エスカトンという嵐を越え、新生を待つオンパロスの静けさの中で、ヒアンシーは「願いを書く」という行為の意味を見つめ直していた。
食卓を囲む日常や、ささやかな未来への希望を思い描く一方で、彼女の胸にはひとつの影が残る――ファイノンのことだ。
誰よりも穏やかに人々へ手を差し伸べながら、自身の願いだけは語らない彼の姿は、かつて身内へだけ見せていた微かな“風”を失ったようにも見えた。すべてを背負う静けさが凪であるのか、それとも置き去りにされた願いの不在なのか。確かめられぬまま揺れる思いの中で、ヒアンシーは気づく。
皆がそれぞれの願いを持つことこそが、誰か一人に未来を背負わせないための答えなのだと。そして彼女は、開拓者へ向き直り、七夕の開催を提案するのだった。
ヒアンシーからの誘いを受けて返事は、考えるよりも先に出ていた。
「いいね、それ!」
開拓者は長椅子から勢いよく身を起こし、膝に置いていた端末を片手で掴んだ。外套の裾が夜気を巻き込み、足元でくつろいでいたイカルンが驚いたように顔を上げる。先ほどまで二人のあいだに漂っていた静けさは、彼女の一声に押し上げられ、頭上の星空へ軽やかに弾けていった。
ヒアンシーはわずかに目を見開いたあと、安堵したように頬を緩めた。胸元へ添えていた手も下がり、桃色の髪を包んでいた緊張まで、風と一緒にほどけていくように見える。
その変化を確かめながら、開拓者は端末を起動した。ヒアンシーが七夕を提案するまでに、何を考えていたのか、そのすべてが分かるわけではない。
ただ、ファイノンの名を出したときと同じような慎重さが声に混じり、呼吸が一度浅くなったことは見ていた。だからこそ、返答を保留する理由はなかった。
誰か一人だけを休ませるためではなく、全員が自分の願いを持つための祭り。その中へファイノンも、ヒアンシーも、ほかの黄金裔たちも連れ出す。働き続けることを禁じるのではなく、仕事以外へ手を伸ばしたくなる時間を作る――条件は揃っている。あとは実行するだけだった。
「じゃあ、いつやる?」
「そうですねぇ……」
ヒアンシーは開拓者の勢いに少し遅れて立ち上がった。膝の上で眠りかけていたイカルンの頭を優しく撫でてから、衣服の裾を整える。先ほどまで遠いものを見つめていた瞳は、もう目の前の計画へ向けられていた。
「皆さんには、なるべく早くお休みいただきたいです。けれど、短冊や飾りを用意する時間も必要ですし、市民の方々へお知らせする期間も考えますと……一ヶ月後くらいがよいでしょうか」
「一ヶ月後。いいね」
開拓者は端末へ日付を入力した。仮予定の表示が星空の下に浮かび、淡い光が指先を照らす。一ヶ月あれば、紙も筆も集められる。各地へ知らせを届けることもできるし、アナイクスたちが資料室から出てくる可能性もある。
出てこなければ回収すればいい。研究者を資料ごと祭りの会場へ運び込む案も浮かんだが、休息イベントの趣旨から外れそうなので、ひとまず保留欄へ入れた。
「でも、準備を始めた途端、みんなが本気を出しそうだね」
「わたしも、それが少し心配です……」
「アナイクスは七夕の起源を調べ始める。モーディスは警備計画を作る。アグライアは全員分の衣装を仕立てようとする。ファイノンは全部手伝う」
「とてもありそうですねぇ……」
ヒアンシーの笑顔が困ったように揺れた。祭りを開けば休めるとは限らない。準備という名の仕事が与えられた瞬間、黄金裔たちは水を得た魚のように働き始めるだろう。
しかも、本人たちは楽しんでいるから大丈夫だと主張する。労働を楽しめることと、休まなくてもよいことは別である。開拓者は端末へ新しい項目を作った。
『七夕の準備や開催にあたる指標事項』
「まず、担当を小さく分けようか。一人が最初から最後まで背負わないようにしよう。準備時間にも上限をつけて、終わらなかった作業は翌日に回すって感じに」
「はい。無理に一日で仕上げないことは大切ですね」
「あと、祭り当日は主催者も全員参加。ヒアンシーが受付に立ち続けるのは禁止だから」
「わ、わたしは皆さんの体調を――」
「禁止だから」
「まだ最後まで言っていませんよ……?」
「言わなくても分かる。救護所は作るけど、ヒアンシー一人に任せない。交代制にする」
開拓者は端末へ素早く文字を打ち込みながら、横目でヒアンシーを見る。彼女は少しだけ口を尖らせていた。
しかし、本気で反対しているようには見えない。端末の画面を覗き込み、「交代時間は短すぎない方がよいですね」と付け加えているあたり、すでに条件を受け入れたうえで、現実的な運用へ思考を進めている。
「ファイノン様には、どのような役割をお願いしましょう?」
「参加者? でもファイちゃんも手伝いたいだろうからね、簡単な作業とか手伝ってもらおう。」
「それだけですか?」
「それだけ――でも結構、大変だと思うよ」
開拓者は迷わなかった。
「短冊を書いて、食べて、誰かと話して、座る。でも、開催中に何か運ぼうとしたら止める。脚立に上ろうとしたら下ろす。本格的な設営を手伝おうとしたら、代わりに菓子を持たせてあげよう」
「ふふっ。かなり厳重ですね」
「相棒はいいやつだから、
誰かが困っていると気づけば、ファイノンは手を伸ばす。それは彼の良いところであり、開拓者が信頼しているところでもある。けれど、祭りの日くらいは、困っている人を助ける側ではなく、誰かに菓子を勧められ、書いた短冊の内容を尋ねられる側にいてもよい。
英雄である前に、友人としてそこにいさせる。それは、開拓者が今回の企画へ密かに追加した勝利条件だった。
「場所はどうする? やっぱり広場かな。木を立てるなら外の方がいいけど、雨が降った場合の避難場所もいる。参加者の数によっては、通路を塞ぐかもしれない」
開拓者は周囲を見回した。「歳月の彼方」の夜は穏やかで、木々の向こうには復興途中の建物が淡い輪郭を浮かべている。この空の下で色とりどりの短冊が揺れれば、きっと美しい。それでも、大勢を集めるなら、美しさだけで場所を決めるわけにはいかない。
子どもが走っても危険が少ないこと。長く立っていられない者のために椅子を置けること。人の出入りが滞らず、必要なら静かに休める場所へ移動できること。食事を配るなら衛生を保てる設備もほしい。
「実は、オクヘイマの一部はもう入れるんですよ!」
ヒアンシーの声が一段明るくなった。桃色の髪が跳ねるほど勢いよく身体を向けられ、開拓者は端末から顔を上げた。
「入れるの?」
「はい。すべてではありませんけれど、安全が確認された区域から少しずつ開放されています。大講義場も使える状態ですので、そこをお借りできないかと思いまして」
開拓者の頭の中へ、大講義場の姿が蘇った。
高い天井、広い床、何列も並べられる座席。大勢が集まっても声が届くよう設計され、出入口も一つではない。装飾を吊るせる場所もあり、講義用の設備を使えば、七夕を知らない市民へ物語を紹介することもできる。
屋内へ大きな枝を用意し、外の広場にも短冊を飾れば、天候へ左右されず、星空も楽しめる。疲れた者は講義場の椅子へ座り、静かな場所が必要なら隣室を休憩所にできる――そして、何より、オクヘイマで新しい祭りを開くことには意味がある。
かつて終末へ備えるために人々が集まり、知恵を学び、命運を語った場所で、今度は自分の願いを書く。世界の未来を一つに決めるためではなく、一人ひとりの未来を色紙へ載せる。
開拓者は端末を持つ手へ力を込めた。
「な、なな、なんだってー!?」
驚愕は、全身で表現する必要がある。彼女は片足を引き、端末を胸元へ掲げた。顔はほとんど無表情だったが、外套の裾と灰色の髪が大きく揺れたため、驚いていることは十分に伝わったらしい。ヒアンシーは目を丸くしたあと、口元へ手を添えて笑い始めた。
「いいじゃん、いいじゃん。デッカくって広くって、市民ぎゅうぎゅうでも大丈夫そう!」
「ぎゅうぎゅうにならないよう、人数はきちんと把握しましょうね」
「大講義場なら、少しくらいぎゅうぎゅうでも耐えられる」
「参加される方々が耐えることになってしまいますよっ」
「じゃあ、ぎゅうくらいにする」
「もう少し余裕を持たせましょう?」
開拓者は参加人数の欄へ『ぎゅう未満』と入力した。ヒアンシーが横から端末を覗き込み、すぐに『安全な収容人数を確認』と書き直す。
開拓者はその文字を消そうとしたが、医療者の指は意外に素早く、保存の印を先に押されてしまった。初手から主導権争いが発生している。良い企画になりそうだった。
「規模は、オクヘイマだけ?」
「最初はそのつもりだったのですが……」
ヒアンシーは大講義場を思い描くように、夜空から遠い建物の方角へ視線を移した。
「せっかくなら、ほかの市町村の皆さんにも参加していただきたいです。会場まで来ることが難しい方には、各地で短冊を書いていただいて、こちらへ届けてもらう方法もあるでしょうか」
「あるある。それじゃあ、会場を一つにして、願いは各地から集めよう。持って来られない人の分は、届ける担当を作ればいいし」
「それなら、多くの方に参加していただけそうですね」
「でも、届ける人が働き詰めにならないように交代制だから!」
「はい。それも大切です」
企画の輪郭が、会話のたびに大きくなっていく。短冊を作る者、各地へ知らせる者、願いを届ける者、会場を整える者。役割は必要だが、誰もが自分の短冊を書く時間を持つ。祭りのために誰かが祭りから外れないよう、あらかじめ仕事を小さく分ける。
開拓者は思いついた項目を次々と端末へ記録した。
色紙は多めに用意する。読み書きが難しい者には、絵や印で参加できると知らせる。願いを見られたくない者のために、裏返して結べる場所を作る。木へ手が届かない者の短冊を飾る係は必要だが、その役目も一人へ集中させない。
食事は各地から少しずつ持ち寄る。ひとつの厨房へ負担を集めない。モーディスには警備の全指揮を任せず、会場を楽しむ時間を先に確保する。アナイクスには七夕の研究成果を一時間以内で発表してもらい、それを超えた場合は鐘を鳴らす。アグライアが衣装を作り始めた場合は、希望者のみ、簡易な飾りに留めてもらう。
「鐘を鳴らしたら、アナイクス先生はお話を止めてくださるでしょうか」
「止まらなかったら、二回鳴らす」
「回数の問題でしょうか……」
「最終手段はファイノンに回収してもらう」
「ファイノン様を働かせないお約束では?」
「危ないところだった。でも、自動的に出動してくれそうだね、相棒……」
開拓者は該当項目を削除した。代わりに『グレーたんが回収』と入力すると、ヒアンシーが楽しそうに笑う。先ほどまで胸の奥へ雲を抱えていたとは思えないほど、その声は明るく、風の中を軽やかに転がっていった。
けれど、開拓者は彼女が笑ったからといって、もう何も心配していないとは決めつけなかった。心配は、計画を立てればすぐに消えるものではない。それでも、一人で抱えたまま立ち止まるより、誰かと一緒にできることへ変えれば、少なくとも次の一歩は選べる。
「ヒアンシー」
「はい?」
「この祭り、絶対に成功させよう」
開拓者は端末から目を離し、彼女をまっすぐ見た。
「全員に休んでもらう。全員に短冊を書かせる必要はないけど、書ける場所は用意する。誰かだけが働く祭りにはしない。終わったあとに、次もやりたいって言えるくらいにしたいんだ」
ヒアンシーは一度だけゆっくり瞬きをした。星明かりを映した瞳が柔らかく細まり、胸の前で両手が重ねられる。
「はい。みんなで、楽しい日にしましょう」
「うん。あと、美味しいものもたくさん用意する! セイレンスの胃袋に負けないくらいに!」
「ふふっ、食べすぎには気をつけてくださいね?」
「祭りの日の食べすぎは、祭りの一部だよね!」
「翌日にお腹が痛くなっても、診療はいたしますけれど、賛成はできませんよ!」
ヒアンシーの声には、いつもの医療者らしい困り笑いが戻っていた。開拓者はそれに満足して端末を閉じた。
予定表にはまだ仮の文字ばかりが並び、会場の使用許可も、紙の調達も、参加人数も決まっていない。それでも、何もなかった場所に日付が置かれ、場所が選ばれ、誰を招きたいのかが言葉になって、未来の予定は、それだけでも少し現実に近づく。
見上げた空には、名を知らない星々が無数に浮かんでいた。かつて夜の帳の奥へ隠されていた光は、もう揺るがない遠景として閉じ込められているのではなく、行き先を考え、誰かと約束を交わすための目印になっている。
その星の下で、人の心はまだ不安に揺れ、希望にも揺れるのだろう。叶うか分からない願いを紙へ書く指も、最初は震えるかもしれない。それでも、書こうとした者の隣には別の誰かがいて、結べない短冊には手を貸す者がいる。
開拓者は、色とりどりの紙が大講義場と夜空のあいだを埋め尽くす光景を思い浮かべた。
その中には、ヒアンシーの短冊もある。モーディスやアナイクスたちのものも、そしてファイノンが自分の手で選んだ一枚もあるはずだった。何が書かれるのかは、本人が決めればいい。空白のままでも、そこへ来て笑ってくれるなら、それもまた未来の一部になる。
少女たちの相談は、夜が更けても尽きなかった。
開催まで一ヶ月。まだ何も始まっておらず、それでいて、もう確かに始まっている。言葉にされた予定が小さな種となり、星空の下、誰にも見えない未来の土へ落ちていく。
かくしてオンパロスに、願いを自分の手で書くための新しい祭り――七夕の企画が立ち上がったのである。