星降るドームで、ヒアンシーはファイノンへ「何もしない練習」を提案する。誰の荷物も持たず、椅子も直さず、ただ仲間と話しながら温かい茶を飲む五分間。世界を救うより、その短い休息の方が彼には難しかった。
逃走経路を探すような視線も、伸びかける手も、仲間たちは笑いながらそっと留める。責めるのではなく、ひとりに背負わせないために。
温かな湯気と星明かりの中、ファイノンは包囲網の中央で自分のための杯へ手を伸ばす。走らなくても世界は崩れない――その事実を身体へ教える、ささやかで途方もない最初の五分が始まろうとしていた。
白い指先が、湯気の立つ器へゆっくり近づく。
ファイノンは、その瞬間になってようやく、自分が少しだけ緊張していることに気づいた。戦場へ向かう時の緊張とは違う。剣を握る前の静けさでも、誰かの願いを背負う時の覚悟でもない。ただ、温かなカップを手に取るだけのことに、指先の動きがほんのわずか遅れる。
おかしな話だと思った。敵の刃を受けることも、崩れかけた世界の前に立つことも、燃え尽きるほどの力を身体の奥へ押し留めることも、彼は知っている。知りすぎていると言ってもいい。けれど、皆に見守られながら五分間座って茶を飲むことになると、どうにも勝手が違った。
カップは、手のひらに収まるほどの大きさだった。白い陶器に、淡い草花の模様が描かれている。星降るドームの光を受けた縁は、夜に浮かぶ細い月のように白く、湯気はその上から静かに立ちのぼっていた。
薬湯ほど強くはない。ぶどうジュースのように甘くもない。夜の冷えた空気へ、そっと布をかけるような、やわらかな香りだった。彼は、そっと両手でそれを包む。
(……温かい、な。)
ただ、それだけの感覚が、思いのほか鮮明だった。
そうか、と彼はふと思う。今の自分は、炎の性質が強すぎるのだ。ケビンとしての異能を引き継ぐカスライナは、本来なら触れたものすべてを凍てつかせるはずだった。氷は手のひらから広がり、熱を奪い、息を白く変える。そういうものだった。そういうはずだった。
けれど、永劫回帰の影響を受けたファイノンとしての今は、その性質が反転している。火種を抱えた分だけ、触れたものすべてを燃やし尽くしてしまうはずなのだ。
胸の奥に残る熱は、時折、骨の内側を舐めるように疼く。皮膚の下で、見えない火がまだ生きている。内包する力が辛うじて均衡を保っているから平然としていられるだけで、本当ならこの身は、ひび割れ、灰燼へと崩れていてもおかしくはない。
けれど、その手の中で、普通の人のように湯気の燻るカップを抱えている。熱は熱のまま。お茶はお茶のまま。凍てつくことも、燃え尽きることもなく、ただ穏やかに温かった。
それが、少し不思議だった。いや、少しどころではなかったかもしれない。温かなものを、温かなまま持っていられる。壊さず、変質させず、誰かの手から受け取ったものを、そのまま自分の手の中へ置いていられる。その事実が、どうしてか胸の奥に引っかかった。
永劫回帰を廻るたび、火種は彼を燃やし尽くそうとした。空気は焼け、大地は焦げつき、剣を握る指先は熱を忘れていった。食事も睡眠も、いつしか必要なものではなくなった。ただ前へ進むためだけに、燃え続けていた日々があった。
眠れないのではない。眠る必要がなかった。食べられないのではない。食べる意味が、遠くへ押しやられていた。疲れたと思う前に次の輪廻があり、痛いと思う前に次の喪失が来る。そういう時間が、長く続きすぎた。
それを思えば、こうして温かな茶を手にしていることが、ひどく不思議だった。
湯気が頬のあたりへ届く。熱いというほどではない。目を細めると、草花の香りがゆっくりと鼻先へ触れた。
どこかで嗅いだことがあるような、ないような香りだ。エリュシオンの丘に咲く花とは少し違う。神悟の樹庭の薬草棚に近い気もする。けれど、治療の匂いほど身構えさせるものではなかった。
隣にはヒアンシーがいる。彼女はイカルンを抱えたまま、こちらの手元をじっと見ていた。桃色の髪が、星明かりを受けて柔らかく光っている。
明るい青緑の瞳には、いつもの弾むような気配があったが、その奥には医師としての静かな真剣さも沈んでいた。腕の中のイカルンは、小さな王冠を揺らしながら、もちもちとした身体を彼女に預けている。だが、その丸い瞳は眠たげではなく、カップを持つファイノンの手をしっかり見ていた。
(――なんとなく覚えがある……。これ……ケビンの頃にもあった謎の包囲網だ……!)
そう感じた瞬間、ファイノンは少しだけ肩をすくめたくなった。照れくさい。けれど、悪い感じではない。責められているのではなく、逃がさないようにされているのでもなく――いや、少しは逃がさないようにされている気もする。
ヒアンシーの「医療上、必要な措置です!」という声が、まだ耳に残っていた。思い出すと、ほんの少し笑いそうになる。
背後からは、なぜか非常に楽しそうなサフェルの気配がした。見なくても分かる。彼女はきっと、猫のように目を細めている。少しでも立ち上がろうとすれば、すぐに肩か外套の端を掴んでくるだろう。捕まえたげるからさ、と言った時の声は冗談めいていたが、あれはたぶん半分ほど本気だ。
アナイクス先生は、少し離れたところで腕を組んでいる。観察対象を見るような目つきだった。彼の視線は相変わらず鋭く。
けれど、休息機能、という言葉をヒアンシーが口にした瞬間、先生の片眉がわずかに動いたのをファイノンは見逃していなかった。あれはきっと、何かを分類しようとしている顔だ。少し困る。けれど、少し懐かしくもある。
モーディスは何か言いたげにしていた。腕を組んだまま、眉間に深い皺を寄せている。だが、最終的には黙って見守ることを選んだらしい。
あの王子様が沈黙を選ぶ時は、たいてい言葉よりも強い何かを胸の内に置いている。怒っているのかもしれない。心配しているのかもしれない。あるいは、そのどちらもなのかもしれなかった。
「本当に五分も座っていられるかちら?」
少し離れた場所では、トリビー先生たちが興味津々といった様子で身を乗り出している。小声のつもりなのだろうが、ファイノンにはちゃんと聞こえてしまった。隣のトリアンが「しっ」とたしなめ、トリノンが真似をして唇の前に指を立てている。
セイレンスはそんな彼女たちをたしなめるように視線を向けながらも、どこか微笑ましそうだった。歌い出すわけではない。ただ、いつでも場の呼吸に音を添えられるような静けさをまとっている。
ケリュドラは椅子の背にもたれ、面白い見世物でも眺めるように肩をすくめていた。小さな身体には不釣り合いなほど王の気配がある。白銀と淡い青を帯びた髪が、冠の下で冷たく光る。あの瞳は、こちらを見上げているはずなのに、どこか盤上の高みから見下ろしているようにも感じられた。
キャストリスは静かに佇み、湯気の向こうにいるファイノンを見つめていた。白と紫の気配をまとったその姿は、星明かりの中で花の影のように淡い。彼女の視線は静かで、触れてくるわけではない。けれど、そこには確かな温度があった。死者に安らかな眠りを与える時のような、急かさない優しさ。
そしてアグライアだけが、変わらず穏やかに、彼の手元へ視線を落としていた。ファイノンは、その視線に少しだけ気づまりを覚える。責めているわけではない。
アグライアがそんな目を向けるはずがない。けれど、彼女の瞳は、布の乱れを見つける時のように、こちらのわずかな歪みを見逃さない。金糸を扱う指先と同じ慎重さで、彼が何を手放そうとしているのかを見ている。まるで、ようやく手放そうとしている重荷の行方を見守るように。
重荷。その言葉が胸の奥で小さく跳ねた。自分は何かを背負っているのだろうか。もちろん、背負ってきたものはある。
願い。約束。届かなかった声。失われた景色。燃え尽きたはずなのに、灰の中でまだ温度を持っている記憶。そのどれもを、彼は捨てたいとは思わない。捨てられないからではなく、捨てたくない。たぶん、そうなのだと思う。
けれど、今この瞬間、皆はそれを下ろせと言っているのだろうか。そう考えたところで、ファイノンはすぐに違う、と気づいた。
少なくとも、ヒアンシーはそう言わなかった。モーディスも、アグライアも、誰も、彼の善意を責めなかった。労働を禁じるつもりはない、とモーディスは言った。休息とは誰かの役に立つことと同義ではない、とアグライアは言った。身体と心が、もう危険を探さなくてもいいのだと覚えるための時間なのだと、ヒアンシーは言った。
(危険を、探さなくてもいい……)
それは、簡単なようで、ひどく難しい言葉だった。
ファイノンは視線だけを少し動かし、ドームの外縁へ目を向けた。遠くで給仕の一人が盆を運んでいる。別の席では、子どもが笑いながら焼き菓子を割っていた。老人たちは杯を掲げ、誰かが小さな歌を口ずさんでいる。何も崩れていない。今すぐ駆け出さなければならない音はしない。
それなのに、身体のどこかがまだ耳を澄ませている。助けを求める声はないか。立ち上がるべき理由はないか。誰かが困っていないか。荷が重すぎる人はいないか。話を聞いてほしい人はいないか。そうやって探そうとする意識を、彼はゆっくりカップへ戻した。
(温かい……。)
手の中の熱は、戦火ではなかった。火種でもない。誰かを照らす烈日でも、何かを燃やし尽くす炎でもない。ただの茶だ。温度があり、香りがあり、飲めば喉を通っていく。そういう、ごく普通のもの。
普通。それもまた、少し遠い言葉だった。ファイノンは、カップを唇へ近づけようとして、ふと動きを止めた。自分でもおかしな確認だと思った。けれど、口に出してしまっていた。隣でヒアンシーが一瞬だけ目を丸くし、それからぱっと笑った。
「……今、飲んでもいいんだよね?」
「はい! ご自分で飲むためのお茶ですから!」
「ぷる!」
イカルンまで力強く鳴いた。サフェルが背後で吹き出す。
「坊や、そこから確認するんだ?」
「いや、だって。何もしない練習の決まりを破ったらよくないだろう?」
「飲むのは何もしない判定でいいと思うよ~。たぶんね」
「たぶんなんだ……」
小さな笑いがまた周囲に広がった。ファイノンは少しだけ耳のあたりが熱くなるのを感じながら、今度こそカップに口をつけた。
茶は、思っていたよりも穏やかな味がした。苦くはない。甘すぎもしない。舌の上を通って、喉の奥へゆっくり落ちていく。身体の中へ温度が入ってくる感覚があった。ほんの少しだけ、胸のあたりが緩む。
その感覚に、ファイノンはまた少し戸惑った。温かいものを飲むと、身体はこう反応するのか。力を巡らせるためでも、傷を塞ぐためでも、何かを燃やすためでもない温度が、自分の中へ入ってくる。そうして、内側から静かに広がっていく。
かつて、燃え続けることだけが前へ進む方法だった。熱はいつも、消費のためにあった。誰かを守るため、絶望を焼くため、次の輪廻へ進むため。けれど、今手の中にある熱は、何も要求してこなかった。ただ、そこにあるだけだった。
彼はカップを少し下ろし、湯気の向こうでこちらを見ている皆を見た。
誰も、急かしてはいなかった。誰も、次に何をすべきかを命じてはいない。ヒアンシーは嬉しそうで、けれど真剣で、イカルンは胸を張っている。
サフェルは面白がっているように見えるが、その距離は不思議と近すぎず遠すぎない。モーディスは相変わらず眉間に皺を寄せている。アナイクス先生は今にも分析を始めそうだが、今のところ黙っている。アグライアは、静かに見守っている。
不思議だった。世界は、彼が座っていても崩れなかった。五分のうち、まだどれほど経ったのかは分からない。けれど少なくとも、一口分の時間、世界はそのままだった。誰かが代わりに水差しを受け取り、誰かが代わりに給仕へ声をかけ、誰かが代わりに場を見ている。
自分が立たなくても、皆がいた。そんな当たり前のことを、今さら確かめている。そう気づくと、ファイノンは少しだけ笑いたくなった。情けないような、くすぐったいような気持ちだった。けれど同時に、胸の奥のどこかが、ほんのわずかに軋む。
(……皆、他にもやることがあるだろうに。)
言葉はまだ声にならなかった。湯気の向こうで、カップの縁が白く霞んでいる。指先には、まだ温度が残っていた。壊れていない。燃えてもいない。凍ってもいない。ただ、温かな茶が、温かなまま彼の手の中にあった。
ファイノンはそれをもう一度、確かめるように包み直した。
五分間の休憩。たったそれだけのことが、こんなにも見守られるものになるとは思っていなかった。星明かりは静かに降り続けている。青い布の端が椅子の横でわずかに揺れ、白銀の髪に淡い光がこぼれた。