね。
役目を果たすことが当たり前になってしまうと、自分のために立ち止まる理由を見つけるのが難しくなってしまいます。それが旅の中で身についたものなのか、それともファイノン様ご自身の在り方なのか……わたしには、はっきりとは分かりません。けれど、きっとそのどちらもが重なっているのだと思います。
けれど、その場にいた黄金裔の皆様は、きっと同じことを感じ取っていらしたのだと思います。ファイノン様が、そういうお方なのだと。
だからこそ、誰も簡単には否定できないのです。彼の善意を責めることなんてできませんし、誰かを助けたいという願いそのものは、決して間違いではありません。むしろ、その想いがあったからこそ、オンパロスはここまで辿り着けたのだと、わたしは思うのです。
「エリュシオンのファイノン」
その時、低く響く声が、静かな沈黙をそっと割りました。声の主は、モーディス様でした。彼は腕を組んだまま、まっすぐにファイノン様を見ています。
戦場で兵を率いる王の眼差しにも似ていましたが、そこにあるのは命令の鋭さではありません。もっと不器用で、もっと近しい何か。怒っているようにも見えるのに、それだけではない、長い旅路を共にしてきた方だからこその声音でした。
「なんだい、クレムノスの
「茶化すな。」
短く言われて、ファイノン様は口を閉じられました。少しだけ目を丸くして、それから素直に頷かれます。モーディス様はそのご様子を確かめるように見届けてから、低く続けられました。
「……お前の労働を禁じるつもりはない。」
言葉の最初に、ほんのわずかな間がありました。禁じる、と言ってしまえば簡単です。休めと命じることもできるでしょう。けれど、それではファイノン様の善意そのものを折ってしまう。モーディス様も、それを分かっているのだと思いました。
「だが、休息と言い張るのはやめろ。」
「そんなに……?」
「当然だ。お前の言う休みは、聞く限りでは休みではない。市民に誤った認識を与えるのは、お前の本意ではないだろう。」
王の声音には、戦場で命令を下す時とは違う響きがありました。怒っているわけではありません。長い旅路を共にしてきたからこそ向けられる、不器用で、それでもまっすぐな気遣い。失われた時間の中に置き去りにされていた、人としての温もりが、そっと顔を覗かせているようでした。
ファイノン様はわずかに目を伏せ、困ったように笑われました。まるで「それを君に言われるとは思わなかったよ」とでも言いたげなお顔でしたが、その声音には、からかうような響きはありませんでした。
「でも、何もしないでいると落ち着かないんだ。」
それは、胸の奥からぽろりとこぼれてしまったような言葉でした。先ほどのように明るく整えられた声ではありません。けれど、悲しみに沈んでいるというほどでもなくて。ただ、ご自身でもどう扱えばいいのか分からない感覚を、そっと差し出してくださったような響きでした。
誰もすぐには言葉を返しません。沈黙は重たいものではありませんでした。ただ、その一言に積み重なっている時間を思えば、軽々しく触れてはいけないと、皆様が感じていらっしゃったのだと思います。
立ち止まれば思い出してしまう。静かな時間が訪れれば、過ぎ去った方々の声が聞こえてしまう。役目がなくなれば、自分がここにいる理由を探してしまう。そうした感覚は、長い旅路を歩んできた方であれば、きっとどこかで覚えがあるものなのでしょう。失ったものを抱えたまま進むことも、振り返ることを怖れてしまうことも。
アグライア様の指先が、ほんの少しだけ動きました。キャスたんは目を伏せ、サフェル様は笑みを消して遠くを見ています。ケリュドラ様は椅子の背にもたれたまま、けれど先ほどよりも静かに、ファイノン様の言葉を受け止めていらっしゃいました。けれど……ファイノン様のそれは、やっぱり少し違うのだと思います。
永劫回帰の果てで、彼は立ち止まることを許されなかったのでしょう。歩みを緩めることは遅れとなり、その遅れが誰かを失うことへ繋がってしまう。救えなかった後悔は輪廻を越えて積み重なり、そのたびに、次の一歩へと進まなければならなかった。
だからこそ、「もう終わった」と告げられても、すぐには受け入れられないのかもしれませんね。
世界は救われました。戦いは終わりました。暗黒の潮は退き、人々は新しい日々へ歩き出しています。けれど……長いあいだ使命そのものとして生きてきた方の魂は、そう簡単に歩みを止められないのだと思います。
身体が止まっても、心が走っている。目の前に敵はいなくても、どこかで助けを求める声を探してしまう。誰かの手が空いていないなら自分が動くべきだと、誰かが困っているなら自分が行くべきだと、考えるより先に身体が反応してしまう……そんなふうに。
それは、とても美しいことです。けれど……そのままではいけないものでもあるのです。そのままでは、ファイノン様がいつまでもご自身の痛みを置き去りにしてしまうから。
「ファイノン様」
わたしは、もう一度だけお名前を呼びました。今度は先ほどより、少しだけ柔らかく。ファイノン様がこちらを向いてくださいます。蒼い瞳は穏やかで、けれどほんの少しだけ、不安げにも見えました。
責められたくない、というよりは……皆様を困らせてしまったことに戸惑っていらっしゃるような、そんなご様子でした。
「誰かの力になりたいと思うお気持ちは、間違っていません。とても大切なものです。わたしも、皆様も、そのお気持ちに何度も助けられてきました。」
「うん……。」
「でも、それを休息と呼んでしまうのは、やっぱり危ないのです。」
言い切ると、ファイノン様は小さく瞬きをされました。イカルンが腕の中で「ぷる」と短く鳴きます。まるで、そうです、と相槌を打ってくれているみたいでした。わたしはその温もりに、ほんの少しだけ勇気をもらいながら、続けます。
「休むことは、誰かの役に立てない時間、という意味ではありません。何もしない時間に価値がない、ということでもありません。……ただ、身体と心が、もう危険を探さなくてもいいのだと覚えるための時間なのだと思います。」
そこまで言って、わたしは自分の声がほんの少しだけ震えていることに気づきました。あらあら、いけませんね。医者がこんなふうに揺れていては、患者さんを安心させられませんのに。
でも、怖かったのです。どこまで踏み込めばいいのか、まだ分からなくて。踏み込みすぎれば、きっと傷つけてしまう。けれど踏み込まなければ、ファイノン様はまた、いつものように笑って、何事もなかったかのように歩き出してしまうでしょう。
それでも、伝えなければなりません。
世界は、もう終わらないのです。ファイノン様お一人が走り続けなくても、明日はちゃんと訪れます。そのことを、少しずつでも、思い出していただかなくては。
たとえ彼が苦笑して受け流してしまっても。たとえ、いつものように「大丈夫だよ」とおっしゃったとしても。何度でも、ゆっくりと。ファイノン様ご自身が、それを信じられるようになるまで。
ファイノン様は、しばらく何もおっしゃいませんでした。
ただ、手元の杯へ視線を落としていらっしゃいます。星明かりと淡い紫の光が、その白い指先にやわらかく揺れていました。そのお姿はとても静かで、今にも立ち上がってしまいそうな気配はありません。けれど――これを「休めている」と言ってよいのかは、まだ分からないままでした。
ファイノン様の沈黙を、誰も急かしませんでした。アグライア様も、モーディス様も、アナイクス先生も、サフェル様も。皆様がそれぞれの距離で、言葉を探していらっしゃるのが分かります。責めるためではなく、この穏やかな時間の側へ、そっと引き戻すために。
星は変わらず降り続けています。その光の下で、わたしはようやく理解し始めていました。これは、説得だけでどうにかなる問題ではないのだと。正しい言葉を一度伝えれば済む、そんな単純な傷ではないのだと。
必要なのは、きっと言葉だけではありません。
ファイノン様が、走らなくても世界は崩れないのだと、誰かの役に立っていない時間にも、ちゃんと意味があるのだと。そういうことを、少しずつ身体で思い出していただける時間。
けれど、そのために今ここで何をすればよいのでしょうか。わたしはイカルンの背をそっと撫でながら、胸の奥で、次の言葉を探し始めました。