オンパロスの夜に、ヒアンシーは開拓者と共に「七夕」という催しの構想に触れる。
願いを短冊に書くという素朴な行為は、単なる祈りではなく「自分で未来を選ぶこと」だと開拓者は語り、ヒアンシーはその言葉に静かに心を揺らす。
ゲームの中で語られる星石の願いは、会いたい人を必ず呼べる保証のない選択でありながら、それでも選ぶという意思の象徴だった。
やがてヒアンシーは、その在り方がオンパロスの復興と重なり、誰か一人が未来を背負うのではなく、それぞれが願いを持つことの意味へ思い至る。ファイノンへの小さな懸念も胸に宿しながら、彼女は初めて「自分の願い」を考え始める。
まだ見えない短冊へ何を書こうかと、自分のために考え始めたとき、胸の中には、いくつもの小さな願いが浮かびました。
皆さんと同じ食卓を囲みたい。イカルンと、復興した街をゆっくり歩きたい。医療院へいらっしゃる方々が、次の診察では少しでも穏やかな顔を見せてくださったら嬉しい。いつかグレーたんが話してくれた海を、自分の目で見てみたい。
どれも、誰かから命じられた役目ではありません。叶えなければ明日を失う使命でもありません。ただ、そうなったら嬉しいと、胸の中へ置いておける未来でした。
そうやって、自分にも願いがあるのだと一つずつ確かめていくうちに、柔らかな温もりの中へ、薄い雲がひとつだけ残っていることに気づきました。
ファイノン様のことです。
グレーたんと並んで祈った星明かりの下で、そのお名前は、ほかのどの願いよりも静かに浮かびました。
わたしは合わせていた手をほどき、膝の上へ戻しました。指先が衣服の縫い目に触れ、その細い凹凸をゆっくりなぞります。先ほどまで肩へ触れていた風は弱まり、木々の葉も、互いに内緒話をするような小さな音を立てるだけになっていました。
隣では、グレーたんが端末の画面を閉じています。手袋に包まれた指が画面を払うと、七夕の枝も、星石を願う短冊も消え、黒くなった表面へ淡い星空だけが映りました。
わたしはすぐには何も言えませんでした。何か気になることを見つけたとき、早く確かめたいと思うことがあります。症状が身体に関わるものなら、なおさらです。
けれど、答えを急ぐあまり、その方がまだ言葉にできないものを引きずり出してしまっては、安全な場所を作ることにはなりません。だから、まずは自分の中にある違和感を、勝手な決めつけへ変えてしまわないよう、ひとつずつ確かめることにしました。
エスカトンを乗り越え、オンパロスが新生を待つ時期に入ったのだと知らされたあとも、わたしの目に映るファイノン様は、あまりお変わりになりませんでした。
穏やかで、優しくて、誰かに呼ばれれば必ず足を止めます。重いものを運んでいる方がいれば、頼まれる前に手を添えてくださいますし、分からないことを尋ねられれば、相手が理解できる言葉へ置き換えて丁寧に説明してくださります。
医療院へいらしたときも、ご自身の用事より先に、待合室にいる方々へ声をかけてくださいました。椅子が足りなければ運び、棚の上へ置かれていた薬箱が傾いていれば直し、わたしが記録をまとめているあいだに、イカルンの背まで撫でてくださいます。
とても、日々を満足してるように見えました。そして、わたしが「少し休んでください」とお伝えすると、いつものように柔らかく笑うのです。
『僕は大丈夫だよ。ヒアンシーこそ、無理をしないでね』
声の大きさも、呼吸の間隔も穏やかでした。手元が震えているわけでもなく、顔色が悪いわけでもありません。視線もしっかり合い、こちらの話を聞き流している様子もありませんでした。
けれど、「大丈夫」という言葉のあとに、ご自身が何をしたいのかは続きません。以前と同じように、誰かの役に立つ予定だけが続きます。
アナイクス先生方の研究をお手伝いすること。復興に必要な古い記録を読み解くこと。街の方々から寄せられた相談へ応じること。必要であれば、どこへでも向かうこと。
それらを語るときのファイノン様は、迷いなく穏やかです。まるで、これからご自身が進む道は初めから一本だけで、その道の幅も、先に置かれているものも、すべて分かっているかのようでした。
それが悪いことだとは思いません。むしろ、とても善いことです。誰かを助けたいというお気持ちは、ファイノン様ご自身の大切な一部です。それを無理に取り上げてしまえば、休ませるどころか、かえって苦しくさせてしまうでしょう。
医療の場でも、本人が大切にしている習慣を、危険だからという理由だけで急に奪うことはできません。なぜ続けたいのか、どの部分なら負担を減らせるのか、代わりに何があれば安心できるのかを、一緒に探す必要があります。
ファイノン様へも、ただ「働かないでください」と言うだけでは足りないのでしょう。それでも、胸の奥へ残る雲は消えませんでした。わたしが知っているファイノン様は、もともと、もう少しだけ風のある方だったからです。
いつでも明るく騒がしいという意味ではありません。あの方は以前から、誰に対してもご自身の弱さを見せる方ではありませんでした。苦しくても、誰かがそばにいれば先に笑って安心させます。疲れていても、まだ動ける方を探して手を貸します。けれど、身内だと認めた相手の前では、ほんの少しだけ違いました。
樹庭で共に過ごした頃、書物を読み続けて目を疲れさせたあとに、わたしが休憩を勧めると、最初はいつものように「大丈夫」と答えます。
それでも、温かい飲み物を用意して椅子を勧めれば、少し困ったように笑いながら腰を下ろしてくださったものです。
そのとき、器を受け取る指がこちらの手へわずかに長く触れることがありました。ほんの一瞬です。握るほどではなく、助けを求めるほど強くもありません。ただ、触れていることを許してくださるような、小さな間でした。
キャスたんが隣へ座れば、少しだけ肩の位置を緩めることもありました。誰かがご自身の分まで食事を取り分けると、「そこまでしなくても」と言いながら、結局は残さず召し上がります。
わたしたちが遠慮なく世話を焼くと、申し訳なさそうなお顔をなさりながらも、完全には拒まれませんでした。言葉にしない甘えを、風が花弁を一枚だけ持ち上げるように、そっと差し出してくださる方だったのです。
だから、わたしたちもその風へ気づかないふりをしながら、遠慮なく甘やかしました。
飲み物をもう一杯お持ちしたり、座ったばかりの椅子から立ち上がろうとすれば別の話を振ったり、イカルンに膝の上を占領してもらったりしました。ファイノン様が休んでくださるなら、わたしたちもその隣で休む理由ができました。
あの頃は、互いに誰かのためだと言いながら、自分も少しだけ救われていたのだと思います。
現在のファイノン様も、拒むわけではありません。飲み物をお渡しすれば受け取ってくださいますし、声をかければ足を止めてくださいます。
けれど、その体温を預けるような短い間が、以前よりもずっと少なくなっていました。
器を受け取れば、すぐに次の人へ視線を向けます。椅子へ腰を下ろしても、誰かに呼ばれれば迷いなく立ち上がります。わたしたちが隣に座っても、穏やかに会話を続けてくださいますが、そのまま肩の力を抜いて、こちらへ重みを預けることはありません。
誰に対しても優しく、誰の前でも落ち着いている。まるで、火を追う旅の終盤にグレーたんが加わった頃のようでした。
あの頃のファイノン様は、誰よりも静かでした。声を荒らげず、迷いを表へ出さず、前へ進むために必要な言葉を選んでくださいました。その姿に、わたしも何度も支えられました。
いま目にするあの方は、樹庭でわたしたちと過ごした青年のようでもあり、オクヘイマを奔走した救世主のようでもあります。知られぬまま歩き続けた
どの姿も、確かにファイノン様です。だからこそ、どこまでが穏やかさで、どこからがご自身を置き去りにした静けさなのか、わたしには簡単に判断できませんでした。
身体の不調なら、いくつか確かめる方法があります。脈を診て、呼吸を数え、顔色や体温を見れば、少なくともいま安全かどうかは分かります。
けれど、願いを持っているかどうかを、脈拍から知ることはできません。何がしたいですかと尋ねても、ファイノン様はきっと、皆さんの役に立つことを答えるでしょう。それが嘘だとは思いません。あの方は、本当に皆さんが幸せであることを願っておられます。
嵐を越えたあとの空は、とても静かになります。強い風が止み、雨音も消え、雲の隙間から光が差します。その静けさは、ようやく休める場所へ辿り着いた証かもしれません。
けれど、あまりに長く嵐の中にいた人は、風が止んだあとにも傘を閉じられないことがあります。もう雨が降っていないと分かっていても、腕へ力を込めたまま、次に備え続けてしまうのです。
いまのファイノン様を包む静けさが、嵐を越えたあとの安らかな凪であるなら、それでよいのです。皆さんのそばにいられるだけで満たされ、穏やかに過ごしておられるのなら、わたしの心配は余計なものなのでしょう。
それでも、以前は確かに感じられたあの小さな風が、いまは凪いでいるように思えました。それは、頼られることを望む風ではありません。もっと世話をしてほしいと訴える風でもありません。
ほんの少しだけ、ご自身の重みを誰かへ預ける風です。自分もここにいてよいのだと、身内の間でだけ確かめるような、繊細な体温です。
その風が見えなくなっていることが、胸の奥へ小さな気圧差を生みました。痛みと呼ぶほど鋭くはありません。呼吸を妨げるほど重くもありません。それでも、晴れた日に一枚だけ薄い雲が残り、風向きの変化を知らせているような違和感でした。
(ファイノン様は、ご自身の願いをどこかに置き忘れてはいないでしょうか……)
その問いを思い浮かべた途端、胸が少しだけ冷えました。
置き忘れたのではないかと決めつけることはできません。もしかすると、胸の奥へ大切にしまっておられるだけかもしれません。誰にも見せず、言葉にせず、それでも確かに持っておられるのかもしれません。
けれど、もしも、ご自身の願いを探す必要さえないと思っておられるのなら。
皆さんが幸せなら、自分には何もいらないと、そう考えておられるのなら。
その静けさを、わたしたちは「ファイノン様らしい」と呼び、見過ごしてしまうかもしれません――それが、どうしようもなく怖い、と思いました。
誰かの痛みを暴きたいわけではありません。無理に心を開かせ、願いを言葉にさせたいわけでもありません。書きたくないものを書かせれば、七夕という催しは、わたしが望んでいたものとは違ってしまいます。
必要なのは、ファイノン様だけを囲み、何を願っているのかと問い詰めることではありません。皆さんが同じように短冊を持つことです。
モーディス様も、アナイクス先生も、キャスたんも、わたしも、グレーたんも、それぞれが自分の願いを自分の手で書く。大きな願いも、ささやかな望みも、誰かのための言葉も、自分のためだけの言葉も、同じ枝へ並べてよいのだと示すのです。
皆さんが自分の未来を一枚ずつ持てば、ファイノン様お一人が、すべての未来を背負う必要はなくなります。
願いは、それぞれの手元にある。叶えるための道も、それぞれが選び、助けが必要なときには互いに支え合えばよい。
その光景を見れば、ファイノン様も、ご自身のための一枚を持ってよいのだと気づいてくださるかもしれません。
すぐには何も書かれなくても構いません。空白の短冊を手にして、星空の下へ座ってくださるだけでもよいのです。誰かの願いを見て笑い、ご自身も同じものを望んでいたのだと、いつか気づいてくださるかもしれません。
そのためには、ファイノン様を休ませる催しではなく、皆で自分の願いを持ち寄る催しでなければなりません。
未来を、誰か一人が背負うのではなく、それぞれが持つ。その小さな風は、きっとファイノン様のところへも届くはずです。わたしが考え込んでいたためでしょう。隣から、衣服の擦れる小さな音がしました。
顔を上げると、グレーたんがこちらを見ています。先ほどまで端末を持っていた手は膝の上へ置かれ、ハシバミ色の瞳が、わたしの顔を静かに見つめていました。
「ヒアンシー?」
呼ばれて初めて、自分の呼吸が少し浅くなっていたことに気づきました。
「すみません。少し考え事をしてしまって」
「具合悪い?」
「いいえ、大丈夫ですよ。苦しくはありません」
そう答えてから、わたしは一度ゆっくり息を吸いました。大丈夫という言葉だけで終わらせず、自分で呼吸を確かめます。胸の痛みはなく、目眩もありません。考えが一度に押し寄せ、呼吸の深さを忘れていただけでした。
長く息を吐くと、肩から少し力が抜けます。グレーたんは急かしませんでした。具合が悪くないと分かったあとも、すぐに続きを尋ねず、わたしが話し始めるのを待ってくれています。その距離がありがたくて、わたしはようやく言葉を口にする決心がつきました。
「せっかくですし、」
声に出した瞬間、胸の中へ残っていた薄い雲が、風に押されるように動きました。
これはファイノン様だけのために開く催しではありません。
皆さんに休んでいただきたい。復興の途中にいる方々へ、何も成し遂げなくても同じ場所にいてよい時間をお渡ししたい。子どもたちにも、職人の方々にも、医療院へいらっしゃる方々にも、未来を思い描く紙を手に取ってほしい。
そして、わたし自身も参加者として、願いを書いてみたいと思っています。その中に、ファイノン様にもいていただきたいのです。
グレーたんが一緒なら、きっと来てくださるのではないでしょうか。先ほど砂へ埋めるという予定を立てられていたくらいですから、ファイノン様も簡単には逃げられないでしょう。
そんな少しだけ可笑しい想像をすると、口元が自然に緩みました。わたしは膝の上で組んでいた手をほどき、グレーたんへ身体を向けます。
彼女の表情はいつもと大きく変わりませんでしたが、こちらへ向けられた姿勢には、続きを受け取る準備ができているような落ち着きがありました。
「グレーたんも一緒に、オンパロスで七夕というものをやってみませんか?」
仔犬のようなファイちゃんを想像しました。
ちなみに、本作の065話におけるヒアンシーの最後のセリフが、本作のメインウェポンです。たどり着くまでにどれだけ時間かけとんねんって話ですよ……。