オンパロスでは、願いを言葉にすることさえ慎重さを要する時代があった。生存と復興に追われる中で、夢は贅沢として押し込められ、未来を語る声は次第に細くなっていく。ヒアンシーは医療院で人々の沈黙と、選ばれた最小限の願いに触れ続けてきた。
だが救済ののち、街には確かに変化が芽生え始める。子どもたちの問い、職人の笑い、芽吹く畑。まだ傷跡は残るものの、人々は「これから」を語り始めていた。
ヒアンシーはその変化の中で、願いを共有する場の必要性を見出し、七夕という催しの構想へと辿り着く。それは癒えきらぬ世界において、未来を選び直すための小さな灯火となりつつあった。
わたしの声が夜気へ溶けていくと、隣にいたグレーたんは、しばらくこちらを見つめていました。ハシバミ色の瞳は大きく見開かれているわけでも、口元に分かりやすい笑みが浮かんでいるわけでもありません。それでも、端末の縁を軽く叩いていた指が止まり、背もたれへ預けていた身体がほんの少しこちらへ傾きます。
誰かの呼吸が苦しそうなとき、わたしは胸の上下や肩の位置だけでなく、指先がどこへ向いているかを見ることがあります。声では大丈夫だと言っていても、助けを求めるように手がこちらへ伸びていることがあるからです。
グレーたんの指は、助けを求めているのではありませんでした。膝の上に置かれた端末から離れ、わたしの前に浮かぶ、まだ形のない七夕の景色へ触れようとしているように見えました。
「うん。やってみてもいいんじゃない?」
グレーたんは何気ない調子でそう言いました。この方は、ときどき重大なことほど、特別な飾りをつけずに差し出します。
隣へ座る場所を空けるときのように、手のひらへひとつ菓子を置くときのように、未来へ続く選択肢を、当たり前の顔でこちらへ渡してくれるのです。
「ただのお祭りなんだけどね。でも、案外大事なんだと思うよ、今のオンパロスには」
「大事、ですか?」
「願いを何かに書くってことは、自分で未来を選ぶってことだから」
グレーたんの言葉を聞き、わたしは膝の上で合わせていた手を、ゆっくりほどきました。
(自分で、未来を選ぶ……)
先ほどまで思い描いていた短冊には、食べたい料理や、会いたい人、育てたい花が書かれていました。どれも明るく、優しい願いです。けれど、グレーたんは願いを書くことを、ただ未来へ希望を預ける行為としてだけ捉えているのではないようでした。
願いを見つける。言葉にする。紙へ書く。その紙を、自分の手で枝へ結ぶ。
どの段階にも、誰かから命じられるのではない、小さな選択があります。すぐに理解できたつもりになるより、もう少し聞いてみたいと思いました。けれど、グレーたんは説明を続ける代わりに、膝の上へ置いていた端末へ視線を落とします。
指先で画面を二度ほど滑らせると、軽快な効果音が鳴りました。先ほどまで伏せられていた端末の画面には、小さな人物たちが次々と現れています。
色鮮やかな陣地の左右から敵らしきものが押し寄せ、配置された仲間たちが光や弾を放っていました。画面の上部では数字が忙しなく変わり、端には見慣れない印がいくつも並んでいます。
「それは、何をなさっているんですか?」
「ゲームだよ。それで、防衛してる」
「何をでしょう?」
「ここ」
グレーたんは画面の中央にある小さな建物を指しました。
敵がそこへ辿り着かないよう、仲間を配置して守る遊びのようです。画面の中では大きな帽子を被った人物が攻撃を受け、次の瞬間には別の人物がその前へ飛び出していました。
どのような物語なのかまでは分かりませんでしたが、少なくとも、グレーたんがかなり真剣に遊んでいることは伝わってきます。こちらと話している間にも視線は画面の変化を追い、右手の親指が必要な場所へ迷いなく触れていました。
ただ、集中しすぎて周りが見えなくなっている様子ではありません。わたしが覗き込むと、すぐに気づいて端末をこちらへ傾けてくれました。
「見て。ここに七夕って書いてある」
「まあ。本当ですね」
画面の端に、先ほど教わったばかりの文字がありました。小さな星と、細長い紙を模した飾りが描かれています。そこへ触れると、枝に短冊が結ばれた画面へ切り替わりました。背景には、青紫色の夜空と、星を散らしたような川が流れています。
わたしはもう少しよく見ようと、グレーたんの方へ身体を寄せました。肩が触れないほどの距離を残していたつもりでしたが、風が吹いた拍子に髪の先が彼女の外套へ重なります。
離した方がよいかと思ったものの、グレーたんは気にした様子もなく、画面の中央を指で示してくれました。
「願いを書くと、ちょっとした報酬がもらえるんだよね」
「報酬もあるんですか?」
「大事だよ。願いだけでも大事だけど、報酬も大事!」
「なるほど……?」
わたしが首を傾げると、グレーたんは短冊の入力欄へ指を置きました。画面の下から文字盤が現れ、灰色の手袋に包まれた指が、迷いなく文字を打ち込んでいきます。
『星石がたくさん手に入りますように!』
最後に感嘆符まで添えられた願いを見て、わたしは瞬きをしました。
「やはり、星石をお願いするんですね」
「うん。たくさんほしい」
先ほど聞いたときと同じく、グレーたんの声はとても真剣でした。
願いを書き終えると、短冊が枝へ結ばれ、星のような光が画面の中を舞います。すぐに小さな報酬の表示が現れましたが、グレーたんはそれを受け取るより先に、自分が書いた短冊を満足そうに眺めていました。
「そういえば、星石というものは、何に使うものなんですか?」
「開拓のエネルギーを使って、旅の途中で出会った人たちを招待する」
「招待……ですか?」
「列車に、というか、一時的な乗客に? 仲間になってもらう感じかな」
グレーたんは説明しながら、画面の別の場所を開きました。
そこには、わたしが知っている方々の姿もありました。星穹列車の皆さんだけでなく、オンパロスで共に戦った方々の姿も、色鮮やかな絵として並んでいます。
それぞれの絵の下には数字や印が添えられ、グレーたんは指を滑らせながら、そのひとつひとつを確かめていました。
「皆さんを、お呼びできるんですか?」
「できる。でも、必ず来てくれるわけじゃない」
グレーたんは画面を見つめたまま答えました。声の調子は変わりませんでしたが、次の画面へ移ろうとしていた指が一度止まります。ほんの短い間でした。それから、何もなかったように指先を動かし、星石の数が表示された場所を示しました。
「星石を使っても、会いたい人を絶対に呼べるわけじゃない。来てもらえることもあれば、来てもらえないこともある」
「それは……少し寂しいですね」
「うん。すごく寂しい」
返事があまりにも素直だったので、わたしはグレーたんの横顔を見つめました。
表情は相変わらず大きく動いていません。けれど、画面を持つ手は先ほどより少しだけ強く端末を支えています。指先へ力が入りすぎているほどではありませんし、呼吸も乱れてはいません。それでも、会いたい人へ会えない可能性を、平気なこととして扱ってはいないのだと分かりました。
「それでも、星石を使われるんですか?」
「もちろん使うよ」
迷いのない答えでした。グレーたんは端末を膝の上へ戻し、今度は画面ではなく、わたしの方へ顔を向けます。風に揺れた灰色の髪が頬へかかり、彼女は空いている手でそれを耳の後ろへ押しやりました。
「あんたたちを招きたいって思ってるのは私だし、これは私の選択だよ」
わたしは何も言わず、その先を待ちました。
グレーたんは話しながら、言葉の形を確かめるように視線を少し上へ動かします。患者さんが痛みの場所を探すときにも、似た仕草をすることがあります。分からないから黙るのではなく、伝えられる形を探しているのです。
「それで星石がなくなっちゃって、あんたたちを呼べなかったとしても、呼べたとしても、その未来にたどり着くまでの過程を選んだのは私だしね」
短冊へ願いを書くことと、星石を使うこと。
初めはずいぶん違う話に思えました。けれど、グレーたんの言葉を追っていくうちに、二つの間へ細い道が見えてきます。
願ったからといって、必ず叶うわけではありません。会いたい人の名を書いても、再会できないことはあります。行きたい場所を書いても、そこへ辿り着く道が見つからないこともあります。
それでも、叶うと保証されたものだけを選ぶのではなく、自分が望んだ未来へ向かって、いま使えるものを差し出す。結果をすべて自分で決めることはできなくても、どの未来へ手を伸ばすかは選べるのです。
「……だからさ、……あー」
そこまで言ったところで、グレーたんの声が止まりました。
口を少し開いたまま、視線が宙へ浮かびます。先ほどまで端末を持っていた手は膝の上へ置かれ、もう片方の手がゆっくり顎へ移りました。
「大丈夫です。ゆっくりで構いませんよ」
わたしがそう伝えると、グレーたんは一度こちらを見て、短く頷きました。姿勢を変えず、彼女が自分の速度で続きを見つけるのを待ちます。
足元では、イカルンが大きな欠伸をしました。丸い口が開き、身体が伸びたあと、再びわたしの足へ頬を寄せます。その様子を横目で見たグレーたんの肩が、わずかに下がりました。けれど、言葉はまだ見つからないようでした。
グレーたんは端末を脇へ置き、両腕を胸の前で組みます。右手の指が左腕を一定の速さで叩き、眉間には小さな皺が寄っていました。
「なんて言ったらいいかな……こういうの、丹恒とかキュレネの方が得意なんだよね」
「お二人とも、言葉を丁寧に選ばれますものね」
「うん。私は、考えてることは分かるんだけど、説明しようとすると途中で行方不明になる」
「それなら、一緒に探しましょうか?」
「ん-……」
グレーたんは唸りながら、少しだけ首を傾けました。
わたしは彼女の言葉を代わりに完成させることはしませんでした。途中で迷ったからといって、すぐに誰かが答えを渡してしまえば、その人自身が見つけようとしていた言葉を置き去りにしてしまうことがあります。
大事なのは正しい表現ではなく、グレーたんが本当に伝えたい形です。
「願いが叶うかどうかだけが、大切なのではない……ということでしょうか?」
「うん。それもある」
「選んだ結果が思ったとおりでなくても、選ぼうとしたこと自体に意味がある、とか?」
「近い。すごく近いかも」
グレーたんの瞳が少し明るくなりました。
「でも、もうちょっと……こう……楽しい感じ」
「楽しい感じ、ですか?」
「未来を選ぶのって、責任とか覚悟とか、そういう難しい話にもなるけど。それだけじゃないと思うんだよね」
グレーたんは腕を組んだまま、夜空へ視線を向けました。
「どこへ行こうとか、誰を誘おうとか、何を食べようとか。決めてるとき、けっこう楽しいじゃん」
「はい。そうですね」
行けるかどうか分からない海辺の役割まで、グレーたんは先ほど楽しそうに決めていました。ファイノン様は砂へ埋まり、モーディス様は大きな浮き輪をつける。
実現する日がいつなのか分からなくても、想像している間、彼女の瞳には明るい光がありました。予定を立てることは、未来を自分の方へ少し引き寄せることなのかもしれません。
「だから……うーん、まあいっか」
グレーたんは腕をほどき、膝へ手をつきました。先ほどまでの迷いを投げ出したのではなく、完璧な言葉を探し続けるより、自分の言葉で伝える方を選んだように見えました。顔を上げた彼女の瞳は、今度こそまっすぐわたしへ向けられています。
「未来を自分で描いて、選んでみるって、結構楽しいと思うよ」
とても短い言葉でした。
難しい言い回しも、古い物語からの引用もありません。ただ、グレーたんが旅の中で何度も選び、迷い、誰かへ手を伸ばしてきたことを知っているからでしょうか。その言葉は、軽い調子のまま、思っていたより深く胸へ届きました。
未来を自分で描く。
未来を、自分で選ぶ。
オンパロスでは長いあいだ、次に何をするべきかが先にありました。火種を追う。都市を守る。怪我人を癒やす。今日を生き延びる。
必要な道が目の前へ置かれ、その道から外れれば、誰かの命や世界の明日を失うかもしれなかったのです。選んでいるつもりでも、選べる道はほんのわずかでした。
けれど、いま短冊へ書こうとしているのは、果たさなければならない使命ではありません。誰かに求められた役割でもありません。
食べたいものを書くこともできます。行きたい場所を書くこともできます。まだ会ったことのない誰かに会いたいと願ってもよい。誰かと静かに過ごしたいと書いても、何もせず眠っていたいと書いてもよいのです。
書いたからといって、必ず叶うとは限りませんけれど。それでも、どの未来を思い描くかを決める時間そのものは、誰にも奪われません。
わたしは膝の上で手を開き、まだない短冊を受け取るように掌を上へ向けました。真っ白な紙を前にしたとき、何を書けばよいか分からず、手が止まる方もいるでしょう。わたし自身も、すぐには自分の願いを見つけられないかもしれません。
それでも構わないのだと思います――選べるということを知るところから始めればよいのです。今日には書けなくても、明日にはひとつ思いつくかもしれません。誰かの願いを見て、自分にも同じものがほしかったのだと気づくこともあるでしょう。
回復とは、以前と同じ状態へ戻ることだけではありません。失ったものを抱えたままでも、これから何をしたいかを考えられるようになること。誰かに守られるだけではなく、自分で安全な場所を選び、自分の足でそこへ向かおうとすること。それもまた、回復の一つの形です。
ならば、願いを書く七夕は、皆さんを休ませるだけの催しではないのかもしれません。未来を背負う誰かへ願いを預けるのではなく、自分の望みを、自分の手元へ取り戻す時間になるのかもしれません。
グレーたんは、言いたいことをどうにか伝え終えたためか、小さく息を吐きました。肩から余分な力が抜け、膝の上に置かれた手も緩んでいます。
「ふう、伝わった?」
「はい。とてもよく」
「本当に?」
「ふふっ。本当ですよ」
わたしが頷くと、グレーたんはしばらくこちらを見つめ、それから満足そうに顎を引きました。端末を持ち直し、先ほど書いた短冊をもう一度画面へ表示します。
『星石がたくさん手に入りますように!』
大きな意味について話していた直後に現れた、あまりにも素直な願いに、わたしは思わず笑ってしまいました。
「グレーたんらしい願いですね」
「切実だよ……!」
「それほど大切なら、たくさん手に入るといいですね」
「うん。ヒアンシーも祈って祈って!」
「はい。わたしもお祈りしますね」
わたしが両手を合わせると、グレーたんも端末を持ったまま同じように手を寄せました。どの星へ祈ればよいのか分からず、二人でいちばん明るく見える光を選びます。
星石がたくさん手に入り、グレーたんが会いたいと思う方々を招けますように。
けれど、願いながら、わたしは少しだけ不思議に思いました。先ほどまでなら、星石を得ることだけが彼女の願いなのだと思ったかもしれません。
いまは、その先にあるものが見えます。彼女が望んでいるのは、数字や宝石を集めることだけではありません。旅で出会った方々と、もう一度並んで歩ける未来です。結果が保証されていなくても、会いたいと思った相手へ手を伸ばすための選択です。
短冊へ書かれた一行は、とても簡単です。でも、その一行の奥には、誰と未来を過ごしたいのかという、グレーたん自身の選択がありました。
自分で未来を描くこと。自分で、未来を選べること。
その言葉は、長く垂れ込めていた雲の切れ目から落ちる光のように、静かにわたしの胸へ差し込みました。光は傷跡を消してはくれません。それでも、これから足を置く場所を照らし、自分の影がどちらへ伸びているのかを教えてくれます。
わたしは夜空を見上げたまま、まだ見えない短冊へ何を書こうかと、初めて自分のために考え始めていました。