終末を越えた安息の場で、英雄は自らの来歴を淡々と語った。ケビン・カスラナ、ケイオス、ケファレ、ネイコス――名を変え役割を変えながら、魂さえ素材として差し出してきた過去。その軽やかな語りは、聞く者の胸に重く沈む。
神話とは、往々にして結果だけが語られる。誰が世界を救ったのか。誰が終末を退けたのか。どのような奇跡が起きたのか。
けれど、その裏側にあった代償まで語られることは少ない。勝利のあとになって初めて、その勝利が何の上に築かれていたのかを知る。救済のあとになって初めて、その救済を支えていた痛みに触れる。英雄が笑っているからといって、その傷まで消えるわけではない。
だから、その場にいた誰もが言葉を失った。責めるためではない。慰めるためでもない。ただ、それぞれが静かに理解し始めていたのだろう。
ファイノンは、自分の痛みを痛みとして語ることが苦手なのだと。失ったものを失ったものとして数えないのだと。そして、自分が役に立てたのなら、それで十分だと、本気でそう思ってしまう人なのだと。
ヒアンシーは、その理解に胸を押されながら、しかしそこで立ち止まってはいけないと思った。医療者として、場の全員がこれ以上傷ついていくのを見過ごすわけにはいかない。ファイノン本人に見た目の変調はない。だが、精神的な情報開示としては過剰だった。
周囲も限界に近い。サフェルは軽口を装っているが額から手を離せていないし、キャストリスは今にも腕を伸ばしそうな指先を必死に留めている。アグライアの扇は閉じられたまま、トリスビアスは微笑みを保ちながらも菓子に手をつけない。アナイクスは何か言いたげに目を伏せ、モーディスは沈黙で場を支えている。セネオスに至っては、到着早々この空気を浴びて、現実逃避の言葉を口にしたばかりだ。
ここで誰かが、休息の場を休息へ戻さなければならない。だから、ヒアンシーは、できるだけ明るく言った。
「それではファイノン様、今日は、もう難しい説明は禁止にしちゃいましょう」
声の奥にある震えを、自分でも完全には隠せていないと分かっていた。けれど、暗く言えばファイノンは心配する。厳しく言えば謝る。だから、少しだけ強引に、いつもの調子を織り込んだ。
「えっ」
「難しい説明は、禁止です」
「で、でも……」
「先生も禁止ですから!」
「私まで?」
アナイクスが、本当に意外そうに目を向けた。ヒアンシーは、はい、と強めに頷く。
「はい。先生も、です!」
アナイクスは何か言いかけたが、周囲から向けられた視線を受けて口を閉ざした。珍しいことだった。神悟の樹庭であれば、すでに講義の一つや二つは始まっていただろう。
ケビン・カスラナ、ケイオス、ケファレ、ネイコス、それぞれの関係性と魂の格納構造について、図解つきの説明が展開されていてもおかしくない。だが、今は違う。ここは議論のための場ではない。傷を癒やし、肩の力を抜き、ようやく終末を越えた者たちが束の間の安息を分かち合うための場所だった。
サフェルが、ようやく張り詰めていた空気をほどくように肩をすくめた。
「はいはい、じゃあ今日の坊やは解説禁止。専門用語も禁止。魂を粉々にした話も禁止。死体とか置物とかいう単語も禁止ね!」
「単語指定なんだ……」
「当たり前でしょ。あんた、禁止されないと普通に言うじゃん。」
今の話題に限ったことではない、と言いたげな即答だった。ファイノンは少し考えるような顔をした。
たとえば、相棒という単語や、誰かの名前や、役目に関わる言葉を禁止にされた場合、という種類の連想が頭をよぎったのかもしれない。ヒアンシーには断定できない。ただ、彼の目が一瞬だけ宙を泳ぎ、そのあと真面目な顔で戻ってきた。
「……言うかもしれない。」
「でしょ?」
サフェルは深く追及しなかった。今は説教を続けるよりも、この場の空気を壊さないことの方が大切だったのだろう。ファイノンはわずかに肩を落とす。その様子は、どこか叱られた子供にも似ていたものだから、トリスビアスがくすりと笑う。
「ファイちゃん。難しいお話はひとまずおしまいにして、ぶどうジュースのおかわりをお願いしてもいいかしら?」
「任せて」
そう答えた瞬間、ファイノンは反射的に立ち上がろうとした。
「待った待った、坊やは今日おやすみ!」
「えっ」
ぴたり、と動きが止まった。集まった視線に気づいたファイノンは、浮かせかけた腰をゆっくりと椅子へ戻した。その動作は素直だったが、同時に、どうして止められたのかをまだ完全には飲み込めていない様子でもあった。しばらく考え込むような沈黙があった。そして、彼は真面目な顔で結論を出す。
ヒアンシーは両手を胸の前で握り、なんとか笑顔を保つ。ここで泣いてはいけない。泣けば、ファイノンはまた謝ってしまうだろうから。
「……わかった、座ったまま、淹れればいいんだね?」
「そんなことが出来んの!?」
サフェルが思わず声を上げた。
ファイノンは、少しだけ目を瞬き、それから何でもないことのように頷いた。
「うん、ほら」
次の瞬間、卓上の水差しと杯が、淡い光に包まれて静かに動いた。
乱暴さはない。水面はほとんど揺れず、器は星明かりを受けながら滑るようにトリスビアスの前へ移動する。ぶどうジュースが注がれる音は、細い糸を引くように澄んでいた。熟した果実の香りがふわりと広がり、重く沈んでいた空気の上へ、ほんの少しだけ明るい色を落とす。
「わ、わわっ、すごいじゃん坊や!」
サフェルの声に、誰かが吹き出した。
最初は小さな笑いだった。ヒアンシーの肩から力が抜け、キャストリスの睫毛が揺れ、トリスビアスが楽しげに杯を受け取る。
アグライアの目元にやわらかな光が戻り、モーディスは呆れたように息を吐いた。アナイクスは、これはこれで後日確認が必要だと言いたげな顔をしたが、今度は黙っていた。セネオスは、死屍累々の現場から突然小技披露会へ変わった空気を見て、理解を諦めたように肩を落とす。
星の降るドームに、小さな笑い声が広がっていった。――もちろん、何もかもが解決したわけではない。胸に残る痛みも、今しがた知った事実の重さも、そのままだ。
通信端末の向こうでは、マダムヘルタがまだ複雑そうな顔をしているし、ヴェルトはようやく呼吸を整えたばかりに見える。ケビン・カスラナ。ケイオス。ケファレ。ネイコス。名と役割を変えながら作り替えられてきた彼の来歴は、たった数分の冗談で軽くなるものではなかった。
それでも、笑うことはできた。トリスビアスは、注がれたぶどうジュースを見て満足そうに頷いた。
「ありがとう、ファイちゃん。でも次は、誰かにお願いする練習もしましょうね。」
「お願いする練習……?」
「ええ。今日の課題が増えたわね。」
「休むだけじゃなかったのかい?」
「休むことの中には、人に頼むことも含まれるのよ。」
ファイノンは、真面目に考え込んだ。ヒアンシーは、その横顔を見て、なんだか泣きたいような笑いたいような気持ちになった。彼は本当に、ひとつずつ覚えるつもりなのだろう。椅子に座ること。温かいものを飲むこと。難しい説明をしないこと。誰かに頼むこと。それらをまるで新しい作法のように受け止めて、次は間違えないようにしようとしている。
そこまで真面目でなくてもよいのに、と言いたかった。けれど、言えばきっと彼はまた困る。だからヒアンシーは、少しだけ明るく笑ってみせた。
「ファイノン様、今日のところは、まず座っていらっしゃるだけで合格です!」
「合格制なんだ」
「はい。樹庭が誇る名医、ヒアンシーによる判定です!」
「ふ、それは信頼できるね。」
ファイノンがそう言うと、ヒアンシーは胸の奥が少しだけ温かくなった。彼の言葉は素直だった。誰かを安心させるために言ったのかもしれないし、本当にそう思ったのかもしれない。そこまでは分からない。けれど、少なくとも今この瞬間、彼は席を立たず、白湯のカップを手元に置き、仲間たちの声の中にいた。
星々の光は変わらず静かに降り注ぎ、その穏やかな輝きの下で、英雄たちは束の間の休息を分かち合っていた。
これもまた、終末後の一場面だった。英雄の傷を知り、神話の代価を知り、それでも彼を遠い祭壇へ置き去りにしないための時間。誰かが犠牲を語れば、その横で誰かが茶を注ぐ。誰かが痛みを知れば、その隣で誰かがくだらない冗談を言う。そうして少しずつ、英雄は物語の中から生活の中へ戻されていく。
神話の中心にいた者を、もう一度、人々の輪の中へ。
それは治療ではなく、看取りでもない。まして、崇拝でもなかった。取り戻すための営みである。椅子に座らせること。温かいものを渡すこと。説明を止めること。立ち上がろうとしたら笑って引き戻すこと。どれもあまりに小さく、歴史には残らない。けれど、そういう小さな手順の積み重ねでなければ、神話の中へ遠ざかってしまった人を、同じ卓の高さへ戻すことはできないのだろう。
ヒアンシーは、ファイノンを見た。彼は少し困ったように笑いながら、トリスビアスの杯が満たされたことに満足しているようだった。
見た目では、やはり分からない。疲れているのか、弱っているのか、無理をしているのか、確かな兆候はない。けれど、分からないからといって放っておいてよいわけではない。痛みを痛みとして数えない人には、周囲が代わりに数える必要がある時もある。
今こうしてなお、憩いの場にいて、時間を共にしているけれども。ヒアンシーは、胸の中で小さく、しかし疑いようもなく思った。
(やっぱりファイノン様は、しっかりお休みされるべきなのでは?)
その結論は、もはや揺らぎようがなかった。