終末を越えた後、黄金裔たちは一つの決断を下した――英雄を、休ませること。星の降るドームに集められたのは、束の間の安息と、ささやかな日常。
だが当のファイノンは、その意図に気づかないまま、ただ素直に招きを受け取る。善意はすれ違い、優しさは言葉を選ぶ。誰もが彼を守ろうとしながら、どう触れていいか分からないまま、静かな時間が始まろうとしていた。
ファイノンが椅子へ腰を下ろした時、星明かりが彼の外套の裾を静かになぞりました。
それは、勝利というにはあまりに小さく、祝福というにはまだ慎重さを要する光景でした。けれど、
衣装の大きな綻びは、一度に直すことはできません。無理に引けば、布はさらに歪みます。まずは糸を通し、裂け目の端を確かめ、力を入れるべき場所と、決して引いてはならない場所を見極める――人も、同じです。
彼は、椅子に座ってなお、どこか落ち着かなさそうに周囲を見ていました。誰かの杯が空いていないか。卓上の皿が遠くないか。そうした細かなものへ、彼の視線は自然と向かいます。けれど、手は伸びませんでした。
ヒアンシーと
皆が何も言わないようでいて、きちんと見ている。その事実に、私は胸の内で小さく息を吐きました。終末を越えたあとに得た安息とは、ただ静かな場所を持つことではありません。
誰かが立ち上がりそうになった時、別の誰かが「今はそのままで」と言えること。与えられた椅子に座る人を、遠巻きに拝むのではなく、隣に置いた茶器の湯気で包めること。そういう、ささやかな営みの集積なのだと思います。
他の仲間から聞かされた話を念頭に、注視してみても。私の目から見ても、ファイノンは至っていつも通りでした。顔色が悪いわけでも、呼吸が乱れているわけでもありません。背筋も伸び、返事も穏やかで、どれだけ注意深く見ても、はっきりとした異変を拾うことはできませんでした。
せいぜい服の乱れがある程度ですが、作業をしていたからと言われてしまえばそうだろうと思えるものです。けれど、問題はそこではないのです。
彼は、整いすぎている。あまりにも自然に、人のための形へ自分を合わせてしまう。仕立て屋の目で見るなら、それは美点であると同時に危うさでもありました。着る者に合わせすぎた布は、いつか自分の織りを失います。
支えるためだけに張られた糸は、切れるまで悲鳴を上げないことがある。だから今日は、こちらが彼に合わせるのではなく、彼を休息の形へ少しずつ導く必要がありました。
「ファイノン、飲み物は何にしますか?」
私は、なるべく何気なく問いかけました。問いの形にしたのは、彼に選ぶ余地を渡したかったからです。けれど同時に、選択肢を広げすぎてはならないとも思っていました。
彼は、こういう時、必ず他者を優先する人ですから。皆と同じでいい。余っているものでいい。手間のかからないものでいい。そう言う可能性が、高い。
「そうだなぁ……」
案の定、彼は少しだけ困ったように笑いました。その笑みは柔らかく、礼儀正しく、場を乱さないためによく整えられています。
けれど、私はそこに小さな迷いを見ました。飲みたいものを探す迷いではなく、何を選べば相手の手を煩わせないかを測る迷いです。瞳が茶器へ向き、果実水へ向き、卓上に並んだ杯の数を数えるように揺れる。その一瞬の視線の動きだけで、彼がまた「残っているもので」と言いかけているのが分かりました。
私は、静かに目を細めました。それ以上、選ばせてはなりません。今日の目的は、彼に遠慮の余白を与えることではないのです。
「ファイノン。あなたには、金色のうつくしい蜂蜜の紅茶を淹れて差し上げましょう。」
「……?」
彼の視線が、私へ戻りました。
私は茶器へ手を伸ばしながら、少しだけ笑みを含ませます。指先で蓋を持ち上げると、乾いた茶葉の香りが、星明かりの下へふわりとほどけました。落ち着いた香り。深く、温かく、甘さを受け止めるだけの芯がある茶葉です。
「ふふ。――いつかの回帰で、『私の淹れた紅茶で一息つかせてみせます』。この宣言通りに。」
一瞬だけ、ファイノンが目を見開きました。その反応は、とても小さなものでした。肩が跳ねたわけでも、声が漏れたわけでもありません。星明かりを映した青い瞳が、ほんのわずかにほどけ、同時に遠くへ触れたような色を帯びたのです。
遠い記憶。
幾度もの回帰の中で、幾度となく折り畳まれ、重ねられ、別の布地の下へ隠れてしまった約束。誰かが覚えていなくても仕方がないほど、長い長い時の継ぎ目に置かれた小さな言葉でした。それを覚えていたのか、と問うような視線でしたが、答えません。
ただ、蜂蜜の器を手元へ引き寄せました。金色の蜜は、星の光を受けてとろりと輝いています。スプーンで掬うと、細い糸のように落ちました。美しい糸です。けれど、甘さはただ飾るためにあるのではありません。苦みを殺さず、熱を柔らかくし、飲む者の喉を静かに通すためにある。今日の一杯には、それがふさわしいと思いました。
「……お、覚えていてくれたんだね。」
ファイノンの声は、少しだけ掠れていました。けれど疲れのそれではありません。言葉を選ぶ前に、記憶が先に喉元へ触れたような響きでした。
「はは、恥ずかしいな……アグライアみたいに立派な指導者ではなかっただろう、あの姿は。」
私は、蜂蜜を溶かす手を止めませんでした。茶器の中で金色が円を描き、やがて温かな琥珀へと馴染んでいきます。彼の言葉は控えめで、笑みも穏やかです。けれど、その布目には、いつもの癖がありました。
自分のこととなると、すぐに一歩下がる。称えられるべきものを、恥ずかしさや不足の名で折り畳もうとする。――そもそも、我が身が囚人であるかのように。
それは、少し違います。私はカップを整え、彼の前へ差し出す前に、きちんと言葉を選びました。強く糾す必要はありません。けれど、歪みをそのままにしておく必要もないものです。
「そのようなことはありませんよ。」
私の声に、卓の上の小さな音が静まりました。他の方がこちらを見ているのが分かります。私はファイノンだけを見ました。彼を大勢の視線の前で追い詰めるためではありません。ただ、この言葉だけは、曖昧にしてはならないと思ったからです。
「私たち皆の意志を引き継ぎ、抱え、走り続けてくれた、他者を思いやれる立派な指導者の姿でした。」
ファイノンの指が、膝の上でわずかに動きました。逃げるほどではなく、否定するほどでもありません。ただ、言葉を受け止める場所を探しているような、ほんの小さな動きです。
「それに、私があなたとの約束を忘れるわけがありません。他にも覚えていることはありますよ。」
「……他にも?」
「ええ。けれど、今日はまず、この一杯からです。」
私は、紅茶を彼へ差し出しました。
「あ、え……」
蜂蜜の黄金色が、星明かりを受けて揺れています。湯気は細く立ち上り、彼の白い髪の前で淡くほどけました。香りは甘く、やさしく、けれど子供じみた甘さではありません。長く働いた手を休ませるための甘さ。硬くなった呼吸を、内側からほどくための温度です。
ファイノンはしばらく、その湯気を見つめていました。カップへすぐに手を伸ばさない。けれど拒むわけでもない。まるで、自分の前に置かれたものが本当に自分のためのものなのか、最後の折り目を確かめているようでした。
私は急かしませんでした。衣を仕立てる時も、最後の一針を急ぐと全体が歪みます。受け取ることに不慣れな人へ何かを差し出す時も、同じです。どうぞ、と言ったあと、相手が手を伸ばすまで待つ。それもまた、整えるために必要な時間でした。
やがて、彼の肩が、ほんの少しだけ下がりました。疲れていたから、とは言い切れません。見た目で分かるほどのものではないのです。ただ、張られていた糸の一本が、音もなく緩んだように見えました。
「……ありがとう、アグライア。」
「どういたしまして。冷めないうちに、少しずつ召し上がってください。」
「うん……。」
そう答えると、彼は小さく頷きました。私は、その頷きに満足しました。幼い少女時代から抱えてきた長い長い宿題を、ようやく一つ片付けられたような心地です。
もちろん、これで終わりというわけではありません。けれど、約束とは不思議なものです。たとえ小さな一杯の紅茶であっても、果たされるべき時に果たされれば、人の心のどこかを確かに繋ぎ直すことがある。
ファイノンは、私の隣へ誘導されると、自然に腰を落ち着けました。ちょこん、と言ってしまえば、少し幼すぎるでしょうか。けれど、そう表現したくなるほど、その仕草は無防備でした。今の彼は、英雄であり、救世主であり、オンパロスを終末から導いた人です。それでも、両手でカップを包み込む姿には、まだ少年だった頃の面影がふと重なります。
エリュシオンからオクヘイマへやって来たばかりの頃。
背丈は今より低く、瞳はまっすぐで、誰かの役に立ちたいという願いを、隠しきれない光として宿していました。褒められれば照れ、何かを与えられれば恐縮し、それでも差し出された温もりだけは、とても大切そうに抱えていた少年です。
今、彼の手の中にあるカップも、あの頃とよく似た扱われ方をしていました。大切に、慎重に。こぼさないように。熱を逃がさないように。与えられたものを、粗末にしてはならないとでも言うように。
私はその横顔を見つめました。白い髪の先が、湯気に触れてわずかに揺れます。外套の襟元はきちんと整っていて、身だしなみに乱れはありません。
疲れや弱りを示すものは、やはり見えない。けれど、紅茶を両手で包んでいるその姿には、戦場の中心に立つ英雄とは違う静けさがありました。誰かを庇うために構えた手ではなく、温かなものを受け取るために添えられた手。その差は、小さいようで、とても大きいのです。
向かい側で、師匠と目が合いました。彼女は菓子をつまむ手を止め、穏やかに笑っています。その笑みの奥にも、同じものが映っているのが分かりました。今の彼に重なる、かつての少年。強くなり、遠くまで走り、幾度も名を変え、それでもなお、人の好意を受け取る時だけは少しぎこちなくなる青年。
私たちは、言葉を交わしませんでした。
視線だけで十分でした。
「……おいしい」
ぽつりと、ファイノンが言いました。その声は大きくありません。けれど、卓を囲む者たちの耳には、きちんと届いたでしょう。
セファリアのグラスがわずかに止まり、ヒアンシーがぱっと明るい顔をして、キャスの指先が自分のカップを包み直しました。モーディスは表情を変えませんでしたが、飲み物へ口をつける動作が少しだけ緩やかになったように見えます。あの男は、頁をめくらずにいました。
「それは何よりです。」
私は、口元が柔らかく綻ぶのをそのままにしました。
ファイノンはもう一口、紅茶を飲みました。今度は先ほどより少しだけ時間をかけて、味を確かめるように。カップを戻す時、指先の動きが丁寧でした。まるで自分の手の中にあるものが、今ここにある現実の証であるかのように、彼は湯気の向こうを静かに見ていました。
その瞳に何が映っていたのか、私には分かりません。けれど、時折、彼は現実の縫い目を確かめるような顔をします。星の降るドーム。卓を囲む仲間たち。自分のために淹れられた紅茶。そうしたものをひとつずつ目でなぞり、破れていないか、ほどけていないか、確かめるような眼差しです。だから私は、何も言いませんでした。
ただ、隣に座り、茶器の位置を整えます。彼がこの光景を急いで理解しなくてもいいように。何かを説明しなくてもいいように。ただ座って、温かなものを飲み、誰かの声を聞いていればよいのだと、この場そのものが伝えてくれるように。
その時、師匠がくすりと笑いました。
「ファイちゃん、なんだか巣箱に帰ってきた蜂さんみたいね。」
「え、蜂? 僕が?」
ファイノンが瞬きをしました。紅茶のカップを持ったまま、少しだけ首を傾げる。その反応に、サフェルが肩を震わせます。ヒアンシーは、笑ってよいのか心配してよいのか迷う顔をしていました。
「ええ。働きすぎの蜂さんよ。」
「えっと……それは、働き者ってことかな? ありがとう。」
あまりにも自然に返された感謝に、私は思わず目を伏せました。――ええ、そこなのです、ファイノン。ヒアンシーも、きっと同じところを見ているのでしょう。
称賛の半分だけを受け取り、注意の半分を綺麗に畳んで脇へ置いてしまう。その所作は、とても彼らしいものでした。本人に悪気はありません。むしろ、言葉を好意として受け取ろうとしているのでしょう。だからこそ、周囲は扱いに迷うのです。
名だたる黄金裔たちを見守ってきた、私たちの中では最年長の
「んー、半分くらいはそうなのだけど……もう半分は、『黒衣の神官様ったら、ぜんぜん休んでくれないのだもの。これは
「そ、っん、ごほっ!」
見事な一撃でした。
ファイノンは紅茶を飲み込みかけたところで咳き込み、慌ててカップを両手で支え直しました。こぼしはしません。そこはさすがと言うべきでしょうか。
けれど、視線は明らかに横へ逸れました。頬に熱が上ったようにも見えますが、咳き込んだせいと言われればそれまでです。しかし、私たちにとっては、今の反応だけで十分でした。己の状況に心当たりがある。少なくとも、動いていないと落ち着かない自覚がまったくないわけではないのでしょう。
数日前、似たようなことを零していましたが。彼にとっては軽い吐露だったのかもしれません。けれど、受け取った側にとっては、軽く畳んでしまえる布ではありませんでした。
「ファイノン、大丈夫ですか?」
「う、うん。大丈夫。少し、驚いただけで……」
「それなら、今はゆっくり飲みましょう。紅茶は逃げません。」
「紅茶は逃げないけど……」
「はい。あなたも、今はここに。」
私が静かにそう言うと、ファイノンは口を噤みました。強く言ったつもりはありません。けれど、声の温度は少しだけ下げました。叱るためではなく、布目を正すためです。逃げる、という言葉を彼がどう受け取るかは分かりませんけれど、ここで曖昧に笑って流してしまえば、彼はきっとまた「少しだけ」と立ち上がるでしょうから。
ファイノンは困ったように眉を下げ、それから小さく頷きました。
「……分かった。今日は、ここにいるよ。」
「ええ。それで十分です。」
十分、と言いながら、私は本当は十分ではないことも知っていました。五分座れたなら、次は十分。十分座れたなら、十五分。ヒアンシーなら、きっとそんなふうに考えるでしょう。
私も同じです。人の在り方は、一日で仕立て直せるものではありません。強く引けば裂けます。甘く見れば歪みます。だから、少しずつ。本人が自分で立っていると思える距離を残しながら、必要な支えを縫い込んでいく。
それは、都市を預かることにも似ていました。オクヘイマもまた、終末を越えたあと、すぐに穏やかな形へ戻ったわけではありません。崩れた柱を直し、失われた道を繋ぎ、恐れの残る人々の声を聞き、祭礼の灯を戻し、日々の営みを少しずつ取り返していく。誰かの心も、世界も、修復の手順はそう変わらないのかもしれません。
星々の光が、彼のカップの表面で揺れました。蜂蜜の金色は、茶の琥珀に溶けて、もう境目がありません。けれど、確かにそこにある。甘さとして、温度として、喉を通る柔らかさとして。
「それにしても、アグライアの紅茶、本当においしいね。」
ファイノンが、少し照れたように言いました。
「ふふ。そう言っていただけるなら、淹れた甲斐があります。」
「
その言葉に、私は一瞬だけ手を止めました。彼は、そう言いました。冗談のように、懐かしむように。けれど、その一言の奥には、長く折り重なった時の層があります。
キュレネ――その名は、軽やかに口にされたにもかかわらず、空気の中でわずかに重みを帯びました。私は視線を落とし、茶器の縁へ指先を添えます。ほんの一瞬のことです。
けれど、その名が触れた場所には、確かに別の時間の織り目がありました。彼の中で、今もなおほどけずに残っている糸。あるいは、ほどけてしまったまま、結び直されていない糸。
彼は、何気なく言ったのでしょう。誰かに何かを与えたいと願う時の、あの自然な言葉の流れで。自分が受け取ったものを、別の誰かにも渡したいと願う、その優しさの延長で。
けれど、その優しさは時に、過去と現在の境目を曖昧にします。私は顔を上げ、彼を見ましたが、ファイノンは、まだカップを両手で包んだままです。視線は紅茶へ落ちていて、先ほどの言葉を深く掘り下げる様子はありません。ただ、思い出したものを、そのまま口にしただけのように見えました。
だからこそ、私は言葉を選びます。ここで無理に問い返せば、その糸は強く引かれてしまうでしょう。けれど、何も触れなければ、彼はまた同じように、自分の内側を軽く扱ってしまう。――ですから、ほんの少しだけ、整える必要があります。
「……そうですね。彼女にも、きっと似合う味でしょう。」
肯定はします。けれど、踏み込みすぎないように。ファイノンが顔を上げました。少しだけ驚いたような、けれど安心したような表情です。否定されなかったことに、ほっとしたのかもしれません。
「うん。きっと、好きだと思う」
その言葉に、私は小さく頷きました。好きだと思う――その言い方は、現在形ではありません。確信でも断言でもなく、あくまで彼の中にある記憶の温度で語られたものでした。
「……ですから、今のあなたが飲んであげてください。彼女に、あなたの
「僕が……伝える……」
彼はすぐには答えませんでした。カップを包む指が、少しだけ強くなります。湯気が彼の目元を淡く隠し、表情の細部をぼかしました。
けれど、沈黙は拒絶ではありませんでした。受け取った言葉を、どこへ置けばよいのか探している沈黙です。私は待ちました。ゆらりと蒼の瞳を泳がせた彼は、やがて困ったように、けれど少しだけ柔らかく笑いました。
「……うん。ありがとう。」
「どういたしまして。」
師匠が、その様子を見て、また小さく笑いました。けれど今度は、からかいの色を少しだけ薄めた笑いでした。彼女の瞳には、遠いものを見た人特有の静けさがありましたが、その先へ踏み込む言葉はまだ選ばれていません。
それからしばらく、星の降るドームには、穏やかな沈黙が降りました。誰かが茶器を置く音。セファリアが果実酒を揺らす小さな音。キャスがそっと息を吐く気配。
ヒアンシーがファイノンの様子を確認しながらも、無理に声をかけずにいる沈黙。ヒュポクリテスが頁を押さえる指の動き。モーディスが杯を卓へ戻す重い響き。――そのすべてが、ひとつの布の上に置かれた刺繍のように、静かに場を満たしていました。
ファイノンは、紅茶をもう一口飲みました。両手でカップを包み、目を伏せ、甘い湯気の向こうで、ほんの少しだけ呼吸を整えています。
その姿を見て、私は胸の奥で、ようやく一針分だけ糸が通ったような心地になりました。まだ、織り直すべきところは多いのでしょう。けれど今日のところは、これでいい。彼が立ち上がらず、誰かのために走り出さず、自分の前に置かれた紅茶を大切そうに飲んでいる。それだけで、この休息は確かに始まっているのです。
私は茶器へ手を添え、冷めかけた自分の紅茶を一口含みました。蜂蜜の香りが、星明かりの中で静かにほどけていきます。
ファイノンの隣で、私は何も急がないことを選びました。急がないこと。問いを重ねないこと。褒めすぎず、責めすぎず、ただ彼が受け取った温度を手放さないよう、同じ卓で見守ること。
それが今の私にできる、最も確かで、充実した仕立てでした。
雅でお洒落で、どこかいい香りがする文章を目指したかった……。
でも、文字に香りはつかないんだよ……。
■補足:アグライア→他黄金裔の呼び方
本作では、ひとまず以下の呼び方で統一しています。
……でも、アグライアさん。
どうしてアナイクス先生にだけ、そんなに呼び名のバリエーションがあるんですか……?
オイラの言葉の引き出し、足りるかな……。
・ヒアンシー、セイレンスはそのままです。
例外として、
・ファイノン(ファイノン、あの子)
・サフェル(セファリア、あの子)
・アナイクス(ヒュポクリテス、アナクサゴラス、あの男……以下省略)
・トリスビアス(師匠)
・キャストリス(キャス)
・モーディス(モーディス、メデイモス)
・ケリュドラ(カイザー)