烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 終末を越えた安息のドームで、英雄は自らの来歴を淡々と語った。ケビン・カスラナ、ケイオス、ケファレ、ネイコス――名と役割を変えながら、魂さえ素材として差し出してきた過去。その軽やかな語りは、聞く者の胸に重く沈んだ。
 彼は間違っていない。ただ、自分の痛みを数えないだけだ。仲間たちは理解し、神話を語らせるのではなく、彼を生活へ引き戻すことを選ぶ。


07 陽だまりに眠る恋と罪の残響
054 春風に揺れる記憶


 キュレネ様が編んでくださったその場所へ、はじめて足を踏み入れた時のことを、わたしはきっと長いあいだ忘れられないと思います。

 そこは、避難所と呼ぶにはあまりにもやわらかく、安置所と呼ぶにはあまりにもあたたかく、庭と呼ぶにはあまりにも広くて、物語と呼ぶには、あまりにも確かな場所でした。

 オンパロスの人々が、いつか生命として昇華するその時まで、記憶体として暮らすための空間。言葉にすれば、たったそれだけです。

 医療者として整理するなら、肉体を持たない存在の意識安定領域、魂と記憶の輪郭を保つための生活空間、長期滞在を前提とした精神的緩衝地帯。そう説明することも、たぶんできます。アナイクス先生なら、もっと的確に、もっと難しい言葉で構造を分解してくださるでしょうし、マダム・ヘルタ様なら、きっと興味深そうに観測値を並べてくださるでしょう。

 

 けれど、わたしが最初に思ったのは、そんなことではありませんでした。

 

 

―― ああ、キュレたんだ。

 

 

 そう思ったのです。

 

 入口から続く小径には、淡い花びらを透かしたような光が降っていました。足元には、柔らかな草が敷かれています。草といっても本物の土から芽吹いたものではないはずなのに、踏みしめるたび、朝露を含んだ葉の匂いがふわりと立ち上りました。

 風は強すぎず、弱すぎず、頬の熱をそっと撫でるくらい。遠くでは水音がして、けれどそれも、人の話し声を遮らないように少し低く、丸く、石の間を転がっていました。

 

 微睡みの庭。最初に案内された場所の名を聞いて、わたしは胸の奥が、きゅっと甘くなるような心地がしました。微睡み、だなんて。

 

 

――なんて、キュレたんらしいのでしょう。

 

 

 ただ眠るのではなく、怖いものから逃げるために意識を手放すのでもなく、陽だまりの中で瞼が自然に重くなるような、安心して力を抜ける時間。

 終末期のオンパロスでは、眠ることさえ贅沢でした。眠っている間に次の災厄が来るかもしれない。眠って目覚めた時、大切な人がいなくなっているかもしれない。そういう夜を、あまりにもたくさんの人が越えてきました。だから、微睡みの庭という名前だけで、わたしはもう、少し泣きそうになってしまったのです。

 

「ヒアンシーさま……」

 

 隣で、キャスたんが小さく息を呑みました。彼女の白い指先が、胸元でそっと重なっています。花へ触れようとして、触れてしまっていいのか迷うような仕草でした。

 キャスたんはいつだって、何かへ手を伸ばす時に、とても丁寧です。触れることで傷つけてしまうかもしれないと知っている方の手つきは、こちらの胸までそっと静かにしてくれます。けれど、その時の花は、彼女を怖がりませんでした。

 道の端に咲いていた小さな白い花が、風もないのに、ふわりと揺れたのです。まるで、こんにちは、とお辞儀をしたみたいに。

 

「……ヒアンシーさま、今、ごらんになられましたか?」

 

「見ました。見ましたよ、キャスたん」

 

 わたしは思わず、彼女の手を取っていました。もちろん、加減はしました。キャスたんが驚かないように、握る前に少しだけ指先を差し出して、それから、触れても大丈夫だと彼女が頷いてくれたのを見てからです。こういうことは大切です。嬉しい時ほど、相手の身体の境界を忘れてはいけません。

 それなのに、次の瞬間には、わたしもキャスたんも、ほとんど同時に小さく跳ねていました。

 

「すごいです、キャスたん! お花がご挨拶してくれました!」

「は、はい……! とても、可愛らしいです……!」

 

 キャスたんの声が、いつもより少し高くなっていました。嬉しそうで、けれど嬉しすぎてどうすればいいのか分からないような、細い鈴の音みたいな声です。わたしはもう、それだけで胸がいっぱいになってしまって、医師としての顔をどこかへ置いてきてしまいました。

 だって、仕方ありません。こんなに素敵な場所で、こんなに優しい花に迎えられて、隣でキャスたんが目を輝かせているんです。これで冷静でいられる方が、少し不健康かもしれません。

 

「次はどちらでしょう? 陽だまりの園、ですって。キャスたん、行ってみませんか?」

「あ……はい。ですが、走ると……」

「大丈夫です、少しだけです。転ばない速さで、です!」

 

 そう言って、わたしはキャスたんの手を引きました。イカルンが後ろから、少し呆れたように羽を鳴らしました。あの子は人の言葉を喋れませんけれど、こういう時の羽音は分かります。ヒアンシー、あなたも患者さんには走らないでくださいと言うでしょう、という羽音です。

 はい。分かっています。分かっていますよ、イカルン。でも、今日は少しだけ許してください。

 

 陽だまりの園は、名前の通り、柔らかな金色で満ちていました。空に太陽があるわけではないのに、どこからともなく明るさが降りてくるのです。

 木々の葉は、薄い琥珀を通したみたいに透き通り、枝には小さな飾りが揺れていました。近づいてみると、それは都市国家ごとの細工物でした。オクヘイマの織物を模した小さな房飾り、クレムノスの武具に使われる意匠を柔らかく丸めた金具、ヤヌサポリスの古い文様を刻んだ石片、神悟の樹庭の書物を思わせる薄い札。

 それだけではありません。小さな村の陶器もありました。祭りの日に子供が手首へ巻く紐飾りもありました。

 麦の穂を乾かして束ねたもの、鳥の羽を編み込んだ古いお守り、誰かの家の窓辺に飾られていたような、素朴な硝子玉。名も残らない暮らしの欠片が、ひとつひとつ、忘れられないように吊るされていたのです。

 壮麗、という言葉があります。けれど、ここにある美しさは、ただ大きくて眩しいものではありませんでした。

 小さなものが、小さいまま大切にされている。目立たなかった生活が、目立たない温度のまま飾られている――そのことが、わたしにはたまらなく尊く思えました。

 

「キュレたん……全部、見てくださっていたんですね……」

 

 声に出したつもりは、ありませんでした。けれど、わたしの言葉は、陽だまりに溶ける前に、すぐそばへ届いてしまったようです。

 

「うん」

 

 振り返ると、ファイノン様が立っていました。

 いつものように、穏やかに笑っておられます。青と白と金を纏った姿は、この場所の光によく馴染んでいました。けれど、馴染みすぎて消えてしまいそう、という感じではありません。むしろ、麦畑の向こうから手を振ってくれる人のように、そこにいることが自然でした。

 そのことに、わたしは少し安心しました。お顔色は、悪くないように見えました。立ち姿も、いま見える範囲では不自然ではありません。呼吸も、会話の前後で大きく乱れているようには思えませんでした。もちろん、ぱっと見て分かることには限界があります。わたしは医師ですから、見た目だけで「大丈夫」と断じることはしません。

 けれど、この時のファイノン様は、本当に、いつものファイノン様に見えました。だから、わたしも患者さんを見る目を少しだけ横へ置いて、仲間として、彼の言葉を待ったのです。

 

「キュレネは、そういう子だったから」

 

 ファイノン様は、飾りのひとつへ目を向けました。

 それは、たぶんエリュシオンのものです。麦の穂を結んだ飾りの中央に、小さな青い石が編み込まれていました。素朴で、華やかではなくて、けれど朝の光を受けたらきっと綺麗だろうなと思わせるものでした。

 

「僕が見落としていたものも、よく覚えていた。誰かが何気なく言ったこととか、子供が作った変な形の飾りとか、祭りの後に残った花びらの色とか。僕がただ話しただけのことも、いつの間にか物語にしていたんだ。」

「まあ……」

 

 アグライア様が、そっと息を吐かれました。その横でサフェル様が、片眉を上げて飾りを見上げています。いつもなら軽口のひとつも飛んできそうなのに、その時はなぜか、口元にだけ笑みを乗せて、しばらく黙っていらっしゃいました。

 セイレンス様は、水面の音を聞くように耳を澄ませ、ケリュドラ様は腕を組んだまま、ひとつひとつの配置を戦場の布陣でも読むような鋭さで眺めていました。けれど、誰も、この場所をただの記録とは見ていませんでした。

 ここには、キュレネ様のまなざしがありました。誰かの歴史を、有名かどうかで選ばないまなざし。終末を越えるために失われたものを、失われたからこそ雑に扱わないまなざし。

 ファイノン様は、そのまなざしを知っている人の顔をしていました。

 

「ファイノン様」

「ん?」

「キュレたんは、きっと、物語を読むのがとても楽しかったんですね。」

 

 そう言うと、ファイノン様は少し驚いたように瞬きをしました。

 

「楽しかった?」

「はい。だって、こんなに細かいところまで覚えて、残して、飾って。義務だけでは、ここまで可愛らしくできません。これはきっと、キュレたんが大切だと思ったものを、大切なまま置いてくださった場所です。だから……作っている間、少しは楽しかったんじゃないかなって。」

 

 自分で言ってから、少しだけ胸が痛くなりました。楽しかった、なんて、簡単に言っていいことではないのかもしれません。キュレネ様が何を背負い、何を失い、どれほどの覚悟でこの空間を編んでくださったのか、わたしにはすべて分かるわけではありませんから。

 でも、ここは苦しみだけで作られた場所ではありませんでした。少なくとも、わたしにはそう見えました。

 ファイノン様はしばらく黙っていました。それから、困ったように眉尻を下げて、けれどどこか眩しいものを見るように、陽だまりの奥へ視線を戻しました。

 

「……そうだといいな。僕が託した記憶(もの)が、彼女にとって楽しいものであったなら。」

 

 とても小さな声でした。

 それなのに、わたしの胸の中では、鐘みたいに響きました。

 

 そうだといいな。願いの形をした言葉でした。断定ではなく、懺悔でもなく、誰かへ押しつける祈りでもない。ただ、彼女が少しでも楽しかったならいい、という、やわらかな願い。

 その声を聞いた瞬間、キャスたんが両手を胸元で握りしめました。アグライア様は、何かを言いかけて、結局、金糸の揺れる袖を静かに握りました。サフェル様は「へえ」とだけ呟きましたが、その響きはいつものからかいよりずっと薄く、軽く触れたら壊れてしまいそうなものを前にした時の声でした。

 わたしは、その時はじめて気づきました。ファイノン様の表情が、いつもより少しだけ違うことに。いえ、疲れているとか、つらそうだとか、そういう分かりやすい変化ではありません。

 けれど、表情が違いました。人を安心させるための笑顔ではなく、誰かを気遣うための微笑みでもなく、遠い春を思い出した時のような。あたたかいのに、少しだけ切ない。嬉しそうなのに、どこかで帰り道を探している。夏空みたいな瞳の奥に、春告の風が吹いたような、そんなお(かお)でした。

 

 ああ。そっか。わたしは、胸の奥でそっと呟きました。ファイノン様にとってのキュレたんは、きっと、そういう人だったのです。

 ただ一緒に戦った仲間でも、ただ同じ故郷を持つ幼馴染でもなくて。エリュシオンの麦畑に最初に春を連れてくる風みたいな人。退屈な日を物語へ変えて、見過ごしてしまいそうなものへ名前をつけて、明日を待つことが少し楽しくなるように笑ってくれる人。




 転調。弾ませたくなるヒアンシー。ありがとう癒んしー。キャストリスも可愛くて癒されます。
 ファイキュレ読みてぇ……ようやく書きたかったところに接近してます!ここが、本作用の殴り書きの最初のコーナーだったって言ったら、信じてくれますか……? ここ書くならやっぱ昔の話とか、永劫回帰の話とか必要だよな。と思って、昔の話(➀)と永劫回帰の話(➁)に発展したんです。
 え、余韻だけで53話です……? うお…おお……。ちなみに、メインとなるはずだったダンジョンRPG要素の部分とかもっと後半です。……嘘だろ……?
 でも、書きたかったところが接近してるので、テンション上がって来たァ!!!
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