星降るドームで、ヒアンシーはファイノンの自己申告を明確に問題だと告げる。誰かを助けたいという善意は否定できない。
だが、働けることを幸福とし、何もしない時間に落ち着けない彼の歩みは、いまだ戦場の律動を刻んでいた。モーディスもまた労働を休息と呼ぶなと諭し、ファイノンはようやく「何もしないでいると落ち着かない」と本音をこぼす。
休息とは危険を探さなくてよいと心身へ教える時間。けれど、それは一度の説得では届かない。仲間たちは彼を責めず、走らなくても世界は崩れないと身体で思い出せる方法を探し始める。
星々の下で静かに。
星降るドームには、まだ静かな沈黙が残っていました。けれど、それは先ほどのように凍りついたものではありません。
誰もファイノン様を責めてはいませんし、誰も、その優しさを否定したいわけでもありません。ただ、どうすればその優しさをファイノン様ご自身にも返して差し上げられるのか、皆様がそれぞれに言葉を探していらっしゃる。そんな沈黙でした。
ファイノン様は手元の杯を見つめていらっしゃいます。白い指先に、星明かりとぶどうジュースの淡い紫が揺れていました。青い布は椅子の横で静かに垂れ、金の装飾は先ほどまでと変わらず柔らかく輝いています。けれど、その表情にはほんの少しだけ迷いが見えました。
怒られた子どものようなお顔ではありませんし、責められていると感じているご様子でもありません。どちらかというと……皆様を困らせてしまったことに戸惑っていらっしゃるような、そんなお顔でした。
(……いけません。このままでは、ファイノン様はきっと再び「ごめんよ、わからない」とおっしゃってしまう。)
そして、皆様を安心させるために笑って、場を和ませるために別の話題を探して、それから今度こそ、本当に水差しか椅子か誰かの落とし物を理由に立ち上がってしまうかもしれません。
それでは、また同じことの繰り返しになってしまいます。わたしはイカルンを抱き直しました。ふわふわの身体が腕の中で少し沈み、青緑のたてがみが指先に触れます。イカルンは丸い瞳でこちらを見上げました。心配そうで、けれどどこか信じてくれているような眼差しです。
「……イカルン。」
「ぷる?」
「少しだけ、がんばりますね!」
「ぷる!」
とても元気なお返事でした。
ふふ、頼もしいですね。わたしはそっと息を整えて、それから一歩前へ出ました。
「でしたら、ファイノン様!」
声は、できるだけ柔らかく。けれど、芯は折れないように。ええ、自分でも分かっています。今のわたしは、きっと患者さんを安心させるための微笑みを浮かべていました。そして同時に、患者さんを逃がさないための微笑みでもあります。ふわふわした桃色の髪が肩先で揺れて、イカルンも腕の中で「ぷる」と小さく胸を張りました。
逃げ道を塞ぐ時の顔、というものがあるのだとしたら……ふふ、たぶん今のわたしは、それにかなり近かったのではないでしょうか。ファイノン様が、ぱちりと瞬きをしました。
「うん?」
「せっかく皆さん集まっているんです。今日は、“何もしない練習”をしませんか?」
「なにもしない……練習?」
ファイノン様は、言葉をひとつずつ確かめるように繰り返されました。戦場で未知の敵に遭遇された時でも、もう少し落ち着いていらしたのではないでしょうか。少なくとも、今のファイノン様は、とても本気で困っていらっしゃるご様子でした。
わたしは胸の前で片手を添え、にこりと微笑みながらお話ししました。診察室で患者さんへお薬の飲み方をお伝えする時と同じです。難しく聞こえないように、怖くならないように。けれど、大切なことはきちんと届くように、ゆっくりと。
「まずは五分だけ座って、何も持たず、誰の相談も受けず、何も運ばず、ただお茶を飲むんです!」
「それは……」
ファイノン様は、真剣に考え込んでいらっしゃいました。
周囲の空気が、ほんの少しだけ揺れます。サフェル様の口元は、もうすでに面白いものを見つけた猫さんみたいに、くすっと緩みかけていました。アナイクス先生は片目を細めて、今にも観察記録を取り始めそうなお顔です。モーディス様は腕を組んだまま黙っていらっしゃいましたが、その眉間の皺がほんの少しだけ深くなっていました。
きっと、これは必要なことだと分かっていらっしゃるのだと思います。けれど、そのやり方が思っていたよりずっと穏やかで、少し戸惑っていらっしゃるのかもしれませんね。
「
「難しくありませんよ!」
わたしは迷わず頷きました。
ファイノン様が、ほんの少しだけ目を丸くされます。
「……えっ、もしかして、ひとりで?」
「安心してください! わたしたちも一緒です!」
きっぱりと言い切ると、ファイノン様は今度こそ本当に困ったような顔をしました。五分。わたしにとっては、たった五分でも、ファイノン様にとっては、五分も何もしないということが、ひどく長く感じられてしまうようでした。
ただ座って、温かいお茶を飲むだけの時間。本来なら、誰も気に留めないほど短いひとときでしょう。診療室で薬湯を冷ます間より短いかもしれません。朝の支度の合間に窓を開ける時間より、もっと短いかもしれません。
けれど、ファイノン様にとっては違うのです。戦場を駆け抜けることには慣れていらっしゃいますし、絶望を燃やし尽くすことも、誰かの願いを拾い上げることも、きっと当たり前のようにできてしまうのでしょう。けれど、自分のためだけに立ち止まることは……どうにも、勝手が違うご様子なのです。
「あ、うん。それなら……いや、でも五分も?」
思わず聞き返したファイノン様に、周囲から小さな笑いがこぼれました。
重たかった空気が、ふわりとほどけていきます。神話を越えた英雄が、たった五分座ってお茶を飲むことに戸惑っていらっしゃるなんて。なんだか少しおかしくて、でもやっぱり、ほんの少しだけ胸がきゅっとするような光景でした。
アグライア様は口元へ手を添え、そっと息を逃がすように微笑んでいらっしゃいます。キャスたんは胸の前で手を合わせて、ほっとしたようにファイノン様を見つめていました。トリスビアス様は近くの方と顔を見合わせて、「五分」「五分ですって」と小さな声でささやき合っています。セイレンス様の瞳にも、やわらかな笑みが戻っていました。
「五分だけ、ですよ」
わたしは改めて告げました。
「おしゃべりは……ふふ、たくさんしちゃいましょう! そしたらきっと、あっという間です!」
「おしゃべりはしていいんだね?」
「もちろんです。沈黙が落ち着く方もいらっしゃいますけれど、最初から何もかも止めてしまうと、かえってそわそわしてしまうかもしれませんから」
「なるほど……」
ファイノン様は、少しだけ安心したように頷きました。どうやら完全な無音、完全な無為を想像していらしたようです。ええ、いきなりそれは難しいですよね。何事にも段階というものがありますから。休むことだって、少しずつ慣れていけばいいのです。
「ただし」
わたしは指を一本立てました。
「五分間は、何も運びません。誰かの荷物を持ちません。椅子の位置を直しません。水差しも持ちません。困っている方がいらしても、まずは近くの方や給仕の方へお願いすること。よろしいですか?」
ファイノン様は、真面目な顔で聞いていらっしゃいました。
「……その場合、近くに誰もいなかったら?」
「今は皆様がいます!」
「あ、うん、そう……そうだね?」
「そして、もし本当に危ない時は別です。ですが、危なくない時までファイノン様おひとりが全部背負う必要はありません。」
そうお伝えすると、ファイノン様はほんの少しだけ黙り込まれました。何かを考えていらっしゃるような沈黙です。反発しているわけではありません。ただ、そのお話を一度ご自分の中へ置いてみている。そんなふうに見えました。
やがて、ファイノン様は小さく息を吐いて、眉尻をわずかに下げ、視線を少しだけ逸らしながら、困ったように微笑まれました。
「君にそう言われると、なんだか診察を受けている気分になるな。」
「実質、診察です!」
「実質なんだ……。」
「はい。休息機能の確認です」
「休息機能……?」
ファイノン様が、不思議そうにその言葉を繰り返します。アナイクス先生の片眉がほんのわずかに動きました。
いけません。今の言い方は先生の興味を引いてしまったかもしれません。けれど、ここで理論化されると話が長くなりそうなので、わたしはすぐに続けました。
「難しく考えなくて大丈夫です。今日はただ、皆さんと一緒に座って、お茶を飲んで、少しお話をするだけですよ!」
「それなら、できると思うけど……」
言いながらも、ファイノン様の視線が、ちらりと水差しの方へ向きました。もうほとんど空っぽですから、気になってしまわれたのでしょう。サフェル様がすかさず肩をすくめます。
「ちょっとちょっと。五分も休めない救世主様なんて、聞いたことないんだけど〜?」
「う……」
「ほら、まず座りなって。逃げたらあたしが捕まえたげるからさ。」
「捕まえる前提なんだね……。」
「もちろん。逃げたそ〜な顔してるもん。」
「そんな顔してたかな?」
「してたしてた。今にも『ちょっと向こうを見てくるよ』って言いそうな顔!」
図星だったのでしょうか、ファイノン様はわずかに視線を泳がせました。
とても分かりやすい反応です。ご自身の痛みや疲れについては、あれほど見事に隠してしまわれるのに、こういう時だけは本当に分かりやすいのです。困ってしまいます。……いえ、今は分かりやすくて助かりますけれど。
「逃走経路の確認は不要ですよ、ファイノン様!」
「ヒアンシーまで……」
「医療上、必要な措置です!」
「逃走経路が?」
「はい! 患者さんはよく、逃げますから!イカルンでえいっと。」
「……あぁ、あの場面がそうなのか」
わたしが力強く頷くと、イカルンも腕の中で「ぷる!」と鳴きました。ファイノン様はとうとう小さく笑います。その笑い方は少し照れくさそうで、少し観念したようでもありました。
けれど、逃走経路はすでに塞がれていました。前にはわたし。横にはサフェル様。少し離れたところにはアグライア様、モーディス様、アナイクス先生、トリスビアス様たち。そしてセイレンス様にケリュドラ様まで。まるで終末級の包囲網です。
もちろん、皆様はファイノン様を監視しているわけではありません。ただ、彼がふと立ち上がって、どこかの荷運びや相談事や壊れた柵や迷子のペガソースを見つけてしまわないよう、見守っているだけです。見守っているだけなのですが……監視と見守りの境界は、時にとても薄いものですね。
アグライア様が静かに立ち上がり、近くの給仕へ何かを頼んでくださいました。しばらくして運ばれてきたのは、ぶどうジュースではなく、湯気の立つ温かなお茶でした。
香りは強すぎず、薬湯ほど苦くもありません。夜の冷えに寄り添うような、やわらかな草花の香りがします。
「温かいものの方が、手を止めやすいかと思いまして」
アグライア様がそうおっしゃると、サフェル様が「あたしが茶葉を配達したんだよ」と、得意げに胸を張りました。小さな笑いがまた広がりました。
ファイノン様もつられるように笑っていらっしゃいます。その笑顔に、わたしは少しだけ安心しました。重すぎる言葉では、きっと彼は受け取りきれません。けれど、笑いの中でなら、少しだけ座っていられるかもしれない。皆様の輪の中でなら、何も持たない手の所在を、少しだけ見つけられるかもしれない。
「では、ファイノン様」
わたしは温かなお茶のカップを受け取り、彼の前へそっと置きました。
「まずは五分です。何も持たず、と言いましたけれど……カップは持って大丈夫ですよ。落ち着く方も多いですから」
「それは、助かるな」
「ただし、飲み物を配るためではありませんよ。ご自分で飲むためです!」
「うん、分かってるよ。」
ファイノン様は素直に頷きました。けれど、すぐ隣でサフェル様が「ほんとかな〜?」と茶々を入れます。
「本当だよ!」
「じゃ、証明してみせなよ。五分間、救世主様が救世しないで座っていられるかどうか」
「言い方が大げさじゃないかな」
「大げさなことになってる自覚、持った方がいいと思うよ坊や?」
ファイノン様は反論しようとして、結局やめたようでした。肩の力を少し抜いて、目の前のカップへ視線を落とします。白い指先が、湯気の立つ器へゆっくり近づきました。
その瞬間、周囲の空気が少しだけ静かになりました。先ほどまでの笑いが消えたわけではありません。けれど、皆様の視線が、自然とファイノン様の手元へ集まっていくのが分かりました。圧をかけるためではなく、見届けるために。彼が何かを背負うのではなく、ただ一杯のお茶を受け取る、その小さな始まりを。
ファイノン様は半ば包囲されるように、けれど誰にも乱暴にされることなく、椅子へ座っていました。目の前には、ぶどうジュースの代わりに用意された温かなお茶があります。湯気は星明かりの中で細く立ちのぼり、まるで夜空へほどけていく白い糸のようでした。
五分間の休憩。たった、それだけのことです。
けれど、今のファイノン様にとっては、きっと未踏の秘境にも等しい五分なのでしょう。わたしはイカルンを抱きしめすぎないように気をつけながら、そっと息を整えました。
これは治療というより、練習です。誰かのために走らなくてもいい時間を、皆様と一緒に、少しずつ思い出していただくための練習。
星々は変わらず、静かに降り続けています。その光の下で、わたしたちは誰からともなく声を潜め、けれど離れることなく、ファイノン様がその温かなカップを手に取るのを見守っていました。