終末を越えた後、星の降るドームに集った黄金裔たちは、束の間の安息を分かち合っていた。軽い冗談と紅茶の香りに包まれた穏やかな時間。
しかし、トリスビアスの何気ない言葉は、ファイノンの奥底に沈んでいた記憶へ静かに触れる。かつての永劫回帰、聖女たちの断片、そして傍らに立ち続けた黒衣の青年。語られなかった過去の重みが、わずかな沈黙となって卓上に落ちる。
彼はただ「止められなかった」と告げ、彼女はそれを一人の罪にさせまいとする。誰も踏み込まず、誰も見過ごさないまま、彼らは再び日常へ戻ろうとする――だが、その静けさは、次の問いを呼び込む前触れでもあった。
このまま続けば、穏やかな休息で終わるはずだった。
少なくとも、アナイクスはそう判断しかけていた。星の降るドームには、茶葉の香りと蜂蜜の甘さが穏やかに混じり、卓の上では菓子皿の縁が淡い光を受けている。果実酒のグラスが揺れるたび、琥珀色の表面に星が小さく砕け、誰かの袖が食器に触れる音が、戦場ではない場所の静けさを丁寧に証明していた。
剣戟もなく、号令もなく、泣き声もない。休息というものは本来、この程度に淡く、退屈で、だからこそ得がたいものであるべきなのだろう。しかし有意義に時間を使おうと思えば、今頃、自分は研究室の机に向かっているはずだった。
ファイノンは椅子に座ったまま、アグライアの淹れた紅茶を両手で包んでいた。見た目には異常らしい異常はない。
嘘は下手くそなのに各仕事ばかりが上達してしまったこの生徒の疲労や弱りを見抜こうとしても、アナイクスの目に映るのは、せいぜい「妙に素直に座っている」という程度の違和感だった。だが、その「程度」を軽んじるべきではないとも、アナイクスは理解していた。
この青年は、目に見える破綻を待っていては遅い。目に見えて崩れる前に、言葉の端や行動の癖、説明の選び方、相手の負担を減らそうとする反射の中へ、危ういものを折り畳んでしまう。授業であれば、まず前提条件を確認し、用語を定義し、論理の飛躍を正す。だが人間は、命題よりも厄介だった。特に、ファイノンという生徒は。
トリスビアスの言葉が触れた遠い記憶について、誰もそれ以上を問わなかった。聖女としての彼女が覚えているものと、フレイムスティーラーとして傍にいた彼が覚えているもの。その間には、迂闊に手を入れれば指先を切るような薄い刃が挟まっている。
サフェルが果実酒を揺らす手を止め、ヒアンシーがファイノンのカップの減り具合を見ながら何かを飲み込んだのも、キャストリスが伏せた睫毛をゆっくり持ち上げたのも、皆が同じ危うさを察していたからだろう。――だからこそ、本来ならば、ここで話題を変えるべきだということも分かっている。
甘い菓子の話でも、果実水の味でも、誰かが持ち込んだ本の話でもよい。あるいはサフェルが軽口を叩き、トリスビアスが笑い、ヒアンシーがそれに乗ってしまえば、星の降るドームの空気は何事もなかったように柔らかな日常へ戻ったはずだ。少なくとも、誰もがそれを望んでいるように見えた。
しかし、アナイクスには、ひとつだけ未処理の問いが残っていた。
それは先日のファイノンの発言だった。ケファレとして、ほとんど死んでいた。そう口にした時の彼の声音には、深刻さを求める色がなかった。
講義中に誤植を指摘する程度の自然さで、あるいは道具の傷み具合を報告する程度の淡々とした調子で、自分に関わる重大な状態を言葉へ載せていた。あの発言を放置したままにすることは、学者としても、教師としても、そしてかつてこの青年を見守ってきた者としても、あまり好ましくない――しかし、目下の問題は、今がその確認に適した場かどうかである。
アナイクスは、閉じていない本の頁へ視線を落とした。文字列はそこにある。だが読んではいない。指先が頁の端を押さえ、紙のざらつきが皮膚に伝わる。星明かりの下では墨の黒が少し柔らかく見えた。
常なら、問いは適切な場所と時間を選ぶべきだと説く立場にある。だが、ファイノンに関する情報は、時間を置けば置くほど別の問題発言の下に埋もれる。今日すでに、働きすぎ、黒衣の神官、傍にいただけ、止められなかった、という語群が静かに積み上がっている。
この青年の発言は、整理しないうちに次の未整理事項を呼ぶ。そこまで考えて、アナイクスは小さく息を吐いた。茶器の湯気が視界の端で揺れる。
ファイノンは紅茶を飲み、少し困ったように笑っている。穏やかだ。穏やかに見える。だからこそ、今ならまだ、平静に確認できるのではないかと思ってしまった――その判断が、後に問い方を誤ったと分類されるまでは。
「ところで、ファイノン。先日の、ケファレに関する発言ですが」
声を発した瞬間、卓の上の空気がわずかに張った。
サフェルのグラスが止まる。ヒアンシーの視線が反射的にこちらへ向き、キャストリスの指がカップの丸みをそっと包み直した。アグライアは姿勢を崩さず、けれど茶器に添えた指を止める。モーディスは腕を組んだまま目を伏せた。トリスビアスは、菓子を口へ運ぶ動作をほんの少し遅らせる。
アナイクスは、それらすべてを視界の端で確認した。反応が早すぎる。つまり、全員が同じ種類の予感を抱いたということだ。
問いそのものはまだ始まっていない。にもかかわらず、場はすでに、薄氷の上へ足を置いたような緊張を含んでいた。だが、ファイノンだけは牧草を食む仔ヤギのように呑気に少し首を傾げた。
「ケファレに関する発言?」
「ええ、そうです。」
アナイクスは本を閉じた。紙が合わさる音は静かだったが、その場では妙に大きく響いた。学者として、曖昧な表現は好まない。教師として、危険な誤解も放置しない。そして、かつてこの青年を教え、見守り、時に呆れながらもその危うさを知ってきた者として、確認しなければならないことがある。
「ケファレとして“ほとんど死んでいた”とは、どういう意味ですか。」
問いは簡潔だった。声音に感情の揺れは載せていない。載せるべきではないと判断した。ここで感情を混ぜれば、ファイノンは質問の内容よりも、相手の動揺を処理しようとする可能性がある。
そうなれば、彼はまた自分の説明を削り、あるいは妙な方向へ簡略化する。それは避けるべきだった――にもかかわらず、問い終えた瞬間、アナイクスは周囲がほぼ同時に同じ結論へ至ったことを察した。もしや、これは事前準備もなしに掘ってはいけない場所だったのではないか、と。
なぜなら、ファイノンは説明を求められれば答える。しかも律儀に、知っていることを知っているままに。隠すべきこと、ぼかすべきこと、今ここで口にすると周囲の精神衛生へ深刻な被害を及ぼすこと、その線引きが彼の中では時々ひどく曖昧になる。
本人に悪気はない。むしろ誠実で、相手の問いにできる限り正確に応じようとする。その誠実さが、時に最も危険な刃となることを、彼は気づいていない。
ファイノンはカップを持ったまま、少し考えるように目を動かした。トリスビアスに淹れなおしてもらった柑橘を落とした白湯が、星明りを含んで揺れている。
彼の指は落ち着いていた。顔色も変わらない。だから、これから語られるものが安全であるかどうかなど、外側からは分からなかった。
「ええと……最後のエスカトンでの、ケファレの神体のこと?」
問い返したファイノンに、アナイクスはわずかに目を細めた。
「それ以外に何があるのですか。」
「いや、先生なら別のところを気にしている可能性もあるかなって。ほら、最初にケファレの火種を燃やしてミハニを作ったときとか」
「あなたは自分が問題発言を量産している自覚を持つべきです。」
「量産はしてないよ!」
「しているのです。」
「えっ」
即答だった。
ファイノンは少しだけ困ったように笑った。その笑みには反抗の色がない。生徒が、教師から予想外の指摘を受けて、とりあえず理解しようとしている時の顔だ。
アナイクスは深く息を吐いた。教師と生徒。長い付き合いゆえの、半ば反射のような応酬である。周囲の誰かが小さく息を漏らしたのは、安堵か、呆れか、あるいは「少なくともこの二人は昔から変わっていないのだろう」という種類の感慨だったのかもしれない。
だが、その軽い往復が挟まったことで、ファイノンの警戒はむしろ下がったように見えた――そこが、最たる問題だった。
「大丈夫だよ、先生」
ファイノンは、安心させるような声音で言ったが、アナイクスは、その「大丈夫」という語の時点で、すでに良くない予兆を感じ取った。
彼が自分について大丈夫と言う時、その基準はしばしば周囲の基準と大きく異なる。怪我をしていない、まだ動ける、役目を果たせる、誰かに迷惑をかけていない。そうした要素だけで成立する大丈夫は、聞く側にとって何の保証にもならない。
止めるべきだったのかもしれない。だが、ファイノンの言葉は、アナイクスが再質問を構築するより早く続いた。
「あの頃の
まず一撃。
アナイクスの眉が、わずかに動いた。自分でも分かるほど、表情の制御が一瞬遅れた。置物。神体。黎明のミハニを支えるためだけ。どの語も、単独であれば講義の対象にできる。神性の残滓、都市機構、火種、信仰構造、あるいは神格の維持装置としての役割。
だが、今それを当事者が白湯を持ったまま、ほとんど雑談のように並べたせいで、語は意味以上の重みを持って場へ落ちた。
アグライアは静かに扇を握りしめた。音はしない。けれど、金具の角度がわずかに変わる。ヒアンシーは笑顔のまま固まり、口元だけが微かに引き結ばれた。サフェルは「あ、オワッタ……」と小さく呟き、果実酒のグラスを卓へ置く。モーディスは目を閉じた。止めるには、あまりにも言葉が早かった。しかもファイノンは、これで説明の導入を終えた程度の顔をしている。
「ほら、僕、その頃はもうオンパロスのための切り札として、『壊滅』の汚染を受ける前に魂を粉々にして、カスライナとして転生してたから」
「ウグゥッ」
声にならない呻きが上がった。誰のものだったか、アナイクスには判別できなかったが、おそらく一人ではない。
サフェルが額を押さえ、キャストリスの肩が小さく跳ね、ヒアンシーが反射的に周囲を見回した。医療者としての習慣なのだろう。倒れそうな者はいないか、呼吸が乱れていないか、顔色はどうか、そう確認するように彼女の視線が素早く動く。すると実際、数名が胸元を押さえていた。比喩ではなく、物理的に。
アナイクスは、こめかみへ指を添えた。問い方を誤った。おそらく、それが最も正確な自己評価だった。ファイノンに説明を求めれば、彼は知っていることを知っているままに語る。隠すべきことも、ぼかすべきことも、自分にとって当たり前になってしまった痛みも。
本人の中で「大したことではない」と分類されているものほど、周囲にとっては看過できない事実であることが多い。教師として、それを知っていたはずだった。
しかし、目の前の青年は、悪意を持って場を壊しているわけではない。むしろ逆だ。彼は安心させようとしている。理由を説明すれば納得してもらえると思っている。限界だった理由が分かれば、不可解さは減り、不安は薄れ、皆が落ち着ける。
そういう筋道で言葉を選んでいるように見えた。声は落ち着き、目は真面目で、カップを包む指先には誠実さすら宿っている。だからこそ、聞く側の心だけが一方的に削られていくのだ。
「ファイノン」
アナイクスは、できるだけ平坦に呼んだ。
「うん?」
「今、あなたが口にした内容を、説明として適切に整理する前に、一点確認します。」
「うん、なんだい?」
「魂を粉々にした、という表現は比喩ですか。」
卓の周囲で、空気がさらに重くなった。ヒアンシーが両手を胸の前で握り、キャストリスが視線を伏せる。サフェルが何か言いかけたが、声にはしなかった。
アナイクスとしては、ここを確認しないまま進めるわけにはいかない。比喩であればまだ、概念的な分割や記憶の分散として処理できる。比喩でなければ、話は別の段階へ進む。ファイノンは、考え込むように少しだけ首を傾げた。
「完全な比喩ではないかな?」
誰かが息を呑んだ。
「続けなさい。……ただし、自分を道具のように扱ったり、雑に扱うような言葉ではなく、事実を事実として伝えられる表現になるよう、言葉を選びなさい。」
「?(相手にちゃんと内容が伝わるように言葉を)選んでるつもりなんだけど」
「あなたの“つもり”は、今のところ信用が低い。」
永劫回帰の中で、この生徒は何度もアナイクスの助言を求めて現れた。そのたびに、彼は同じように振る舞っていた。状況がどれほど変わっても、どれほど追い詰められても、他者を優先し、自分の損耗を後回しにする。その傾向は、一度や二度の観察で見抜けるものではない。
だからこそ分かるのだ。ファイノンが、自分をどれだけすり減らしてきたか。しかし、彼にその自覚がまるでない。
鉄墓を封印するために、自我を摩耗させた。その過程を、この生徒は“必要だったこと”として処理しているのだろう。だが、それは消耗だ。損失だ。ファイノン自身の一部が削られた結果なのだ。
「そこまで(内容が伝わってないのか)? おかしいな、弁論大会で優勝したこともあるのに」
ファイノンは困ったように眉を下げた。叱られたことよりも、自分の説明が信用されていないことに驚いているように見える。
アナイクスは、その反応にひどく覚えがあった。授業中、彼は難解な問いにも真面目に取り組む一方で、自分自身に関わる評価だけは妙にずれることがあった。できたことより、できなかったことを先に数える。支えたことより、救えなかったことを先に置く。今もその癖は、言葉の奥で薄く透けている。
「言葉を選ぶ……ええっと、つまり……つまりね、」
ファイノンは、カップを卓へ置いた。音は小さかったが、ヒアンシーの視線が一度その手へ落ちる。火傷はしていないか、手が震えていないか、そう見たのだろう。少なくとも目に見える異常はない。ファイノンはごく普通に、説明を続ける姿勢を整えただけだった。
「ケファレの神体として残っていた部分は、火種一つと、壊れかけだったところを修復したばかりの魂を粉々にして半分入れたものだったんだ。だから、ミハニの光源はあのぐらいが限界だったみたいで」
「ああああすみません!」
「ごふっ」
謝罪と呻き声が重なった。
謝ったのはヒアンシーだった。彼女は反射的に両手を合わせており、何に対して謝っているのか、自分でも説明できない様子だった。
呻いたのはサフェルか、あるいは別の誰かかもしれない。アナイクスはそこまで確認する余裕を一瞬失った。火種一つ。壊れかけ。修復したばかりの魂。粉々。半分。ミハニの光源。用語の一つひとつを切り離して整理すれば、論理構造は追える。むしろ、説明そのものは明瞭だった。だが、明瞭であればあるほど、痛みの輪郭は鮮明になる。
ファイノンのイメージは、なんか自分のことは雑そうだなこの子……という具合です。本作におけるファイノンは、ケイオス(ケファレ)経由で転生してるていです。
そしてアナイクス先生やカリュプソーを見てると、「うわ、賢そう!」って感想になります。
たとえば、「呑気そうだな」というのを「牧草を食む仔ヤギのように呑気に少し首を傾げた。」とか言い換えたり……ウッウッ……頭がッ……!
なので、内心「あまり賢いこと考えんといてもろて……、理科とか化学とか現代科学とか、過去の教科書引っ張り出してきちゃったんですけどォ……」って気持ちになります。お勉強が捗ってしまうな……?