海や遊園地といった外界の休暇案は、オンパロスの存在条件により実現が難しいと判明し、開拓者は提案を次々と修正していく。
しかし、砂浜での休息や過密な娯楽施設の案も検討されるが、いずれも「休ませる」という目的と準備負担の問題に引っかかり、決定打には至らない。さらにピノコニーへの言及で、彼らが自由に世界を移動できない現実が改めて浮き彫りとなり、開拓者は無自覚な失言を詫びることになる。
ヒアンシーの穏やかな受容に救われつつも、開拓者は条件を整理し直し、誰も取り残さず、能力差にも依存しない催しの必要性を再確認する。
やがて彼女は、星空の下で願いを書き結ぶ「七夕」という風習に思い至り、それがオンパロスの現在に適した新たな休息イベントの核となる可能性を見出していく。
「たなばた……、ですか?」
聞き慣れない言葉をもう一度口にすると、舌先で転がした音が、知らない土地の小さな菓子のように不思議な形をしていました。たなばた。やわらかい響きなのに、どこか遠くへ通じているようでもあります。
わたしはグレーたんの指が示した先を追い、夜空を見上げました。「歳月の彼方」――永遠の1ページに広がる空は、深い青を幾重にも重ねたような色をしています。
濃紺の奥へ埋め込まれた星々は、息をするたびに明滅しているようで、木々を渡ってきた風が頬へ触れると、髪の先がさらりと持ち上がりました。左右のロールも遅れてふわんと揺れ、耳元で髪飾りが小さな音を立てます。
先ほどまで木立を揺らしていた風が頬を撫で、耳の横で髪がさらりと鳴ります。縦に巻いた髪の先が肩へ触れて戻るたび、ほんの少しだけ冷えた空気が首筋へ入り込みました。
その光景のなかに、空を隔てる川と、一年に一度だけ会う男女の姿を思い浮かべようとしてみます。けれど、わたしが知っている星空には、まだその川を見分けるための名前も、離れて待つ二人の姿もありません。うーん、なんだか、分からないものを分かったふりで補うより、まずはグレーたんの話をきちんと聞いた方がよさそうでした。
視線を戻すと、グレーたんは長椅子へ座り直し、膝の上に置いた端末を片手で押さえていました。瞳の奥だけがぱっと明るくなります。いまも、星を映したハシバミ色が、わたしの反応を待つようにまっすぐ向けられていました。
名案を見つけたときの勢いはまだ瞳の中に残っていましたが、わたしが尋ね返したことで、説明の順番を組み立てているのでしょう。グレーたんは短く肯定すると、わたしにも見えるよう端末を少し横へ退けました。
「うん、そう。七夕」
グレーたんは短く頷き、片手で長椅子の隣を軽く叩きました。立ったままではなく、落ち着いて話そうということなのでしょう。
わたしも腰を下ろし直すと、足元にいたイカルンが待っていましたとばかりに身体を寄せてきます。白い背を撫でれば、指の下で柔らかな毛並みが温かく沈みました。
「さっきも言ったけど、大掛かりなことをしなくてもできるお祭りなんだって。私も別の惑星を旅してたときに知ったばっかりだから、専門家ってほどじゃないけどね」
「ふふ。グレーたんは、もう十分にお詳しいと思いますよ。わたしは名前も初めてお聞きしましたから」
「じゃあ、今日から私が七夕の先輩だね!」
「ふふっ。よろしくお願いします、先輩」
「ふふん、任せて!」
わたしが頭を下げると、グレーたんは満足そうに顎を上げました。やはり表情はほとんど変わっていないのに、外套の裾が揺れるほど姿勢を整えるので、嬉しさはよく分かります。
「七夕ではね、一年に一度、願い事を書くんだ。短冊っていう細長い紙に」
「願い事を、紙へ書くんですか?」
「うん。叶えたい夢とか、こうなったらいいなってことをね。行きたい場所でも、食べたいものでもいい。書いたら、木の枝に結んで飾るんだよ」
話しながら、グレーたんは両手の指で、細長い紙の大きさを示してくれました。親指と人差し指で紙の端を摘まむような仕草をし、そのまま見えない枝へ結ぶ真似をします。結び方の細部までは覚えていないのか、指先は途中で少し迷い、最終的には二本の指を絡ませるようにして止まりました。
短い言葉なのに、胸の奥へ落ちていくまでには少し時間が必要でした。
医療院で誰かと向き合うとき、言葉が出てこない方へ真っ白な紙をお渡しすることがあります。何を描いても、何を書いても構わないと伝え、筆を選んでいただくのです。
最初から滑らかに手を動かせる方ばかりではありませんでした。紙を前にしたまま、長いあいだ指先を止める方もいます。筆を取っては置き、こちらの表情を窺う方もいます。上手に描けないと困るのだと、小さな声で訴える方もいました。
そんなときは、上手でなくても大丈夫ですよ、と伝えます。誰かに見せるためのものではありませんし、正しい形もありません。線を一本引くだけでも、紙へ色を置くだけでもいいのだと。
そうして待っていると、固く持ち上がっていた肩が少しずつ下がり、浅かった呼吸がゆっくりになります。震えていた筆先が紙へ触れ、最初の色が置かれる。その瞬間に、胸の奥で絡まっていたものが、ほんの少しだけ外へ出られたのだと感じることがありました。
描かれたものだけを見て、心の状態を決めつけることはできません。暗い色を使ったから悲しいとも、明るい花を描いたから元気なのだとも限りません。
大切なのは、その方が何を描いたのかを暴くことではなく、描いている間にどのような呼吸をしていたか、どこで手が止まったか、描き終えたあとにどんな顔で紙を見たかを、一緒に確かめることでした。
わたし自身も、同じ方法を試したことがあります。真っ白な紙を前にして、何でもよいと言われることが、あれほど難しいとは思いませんでした。
誰かのために必要なことなら、順序を決めて動けます。怪我をした方がいれば傷を診て、熱があれば身体を休められる場所を用意する。けれど、自分が何を描きたいのかと尋ねられると、手の中の筆が急に重くなるのです。何かを間違えたわけでもないのに、紙の白さへ申し訳なさを感じました。
やがて小さな雲を描き、その隣へ一筋の風を足したとき、ようやく息を吐けたことを覚えています。上手な絵ではありませんでした。それでも、胸の内側に溜まっていたものを紙が少しだけ預かってくれたようで、そのあとの呼吸は、描き始める前より深くなっていました。
けれど、それは治療や療養のための時間です。心が疲れているとき、言葉だけでは形にできないものを、別の方法で安全に外へ出す。そのために用意された静かな場所でした。
「書く内容は、決まっているんですか? たとえば、健康に関することや、家族のことなど……」
「ん-ん、何でもいいと思う。お腹いっぱい食べたい、とかでもいいし。試験に合格したいとか、誰かと一緒にいたいとか。私は星石がたくさんほしいって書く」
「星石を……?」
「大事だからね」
グレーたんは真剣な顔で頷きました。いつもと変わらない薄い表情でしたが、声に迷いはありません。星石が何に必要なのかまではまだ分かりませんでしたけれど、彼女にとって切実な願いであることだけは伝わってきます。
診療記録や処方箋のように、たくさんの情報を書き込むための紙ではないようです。ほんの短い言葉をひとつ、ふたつ。心の中から掬い上げて、風へ預けられるくらいの大きさでした。
それでも、何をする祭りなのかはよく伝わってきました。願いを紙へ書く。その一言を、わたしはすぐには飲み込まず、口の中でもう一度確かめました。
グレーたんの話す七夕では、それをお祭りとして行うのだといいます。
「その短冊は、決まった色を使うんでしょうか?」
「いろんな色があったよ。赤とか、青とか、黄色とか。飾りもいっぱいついてた。紙を折ったものとか、紐みたいなものとか、見たことない形もあったね」
「色とりどりなんですね。想像するだけでも、とても綺麗です」
白い枝葉の間へ、赤や青や黄色の紙が揺れる光景を思い浮かべます。空の星が地上へ降り、ひとつずつ誰かの言葉を抱いているようにも見えるでしょう。風が吹けば紙が重なり、かすかな音を立てるかもしれません。その下を子どもたちが走れば、見上げる顔にも色が映ります。
けれど、すぐに別のことも気になりました。わたしが催しを開きたいのは、誰もがそこへ居てよい時間を作りたいからです。
「上手に書けなくても、いいんでしょうか?」
「いいんじゃない? 絵でも、記号でも。本人が分かれば」
「誰かに読んでもらわなくても?」
「読んでほしかったら読んでもらえばいいし、見られたくなかったら小さく書けばいい。それでも心配なら、裏返して結ぶ」
願いを書くことが参加の条件になるのなら、文字に慣れていない方や、手を動かすことが難しい方には、別の方法を用意しなければなりません。
グレーたんは答えながら、自分で思いついた方法に納得したらしく、ひとつ頷きました。わたしはその横顔を見つめました。思いついたことを順番に口へ出しているようでいて、誰かが困る可能性へ触れると、すぐに別の道を作ろうとします。
書けない人がいるかもしれない。読まれたくない人もいるかもしれない。そんな小さな障害を、祭りの決まりだからと押し切るのではなく、その人も参加できる方法へ変えていく。
「文字を書けない方は、参加できないんでしょうか? 小さなお子さんや、手をうまく動かせない方もいらっしゃいますよね」
「絵でもいいと思う」
グレーたんは迷わず答えました。それなら、願いを書くことを怖がる方がいても、急がせずに済むでしょう。
白い紙を手渡されたとき、誰もがすぐに自分の願いを見つけられるとは限りません。長く誰かのために生きてきた人ほど、自分のために望んでよいものが分からなくなることがあります。そこで答えを迫れば、祭りは診察よりも苦しい時間になってしまいます。
けれど、色を選ぶだけでもよいのなら。絵でも、印でも、誰かに代わりに書いてもらってもよいのなら。
願いが見つからない人は、空白の紙を持って帰ってもいいのかもしれません。今日には書けなくても、明日、何かを望めたときに書けばいい。大切なのは、全員の紙を枝へ結ぶことではなく、自分にも願いを持つための場所があると知ってもらうことなのですから。
「知った惑星でも、絵を描いてる子がいたよ。何かの印だけの紙もあった。本人が分かればいいんじゃないかな。誰かに代わりに書いてもらってもいいし」
「それなら安心ですね。言葉にしにくい方には、色や形を選んでもらうこともできそうです」
「ヒアンシー、もう医者の顔になってる」
「あっ……すみません。つい」
「謝るところじゃないよ。医者の顔でも参加者の顔でも、どっちでもいいんじゃない? それに、大掛かりなものじゃなくてもできるよ」
グレーたんはそう言って、足元のイカルンへ視線を落としました。イカルンは話を聞いているのかいないのか、わたしの膝へ顎を載せ、丸い瞳をゆっくり瞬かせています。
「たとえばイカルンなら、足跡でもいいかもね。願いを込めて、ぺたって」
「それは可愛いですね! でも、端末へ十二個も足跡を残すのは、もうおしまいですよ?」
わたしが少しだけ声を低くすると、イカルンの耳がぴくりと動きました。顔は膝へ載せたままですが、視線だけが明らかに横へ逃げています。グレーたんはそれを見て、口元をほんの少し緩めました。
「十二個ぶん願いがあったのかもしれない」
「わたしに連絡を送ってほしい、という願いでしたら、ひとつで十分伝わりますよっ」
そう言いながら背を撫でると、イカルンは翼の先を一度だけ揺らしました。先ほどまで胸の内側へ残っていた焦りが、二人の会話と白い温もりの間で、少しずつ薄まっていくのを感じます。
呼吸が深くなり、肩の力も自然に下がっていました。グレーたんが来てくれた直後、わたしは自分でも驚くほど急いでいました。頭の中では考えがまとまらないまま、それでも皆さんを休ませなければという思いだけが膨らみ、相談内容を順番に並べる余裕さえなくなっていたのです。
けれど、いまは紙の色や大きさ、参加する方々の顔を一つずつ思い浮かべられます。何かを考えるときに必要なのは、速さだけではありません。呼吸を整え、手の届くところから確かめ、できることと難しいことを分けていく。患者さんへお願いしていることを、わたし自身も忘れてはいけないのでしょう。
「願い事を……」
わたしは、グレーたんの言葉をもう一度、丁寧に口の中へ戻しました。医療の場でも、白い紙を使うことがありました――けれど、それは治療として行うことでした。
心が疲れている方へ勧め、話せないことを表すための方法として用意するもの。静かな部屋で、必要ならわたしたち医療者がそばに付き、描き終えたあとにも無理をさせないよう様子を見守るものです。
グレーたんの教えてくれた七夕は、少し違います。
「書いた願いは、誰かが読むんでしょうか?」
「読んでもいいし、見せたくなかったら見せなくてもいいと思う。裏返して結んでる人もいたよ。みんなで見せ合ってる人もいたけどね」
「見せても、見せなくてもいいんですね」
「うん。願いは本人のものだから」
その答えを聞いて、わたしは短冊という紙を、胸の中でそっと裏返しました。
話したくない願いを守ることもできる。誰かと分け合いたい願いなら、同じ枝へ並べることもできる。医療者が必要性を判断して渡す紙ではなく、誰もが自分から手に取る紙。つらさを和らげるためだけではなく、嬉しいこと、楽しみなこと、まだ見たことのない明日を書くための紙です。
「それは、治療ではないんですよね」
「うん。ただのお祭り」
グレーたんは、何でもないことのように答えました。けれど、わたしには、その「ただ」という言葉がとても大切に思えました。
心にあるものを紙へ書くことが、苦しんでいる証拠としてではなく、皆で楽しむための催しになる。願いを抱くことが、治療を必要とする状態でも、弱さでもなく、星空の下へ持ち寄ってよいものとして扱われている。
短冊に何を書くか思いつかなくても、責められないでしょう。たくさん書きたければ、きっと何枚か使ってもよいのでしょう。
誰かの願いを見て笑ったり、自分も同じだと頷いたり、叶うといいですねと声をかけたりする。診察室ではなく、風の吹く場所で。薬の匂いではなく、紙や木々の匂いの中で。患者さんと医療者としてではなく、同じ夜空を見上げる者同士として。
わたしは膝の上で、ゆっくり手のひらを開きました。そこにまだ短冊はありません。それでも、細長い紙を受け取ったときの軽さが、もう指先へ触れているような気がしました。
願いを書くことが、傷を癒やすためだけにあるのではない。遊びとして、祝祭として、これから訪れる日々を楽しみに待つためにある。
星空の外に、そんな文化があるのだということが、わたしの胸へ小さな衝撃を落としました。痛みではありません。雨粒が静かな水面へ触れ、そこから幾重にも輪が広がっていくような、柔らかく、それでいて確かな驚きでした。