陽だまりの園で語られたのは、永劫回帰の果てに積み重なった罪と、過去形へ閉じ込められた幼い恋心だった。
ファイノンの静かな自己断罪は、仲間たちの胸を深く裂き、キュレネの名はやがて沈黙に包まれる。だが彼は、その沈黙すら気遣い、自ら距離を取ることを選んだ。
優しさが新たな痛みを生む中、ヒアンシーは気づく――彼に必要なのは、治療ではなく、役目から解き放たれる時間だと。だから彼女は動き出す。救世主を休ませるための、ささやかな作戦を。
059 願いを結ぶ風の枝
ヒアンシーから届いた連絡は、丁寧だった。
最初に、挨拶があり、星穹列車の旅程を気遣う言葉があり、他の惑星での開拓が落ち着いた頃で構わない、と三度ほど念を押したあとに、ほんの少し相談したいことがあると記されていた。文章だけを見れば、診察室の窓辺で温かな茶を淹れながら書いたのではないかと思うほど、いつもの彼女らしい柔らかさがある。
ただし、それは、末尾に付いていたイカルンの小さな足跡が、なぜか十二個もついてなければ、の話だった。ひとつやふたつなら可愛い。三つ四つなら、イカルンが端末へ乗ったのだろう。十二個ともなれば、そこには何らかの事件性がある。
「へえ。これは私へのヘルプだね、ちょっと行ってくるよ。」
速戦即決で行こう。開拓者はそう判断した。
ちょうど他の惑星で請け負っていた調査にも一区切りがつき、星穹列車へ持ち帰るべき報告書も丹恒のアーカイブ端末へ送信済みだった。
まぁ、誤字とかやり直しとかがあるかもしれないが、それは受信した側が見つけることで初めて存在を確立する誤字であり、まだ指摘されていない以上、今のところ完全な報告書である。そういうことにして、彼女はオンパロスへ向かうための接続を選んだ。
「おおう、相変わらずの絶景だね。」
キュレネから貰った「紡がれた物語」を慎重に開くと、視界を満たしていた星海の光が一度細く絞られ、次の瞬間には足裏へ確かな感触が戻ってくる。
オンパロスを開拓した日々からしばらく経ち、久しぶりに降り立った「歳月の彼方」――永遠の1ページは、記憶によって編まれた場所でありながら、宴の星ピノコニーとはまた違う、ひどく静かな温度を持っていた。夜空を溶かしたような淡い光が遠くの建物や石畳の縁を撫で、風が通り抜けるたび、どこかで葉の重なる音がする。
現実の大地とは異なるはずなのに、息を吸えば胸の奥まで涼しさが入り、まるで長い旅のあとに帰ってきた場所のような匂いさえ感じられた。
開拓者は接続後の違和感がないか確かめるため、指を一本ずつ曲げた。肩を回し、靴底で地面を二度踏む。
うん、問題なし。ついでに近くの植え込みを覗き込み、以前見かけた妙に丸い虫がいないか、そして以前の来訪時に開拓者が設置したオンパロス専用モデルのゴミ箱の調子はどうかと確かめようと一歩踏み出したところで、正面から桃色の影が飛び込んできた。
弾丸のようなそれを、避けるという選択肢はあった。――しかし、相手がヒアンシーだと認識した時点で、開拓者の足は止まっていた。
彼女がこんな勢いで人との距離を詰めることは珍しい。何が起きているのか確かめる方が先だと判断した、その直後だった。細い両腕が伸び、開拓者の肩を左右から掴んだ。
普段のヒアンシーなら、相手の表情を見られる距離で足を止める。声をかけ、返事を待ち、それから必要に応じて手を伸ばす。患者を驚かせないための手順を身体に染み込ませている彼女が、今日は開拓者の外套の肩口をしっかり掴み、爪先が触れそうな位置まで踏み込んでいた。
淡い桃色の髪が勢いのまま前へ流れ、ふんわり整えられているはずの縦ロールも、左右でわずかに高さが違う。頬にはうっすら熱がこもり、呼吸は乱れていると呼ぶほどではないものの、一息ごとの間隔がいつもより短かった。笑顔は浮かんでいる。しかし、まろやかな瞳は瞬きも少なく、開拓者の顔をまっすぐ見据えている。
「グレーたん、今お時間いいですか!!!?」
あえ? なるほど、これは事件性があるな――そう認識した開拓者の口から出たのは、落ち着いた確認の言葉ではなかった。
「キェェェェェ!!!?」
絹を裂くような乙女の悲鳴――と開拓者本人は主張するけれど、なのか曰く「今日も元気な奇声だね!」――が、穏やかな記憶領域の空へ高々と響き渡った。
開拓者の声に、近くの枝に留まっていた小鳥のような記憶体が一斉に飛び立ち、少し離れた場所で待っていたイカルンが翼を大きく広げる。驚いたヒアンシーの肩も跳ね、その拍子に開拓者を掴んでいた手が離れた。
開拓者は彼女の肩をやわく叩き、二歩後退して胸元へ手を当て、乱れてもいない呼吸を大げさに整えながら、無表情のまま彼女を見返した。
「ふう、すっきりした。」
「す、すみません! グレーたん、本当にすみません……!」
ヒアンシーは両手を胸元へ引き寄せ、指先を重ねた。先ほどまで開拓者の肩を掴んでいた手が、今度は所在なさそうに組み直される。髪の隙間から覗く耳が赤くなり、視線は開拓者の肩口と顔との間を往復した。
「痛くありませんでしたか? わたし、ずいぶん強く掴んでしまったような……肩を診せてください。いえ、その前に驚かせてしまったことへの謝罪を――」
「痛くない。声も出たし、ヒアンシーも聞いたでしょ。ばっちり肺も元気だよ。」
「声が出たことを健康の基準にしてはいけませんよ……!」
すぐに医療者の顔へ戻りかけたヒアンシーを見て、開拓者はひとまず肩を上下させた。外套の布が擦れるだけで、関節にも筋肉にも異常はない。銀河一の美少女のままだ。さすが私。自分の状態を確かめたあと、今度は彼女の顔を見る。謝罪する声はいつもの柔らかさへ近づいていたが、重ねた指にはまだ余分な力が入り、白くなっている。
どうやら、何かがあるらしい。それも、普段なら自分で順序立てて対処できる彼女が、開拓者の到着を待ち構えて肩を掴むほどの何かだ。
ならば、まず落ち着かせる必要がある。急いで問い詰めれば、ヒアンシーは自分の焦りや混乱を脇へ置き、患者の為の相談内容だけを整えて話そうとするだろう。彼女はそういう医者だった。
誰かの呼吸を数えることには慣れていても、自分の呼吸を数えてもらう側へ回るのは、あまり得意ではない。あのエスカトンで災厄に立ち向かう地上の人々を守るために、暴走しているエーグルの神権を制御すべく、自らを「天空」の壁画に取り込ませたときのように。
開拓者は視線を横へ移した。心配そうにこちらを見上げるイカルンがいる。白く柔らかな身体は今日も見事な丸みを保ち、短い脚で地面を踏みしめる姿には、抱き締めた者の理性を穏やかに溶かすだけの説得力があった。
「よし、君に決めた! 驚いた心には、もっちりが必要だよ。」
「えっ?」
「医学的判断だね。」
開拓者は真顔で言った。根拠はないし、そんな事実は一切ない。しかし、少なくとも悪化はしないという確信はあった。そもそもどこも悪くしていないから。
イカルンへ両手を差し出すと、翼獣は一度ヒアンシーを振り返った。ヒアンシーが困ったように眉を下げながら頷くと、イカルンはようやく開拓者へ一歩近づく。彼女はその首まわりを慎重に抱え、頬を柔らかな毛並みへ沈めた。
弾力があって、温かい。外見の愛らしさに反して身体の芯はしっかりしており、腕の中で身じろぎされるたび、もっちりとした重量が心地よく返ってくる。開拓者はイカルンの背を一定の速さで撫で、翼の付け根へ指が触れないよう気をつけながら、そのわがままな丸みを存分に堪能した。
「あ゛ぁ゛~~効いてきた……。」
「何にでしょう……?」
「全部に!」
ヒアンシーの声から、張り詰めていたものがわずかに抜けた。開拓者はそれを聞き逃さなかったが、すぐには顔を上げない。イカルンの毛並みをもう三往復ぶん撫で、十分な効能を得てから腕を解いた。
次に彼女が見上げたのは、ヒアンシーの縦ロールだった。いつもなら左右とも雲を巻き取ったように整っている髪が、今日は片側だけ少し緩んでいる。急いで待ち合わせ場所へ来たのか、それとも何度も髪へ触れたのか。理由までは分からないが、少なくとも本人が鏡を確認する余裕を失っていたことは見て取れた。
「ヒアンシー」
「はい?」
「あんたの髪、触っていい?」
唐突な申し出にもかかわらず、ヒアンシーは目を丸くしたあと、頬へ残っていた赤みを少しだけ深くして頷いた。
「は、はい。どうぞ……?」
開拓者は立ち上がり、緩んでいた巻き髪を両手でそっと受けた。桃色の髪は見た目より細く、指の間をさらりと滑る。
崩してしまわないよう毛先から持ち上げると、ふんわりした弾力が掌へ戻ってきた。雲の端、あるいは上等な菓子に絞られたクリームにも似ている。口に含んでみたい気もする。後者を口にすれば誤解を招きそうなので、開拓者は黙って一度だけ掌の上で弾ませた。
「ふわふわだね。」
「そ、そうでしょうか?」
「うん。イカルンはもっちりで、ヒアンシーはふんわり。今日も良い組み合わせだよ。」
彼女が真剣に評価を下すと、ヒアンシーはしばらく返事を探すように唇を開閉し、やがて小さく笑った。先ほどの、表情だけを整えたような笑顔とは違う。伏せられた睫毛の下で瞳が柔らかく細まり、強く組まれていた指もほどけている。
開拓者は巻き髪を元の位置へ戻し、左右の形を見比べた。ふーむ。完全な修復には専門技能が必要そうだったため、それ以上は触らない。なのかや姫子なら綺麗に整えられそうだったが、開拓者には髪型を煤まみれの独創的なデザインに変えることは出来ても、アグライアが眉を潜ませない程度に整える技術はなかった。
なのかが開拓者の心を読み取れたなら、「もう。使う場面が違うでしょ!」と言うだろうが、開拓者の中ではそうだった。調査は対象を壊す前に止めるべきである。丹恒から繰り返し言われてきた教訓が、今日は正しく活用されたと内心、自信満々であった。
二人は近くの長椅子へ移動した。淡い星明かりを含んだ木陰には、風が通るたび涼しい葉擦れの音が落ちてくる。
開拓者は長椅子の中央より少し端へ座り、ヒアンシーが隣へ腰を下ろせるだけの空間を残した。イカルンは二人の足元を一周してから、ヒアンシー側へ身体を寄せて伏せる。
「驚かせてしまってすみません……。自分でも、どうやら焦ってしまっていたようです。」
ヒアンシーは膝の上で両手を重ねた。今度は指へ力を込めすぎてはいなかったものの、親指だけが互いの爪をゆっくり撫でている。声も落ち着いていたが、言葉を選ぶ間がいつもより長い。
「めずらしいね、ヒアたんが焦るだなんて。」
開拓者はそう返しながら、すぐに相談内容を促さなかった。ヒアンシーは、誰かの痛みを急いで言葉にさせない。ならば彼女自身にも、同じだけの間が必要だろう。
開拓者は背もたれへ身体を預け、靴先を軽く揃えた。視線は正面へ向けたまま、隣にいる少女の呼吸が少しずつ緩やかになるのを待つ。遊びについて聞きたい、とヒアンシーからのメッセージには書かれていた。それなら、相談する相手を間違えてはいない。
開拓者は星穹列車の若きエースであり、数々の危機を乗り越えてきたナナシビトであり、オンパロスを救った者の――救世主の――片割れでもある。
開催されるイベントには、ことごとく顔を出して景品を頂くことはもちろん。そして何より、面白そうなものを見つければ近づき、触り、調べ、止められたなら別の方法でもう一度試す、銀河でも指折りの遊びの専門家だった。
自称ではある。遊ぶのはみんなの自由なんだから、資格証明書なんて大層なものはないし、心の向くままに進めばいい。開拓者はわずかに顎を上げた。表情はいつもと変わらず薄いままだったが、ハシバミ色の瞳には、未知の依頼を前にした光が静かに宿っている。
「それで、私に何を聞きたいの?」
急かさず、それでも逃さない声で問うと、ヒアンシーは一度だけ深く息を吸った。足元ではイカルンが顔を上げ、二人の間を見比べている。
どうやらこの星様の知恵を必要とする、容易ならざる相談が始まるらしかった。