微睡みの庭に並んでいたのは、王の玉座でも、英雄の武勲を刻む碑でもなかった。
誰かが日々使っていた器、祭りの日に飾られた工芸品、家族の手から手へ渡された布。名を歴史に残さずとも、確かにオンパロスを支えていた無数の営みが、星明かりの下で静かに息づいている。
ヒアンシーは、焼け焦げた一枚の布を前にして、かつて敵と呼ばれた青年が最後まで誰かを救おうとしていた痕跡を見つける。
その光景を、ファイノンは少し離れた場所から見つめていた。永劫回帰の中で、彼は滅びゆく都市も、名もなき人々の暮らしも、失われた祈りも、ただ忘れまいとして記録し続けてきた。けれどキュレネは、その冷たい記録に温度を与え、人々が手を伸ばせる物語へと編み直したのである。誰かが零した「覚えていてくれたんだね」という言葉に、ファイノンは静かに目を伏せた。
ケファレは決して忘れない。
常日頃から、ファイノンは決して忘れないと、胸の奥で静かに言い聞かせていた。
その思いは、誰かに課されたものではない。ただ、長い時間の中で、彼の内側に沈み、やがて形を持ったものだった。幾度も繰り返される終わりと始まりの狭間で、消えていくものを見送り続けるうちに、忘れないということだけが、彼に残された役目のように感じられていた。
それはいつしか、自分自身に課した誓いにもなっていた。
誰かの名が呼ばれること。誰かの声。誰かが最後に見上げた空。祭りの日に交わされた笑い声。戦火の中で途切れた祈り。生まれたばかりの子を抱く手。帰らなかった者を待ち続けた窓辺の灯。誰かが生きていた証を残すこと。終末が訪れ、世界が巻き戻され、すべてが失われたように見えても、その人生までなかったことにはさせないこと。
それらが胸の奥に触れるたび、ファイノンは息を詰める。忘れたくないのだと、はっきり思う。いや、忘れてはいけないのだと、どこかで強く言い聞かせているのかもしれない。
自分だけが覚えているのなら、自分だけは覚えていなければならない。そんな義務にも似た感覚が、長い歳月の中で彼を支えてきた。だからこそ、
終わりの見えない旅路だった。果てのない絶望だった。それでも最後の最期に、彼はもう一度だけ炎を掲げた。失われたものを未来へ繋ぐために。自分が燃え尽きることになったとしても、その先へ託すために。
――結果として、それは星神に
なんでも人類史上初の大快挙だと銀河ニュースになったそうだけれど、
彼の印象に残ったのは、どちらかといえば、その後のことにある。何のことだか気になってしまい、「凄いものなのだろうか」と問いかけてしまった方だ。
その問いを受けた
(――
その様子から、自分が問いかけた相手が
そして、彼は思わず旧知の友人のように、「久しぶりだね」と声を掛け直してしまった。敵対者でもあったのだから当然のことだとファイノンは受け入れ、挨拶のためにあげた手を降ろそうとすれば――どうやらそれも涙腺を刺激してしまったらしく、普段は頼れる年長者なのだろう。
縋りつくように手を握り込んで、小さな子供のように泣きじゃくるヴェルトの姿に困惑する星穹列車の面々を見て、ファイノンは少しだけ肩身の狭さを覚えたものだ。
それはそれとして、あまりにも感動屋になっているものだから、ケビン・カスラナとして託したはずの世界が崩壊してしまったのではと、ファイノンは一瞬だけ胸をざわつかせた。
「僕のたどった
「そん、そんなことは!!」
オンパロスと違って、自分がいなくなった後の世界を見届けることはできなかった。その後どうなったのかも知らない。だからこそ、ヴェルトの様子を見ていると妙な不安が頭をよぎる。――けれど、ファイノンの強張った表情に気づいたのだろう。ヴェルトは慌てて説明してくれた。
なんでも娯楽が充実した時代になったらしい。熱中できる物語も、語り合える仲間も、泣けるほど好きになれるものもたくさんあるのだという。
「特に戦隊モノやロボットものが熱く、」
そこまで聞いて、ファイノンはようやく息をついた。
どうやら杞憂だったらしい。ヴェルトの後継者――彼女たちに託した世界は、ちゃんと続いていた。人々が笑い、夢中になり、ときには涙を流せるくらいには。そんな当たり前の営みが、あの世界にも残っていることに、彼はひそかに安堵する。
そうした光景を思い浮かべながら、彼はふと視線を内へと戻した。
日々の営みとは、英雄譚の中心に置かれるものではない。地球は救われ、当たり前が続くようになったことが、その証明とも言えるだろう。
もちろん、それはオンパロスにも言えることだった。王の名でも、戦の勝敗でも、神々の権能だけでもない。朝に火を起こし、夜に誰かの帰りを待ち、泣き、笑い、愛し、明日もまた生きようとする者たちの営み。その無数の灯が集まって、オンパロスという世界を形作っていたのだ。
忘れないという言葉は、彼にとって慰めではなかった。むしろ、自分自身を縛る楔に近い。忘れてはならない。立ち止まってはならない。誰かが消えた事実を、世界の闇へ溶かしてはならない。そうして彼は、己の内側に無数の墓標を立て続けてきたのである。
(――けれど、
ファイノンが刻んだ名に、彼女は物語を添えた。死の時刻だけではなく、その人が生きていた朝を。失われた街の名だけではなく、そこに灯っていた窓明かりを。戦火の中で途切れた声だけではなく、その前に誰かと笑い合っていた時間を。
それは、記憶を軽くするためではない。重さをなかったことにするためでもない。ただ、重さだけでは抱えきれないものを、人がもう一度手に取れる形へ変えるためだった。
泣きながらでも読めるように。胸を痛めながらでも、懐かしいと言えるように。失われたものを失われたまま終わらせず、いつか誰かの明日へ渡せるように。
ファイノンは、星明かりの中で目を伏せた。
(……彼女は知っていたのだろうか。……知ってたんだろうな)
彼が、どれほど不器用に記憶を抱えていたのかを。忘れないと言いながら、その実、忘れられないものに焼かれ続けていたことを。誰かのために記録を残しているつもりで、その記録に自分自身を閉じ込めていたことを。
失われたものを、失われたままにしないために。名もなく消えた者たちが、本当にどこにもいなかったことにならないように。――たとえ自分の心が焼け落ちても、たとえその重みに耐えきれず魂を砕くことになっても。走り続けることしか出来なかった■■■■■を。キュレネは、きっと。
だからこそ彼女は、彼から受け取った記録を、ただ冷たい年代記として閉じなかった。悲劇の目録にも、英雄の功績を称える歌にも、しなかった。彼女はそこに、眠るための庭を編んだ。笑うための園を置いた。星を見上げるためのドームを残した。
――ねえ、知っていたかしら? あなたが覚えていたものは、こんなにも温かかったってこと。
そう告げるように。
ファイノンは、木工の花籠を抱いたまま、ゆっくりと息を吸った。指先に残るざらつきが、遠い日の自分へ繋がっている。
あの頃のカスライナは、まだ世界を背負うことなど知らなかった。木の実を両手いっぱいに拾い、編み物に苦戦し、キュレネにころころと笑われながら、小さな籠を作っていた。
やさしい麦のかおりが、心に小さなさざ波を起こすようだった。忘れないという誓いは、いつも彼を前へ進ませるものだ。たとえ身を裂かれても、魂を削っても、役目を果たすために歩ませるものだった。けれど今、その誓いは少し違う響きを持ちはじめている。
人々がこの花園で、自分たちの器や布や祭具を見つけたように。ヒアンシーが焼け焦げた布の痕から、フレイムスティーラーの中に残っていた彼自身の優しさを見つけたように。
忘れないことは、進むためだけの刃ではなく、帰るための灯にもなる。
――僕は誓うよ、「
ファイノンは、そのことをまだうまく言葉にできなかった。ただ、胸の奥に灯る光を、じっと確かめている。熱ではない。灼ける痛みでもない。キュレネがページの隙間に忍ばせた、陽だまりのような温度だった。
彼は、彼女が歳月を恨まなかったことを知っている。
エリュシオンを襲った、最初のあの日も。奪われたものを数え、失われた日々に泣きながらも、それでも歳月そのものを呪いにはしなかったことを。過ぎ去った時間の中にあった笑顔を、出会いを、愛を、彼女が拾い上げていたことを。ファイノンが記録として守り抜いたものを、もう一度、人が抱きしめられる物語へ変えたのだと、彼は理解していた。
花園に満ちる人々の声を聞きながら、彼は小さく息を吐いた。胸に抱いた籠は軽い。けれどそこに宿る記憶は、今まで抱えてきたどんな記録よりも、不思議なほど温かかった。
――ええ。あたしも誓うわ。「歳月」の名において。
誰がそう言ったのか、あるいは誰も言わなかったのか。けれど、その場所に立ったファイノンには、そんな声が風に紛れて聞こえた気がした。あの日の彼女の声が。
石に刻まれずとも、歌に編まれずとも、確かに残るものがある。家族が囲んだ食卓。祭りの日の灯。遠征に出る者へ結ばれた紐。もう戻らぬ人を待ちながら、それでも朝の水を汲んだ手。そうした光景を、ファイノンは記録としてではなく、胸の奥に触れるものとして思い出していた。
誰かが笑ったこと。誰かが怒ったこと。食べきれないほど実った果実に歓声を上げたこと。何気ない一日が、確かにそこにあったこと。それらは彼の中で、数字や記号ではなく、確かな温度を持って残っている。
そうした細部に宿る生活の記憶こそが、この場所をオンパロスで最も壮麗な場所へと変えていると、ファイノンは理解していた。宮殿ではない。神殿でもない。滅びを越えた民のために用意された、記憶の都。
そして、その都を編んだ少女の名を、彼は誰よりもよく知っていた。
「……先生の課題、これなら突破できそうだ! ごめんよ、ヒアンシー、サフェルさん。僕、急いでレポートを仕上げてくる! 今日は誘ってくれてありがとう。じゃあ、また!」
「あっ、ファイノン様!」
「ちょっと、急すぎるってば!」
そう言うや否や、ファイノンは風のような勢いで駆け出した。
走りながら、頭の中で文章を組み立てる。書き出しはどうしようか。思うがままに、感じたままに、とアナイクス先生からの指定もあったから、順序がバラバラでも構わないか。なら、故郷の名前。愛用してたものの名前。それとも。
――彼女の名を、キュレネ。
(うん、そうしよう!)
ここは、キュレネが編んだ
(アナイクス先生は、この花園のことを知りたかったんじゃない。キュレネのことを知りたかったんだ! だったら――彼女のことは、僕が書こう。)
その名を胸の奥で呼んだ時、ばらばらに散っていた言葉が、ファイノンの中でひとつの輪郭を持ちはじめた。
記憶の都。花の名を持つ頁。帰るための灯。どれも間違いではない。けれど、それだけではまだ足りなかった。ここにあるものを、どう書けばいいのか。先生に提出するためのレポートとしてではなく、この花園を見つけた人々の涙と、沈黙と、笑みを、どうすれば言葉の器に移せるのか。
ファイノンはずっと、それを探していたのだ。そして今、ようやく分かった気がした。感じた言葉をそのまま綴るなら、ファイノンはこう書くだろう。慰め、と。
滅びを越えた者たちへ差し出された、柔らかな慰め。泣いてもいい。懐かしんでもいい。失ったものを、失ったまま愛していてもいい。そう告げるために編まれた場所。キュレネは、悲しみを消そうとはしなかった。ただ、悲しみを抱えたまま座れる椅子を置いたのである。
そうだなぁ、他の言葉を使うなら約束も、そうだろう。
いつか新たな器を得るその日まで、あなたたちはここにいていい。あなたたちの暮らしは消えない。名前も、声も、食卓も、祭りの日の灯も、誰かを待ち続けた窓辺も、決して無意味なものにはならない。そうして未来へ手渡すための約束。――そしてこれは、ひとつの抵抗でもあった。
――オンパロスは、なかったことにはならない。
その言葉が胸の奥で形になった瞬間、ファイノンは足を止めることさえ忘れて駆け出していた。
まるで、胸の奥に火が灯ったようだった。戦うための火ではない。壊すための火でもない。書かなければ、と思わせる火。今この瞬間に掴んだものが、指の隙間から零れてしまう前に、文字へ刻まなければならないという衝動だった。
ファイノンは、風のように花園を抜けていく。青い外套の裾が星明かりを掬い、抱えていた木工の花籠が胸元で小さく揺れている。
ヒアンシーとサフェルの呼び声が背後から追いかけてきたが、彼の耳には遠く、ただ前だけがはっきりと見えていた。今なら書ける。その確信だけが、彼を前へ押し出していた。
先生の課題を突破できそうだという言葉は、半分は本当で、半分は照れ隠しだったのかもしれない。だがファイノンにとっては、それ以上に切実だった。これは課題ではなく、自分が見つけてしまったものを、どうしても形にしなければならないという衝動だったのだ。
ただ、彼女のように形にしなければならないものがあると感じていた。キュレネが編んだこの場所の意味を。人々が涙を流した理由を。自分が抱えてきた記録が、彼女の手で物語へ変わり、誰かの帰る場所になったという事実を。それを書かなければならない。
それは、忘れないためだけではなく、伝えるために。
これまでの彼は、記憶を抱え込むことに慣れすぎていたのだ。剣の奥へ、胸の奥へ、魂の深いところへ、失われたものを刻み続けることに慣れていた。
けれど、キュレネは違った。彼女は記憶を閉じ込めなかった。頁にして、花園にして、誰かが触れられる場所へ変えた。ならば、自分も少しだけ、そのやり方を真似てもいいのかもしれない。そう思えたことが、ファイノンには不思議だった。
どこまでもやさしく、どこまでも頑固に。そして、どこまでもロマンチックに。キュレネという少女は、世界の終わりにさえ物語の続きを信じた。終末を悲劇の句点にせず、次の頁へ続く余白に変えてみせた。
ファイノンは、その頑固さを知っている。
幼い頃から、彼女はそうだった。もう無理だと言われたことほど、笑ってやってみせる。難しいと言われたものほど、楽しそうに手を伸ばす。悲しいものを悲しいままにしておかず、そこへ花を添え、歌を添え、見た者が少しだけ息をしやすくなるように整えてしまう。
――この花園は、その彼女そのものだった。
慰めであり、約束であり、抵抗。
そして、物語を信じ続けた少女の、あまりにも彼女らしい返答。
ファイノンは、ようやくレポートを書くための言葉を見つけたのだろう。足取りは軽く、けれど胸の奥にあるものは決して軽くなかった。重さはある。痛みもある。けれど、その重さを抱えたままでも、誰かへ渡せる形に変えられるのだと、彼は今、知った。
だから走る。忘れないために。伝えるために。キュレネという、エリュシオンの麦を撫でる春風のような娘がいたという物語を、今度は自分の手で、ほんの少しだけ綴るために。