烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 五分間、何もしない。
 それは世界を救うより、ファイノンには馴染みのない試練だった。皆に見守られながら温かな茶を受け取ると、彼は自分の指先がわずかに緊張していることを知る。
 かつて火種は身体を燃やし、熱はすべて戦いと消費のためにあった。だが今、掌の中の温度は何も求めず、燃えも凍りもせず、ただ彼を温めている。
 彼が一口を飲むあいだも、世界は崩れなかった。誰かが水差しを受け取り、誰かが周囲を見守り、仲間たちはそこにいた。走らなくても明日は続く。その当たり前を、ファイノンは両手の中で初めて確かめ始める。


045 安らぎを贈る願い

 ファイノンはカップの中の揺れる水面を見つめながら、胸の奥へ広がる温度を、ただしばらく追いかけていた。

 湯気は細く、星明かりの中へ溶けていく。白い糸のようにも見えたし、誰かが空へほどいた息のようにも見えた。カップを包む指先にはまだ温度が残っている。熱すぎず、冷たくもない。燃え上がるわけでも、凍りつくわけでもない。ただそこに留まって、手のひらから少しずつ身体の奥へ移っていく。

 

 世界は、まだ崩れていない。

 その事実を、ファイノンはもう一度確かめるように周囲を見た。

 

 星降るドームには、穏やかな声が満ちていた。遠くの席では、子どもが焼き菓子を半分に割って、隣の老人へ差し出している。給仕たちは手際よく空いた器を下げ、誰かがそれを手伝おうとする前に、別の誰かが笑って声をかけていた。

 小さな歌が、どこかの席から短く聞こえる。戦の号令ではない。祈りでも、別れの歌でもない。ただ、誰かが口ずさんだだけの旋律だった。

 自分が立たなくても、世界は続いている。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなったようで、同時に、別のところがきゅっと軋んだ。

 

 五分。ただ五分座っているだけで、これだけの人数が自分を見守っている。

 ヒアンシーは隣でイカルンを抱えたまま、嬉しそうで、それでいて真剣な顔をしている。サフェルは背後で少し楽しそうにしているが、足音を消すような軽さの奥で、いつでもこちらを捕まえられる距離を保っていた。

 モーディスは腕を組み、アナイクス先生は黙ってこちらを観察している。キャストリスは静かに佇み、トリビー先生たちは小声で何かを囁き合っていた。セイレンスの青い瞳は、波間の光のように穏やかで、ケリュドラは椅子の背にもたれたまま、盤上の一手を見守るようにこちらを見ている。

 そして、アグライアは変わらず穏やかに、僕の手元を見ていた。白と金の衣が、星明かりを受けて柔らかく光っている。淡い金髪の毛先が肩先で揺れ、白い花と金の葉冠が、静かな夜の中で微かに光を返した。彼女の視線は、金糸を扱う時のように丁寧だった。引っ張るでも、縛るでもない。乱れた布の皺を見つけて、そこへ指を添えるような、そんな視線だった。

 

 その優しさが、少しだけ苦しかった。

 

「……なんだか、申し訳ないな」

 

 ぽつりと、言葉が落ちた。

 自分でも、声に出すつもりだったのか分からなかった。けれど湯気の向こうへこぼれたその言葉は、戻ってこなかった。星明かりの中で、皆の視線がそっとこちらへ向く気配がした。

 

「みんな、他にもやることがあるだろうに」

 

 そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。責められたいわけではない。止めてほしいわけでもない。ただ、本当にそう思ったのだ。

 アグライアには仕立ての仕事がある。モーディスには民を見る役目がある。ヒアンシーには患者がいる。アナイクス先生にはきっと、山ほどの理論と整理すべき現象がある。サフェルだって、誰かが無理をしていないかを見ているし、キャストリスも、セイレンスも、ケリュドラも、トリビー先生たちも、それぞれ背負っているものがある。

 その皆が、たった五分、自分が座っているかどうかを見守っている。ありがたい。嬉しい。けれど、申し訳ない。胸の奥に広がる温度は穏やかなのに、そのすぐ隣で、どうにも落ち着かない感覚が小さく爪を立てていた。

 

 アグライアが、静かに息を吐いた。

 それは叱責のための息ではなかった。諭すために間を置いたのでもないように見えた。ただ、胸の内にしまっていた言葉を、ようやく手に取るための、小さな呼吸。金糸を指へ掛ける前のような、慎重で、静かな仕草だった。

 

「あなたを休ませることも、私たちにとっては大切なことなのです。」

 

 思わず顔を上げた。アグライアの声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥には、譲らない芯があった。糸のように柔らかく、けれど切れない。そういう声だった。

 

「そんなことは、」

「そんなこと、ではありませんよ。」

 

 言いかけた言葉を、アグライアは静かに遮った。強くはなかった。けれど、それ以上続けられなかった。彼女が首を振る仕草はとても穏やかで、白い花飾りがかすかに揺れただけだった。だが、その青緑の瞳には迷いがない。まるで、とうに答えを決めていた者の眼差しだった。

 

「あなたに休んでほしいという、私たちの願いの一つです」

 

 願い。その言葉が、胸の奥へまっすぐ届いた。ファイノンは、ほんの少しだけ息を止めた。誰かの願いを聞くことには慣れている。

 拾い上げることにも、背負うことにも。誰かが絶望の中で差し出した小さな光を、消えないように抱えることにも。けれど、その願いが自分自身へ向けられた瞬間、どう受け取ればいいのか分からなくなった。

 

 助けてほしい。守ってほしい。届けてほしい。覚えていてほしい。

 

 そういう願いなら、彼は走れる。どれほど遠くても、どれほど遅くても、手を伸ばす理由になる。けれど、休んでほしい、と言われると、足が止まる。止まってしまう。止まって、どうすればいいのか分からなくなる。

 アグライアは、それを分かっているように見えた。少なくとも、彼女の声は急がなかった。逃げ道を塞ぐのではなく、そこに座っていてもいいのだと、椅子の背へそっと布を掛けるような声だった。

 

「これは私たちの願いなのです、ファイノン。」

 

 再び、彼女は言った。ファイノンは、カップを包む手にわずかに力が入るのを感じた。白い陶器は壊れない。熱も変わらない。ただ、手のひらの中で温かくそこにある。そのことが、ひどく現実的だった。

 

「あなたに、自分だけの時間を過ごしてほしいのです。」

 

 アグライアの声は、星明かりの中を静かに渡ってくる。白金の衣の裾が、足元でほとんど音もなく揺れていた。

 

「カイザーが自由気ままな旅人のごとくオクヘイマの山頂を目指すように。セイレンスが舞楽に心を委ねるように。誰かのためではなく、あなた自身のために歩き、笑い、ときには立ち止まる時間を。……そして、バニオやピュエロスが私に与えてくれるような安らぎを、あなたにも得てほしいのです。」

 

 ファイノンは、思わず瞬きをした。

 

「自分だけの、時間……」

 

 それは、ひどく不慣れな響きだった。誰かのためではなく、自分自身のために歩く。誰かの願いを拾うためではなく、自分の足が向かいたい方へ進む。何かを守るためではなく、ただ景色を見るために立ち止まる。

 想像しようとしても、すぐに別のものが混ざってしまう。道の先で困っている人はいないだろうか。山頂へ行くなら、途中で誰かの荷を持つべきではないだろうか。舞楽に耳を傾けるなら、疲れている人へ席を譲るべきではないだろうか。そんな考えが、呼吸の隙間へ入り込んでくる。

 けれどアグライアは、それでも見つめていた。ファイノンが言い訳を見つけるより早く、まるでその考えのほつれを金糸でそっと留めるように。

 

「燃え朽ちぬ大地を見下ろすのであれば、絶景を、この僕が自ら案内してやるぞ。」

 

 ケリュドラの声がした。

 小柄な身体に似合わぬ、どこか王のような響きを帯びた声だった。椅子の背にもたれたまま、片手で頬杖をつき、もう片方の手で軽く指先を揺らしている。その仕草は気まぐれにも見えるが、視線はまっすぐファイノンへ向けられていた。淡い青を帯びた白銀の髪が、星明かりを受けて冷ややかに光る。

 ファイノンはそちらを見て、少しだけ目を丸くした。

 

「君が案内してくれるのかい?」

「不満か?」

 

 軽く顎を上げるようにして、ケリュドラは言った。その声音には、からかいとも本気ともつかない響きが混じっている。

 

「いや。……少し、意外だっただけだよ。」

「ならば慣れろ。僕は道を知っている。」

 

 その言い方は、どこか盤上の一手を示すようでもあり、すでに結末を見通している者の余裕を含んでいた。サフェルが背後で小さく吹き出す。

 けれどケリュドラは気にした様子もなく、細い指先で椅子の縁を軽く叩きながら、変わらずこちらを見ていた。その視線は、戦場へ向けるものではない。高みから景色を見渡す者の目だった。

 

「そのための子守唄であれば、ワタシも奏でよう。」

 

 今度は、セイレンスだった。黒紫の髪が、深海の水流のように肩から背へ流れている。白い鰭飾りが星明かりを受け、貝殻のように静かな光を返した。

 赤い手袋の指先が、見えない弦をなぞるようにそっと動く。彼女の青い瞳は穏やかで、どこか遠い潮の満ち引きを宿しているようだった。

 

「かつてキミが口ずさんでくれた、エリュシオンの妖精たちのようなかわいらしい音色ではないだろうが」

「……あれを覚えていたのかい?」

「忘れる理由がない。」

 

 セイレンスは、そう言って微かに微笑んだ。波紋のような笑みだった。大きく広がるわけではないのに、胸の奥へ静かに届いてくる。

 その瞬間、ファイノンは目の奥がわずかに揺れるのを感じた。願いを、向けられている。それも、誰かを救うための願いではない。自分が走るための願いでもない。自分が休むことを望む、誰かの願い。そんなものを差し出された時、どうすればいいのか、彼はまだ知らなかった。

 誰かの願いを受け取ることには慣れている。背負うことにも、応えることにも。けれど、自分自身へ向けられた願いを、こうして真正面から受け止めることには慣れていない。

 これは、逃げ場のない優しさだ。押しつけではない。命令でもない。休めと責められているわけでもない。ただそこに差し出された温かな気持ち。その重みを知っているからこそ、軽く笑って流すことができなかった。

 ファイノンは、ふとヒアンシーを見た。彼女は何も言わず、けれどとても真剣な顔で頷いた。腕の中のイカルンも「ぷる」と小さく鳴く。

 医者としての厳しさと、友人としての優しさが、同じ瞳の中にあった。サフェルは「逃げ道ないねぇ」とでも言いたげに肩をすくめている。アナイクス先生は黙ったままだが、何かを記録する代わりに、今はただ見守ることを選んでいるようだった。キャストリスは穏やかに目を伏せ、トリビー先生たちは息を潜めている。ケリュドラは、ほんのわずかに顎を上げてこちらを見ていた。

 

 皆がいる。そのことが、ようやく少しずつ分かってくる。

 自分が立たなくても、皆がいる。自分が走らなくても、誰かが水差しを受け取る。自分がすべてを背負わなくても、誰かが隣に座る。世界は、彼一人の肩だけに乗っているわけではない。

 分かっている、と思っていた。けれど、分かっていることと、身体が信じられることは、同じではなかったのだろう。

 ファイノンは、カップの中を見下ろした。茶の表面に、星明かりが小さく揺れている。その光は烈日ではない。誰かを燃やす火でも、世界を照らす使命でもない。ただ、夜に浮かぶ小さな反射だった。

 

 彼はゆっくり息を吐いた。

 

「……わかったよ、アグライア」

 

 言葉にしてみると、思ったよりも小さな声だった。けれど、星降るドームの静けさの中では、それで十分だった。アグライアの青緑の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。金糸が緩むような、そんな変化だった。

 

「すぐに上手くできるかは、分からないけど」

 

 ファイノンは、少しだけ困ったように笑った。

 

「それでも……君たちの願いなら、ちゃんと聞きたい」

 

 そう言った瞬間、胸の奥にあった硬いものが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。消えたわけではない。軽くなったとも言い切れない。けれど、少なくとも今この場で、それを一人で抱え直す必要はないのだと、ほんの少しだけ思えた。

 サフェルが、背後で軽く口笛を吹いた。

 

「お、坊やにしては素直じゃん」

「いつも素直だろう?」

「そういうとこはね」

「どういうところだい」

 

 ファイノンが聞き返すと、サフェルはけらりと笑った。空気が少しだけほどける。ヒアンシーも、ほっとしたように胸へ手を当てていた。イカルンは誇らしげに「ぷるる」と鳴いている。まるで、よくできました、と言われているようで、ファイノンは少しだけ耳のあたりが熱くなった。

 

「それじゃあ」

 

 彼はカップを包み直し、わざと少し軽い調子で言った。

 

「しばらく、みんなの時間を独り占めさせてもらおうかな。なんて……」

 

 冗談めかして続けたつもりだった。けれど、自分の声に照れくささが滲んでいることは、言い終えた瞬間に分かった。視線を逸らす。湯気が白く揺れ、星明かりが銀白の髪へ落ちる。耳の先が熱い。たぶん、少し赤くなっている。

 まずい、と思った。サフェルが見逃すはずがない。

 

「へぇ~?」

「サフェルさん、その声はやめてくれ……」

「まだ何も言ってないんだけど?」

「言う前から分かるよ。」

「じゃあ言わなくてもいいね。坊や、照れてる~」

「言ってるじゃないか!」

 

 周囲から小さな笑いがこぼれた。トリビー先生たちが「照れてる」「照れてるわね」と囁き合い、キャストリスが口元へ手を添えて静かに微笑む。

 セイレンスは青い瞳を細め、モーディスはそっぽを向くようにして、けれど肩の力を少しだけ抜いていた。アナイクス先生は「観察結果として有意ですね」とでも言い出しそうな顔をしていたが、幸いにも何も言わなかった。

 ヒアンシーだけは、両手を口元に寄せ、何かとても大切なものを見たような顔をしていた。医者としての真剣さはまだ消えていない。けれど、その奥には、柔らかな喜びがふわりと灯っている。

 

 ファイノンは、ますます視線を逸らしたくなった。誰かのために手を伸ばすことは、難しくない。痛みを抱えた人の隣へ行くことも、必要なら剣を取ることも、燃え尽きるほど走ることも、彼にはできる。けれど、自分へ差し伸べられた手を受け取ることは、どうにも慣れていない。

 不慣れなことをしている。その自覚が、なんだか少し気恥ずかしかった。

 けれど、カップの中の茶はまだ温かい。誰も彼に立てとは言わない。誰も、次の役目を差し出してこない。星は変わらず降り続けていて、仲間たちは同じ輪の中にいる。

 ファイノンはもう一口、茶を飲んだ。穏やかな温度が、喉を通って胸へ落ちる。何も壊れない。何も燃え尽きない。彼が座っていても、世界は続いている。

 

 それなら、今だけは。

 今だけは、この願いに応えるために、走らずにいてもいいのかもしれない。

 

 そう思いながら、ファイノンは湯気の向こうにいる仲間たちを見た。自分を責めるためではなく、引き留めるためでもなく、ただここにいてほしいと願ってくれる人たちを。

 

 そして彼は、少し照れくさそうに笑った。

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