陽だまりの園で交わされた穏やかな語らいは、ひとつの言葉をきっかけに静かに軌道を外れる。
失恋――軽やかに告げられたその響きは、やがて永劫回帰という重い真実へと繋がっていく。キュレネの残した優しさと、繰り返される終末の記憶。その狭間で、ファイノンは自らを「器」と呼び、過去を語り始める。
止めるべきか、見守るべきか。揺れる空気の中で、誰もが言葉を失い、ただ彼の声だけが、静かに深みへと沈んでいった。
ファイノン様が、再び手を開きました。さっきまで膝の上で握られていた手です。強く握り潰していた、というほどではありませんでした。皮膚に爪が食い込んでいる様子も、血の気が引いている様子も、少なくともわたしの位置からは見えません。ですから、診察の記録として書くなら、手指の緊張は軽度、外傷なし、顔色の急変なし、呼吸の著明な乱れなし、となるでしょう。
でも、そんなふうに整理したところで、あの場に落ちた沈黙の重さは少しも軽くなりません。静かなまなざしでファイノン様は、開いた手のひらを見下ろしていました。
まるで、その手の上に、今も何かが残っているみたいに。そこには血も、灰も、武器もありません。陽だまりの園の柔らかな光が、ただ彼の指の形に沿って落ちているだけでした。けれど、彼の視線は、その何もない手のひらから離れませんでした。
『――僕が、何度も彼女を、みんなを手掛けた。』
先ほどの言葉が、まだ耳の奥に残っています。
そのお言葉は、あまりにも静かでした。叫びではありません。震えも、怒りも、泣き声もありませんでした。ただ、事実を確認するみたいに置かれた言葉でした。だからこそ、わたしは息の仕方を一瞬だけ忘れてしまったのです。
ファイノン様の横顔には、表情がありませんでした。その
いつものファイノン様は、陽だまりのように笑います。相手が不安にならないように、先に柔らかい言葉を選びます。誰かが困っているとすぐに気づいて、少し身をかがめるように寄り添ってくれます。穏やかで、ふんわりしていて、のほほんとしているようにも見える方です。
(……でも、今そこに立っているファイノン様は、同じ人なのに、同じ人ではないように見えます。)
燃えているのに、炎が見えない。熱があるのに、声は冷えている。暗黒の潮へ向けられていたものなのか、壊滅の因子へ叩きつけられていたものなのか、あるいは、自分自身へ向け続けてきたものなのか、わたしには判断できません。けれど、彼の奥深くに、ずっと隠されていた熱があるのだと、その時はじめて知った気がしました。
それは、わたしたちが思い描いていた理想の救世主像とは、少し違っていました。
傷ついても笑う人。世界を救って、みんなを導いて、最後には優しく手を振ってくれる人。そういう、きれいな物語の中に置かれた英雄の姿ではありません。もっと焦げていて、もっと深くて、もっと息苦しくて、触れたら指先が焼けてしまいそうな何かでした。
「あぁ……」
小さな声が漏れたのは、わたしではありませんでした。
アグライア様でした。彼女は両手で顔を覆い、そのまま空を見上げてしまわれました。空といっても、ここはキュレたんの編んだ陽だまりの園です。
仰ぎ見ても枝の間からこぼれる光と、揺れる飾りと、薄い花びらのような明るさがあるだけです。それでもアグライア様は、まるで天を仰がずにはいられないように、金の睫毛を震わせていました。そうしたくなるお気持ちは、とてもよく分かります。
だって、ついさっきまで、わたしたちは恋のお話を聞いているつもりでした。キュレたんが石を星から落ちた魚の鱗にたとえ、麦畑を妖精の競走跡に変えるような、可愛らしくて、温かくて、少し胸がくすぐったいお話を聞いているつもりだったのです。
恋の話だと思って受け取ろうとした糸が、指先に絡んだ瞬間、刃になっていたようなものです。しかも、その刃はファイノン様の方から、自分の胸へ向けて差し出されてしまったのですから。
「ファイノン様……」
キャスたんが、今にも消えてしまいそうな声で呼びました。その声は届いたはずです。けれど、ファイノン様はすぐには振り向きませんでした。開いた手のひらを見下ろしたまま、少しだけ指を曲げて、また開きます。そこに何かを確かめるような動きでした。
わたしは、立ち上がっていました。いつ立ったのか、自分でも覚えていません。けれど、膝の上に置いていた手が、いつでも彼の方へ伸ばせる位置にありました。名前を呼ぶべきか、座ってくださいと言うべきか、それとも話を止めるべきか。判断が頭の中を行き来します。
患者さんが強い罪悪感を語る時、否定だけで遮るのは危険な行為です。違います、あなたは悪くありません、と言っても、その方の中で築かれた長い思考の階段が、たった一言で消えるわけではありません。むしろ、否定されたことで、さらに深く閉じてしまうこともあります。ですから本当は、まず受け止めるべきです。今そう感じているのですね、と。
けれど、受け止めることと、同意することは違います。ファイノン様を、まるで未曾有の怪物のように扱う言葉へ、わたしは決して同意したくありませんでした。
「……そうしなければ、永劫回帰が行えなかったからだ。」
低く、鋭い声が落ちました。
それまで、いかにも興味がありませんというお顔で座っていらっしゃったのに、その瞬間、椅子の脚が床を引っかく音が響きました。がたん、と陽だまりに似合わない硬い音がして、先生の座っていた椅子が半ば引きずられ、半ば倒れかけました。
あっ――アナイクス先生が、ひっくり返ってしまいました。……いえ、正確には、完全に転倒されたわけではありません。椅子が傾き、先生が立ち上がり、衣の裾が揺れ、杯が危うく小卓から落ちかけただけです。
けれど、あのアナイクス先生が、です。いつもなら、他人の動揺まで論理的に観察して、必要なら毒のある一言を添えてくるアナイクス先生が、です。
「回帰中の私は一体何を――――……」
そこまで言って、先生は言葉を切りました。
「……何でもありません。」
何でもなくはありません。と、わたしは心の中で思いました。たぶん、その場にいた多くの方が同じことを思ったはずです。
アナイクス先生は頭を押さえ、顔を逸らしました。その横顔には、怒りとも、悔しさとも、頭痛ともつかないものが走っていました。もちろん、わたしに先生の内心は分かりません。けれど、少なくとも、ただ驚いただけではないことは分かります。
回帰中の私は一体何を――そのお言葉だけで、充分でした。きっと、ファイノン様は、何度も頼りに行ったのだと思います。相談したのかもしれません。問いを投げたのかもしれません。手段を求めたのかもしれません。アナイクス先生なら答えを見つけてくれる、そう信じて、あるいは信じたいと思って、何度も何度も。
そして、先生はきっと、何度も考えたのでしょう。打開策を。別の経路を。犠牲を減らす方法を。歳月の火種、儀礼剣、終末、輪廻、預言、救世主という言葉の間に、針が通るほどの隙間でもないかと探したのでしょう。
それでも、あのアナイクス先生ですら、
わたしは、胸が苦しくなりました。お二人がどれほどの覚悟でそこへ至ったのか。どれほどの痛みを、仕方がなかった、という言葉の中へ押し込めたのか。わたしには分かりません。分かると言ってはいけないと思います。
「アナイクス先生……」
「言うんじゃありません、ヒアシンシア。」
先生は、わたしの方を見ませんでした。
「今の私には、過去の私を裁く権利も、過去の私の思考を正確に復元する材料も不足しています。無論、腹立たしいほどに。」
最後の一言だけ、ほんのわずかに熱がありました。
モーディス様が、低く息を吐きました。彼の拳は膝の上で握られていました。戦場へ出る前のような握りではありません。何かを殴るためでも、剣を取るためでもなく、いま言ってはならない言葉を押しとどめるための手に見えました。
「……エリュシオンのファイノン。」
今度こそ、その名を呼んだのはモーディス様でした。
ファイノン様は、ゆっくりと顔を上げました。表情はありません。先ほどまで普通に、穏やかに、話せてしまっていました。だからこそ、彼の言葉だけが、わたしたちの胸を裂いていきました。
「そうしなければならなかったのだとしても、貴様が、すべてを一人で罪に換算する必要はない。」
ファイノン様は少し瞬きをしました。その反応は、責められた人のものではありませんでした。むしろ、聞いたことのない言語を渡された人のような、ほんの小さな戸惑いでした。
「だが、
「役目として行ったことと、貴様個人の悪意は同じではない。」
「悪意がなければ、傷つけたことにならないわけじゃない。」
その言葉に、誰もすぐには返せませんでした。
わたしもです。
それは、あまりにも痛い正しさを持っていました。悪意がなければ痛みは消える、などとは言えません。治療でも同じです。助けるための処置でも、痛いものは痛い。必要な切開でも、傷は傷です。患者さんに「必要だったから痛くありませんよ」と言う医療者はいません。
少なくとも、わたしはそう言いたくありません。でも、だからといって、処置をした手を未曾有の怪物の手だとは呼びません。
世界を救うために選ばざるを得なかった手を、好きな人を傷つけた手だから愛してはいけない、と断じていいはずがありません。わたしは、そう思いました。思ったのに、言葉にするには、少しだけ時間が足りませんでした。
「ファイノン様」
キャスたんが、もう一度呼びました。今度の声は、さっきよりはっきりしていました。震えているのに、折れていません。花に触れるような慎重さの奥に、自分が傷つくことより相手を一人にしないことを選ぶ強さがありました。
「わたくしは……その、永劫回帰のすべてを存じ上げているわけではありません。ですから、軽々しく申し上げることはできません。けれど……」
キャスたんは、そこで一度言葉を飲み込みました。
ファイノン様は彼女を見ました。静かな目でした。怒ってはいません。責めてもいません。ただ、聞いていました。その聞き方が、いつもの優しいファイノン様のものだったから、わたしは余計に胸が痛くなりました。
「けれど、キュレネ様があなたを信じていらしたことまで、罪の形にしないでください。」
陽だまりの園に、カンパナの鳴る音がしました。
小さな金具が触れ合う、かすかな音です。普段なら綺麗だと思うだけだったでしょう。でもその時は、誰かが遠くで泣くのをこらえている音のようにも聞こえました。
「……、……」
ファイノン様は、何かを言おうとして、やめました。
その横で、アグライア様が両手で覆っていた顔を少しだけ下ろしました。目元は隠れていても、呼吸が浅くなっていることは分かります。サフェル様が、いつもの軽口を選ぼうとして、結局選ばずに、アグライア様のそばへ半歩だけ寄りました。支えるにはまだ早い、けれど倒れたらすぐ受け止められる距離です。
セイレンス様は、音のない旋律を止めていました。指先は杯の縁から離れ、膝の上で静かに重なっています。ケリュドラ様は、何も命じませんでした。あの方が黙っていることには、時々、命令よりも重い意味があります。今ここで誰かを制するべきか、進ませるべきか、その盤面を見ているようでした。
オンパロスの人々も、動けませんでした。彼らの中には、エリュシオンの方もいらっしゃいました。キュレたんのことを、ファイノン様のことを、幼い頃から知っている方もいたのかもしれません。
けれど、誰もすぐには口を挟めません。昔の二人を知っているほど、今の言葉がどれほど深く刺さるのか、分かってしまったのかもしれません。
「……信じてくれたから、余計に駄目なんだ。」
ファイノン様が、静かに言いました。
「彼女は、僕が世界を救う未来を夢見てくれた。みんなも、信じてくれた。預言の救世主が、いつか終末を越えてくれるって」
その声に、泣き声は混ざっていませんでした。
だから、わたしは息を詰めました。涙が流れるなら、まだ手を伸ばせるかもしれません。涙は、身体が痛みを外へ出そうとしてくれている合図でもあります。泣けることは、弱さではありません。回復へ向かうための大切な反応であることもあります。
でも、ファイノン様の声は乾いていました。
乾いているのに、そこには燃え残りの熱がありました。
「でも、僕は違った。預言の救世主なんかじゃなかった。火を背負うための器で、終末を越えるための仕組みで、何度も同じ場所へ戻って、何度も同じ結末を拾いに行くだけのものだった。」
「ファイノン様、それは――」
わたしは、やっと声を出しました。けれど、ファイノン様は首を振りました。強くではありません。拒絶というより、もう何度も自分の中で繰り返した答えを、今さら揺らせないというような、小さな動きでした。
「世界を救うためだと宣って」
宣って、という言葉が、彼の口から出たことに、わたしは驚きました。ファイノン様は、自分以外の誰かへそんなふうに言葉を向ける方ではありません。少なくとも、わたしが知る限りでは。
だから、その鋭さが誰へ向かっているのか、すぐに分かってしまいました。――……彼は、ファイノン様は、ご自身を自分で刺しているのです。
「彼女を、みんなを、傷つけ続けたのに」
アグライア様が、息を呑みました。
キャスたんの指が、わたしの袖をぎゅっと掴みます。わたしはその手に自分の手を重ねました。大丈夫です、と言いたかったのですが、今のわたしの手は、ちゃんと大丈夫を伝えられるほど温かかったでしょうか。
分かりません。分からないまま、それでも握り返しました。
「僕は、結局のところ、みんなを傷つけるしか出来ない――」
「違います!」
今度は、わたしの声が先に出ました。場の空気を破るくらい、強い声だったと思います。自分でも少し驚きました。けれど、その言葉だけは、聞き流してはいけませんでした。医療者としても、仲間としても、どうしても。
ファイノン様が、わたしを見ました。表情は変わりません。怒ってもいません。傷ついたようにも、少なくとも見た目には、はっきりとは分かりません。ただ、静かにこちらを見ていました。
わたしは、息を整えました。強く言いすぎると、相手を追い詰めます。けれど弱く言えば、届かないかもしれません。声の量、速度、間。診察室で何度も学んできたことを、わたしは陽だまりの園の真ん中で必死に思い出しました。
「涙が出ないことと、悲しくないことは同じではありません。泣けないことと、心がないことも同じではありません。ファイノン様が今、ご自分をどう呼びたくなっているのかは、わたしには全部分かりません。でも、その言葉だけは、診断としても、事実としても、受け取れません。」
言い切った後、胸が大きく上下しました。わたしの方が呼吸を整える必要があるかもしれません。そう思って、少しだけ情けなくなりました。けれど、ファイノン様は怒りませんでした。ただ、わずかに目を伏せました。
「……ヒアンシーは優しいね。」
「優しいから言っているのではありませんよ。必要だから、お伝えしています!」
ファイノン様の睫毛が、少しだけ揺れました。
けれど、その揺れは、わたしの言葉が届いた証なのか、ただ陽だまりの光が目に入っただけなのか、判断できませんでした。でも、心は。心は、見えません。見えないものを、見えているものより軽く扱ってはいけないのです。
「君たちは、そう言ってくれるんだろうと……そう思った通りだったな。でも、僕は知っているから」
ファイノン様は、困ったように笑おうとしました。
けれど、その笑みは、いつものように最後まで形になりませんでした。
「自分が、何をしたのかを」
陽だまりの園は、変わらず美しいままでした。
微睡みの庭から続く柔らかな風が、木々の葉を揺らしています。小さな飾りがきらきらと光り、麦の穂のお守りが青い石を抱いて、静かに揺れていました。キュレたんが残してくださった場所は、痛い記憶にも毛布を掛けるように優しくできているはずでした。
それなのに、その時のわたしたちは、その毛布の下にまだ熱を持った傷があることを、初めて見てしまったのです。
ファイノン様は顔を上げました。
そのお声は大きくありませんでした。けれど、誰も聞き逃せませんでした。
「世界を救うためと宣って、好きな女の子ひとりすら守るどころか傷つけ続けた。共に世界を救うと誓った仲間を一人、また一人と屠りながら、――それでも涙一つ流せない化け物が、僕なんだ、ヒアシンシア。……そんな怪物が、誰かを好きだと思うことすら忌むべき行為だろう。」
今度こそ、誰もすぐには動けませんでした。
アグライア様の指先が、顔を覆ったまま震えています。サフェル様の尻尾のような気配が、いつもの軽さを失っていました。モーディス様は杯に触れず、アナイクス先生は顔を逸らしたまま、何かを噛み殺すように黙っていました。キャスたんは、わたしの袖を掴んだまま、声にならない息をこぼします。
わたしは、ファイノン様の名前を呼ぼうとしました。――でも、唇が動く前に、胸の奥で言葉が詰まりました。違います。そんなことはありません。あなたは化け物ではありません。好きだと思うことは、忌むべき行為なんかではありません。
言いたい言葉は、たくさんありました。けれど、どの言葉も、今の彼が自分へ下した判決の深さには届かない気がして、わたしはただ、息を吸いました。
陽だまりの園の光は、変わらず優しく降っていました。優しすぎるくらいに。その優しさの中で、ファイノン様だけが、自分自身を裁く場所に立っているように見えました。
違うんです。昔話で花を咲かせるつもりだったんです……。どうしてこうなった……?
場面に合わせて聞くBGMを変えていますけれども、この話においては、ハミングが綺麗な絶望が迫り寄ってくるファイちゃんのあれです。情緒可笑しくなる……原因これか。