終末を越えたオンパロスに、ひとつの問題が静かに広がっていた。英雄ファイノンは、誰よりも働き、誰よりも休まない。見た目には異常はなく、だからこそ止められない。彼の優しさは、彼自身を後回しにする。
事態を重く見たヒアンシーとキャストリスは、ついに強硬手段へ踏み切る。これは誘拐ではない――保護である。そうして彼は、星の降るドームへと連れて行かれた。
星の降るドームへ足を踏み入れた瞬間、ファイノンはようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。もっとも、それは見間違いと言われればそうかもしれない程度の変化である。
歩き方が乱れていたわけでも、息が上がっていたわけでもない。顔色も悪くなく、青い外套の裾はいつも通り、彼の歩幅に合わせて静かに揺れている。光を受けた白い髪も、星明かりを含んだように淡く輝き、外から見れば、ただヒアンシーとキャストリスに腕を取られて困惑している青年にしか見えなかった。
だからこそ、ヒアンシーは油断しない。ファイノン様は、見た目では分かりません。今日の合言葉のように、彼女は胸の内でそう繰り返した。
元気そうに見える。受け答えもはっきりしている。歩調も安定している。だから大丈夫――などと判断してしまえば、またいつの間にか彼は誰かの荷物を持ち、誰かの悩みを聞き、誰かのために立ち上がってしまうだろう。
そんなことを考えている横で、ファイノンはきょろりと周囲を見渡していた。星の降るドームには、すでに幾人もの黄金裔が集まっている。
大きな卓には菓子と果物、温かな飲み物、冷えた果実水、香りのよい茶器が並べられ、椅子も寝椅子も、いつもより少しだけ多く用意されていた。人を迎えるための支度。誰かを休ませるための支度。それは、この場にいる者ならひと目で分かるほど丁寧で、しかし当の本人だけには、どういうわけか別の意味に見えているらしかった。
「なんだ、誘拐だなんだって言うからビックリしたけど……今日はみんなの休暇が、偶然被ってた日なんだね。」
ファイノンは、ほっとしたように笑った。ヒアンシーの笑顔が、ぴしりと固まった。キャストリスの指先も、彼の袖を摘んだまま、わずかに震えた。布地に触れるその手は、まだ遠慮がちだ。けれどその手を離さない。
この手を離してしまったら、この場の空気を察したファイノンが「じゃあ準備を手伝うよ」とでも言い出しかねない。それが容易に想像できてしまうところが、この問題の根深さである。
「気づかなかったよ。せっかくだからってことなのかな? 僕にも声を掛けてくれたんだ。ありがとう。」
ありがとう。その一言が、星明かりよりも柔らかく響いた。あまりにも素直で、あまりにも疑わない声だった。責める色も、拗ねる色もない。ただ、自分も輪の中へ呼ばれたことを嬉しく思っている青年の声である。
(そ、そうなのですが、そうではありません……!)
ヒアンシーは、一拍だけ返事を失った。胸の奥で、何かが小さく転ぶような感覚がした。口に出さずにそう叫んだのは、医療者としての忍耐か、友人としての優しさか、あるいは単純に場の空気を壊したくなかったからか。ヒアンシー自身にも分からなかった。
確かに、今日ここに集まった者たちは休暇のような時間を過ごすつもりでいる。終末を越え、戦いの喧騒から遠ざかり、ようやく得られた安息を分かち合う。そこに嘘はない。
だが、本当のところ、この集まりはファイノンを休ませるために開かれたものだった。本人には秘密である。秘密にしているのは、彼が知れば困ってしまうからだ。
ファイノンは自分のために皆が予定を合わせたと知れば、まず恐縮する。次に謝る。最後に「僕のためにそこまでしなくても……」と言う。絶対に言う。その約束された敗北の未来があまりにも鮮明に見えるため、黄金裔たちは慎重に言葉を選び、さりげなく予定を合わせ、あくまで自然な団らんであるかのように支度を整えたのだった。
ヒアンシーとキャストリスは、その最初の一歩を任された。学び舎を共にしたよしみ、同級生としての親しさ、そして何より、ファイノンが二人を強く振り払わないだろうという信頼。信頼、と言うには少しばかりずるい作戦だったが、それでも誰かがやらなければならなかった。
たまたま休みが重なったから誘ったわけではない。もちろん、その”たまたま”な状況が起きた場合もお呼びしますけれど。今回に限っては、むしろ逆である。ファイノンを休ませるために、みんなが時間を合わせたのだ。
けれど、それを今ここで正直に言えばどうなるか。ヒアンシーは、瞬き一つの間に考えた。否定すれば、ファイノンは「じゃあ、僕は本当は呼ばれる予定じゃなかったのかな」と受け取ってしまうかもしれない。肯定すれば、「偶然ならよかった」と安心している彼に、また別の形の気遣いを背負わせる。
どちらへ転んでも、彼の柔らかな表情を曇らせる危険があった。前途多難が過ぎる。ヒアンシーは、笑ったまま固まった。う、うう……否定すればファイノン様を除け者にしたみたいになってしまいますし、肯定しても彼の自己肯定感を落としかねないことに……。
ヒアンシーの横で、キャストリスがほんの少しだけ顎を引いた。藤色の髪が頬にかかり、星明かりの下で薄く陰を落とす。彼女の瞳はファイノンの横顔を見て、それからヒアンシーへ向いた。声にはならない。しかし、そのまなざしは、ほとんど言葉のようだった。
―― 丹恒様が以前、仰っていた、前門に虎を拒ぎ後門に狼を進む――逃げ場のない絶望的な状況……というのは、こういうことなのでしょうか。
―― キャスたん……!
ヒアンシーは、笑顔の下で心を抱きしめた。キャストリスがそんな慣用句を持ち出すほど追い詰められているのも愛らしく、そして状況としてはまったく笑えなかった。
二人の沈黙は、ほんの数秒。けれど、その数秒の間に、ファイノンは不思議そうに首を傾げる。
「二人とも?」
「い、いえ。何でもありません!」
「何でも、ありません……。ファイノン様が来てくださって、嬉しいです。」
キャストリスが、少し遅れてそう添えた。それは嘘ではなかった。むしろ、この場にいる全員の本音に近い。ファイノンはその言葉を受け取ると、照れたように目元を緩めた。困惑の残っていた肩が、今度こそほんのわずかに下がる。見た目では、疲労も弱りも分からない。
けれど、誰かに歓迎されたと感じた時の彼は、こうして少しだけ力を抜くのだと、ヒアンシーは知っている。それだけで、連れてきてよかったと思った。まだ座ってもいない。まだ休んでもいない。けれど、彼がこの場所を「自分もいていい場所」だと少しでも思えたなら、それは大きな一歩である。
ヒアンシーは、腕を取る手の力をそっと緩めた。逃がすためではない。ここまで来たのなら、もう強く留める必要はないと伝えるために。
頭上では、星々の光が静かに降り続けていた。ドームを満たす淡い輝きは夜にも似ている。けれど、ただの夜ではない。
暗がりの中へ沈むための闇ではなく、休む者の肩へそっと布を掛けるような光だった。星は遠く、けれど冷たくはない。天井の曲線に沿って流れる小さな輝きは、波紋のように揺れ、卓上の杯や茶器、果物の皮、誰かの髪飾りに柔らかな反射を落としていて、戦いの喧騒も、終末の気配も、今は遠い過去の記憶だった。
かつてなら、静けさは不安の前触れだった。次の襲撃までの短い間隙。誰かの悲鳴が上がる前の息苦しい沈黙。明日が来るか分からない夜。
けれど、今ここにある静けさは違う。誰も剣を抜いていない。誰も命令を待っていない。誰も次の死に備えて息を詰めていない。話し声があり、食器の触れる音があり、果実を切る小さな刃音があり、誰かが笑うと、別の誰かがその声に振り向く――それだけのことが、あの頃は、あまりにも遠かったのである。
広間では、黄金裔たちが思い思いの時間を過ごしていた。
アグライアは、最も奥の席に優雅な姿勢で腰掛け、薄い茶器を指先で支えている。背筋は糸で吊られたように美しく、金の装飾が星の光を受けるたび、淡い火花のような輝きを返した。彼女の所作には、聖都を守ってきた者の揺るぎない品格がある。
だが、その視線がファイノンを捉えた瞬間、目元にほんのわずかな柔らかさが混じったことを、ヒアンシーは見逃さなかった。
サフェルは、果実酒のグラスを片手に椅子へもたれ、足を組んでいた。琥珀色の液体を揺らすたびに、甘い香りが空気へほどける。
彼女は何か面白い話の途中だったらしく、口元には悪戯っぽい笑みが残っていたが、ファイノンが入ってきた途端、猫のように目を細めた。獲物を見つけた、というより、逃がしてはいけない休息対象を確認した顔である。気持ちは分かるけれども。
「お、救世の坊や連れてきたじゃん。」
「連れてきました!」
「保護を、いたしました……!」
まるでその物言いが、かどわかしたかのようで、ヒアンシーとキャストリスがほとんど同時に答えると、サフェルは吹き出しそうになって肩を震わせた。
「はいはい、誘拐じゃなくて保護ね。大事なとこだもんね。」
「本当に誘拐ではありませんよ?」
「分かってるって。坊やも、そんな顔しないの。」
「いや、僕はまだ状況を理解している途中で……」
「じゃあ理解しなくていいやつ。座りな。ほれほれ。」
軽い声音だった。けれど、その言葉の端には、妙な優しさがあった。説明より先に座らせる。それは今日の作戦方針と完全に一致している。ヒアンシーは、サフェルへ感謝の視線を送った。サフェルは知らん顔でグラスを揺らしたが、口元だけが少し笑っていた。
その向かいでは、モーディスが腕を組んで悠然と座っている。大柄な体躯は椅子に収まっているだけで一つの砦のようだったが、卓上にはしっかり飲み物が置かれていた。赤い液体に白く柔らかな色が混じっているところを見ると、おそらくミルクの入ったザクロジュースだろう。
戦士の席にしては妙に愛らしい飲み物だが、誰もそれを口にしない。口にすれば、たぶん一睨みで黙らされる。モーディスはファイノンを見ると、短く鼻を鳴らした。
「ようやく来たか。」
「えっなに、僕、遅れてたの? どういうこと?」
「遅れてはいない。逃げられる前に捕まえられたという意味だ。」
「なんだいそれ、逃げるつもりはなかったよ。」
「誰かを手伝いに行くつもりはあっただろう。」
「……それは、必要なことだろ?」
「ほらな。」
即座に返され、ファイノンは口を噤んだ。言い返せない、というより、本当にその通りだったので否定の言葉を探せないように見える。
ヒアンシーは思わず胸の中で頷いた。そうです、そういうところなのです。と声に出しそうになって、どうにか飲み込む。
アナイクスは、少し離れた席で本を開いていた。一見すると、周囲の騒ぎには関心がないように見える。視線は紙面へ落ち、指は頁の端に添えられ、姿勢も静かだ。だが、時折わずかに動く眉や、会話の節目で不自然に止まる指先を見る限り、読書に集中しているとは言い難かった。
周囲の会話を聞いていないふりをしながら、しっかり聞いている。教師というものは、案外そういう生き物なのかもしれない。
「アナイクス先生もいたんだね。」
ファイノンが声をかけると、アナイクスは頁から目を上げた。
「いましたよ。あなたが連行される様子も見ていました。」
「れ、連行……」
「訂正が必要なら、ヒアンシーに頼みなさい。彼女は保護と言い張るでしょうから。」
「言い張るのではなく、れっきとした保護です!」
「れっきとした保護なの……?」
ヒアンシーが思わず反論すると、アナイクスは何も言わずに頁を一枚めくった。その沈黙が、肯定なのか、面白がっているのか、判断しづらい。
けれど、彼の口元にかすかな緩みが見えた気がして、ヒアンシーは少しだけ安心した。神悟の樹庭であればすぐに議論や講義へ移ってしまいそうな彼も、今はこの場を休息のための場所として扱っているらしい。
その様子を見てトリスビアスは、菓子をつまみながら穏やかに笑っていた。星明かりは、彼女の髪と頬に柔らかな輪郭を与えている。指先で小さな焼き菓子を割る仕草はどこか少女めいていて、それでいて眼差しには聖女として積み重ねたものの深さがある。彼女はファイノンを見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「ファイちゃん、いらっしゃい。」
「トリスビアス先生。……カイザーたちもいる。みんな本当に揃ってるんだね。」
「ええ。今日は働き者さんを巣箱に戻す日だもの。」
「巣箱?」
ファイノンが首を傾げる。トリスビアスは、楽しそうに菓子の欠片を皿へ落とした。
「今のところは、そういうことにしておきましょう?」
「今のところ……?」
「深く考えると、ヒアンシーちゃんが困ってしまうわ。」
「えっ」
ファイノンの視線がこちらへ戻る。ヒアンシーは笑顔で首を横に振った。トリスビアス様や他の皆さんがおっしゃるように、考えなくて大丈夫です、という意味である。ファイノンはますます分からない顔をしたが、追及はしなかった。
今日の彼は、分からないことだらけのまま、みんなのペースへ運ばれている。そのことが少し可笑しく、少しだけ愛おしかった。
キャストリスの席には、いつの間にか温かな飲み物が用意されていた。湯気がほそく立ち上り、星の光の中で淡くほどけていく。誰が置いたのかは分からない。アグライアかもしれない。トリスビアスかもしれない。あるいは、サフェルが気まぐれに手配したのかもしれない。
けれど、この場にいる者たちなら不思議ではなかった。誰かのために、いつの間にか何かが用意されている。終末を越えた今だからこそ許された、ささやかで贅沢な手間だった。
キャストリスは、その湯気を見て小さく目を見開き、それからそっと礼をするように睫毛を伏せた。彼女の手は、もうファイノンの腕から離れている。けれど、完全に距離を取ったわけではなかった。いつでも声をかけられる近さに立ち、けれど触れすぎない位置を選んでいる。その細やかな距離感に、ヒアンシーは胸の奥を温かくした。
ファイノンは、その光景をゆっくり見渡していた。
誰もがいる。誰もが座っている。誰も武器を構えていない。誰も彼に命令をしない。誰も助けを求めて走り込んでこない。卓を囲み、杯を持ち、菓子を食べ、時折笑う。それだけの場所。英雄でも神でもなく、ただ同じ卓を囲む者たちとして過ごすための場所。
彼の瞳に、その光景がどのように映っているのかは分からない。ヒアンシーは、彼の内心を読むことはできない。ただ、彼が一度だけ息を吸い、少し遅れて吐いたことに気づいた。深いため息ではない。疲労の吐息でもない。
ただ、長い通路を歩いてきて、ようやく部屋に入った人がするような、ごく自然な呼吸だった。それだけでよかった。
「ファイノン様、こちらへどうぞ。」
ヒアンシーは、柔らかく声をかけた。
「ここに座ればいいのかな?」
「はい。今日は立ったまま皆さんのお世話をするのは禁止ですよ?」
「まだ何もしてないよ。」
「今後の予防です!」
「よ、予防……。」
ファイノンは苦笑した。けれど、素直に椅子の方へ歩いてくれる。ヒアンシーは、今度こそ強く腕を取らなかった。彼が自分の足で、休む場所へ向かう。それが大事なのだと思ったからだ。
椅子の脚が床石を小さく擦る。星明かりが青い外套の裾をなぞり、卓上の茶器に細い光を落とした。ファイノンが席の前で足を止めると、周囲の視線が一瞬だけ集まる。誰も急かさない。誰も大げさに歓迎しない。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。むしろ、ようやく彼がこの輪の中へ戻ってきたことを、静かに受け止めているようだった。ヒアンシーは、その輪郭を見つめながら思った。やはりファイノン様に必要なのは、きっとそういう時間です。胸の内でそう呟き、ヒアンシーは自分の席へ向かった。
キャストリスも、用意されていた温かな飲み物の前へそっと腰を下ろす。サフェルのグラスが軽く鳴り、トリスビアスの笑い声がそれに重なる。モーディスは黙って杯を手に取り、アナイクスは本を閉じはしないまま、頁へ落としていた視線を卓の方へ戻した。アグライアは、静かな微笑を浮かべている。
彼らの頭上では、星々の光が降り続けていた。
終末のあとに残された者たちが、ようやく手に入れた束の間の安息。その中心に、ファイノンがいる。剣を持たず、命令を背負わず、誰かを助けに立ち上がる前に、まず椅子へ座らされる青年として。
それは、ほんの小さな勝利だった。
まだ何も解決していない。彼が本当に休めるかどうかも、まだ分からない。見た目ではやはり何も分からず、彼はいつも通り穏やかに笑っている。けれど、少なくとも今この瞬間、彼は星の降るドームの中で、皆と同じ卓を囲んでいる。
ヒアンシーは、そっと息を吐いた。その吐息は、降り注ぐ星明かりに溶けて、誰にも聞こえないほど静かに消えた。
ページと頁で表現に悩むます……。