ある日、ヒアンシーたちは、キュレネが編んだ記憶の庭へ足を踏み入れる。
微睡みと陽だまりに満ちたその場所には、オンパロスの人々の暮らしと想いが、優しく留められていた。細やかな記憶を辿る中で、彼女のまなざしと、ファイノンの胸に残る春の気配が静かに浮かび上がる。
そのことが分かってしまったから、わたしは急に、どうしていいのか分からなくなりました。
医療者としてなら、患者さんの緊張を解く言葉を選べます。悲しそうな人へ、今は座りましょうかと声をかけられます。呼吸が乱れていれば、ゆっくり吸って、吐いて、と一緒に数えられます。でも、その時のファイノン様は、診察台の上の患者さんではありませんでした。
大切な女の子の残した場所を見て、ほんの少しだけ、少年みたいな顔をしている青年でした。だからわたしは、治療ではなく、祝福を選びたくなったのです。
「キャスたん」
「は、はい」
「これは、囲むべきではありませんか?」
「囲む……?」
「はい。とても素敵なものを見せていただいたので、感謝と感想を、きちんとお伝えするためにも!」
キャスたんは最初、不思議そうに瞬きをしました。けれどすぐに、わたしの言いたいことを分かってくださったようです。こくりと頷いて、少し緊張した足取りでファイノン様の方へ歩み寄りました。
「ファイノン様」
「え? どうしたんだ、二人とも?」
「とても、素敵な場所です。」
キャスたんの声は、小さくて、けれどしっかりしていました。
「キュレネ様が、皆さんのことを……世界のことを、本当に大切にしてくださったのだと、分かります。わたしは……その、うまく言えませんが……ここにいられて、嬉しいです。」
ファイノン様は目を丸くしました。
そこへ、わたしも一歩近づきます。
「わたしもです。キュレたんに直接お礼を言えたら、きっと止まらなくなっちゃいます。微睡みの庭も、陽だまりの園も、この飾りも、全部、本当に素敵です。オンパロスで一番壮麗な場所はどこですかって聞かれたら、わたし、ここですって答えてしまうかもしれません!」
「いや、それは言いすぎじゃないかな。オンパロスにも壮麗だと呼べるような場所はたくさんあったろう? ほら、アグライアもよく見に行ってた丘とか、君の故郷から見渡せる景色とか」
「言いすぎではありません。医師の所見です。」
「それは医療と関係ある?」
「あります。心に効きます!」
そう答えると、ファイノン様は困ったように笑いました。いつもの、あの柔らかな笑い方です。けれど、さっきの春の風は、まだ少しだけ目元に残っていました。
「心に効くなら、よかった……でいいのかな。」
「はい、とても。これはきっと、すごく良い処方です。」
「処方?」
「安心して思い出せる場所、です。痛い記憶だけではなくて、可愛いものも、面白いものも、誰かが大切にしていたものも、一緒に置いてあるでしょう? だから、ここはきっと、ただ過去を閉じ込める場所ではありません。思い出しても大丈夫なように、キュレたんが毛布を掛けてくださった場所なんです。」
言いながら、わたしは少し照れてしまいました。医療記録には、絶対に書かない表現です。毛布を掛ける記憶領域、なんて、アナイクス先生に提出したら、もう少し定義を明確にしなさいと言われてしまうかもしれません。
けれど、ファイノン様は笑いませんでした。ただ、長い睫毛を少し伏せて、飾りの揺れる音を聞くように黙っていました。その沈黙が、わたしには答えのように思えました。
「……ふ、」
しばらくして、ファイノン様は小さく頷きました。
「そうかもしれない。キュレネは、怖い話でも、最後に少しだけ笑えるところを探すのが上手だったから。」
その言葉に、アグライア様が完全に動きを止めました。モーディス様は腕を組んだまま、何か言いたげに眉間へ皺を寄せています。
セイレンス様は、ほんの小さく、リズムを取るように指先を揺らしました。ケリュドラ様は、盤面を見るような目でファイノン様を見て、けれど何も命じませんでした。アナイクス先生は興味がなさそうな顔をしていましたが、視線だけは一度も外していませんでした。
みんな、分かってしまったのです。ファイノン様が、どれほど優しい
「ええと……みんな?」
気づけば、わたしたちは本当にファイノン様を囲んでいました。
わたしとキャスたんが前にいて、アグライア様が横へ寄り、サフェル様が少し斜め後ろから覗き込み、モーディス様が逃げ道を塞ぐみたいに立っていて、セイレンス様とケリュドラ様が距離を保ちながらも輪の外側を閉じています。アナイクス先生は囲んでいない顔をしていましたが、椅子の位置をずらして完全に参加していました。
トリビー様たちがいらっしゃったら、きっともっと賑やかになっていたでしょう。イカルンはわたしの肩越しにファイノン様を見て、柔らかく羽を鳴らしました。あれは、たぶん、逃げないでくださいね、の羽音です。
「僕、えっと……何か、変なことを言ったかな……。」
「いいえ!」
わたしは即答しました。
「変なことではありません。とても素敵なことを言いました!」
「そう、かな。」
「はい。ですから、今は褒められてください。」
「褒められるようなことは何も……」
「ファイノン様?」
わたしは、少しだけ声を整えました。
診察室で、患者さんが自分の痛みを軽く扱おうとした時に使う声です。ただし、今は診察ではありません。だから、強くしすぎないように、光を遮らないように、でも届くように。
「今は、キュレたんの場所が素敵だというお話です。そして、その素敵さを見て、ファイノン様が嬉しそうにしてくださったので、わたしたちも嬉しくなった、というお話です。そこに功績や責任は必要ありません。」
ファイノン様は、少しだけ目を見開きました。それから、肩の力を抜くように息を吐きました。それはため息ではなく、笑う前の息でした。
「……そっか。」
「はい」
「じゃあ、ありがとう。彼女のことを、覚えていてくれて。」
そう言ったファイノン様の声は、少し照れていました。たぶん、本当に少しだけです。けれど、その少しを拾えるくらいには、わたしたちはもう、彼を見ていました。
陽だまりの園の飾りが、風に揺れます。麦の穂のお守りが、青い石を小さく光らせました。遠くで水が流れ、花が開き、どこかの子供たちの笑い声に似た音が、光の中を転がっていきました。
キュレたんがそこにいたわけではありません。
けれど、たしかに、彼女が大切にしたものがありました。彼女が見て、聞いて、覚えて、物語にしたかったオンパロスが、ここにありました。
だからわたしは、胸の前でそっと手を合わせました。祈りというより、感謝でした。医療者としてではなく、黄金裔としてでもなく、ただこの美しい場所へ招かれたひとりの女の子として。
「キュレたん」
声は、陽だまりに溶けるくらい小さくしました。
「本当に、ありがとうございます」
隣でキャスたんも、同じように目を伏せました。アグライア様の金糸が静かに光り、サフェル様がわざとらしくない沈黙を選び、モーディス様が喉の奥で何かを飲み込むように黙りました。セイレンス様の指先が、音のない旋律をなぞります。ケリュドラ様は、まるで王が戦勝の報告ではなく、民の無事を確認する時のように、深く、静かに頷きました。
ファイノン様は、その輪の真ん中で、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑っていました。そのお
この場所は、キュレたんの記憶でできている。けれど同時に、ファイノン様の中に残っているキュレたんの光を、わたしたちへ見せてくれる場所でもあるのだと。
そして、その光があまりにも優しかったから。
わたしたちはこの後しばらく、キュレたんの残したものを見つけるたびに、少しはしゃいで、少し黙って、少しだけファイノン様の顔を見てしまうようになったのです。
「キュレネ……。天外の空は、君が描いた物語のようにうつくしい空だったよ。」
その一言が落ちた瞬間、わたしの中で何かがぱちん、と弾けました。ほとんど反射でした。医療的判断よりも速い、女の子としての直感です。
(あ、これ、もしかして。)
ちらりと横を見ると、キャスたんがぴくりと肩を揺らしていました。ゆっくりと顔を上げて、わたしと目が合います。ほんの一瞬、視線が交差して――こくり、と小さく頷かれました。
(はい、確定です。)
さらにその向こうでは、アグライア様が、まるで雷に打たれたみたいに固まっていらっしゃいました。次の瞬間、ふわりと頬が緩んで、金糸のような髪がさらりと揺れます。あれは完全に、興味を引かれた時のお顔です。
わたしは思わず、胸の前で手をぎゅっと握りました。
(キャスたん、キャスたん、聞きましたか今の)
(は、はい……あの、その……とても、綺麗なお言葉で……)
(綺麗とかそういう問題ではありません、これは完全にそういうやつです……!)
声には出していません。けれど、わたしたちの間には、確実に同じ理解が流れていました。だって、あんなふうに名前を呼んで、あんなふうに空を語るなんて。ただの思い出話では、絶対にありません。
わたしはそっと、もう一度ファイノン様の方を見ました。
彼は、少しだけ遠くを見るような目をしていました。ここではないどこか、けれど確かに繋がっている場所を見ているような、そんな視線です。
その横顔が、あまりにもやわらかくて。あまりにも、優しくて。だからこそ、わたしは胸の奥がきゅうっとしてしまって――同時に、どうしようもなく、わくわくしてしまったのです。
(これは……聞いてもいいのでしょうか?)
(ヒアンシーさま……)
(でも、ここで聞かなかったら一生後悔する気がします……!)
キャスたんが、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せました。けれど、その瞳の奥には、確かに同じ光が宿っています。アグライア様はというと、もう完全にこちら側でした。さりげなく距離を詰めて、逃げ道を塞ぐ配置に移動していらっしゃいます。さすがです。
わたしは小さく息を吸いました。医療者としてではなく、ただの女の子として。そして、ほんの少しだけ声を弾ませながら、次の言葉を選び始めたのです。
選び始めた、と言いましたが、正直に白状すると、その時のわたしの頭の中は、あまり賢く働いていませんでした。
医療者として患者さんへ声をかける時なら、わたしはまず相手の呼吸を見ます。目の焦点、指先の震え、肩の上がり方、声の高さ、返事までの間。そういう小さな変化を拾って、今は安心させるべきなのか、休ませるべきなのか、質問を減らすべきなのか、それとも別の専門家へつなぐべきなのかを考えます。
けれど、その時のファイノン様は、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑っていらっしゃいました。お顔色は悪くありません。呼吸も、乱れているようには見えません。立ち姿にも、今すぐ座っていただいた方がいい、と判断できるほどの崩れはありませんでした。もちろん、だから安心です、と言い切れるものではありません。見た目で分からないことは、たくさんあります。
それでも、その場にいたわたしたちは、少なくともその瞬間だけは、ファイノン様を患者さんとしてではなく、キュレたんのことをとても大切に思っていた青年として見ていたのです。
だから、口をついて出そうになったのは、脈拍や睡眠や栄養の話ではありませんでした。
「ファイノン様」
「うん?」
「その……キュレたんとは、やっぱり、その……」
言いながら、自分で少し顔が熱くなりました。だって、聞き方というものがあります。医療面談なら、患者さんの負担にならないよう、答えやすい質問から始めましょうか。と教えるところです。
けれど、これは医療面談ではありません。恋のお話です。浪漫が溢れる恋のお話は、とても繊細で、とても大切で、そして時々、医療面談より難しいのです。
温度差に風邪ひきそうです泣く……
06章が重かった分、ふわふわっと行こう。