陽だまりの園で、キュレネの残した記憶と優しさに触れた一行。
ファイノンは彼女を語り、穏やかな笑みを見せるが、その言葉の端々には深い想いが滲む。恋の気配に胸を弾ませるヒアンシーたち。
しかし、軽やかな語らいはやがて、永劫回帰と失われた未来へと繋がる影を帯び始める。優しさの奥に潜む真実へ、彼らはまだ気づいていない。
わたしの隣で、キャスたんが両手を胸元に重ねたまま、小さく息を止めていました。
アグライア様は金糸のような髪を陽だまりに揺らしながら、何でもありませんというお顔で、しかし明らかにこちらを見ています。サフェル様は斜め後ろから、にやりと笑いかけてくるには少し慎重すぎる距離で、ファイノン様とわたしたちの様子を眺めていました。
その時です。
「……待て。」
低く落ち着いた声が、わたしたちの浮き立った気配へ、そっと布をかけるように差し込まれました。
モーディス様でした。腕を組んだまま、彼は一歩だけ前へ出ました。叱る声ではありません。遮る声でもありません。ただ、火の近くへ不用意に手を伸ばそうとしている子供を見つけた大人が、火傷をする前に止める時の声でした。
「今は、そうっとしておいた方がいいのではないか。」
「あ……」
わたしは、胸の前で握っていた手に力が入っていたことに気づきました。
言われてみれば、その通りかもしれませんでした。ファイノン様のお顔は穏やかでした。ですが、穏やかに見えるものが、いつでも安全とは限りません。水面が静かでも、その下に深い流れがあることはあります。傷口が塞がって見えても、触れてよい場所と、まだ触れてはいけない場所があります。
キュレたんの話は、きっと、ファイノン様にとって大切な場所です。だからこそ、わたしたちが嬉しさだけで踏み込んでしまうのは、少し乱暴だったのかもしれません。
「す、すみません。わたし、つい……」
「いや、謝ることではない。」
モーディス様はわたしを責めませんでした。けれど、その視線はファイノン様から離れません。王として、戦士として、友として、どの距離を取るべきか測っているように見えました。その気遣いは、とても正しかったと思います。
正しかったのです。ただ、正しい気遣いが、いつも正しく場を守れるとは限らないのだと、わたしはそのすぐ後に学びました。
「はは」
ファイノン様が、軽く笑ったのです。
ほんの少し肩をすくめるようにして、何でもないことみたいに。
「まあ、僕は永劫回帰を始める前に失恋したからね」
陽だまりの園の音が、一瞬だけ遠くなりました。水の流れも、飾りの揺れる音も、誰かが息を呑む気配も、全部、少し遅れてわたしの耳に届いた気がします。
失恋。
その言葉自体は、決して珍しいものではありません。誰かを好きになって、うまくいかなくて、胸が痛くて、ご飯が少し味気なくなって、眠る前にため息が出てしまう。そういうお話なら、わたしだって聞いたことがあります。昏光の庭でも、病そのものではないけれど心が苦しいのです、と相談に来る方はいました。
でも、永劫回帰を始める前に失恋した。その二つの言葉が隣同士に並んだ瞬間、わたしの中で、可愛らしい恋のお話へ差し出しかけていた手が、空中で止まりました。
「……ファイノン」
モーディス様の声が、少し低くなりました。
ファイノン様は不思議そうに瞬きをしました。本当に、何か変なことを言っただろうか、というお顔でした。先ほどわたしたちに囲まれた時と少し似ています。けれど今度は、空気の温度が違いました。
アグライア様の指先が、ぴたりと止まっています。キャスたんは、わたしの袖をそっと握りました。サフェル様は、笑いかけた口元をそのまま閉じて、ほんの少しだけ視線を細くされました。セイレンス様の指先が、さっきまで辿っていた音のない旋律を途切れさせます。ケリュドラ様は黙ったまま、けれど輪の外側から、逃げ道も退路も確かめるようにわたしたちの位置を見ていました。
アナイクス先生は、興味がないという顔をしていました――していましたが、どうにも手にしていた杯の角度が、ほんの少しだけ止まっていました。
その場にいたオンパロスの人々も、少しずつ静かになっていきました。陽だまりの園に招かれ、飾りを眺め、キュレネ様の残した優しさに触れていた方々が、これは聞いていいお話なのか、聞いてしまった以上、耳を塞ぐ方が失礼なのか、迷っているようでした。
わたしも迷いました。
医療者としてなら、ここで止めるべきです。急に深い記憶へ触れた時、人は自分でも思っていない場所まで落ちてしまうことがあります。問いかけを重ねるのではなく、一度水を飲んでいただく。座っていただく。話したくなければ話さなくていいと伝える。そうするべきだと、わたしの知っている知識は言います。
でも、ファイノン様はあまりにも自然に笑っていました。そして、その自然さが、わたしには逆に怖かったのです。ど、どうしましょうか。
「……ならば」
モーディス様が、ゆっくりと息を吐きました。彼は近くの小卓へ置かれていたザクロジュースの杯を手に取ると、もう片方の手でメーレの籠を引き寄せました。
陽だまりの園に用意されていたそれは、集まった人たちが休みながら口にできるよう置かれていたものでした。甘い果汁の匂いが、緊張した空気の中で妙にはっきり感じられます。荒々しく椅子に腰かけた彼は言いました。
「ならば語ってみせろ。」
「え?」
「そこまで言うなら、語ってみせろと言っている。」
言葉だけ聞けば、少し乱暴です。けれど、モーディス様の声には、無理に暴くような響きはありませんでした。むしろ、重くなりかけた空気を、恋バナという形へ引き戻そうとしてくださったようにも聞こえました。
ファイノン様も、そう受け取ったのかもしれません。
きょとんとした後、少しだけ困ったように笑いました。
「君の興味をひくほどの話、ってほどじゃないよ。」
「救世主が失恋するほどのことなのだろう。」
「それは、そうだけど」
モーディス様は杯を軽く掲げました。ザクロの赤が、陽だまりを受けて宝石のように光ります。その様子を見て、サフェル様がようやく、息を吹き返したみたいに笑いました。
「へえ。クレムノスの王子様が恋バナの席を開くなんてね。こりゃ珍しいものが見られそうじゃない?」
「茶化すな。」
「あたしは真面目だよ? か・な・り。」
サフェル様の声は軽いのに、目は笑いきっていませんでした。彼女もまた、場の淵を見ているのだと思いました。冗談にしていいところと、してはいけないところ。その境目で、わざと足音を鳴らしてくれているようでした。
「こ、恋のお話でしたら……その、わたくしも……」
キャスたんが、小さく手を上げるような仕草をしました。可愛らしいです。とても可愛らしいです。けれど、その声は少し震えていました。期待と不安が同じくらい混ざっている声でした。
「もちろん、無理にとは申しません。ですが、キュレネ様のことを、ファイノン様が……その、大切に思っていらっしゃったことを、少しでも聞かせていただけるなら……」
言い終える前に、キャスたんはまた口を閉じてしまいました。踏み込みすぎたと思ったのかもしれません。わたしはそっと彼女の手の甲へ指を添えました。大丈夫です、という意味です。大丈夫、という言葉は簡単です。でも、簡単だからこそ、ちゃんと触れ方と一緒に渡したい時があります。
アグライア様が、静かに腰を下ろしました。その仕草は優雅でしたが、いつもの仕立ての裁定を下す時より、少しだけ落ち着きがないように見えました。
恋のお話。浪漫のお話。キュレネ様とファイノン様のお話。きっと、そのどれもが、アグライア様にとっては聞き逃せない糸だったのでしょう。
周りの人々も、ひとり、またひとりと座り始めました。誰かが果物を分け、誰かが杯を整え、誰かが遠慮がちに輪の外へ留まります。陽だまりの園の小径は、いつの間にか小さな語らいの席になっていました。
わたしも座りました。キャスたんの隣に、そしてファイノン様の斜め前に。
真正面ではありません。真正面は、時々、逃げ場がなくなってしまいます。斜め前なら、目を合わせたい時は合わせられて、少し視線を逸らしたい時は飾りや花を見られます。こういう配置は、診察室でも、案外大切なのです。
「ええと……そんなに面白い話じゃないと思うけど」
「構わん。」
モーディス様が言いました。
「貴様が、どう語るかを聞いてやると言っている。」
「それ、余計に話しにくいんだけど」
ファイノン様は苦笑しました。いつもの柔らかな笑い方です。だから、わたしは少しだけ肩の力を抜きました。けれど、完全には抜きませんでした。手元の杯にも、果物にも、彼の指先にも、注意を置いたままです。
「そうだな……、キュレネは……」
その名が出た瞬間、輪の中にいた人たちの呼吸が、少しだけ揃いました。
「僕が知ってる中で、一番、物語を信じるのが上手な子……かな。」
ファイノン様の声は穏やかでした。
「何でもない日でも、彼女が話すと少し特別になるんだ。道端に変な形の石が落ちていたら、きっとこれは昔、天外の星から落ちてきた魚の鱗なんだって言ってさ。麦の穂が風で同じ方向へ倒れていたら、昨日の夜に小さな妖精たちが競走した跡かもしれないって言うんだ。もちろん、本気で信じているわけじゃない時もあったと思う。――でも、そう言われると、ただの石や麦畑が、少しだけ楽しく見えたんだよ。」
わたしは、思わず微笑みました。
キュレたんらしいと思いました。会ったことのない時間のキュレたんまで、目の前に浮かぶようでした。麦畑の中で笑って、何でもないものへ小さな名前をつけて、世界が明日も続くことを当然みたいに信じている女の子。
「まあ……素敵です……」
キャスたんが、ほとんど吐息のように言いました。
「だろう?」
ファイノン様は、自然に頷きました。どこか自慢げに。
そのあまりに素直な言い方に、わたしとキャスたんは目を合わせました。アグライア様の金糸が、ほんのわずかに震えました。サフェル様が、口元へ手を当てて、笑うのを堪えているような顔をしました。
これは、やっぱり恋のお話です。まだ、甘くて、少し眩しくて、胸の奥がくすぐったくなるような恋のお話でした。わたしはその時、確かにそう思っていました。
「たしか、一緒に育っていらっしゃったんですよね?」
わたしは、そっと尋ねました。
「うん。エリュシオンでね。小さい頃から」
「では、小さい頃のファイノン様は、キュレたんにたくさんお話を聞かせていたんですか?」
「僕が?」
「はい。さっき、ファイノン様がただ話しただけのことも、キュレたんが物語にしていたと仰っていましたから」
「ああ……そうだね。僕は外で見たものを、よく彼女に話していたと思う。今日はどこで誰に会ったとか、畑で変な虫を見つけたとか、風車の影が夕方になると巨人みたいに見えるとか。そんなに大したことじゃないけど」
「大したことです」
わたしは即答しました。
ファイノン様が目を丸くします。
「そうかな」
「はい。キュレたんにとっては、きっと大したことです。好きな人が見たものを聞けるのは、とても嬉しいことだと思います。」
言ってから、わたしは固まりました。
今、好きな人、と言いましたか。言いました。わたしが言いました。
キャスたんが、隣で小さく震えました。アグライア様が、完全にこちらを見ました。サフェル様はもう、笑いを隠していません。セイレンス様は指先で杯の縁をそっとなぞり、ケリュドラ様は目を伏せたまま、けれど聞いていないふりはなさいませんでした。
ファイノン様は、怒りませんでした。照れて否定することも、慌てて話を変えることもありませんでした。ただ、その言葉を手のひらに乗せて、重さを確かめるように、ゆっくり繰り返しました。
わたしは、すぐに謝るべきか迷いました。踏み込みすぎたなら、引かなければいけません。相手が笑っているから大丈夫、ではありません。笑顔は時々、人が自分を守るために使う包帯のようなものでもあります。
「ファイノン様、今のは……」
「大丈夫」
ファイノン様が言いました。
声は穏やかでした。けれど、その手が、膝の上で少し握られました。
かすかな布ずれの音がしました。強く握りしめた、というほどではありません。けれど、わたしの目はそこを見逃せませんでした。お顔に大きな変化はありません。呼吸も、目に見えて乱れてはいません。だからこそ、その指の動きだけが、陽だまりの中で小さな影のように残りました。
「たぶん、そうだったんだと思う。」
たぶん。その言葉が、わたしの中で引っかかりました。恋のお話なら、そこはもっと甘く言っていいところのはずです。少なくとも、先ほどまでのファイノン様なら、困ったように笑って、昔のことだからね、くらいは言ってくださったかもしれません。
けれど、彼はたぶん、と仰いました。――まるで、自分の心でさえ、自分のものとして断言してはいけないみたいに。
「永劫回帰をもって、銀河規模の
空気が、変わりました。
それは冷たくなった、というより、急に深くなった、という方が近いかもしれません。陽だまりは変わらずそこにありました。花は揺れ、水は流れ、麦の穂のお守りは小さく光っています。けれど、わたしたちが座っていた場所だけが、静かに底を失っていくようでした。
「彼女の死をトリガーに始まる輪廻のために、彼女は何度も預言の救世主が世界を救う未来を夢見て、花弁がひとひら、またひとひらと色を失い、風にほどけるように散っていくように……数多の彼女が命を散らせて逝った。」
「ファイノン様……?」
キャスたんの声が、細く震えました。
わたしは立ち上がりかけました。止めるべきだと思いました。今は恋のお話ではなくなっています。少なくとも、ただ胸をときめかせて聞いてよい話ではありません。質問を重ねてはいけない。刺激を増やしてはいけない。そう判断するには十分でした。
けれど、ファイノン様はわたしたちを見ていませんでした。彼は、遠い場所を見ていました。けれど、視線は虚ろではありません。むしろ、はっきりしすぎていました。何かを思い出している、というより、ずっとそこに置いてあったものへ、ようやく言葉をかぶせているように見えました。
「だけど、僕は、彼女やみんなが信じてくれた預言の救世主じゃなくて、火を背負うためだけの器でしかなかった。」
胸の奥が、ぎゅっと痛みました。
器。とても、人に対して使ってよい言葉ではありません。少なくとも、わたしはそう思います。患者さんにも、仲間にも、大切な人にも、自分自身にも。
どれだけ役目が大きくても、どれだけ力を宿していても、人は器ではありません。痛みがあって、息があって、怖いものがあって、嬉しいことがあって、誰かの名前を呼ぶ時の声があるなら、それはもう、ただの器ではありませんと――そう言いたかった。でも、すぐには声になりませんでした。
「あの、ファイノン様……」
キャスたんが、勇気を振り絞るように囁きました。彼女の声は、陽だまりの中の白い花に触れる時のように慎重でした。
怖がらせたくない。傷つけたくない。けれど、このまま進ませてはいけない。そんな気持ちが、細い声の中で震えていました。けれど、その囁きは、ファイノン様の手が握られる音で、ほとんどかき消えてしまいました。
今度は、はっきりと分かりました。指が掌へ食い込むほどではない。傷つけるほどではない。けれど、抑えようとしたものが、手の中へ集まっている握り方でした。
「――僕が」
ファイノン様の声が、少しだけ低くなりました。
その声を聞いた瞬間、モーディス様が杯を置きました。小さな音でしたが、わたしにはやけにはっきり聞こえました。サフェル様が笑みを消します。アグライア様は、息をすることさえ忘れてしまったように、金の睫毛を震わせていました。アナイクス先生の椅子が、ほんのわずかに軋みました。
わたしは、手を伸ばすべきか、声をかけるべきか、その一瞬で考えました。
ファイノン様の見た目に、大きな異変はありません。倒れそうには見えません。顔色も、急に悪くなったとは言えません。けれど、見た目で分からない場所が、今、言葉によって開いていくのが分かりました。
止めたい。でも、止めることが正しいのか、分かりませんでした。長いあいだ誰にも渡せなかったものを、今、初めて外へ出そうとしているのかもしれません。だとしたら、途中で無理に塞ぐことは、治療ではなく、沈黙の上塗りになってしまうかもしれません。
だからわたしは、息を吸いました。いつでも名前を呼べるように。いつでも、ここにいます、と伝えられるように。そして、ファイノン様は、表情を消したまま、開きかけた痛みの底へ降りるように言いました。
「――僕が、何度も彼女を、みんなを手掛けた。」
それが誰の声だったのか、わたしには、すぐには分かりませんでした。凍てつく北の吹雪のような、山の中腹で咆哮を控える熱のようなお声だったからです。