微睡みの庭を歩くファイノンは、星明かりの下で、ひとつの古びた木工の花籠を見つける。それは、遠い昔、エリュシオンで幼いカスライナがキュレネと共に作った小さな籠だった。
指先に残るざらつきは、失われたはずの故郷を呼び覚ます。ラズベリーを摘んだ帰り道、母に叱られた夕暮れ、隣で笑っていた少女の声。キュレネが残したのは、英雄の偉業だけではない。誰にも称えられなかった日々、ただ生きていた少年の記憶までも、彼女はそっと拾い集めていた。
やがてその静かな奇跡は、ファイノンだけでなく、オンパロスの民にも広がっていく。忘れたと思っていた暮らしの欠片が、人々の胸へ帰ってくる。
ヒアンシーは静かに周囲を見渡した。
並んでいるのは、王の玉座でもなければ、英雄の武勲を刻んだ記念碑でもなかった。それらは誰かが毎日使っていた器であり、祭りの日に飾られた工芸品であり、家族の手から手へ受け継がれてきた暮らしの欠片だった。
つまり。
(……この不思議な空間は、オンパロスという世界を形作っていた人々の営みそのものを残そうとした場所だったのでしょう。)
朝早くに火を起こした手。祭りの支度で慌ただしく動き回った足音。子供が欠けさせた水差し。祖母が何度も繕った布。名前を歴史に刻まれることなく、それでも確かにオンパロスを今日まで支えていた無数の人生。ヒアンシーは、そこにある細やかさに息を呑んだ。
そのひとつひとつを、誰かが拾い上げていたのです。雨上がりに差し込む陽だまりのように、そっと頭を優しく撫でられている気分になりました。
「……あっ」
引き裂かれたテーブルクロスを見つけて、ヒアンシーは目を丸くする。馴染み深くはないけれど、見覚えがあるものではあった。
永劫回帰のさなか。黄金裔たちが絶対的な敵と定めていたフレイムスティーラーが、崖から転落したヒアンシーを助けるために身を包み、そのまま大地へかえてくれたことがあったのだ。おそらくは、あのときの布なのでしょう、と思った。
ヒアンシーには、あの時は理解できなかった。なぜ敵だったはずの人が助けてくれたのか。なぜ、あんな行動を選んだのか。
けれど今なら分かる。
(……ファイノン様は、目の前で困っている方を放っておけない人ですから。)
たとえ自分がどれほど苦しくても。どれほど傷ついていても。誰かを助けるためなら、迷わず手を差し伸べてしまう人なのだ。
ヒアンシーはそっと布へ近づく。そして、その表面に残された痕跡を見つけた。人の手形を中心に広がる、焼け焦げた跡。まるで誰かが熱を押し留めるように、必死に手を当てていたかのような痕だった。
(あぁ……、やっぱり……)
その瞬間、ヒアンシーの胸がきゅっと締めつけられる。あの時、自分を守るために。誰かを助けるために。彼は確かにそこへ手を伸ばしたのだ。
(やっぱり、ファイノン様が仰るような、心ない化け物じゃありません……! あなたは、あなたのままだったのです……っ)
何も語らずとも、その焼け跡が証明していた。
……
…
ファイノンは少し離れた場所からその光景を見つめていた。
誰かが欠けた水差しを見つけ、誰かが祖母の織り柄に涙ぐむ。ヒアンシーが焼け焦げた布の前で言葉を失い、サフェルが目を伏せて沈黙している。微睡みの庭に満ちているのは、悲しみだけではなかった。驚きと、懐かしさと、痛みと、ようやく何かを取り戻した者たちの吐息。そのひとつひとつが、星明かりの中で静かに揺れていた。
ファイノンは、木工の花籠を抱え直した。指先に伝わるざらつきを確かめるように撫で、それから静かに息を吐いた。
永劫回帰の中で、ファイノンは世界の歩みを記録し続けた。滅びゆく都市も、火を追う旅路も、名もなき人々の生も死も、そのすべてを見届け、背負い、歳月の儀礼剣に蓄積してきたのである。何度世界が終わろうとも、誰にも知られず消えていく日々があろうとも、彼だけは忘れまいと決めていた。――そしていつか、運命の共走者である
けれど、ファイノンが刻んだものは、あくまで記録だった。いつ、どこで、誰が生き、誰が倒れたのか。何が失われ、何が残されたのか。世界が辿った歩みを取りこぼさぬよう、彼はただひたすら刻み続けた。
それは誰かに褒められるためではない。自分自身のためですらない。ただ、忘れてはならないと思ったからだ。忘れれば、そこに生きた人々が本当に消えてしまう気がした。だから記録し続けた。意味や報いを求めるより先に、それだけは手放してはならないと信じていた。
しかし、その道のりは、決して穏やかなものではなかった。
心身ともに焼き尽くす炎の熱を抱きながら、幾度となく世界の終わりを見届けた。喪失に胸を裂かれ、救えなかった命に手を伸ばし、それでもなお歩みを止めることは許さなかった。
やがて、その熱は感情すら焼却していった。悲しみも、怒りも、願いも。抱え続ければ立ち尽くしてしまうものを、ひとつずつ炎の奥へ押し込めた。なんのために続けるのかを考えるよりも、為さなくてはならない使命だけを抱えることにした。一度決めたことは曲げない。という己の信条を信じて。
だからこそ、その信条を揺るがぬものとするために、何度も己の魂を砕いた。迷いも弱さも焼き払い、ただ
(――僕は覚え続けるんだ。誰も覚えていなくても、僕だけは、)
滅びた都市も、名もなき人々の暮らしも、火を追った旅路も。誰も覚えていなくなったとしても、僕だけは覚えていようと決めていた。だから背負った。だから記録した。
彼は、その重みを誰よりも知っている。幾度も滅びを見届け、そのたびに失われていく名前や景色を拾い集め、忘れられないまま抱え続けてきたのだから。彼が残したのは事実であり、足跡であり、世界の歩みそのものだった。
だが、それだけでは人の胸に帰る道にはならない。――キュレネは、それを物語にした。故郷を同じくした
そのページのもとになったのは、彼が永い歳月をかけて集め続けた無数の断片だった。滅びの記録だけではない。誰かが交わした挨拶も、食卓を囲んだ夜も、名も残らぬ人々のささやかな願いも、彼は失われぬよう抱え続けていた。キュレネは、その事実を人々が手を伸ばせる形へ編み直したのである。
ただ保存するのではなく、ただ陳列するのでもなく、彼が守り抜いた記憶に陽だまりの色を添え、星明かりを散りばめ、誰かが笑い、泣き、愛した軌跡として語り直した。
だからこそ、この場所には温度があった。
記録だけでは生まれない温度だ。
彼には、それが少しだけ眩しかった。
自分が刻んだものは、もっと冷たいものだと思っていた。
必要だから残した。忘れてはならないから背負った。滅びゆく都市も、途絶えた名前も、救えなかった命も。何度世界が終わろうと、それだけは手放してはならないと。次に同じ滅びを迎えないために。誰かがいつか正しく辿れるように。痛みも、過ちも、死も、ひとつ残らず刻み続けた。
それは彼にとって役目だった。祈りと言うには硬すぎて、愛と呼ぶには不器用すぎるものだった。けれど、それでも彼は手放さなかった。忘れられてしまうことの方が、ずっと恐ろしかったからだ。
けれどキュレネは、その不器用な記録の中から、花の種を拾い上げていた。彼が失われぬよう刻み続けた世界の歩みに、彼女は人が帰れるぬくもりを与えたのである。
滅びの時刻だけではなく、その前に交わされた挨拶を。戦いの経過だけではなく、帰りを待っていた灯を。死者の数だけではなく、その人が最後まで大切にしていた器や、布や、玩具を。
そのことが、彼には嬉しかった。正直、嬉しい、と呼んでいいのかは分からない。けれど、胸の奥に灯ったものは確かに冷たくなかった。
きっと僕だけじゃこんな場所にはできなかっただろう。記録は残せても、眠るための庭にはできなかった。名前を刻むことはできても、「おかえり」と言える場所にはできなかった。
僕の知ってる彼女だから、できたんだ。そう思った瞬間、彼の表情に、困ったような、けれど誇らしげな笑みが浮かんだ。
もしこの場で誰かが、”無名の救世主”の成し遂げた偉業を声高に讃えたなら、”彼”はきっと首を振っただろう。自分の成したことなど大したものではないと。僕はただ、忘れないようにしていただけだと。必要なことを、必要な分だけ続けただけなのだと。けれど、それでも。彼は、誰よりも長くこの景色を眺めている。
自分が刻んだ記録が、キュレネの手によって物語となり、人々の涙と笑みに触れている。その光景を、彼は見届けていた。見届けることしかできないと思っていた青年が、今は、見届けた先に咲いたものを見ている。
ファイノンは、そっと目を伏せた。よかった、と。その言葉が、胸の奥に浮かぶ。自分が運んできたものは、無駄ではなかった。失われたと思っていた日々は、ただ剣の奥に沈んでいたわけではなかった。
キュレネが受け取り、綴り、温かなページへ変えてくれた。そして今、人々はそのページへ手を伸ばしている。
なにより彼女は、本当に物語を信じていたのだ。……信じてくれていたのだ。血と火の章で終わらせず、その先に花の名を持つ頁を続けた。勝利のためではなく、敗北を数えるためでもなく、ただ生きていた者たちが、もう一度自分の名前と暮らしを取り戻せるように。
彼女の父親を差し置いて、彼は、誰よりもキュレネの綴る物語を愛していた。そして今、その続きを信じ続けたひとりとして、静かにそこに立っている。
(――僕たちは、やり遂げた。……その答えは、君がもうくれたよね。)
称えられるためではなく。報われるためでもなく。ただ、誰かが明日へ進めるなら、それでいいと本気で思ってしまう人。彼は、そういう人だった。
だからこそ、花園に満ちる人々の声を聞きながら、ファイノンはもう一度だけ、木工の花籠を抱く腕に力を込めた。
「黄金裔様は……私たちのことまで、覚えていてくれたんだね」
不意に、言葉が耳に届く。
その声は小さかったが、星明かりの下では不思議なほどよく響いた。叫んだわけではない。誰かへ聞かせようとしたわけでもない。ただ、胸の奥に沈んでいた思いが、耐えきれずに零れたような声だった。
木工の花籠を抱く指先が、ほんのわずかに強張る。覚えていた、という言葉が、自分へ向けられたものだとすぐには受け取れなかった。彼にとって記録することは、褒められるような行いではなかったからだ。息をするように、剣を握るように、倒れた者の名を拾い上げるように。たとえ数多の命と相対することになり、世界の災厄と誹りを受けようとも、ただ為すべきことだった。
彼は、覚えていることを誇りにしたことなどなかった。忘れられないことを、祝福だと思ったこともない。むしろそれは、いつだって重かった。
失われた人々の名を、死に顔を、最後の言葉を、途切れた祈りを、誰にも預けられないまま抱え続けることは、炎の中で生きることに似ていた。けれど今、その記憶に救われる者たちがいる。
彼は、少しだけ目を細めた。
オクヘイマでファイノンが唱えた誓い。常日頃から口癖のように出る、意地のようで、矜持のようで、決して軽くはない宣言。それは、誰に命じられたわけでもない。誰に称えられるためでもない。ただ、そう在ると決めたから口にしてきた言葉だ。
――「ケファレは決して忘れない」
それは、
日々の営みを見下ろし、朝の水汲みも、夕餉の匂いも、祭りの歌も、子供の泣き声も、すべて世界の一部として数える者の宣言。歴史の表舞台に立つ英雄だけではない。名を刻まれないまま生き、笑い、泣き、誰かを愛して去っていく無数の人々を、決して置き去りにしないための誓い。
だが、ファイノンにとってその言葉は、もっと切実なものでもあった。忘れない、と言わなければ、忘れてしまいそうだったからではない。むしろ逆だ。
忘れられないからこそ、誓いにしなければならなかった。あまりにも多くのものを抱えすぎた心が、ただ苦しみとして記憶を抱くのではなく、誰かの明日へ繋げるために。
「……忘れないよ」
誰に向けたものでもないような声で、ファイノンは小さく呟いた。花籠を抱く腕に、また少しだけ力がこもる。記憶の重みは消えない。消えるはずもない。けれど、その重みの中に、温もりが混じっていることを、彼は今、初めて指先で確かめている。
「忘れない。君たちが、ここにいたことを」
その声は静かだった。けれど、近くにいた者たちは確かに聞いた。ヒアンシーも、サフェルも、そして花園のどこかで涙を拭っていた人々も。
誰も拍手などしなかった。歓声も上がらなかった。ただ、いくつもの視線が、青い外套の青年へ向けられる。――その中にあったのは、崇拝だけではない。感謝と、痛みだった。そして、どうかあなた自身も帰ってきてほしいという、言葉にならない願い。
彼は、その願いにまだ気づいていない。
ただ、人々が自分の記憶の中に帰る場所を見つけられたのなら、それでいいと思っていた。キュレネが編んだ物語が、誰かの涙を受け止められたのなら、それで充分だと。