終末を越え、新生へ向かうオンパロス。その一角「星の降るドーム」では、ヒアンシーが開拓者から聞いた異文化の祭り――七夕をもとにした催しの準備を進めていた。
願いを紙に託し、若木へ結ぶという小さな試みは、やがて黄金裔たちの関心を呼び、各々の思惑と役目を抱えたまま広間へと集結していく。まだ形の定まらない企画は、しかし確かに“未来を語る場”として芽吹き始めていた。
ヒアンシーの目が、最後にもう一度だけ若木のそばに立つファイノンへ向いたとき、星の降るドームを抱く永遠の1ページは、昨日よりもいくらか地に近い色をしていた。
この場所は、名前のとおりに見える。けれど、いま頭上に広がっている光は、夜の深い藍ではなく、明け方の名残を含んだ淡い紫から、ゆっくりと青へほどけていく途中の色だった。高い天蓋の奥で星々はまだ瞬いているのに、その下へ差し込む光は不思議と温かく、終末の闇を知る者たちが思わず胸元を押さえたくなるような、遠くて近い朝を連れてきている。
ヒアンシーはその色を見上げながら、昨日、開拓者と話したときには「夜に願いを結ぶ祭り」として想像していた七夕が、朝の光の中でもちゃんと息づけることを知った。
回廊の石床には、まだ夜の冷たさがかすかに残っていた。白亜の石瓦は掃除をしたばかりで、表面に薄く残った水気が光を受け、踏みしめるたびに靴底へひんやりとした感触を返してくる。
乾ききらない夜露の記憶、とでも呼びたくなるその冷たさは、肌を刺すものではなく、むしろ熱を持ちすぎた胸をゆっくり冷ましてくれるものだった。ヒアンシーは衣の裾を整えながら、一歩前へ出た足の角度をそっと直し、緊張で膝が固くなっていないことを確かめる。落ち着かない。
吹き抜ける風は柔らかかった。枝葉を大きく揺らすほどではないが、若木の薄い葉を裏返し、机に置いた短冊の端をかすかに持ち上げ、ヒアンシーの桃色の髪を頬の前へ一房だけ滑らせる。
その風は、遠くで開いた窓の軋みや、どこかの廊下を駆けていった子どもの足音、さらにその後ろから追いかける大人たちの声を、嵐のあとに音がよく響く世界らしく、輪郭だけを澄ませて運んできた。静かなのに、何もいないわけではない。広いのに、空っぽではない。そう感じられるだけで、ヒアンシーの胸は少しだけ温まった。
それでも、彼女の意識は、広間全体を見渡しながらも自然と一点へ戻っていく。若木のそばに立つファイノンは、相変わらず何でもない顔をしていた。
白い髪が朝の光を受けて柔らかく光り、蒼穹にも似た眸は枝先の葉を追っている。片手は鉢の縁に添えられ、もう片方の手は枝に触れる直前の位置で止まっていた。触れば折れるほど弱いわけではない。だが、力を持つ者が無造作に扱ってよいほど丈夫でもない。そう判断しているらしい距離の取り方に、ヒアンシーは彼らしさを見た。
「……ん、大丈夫そうだね」
ファイノンが、春の日差しのようにふんわり笑って言った。若木に向けた言葉なのか、ヒアンシーへ安心させるための言葉なのか、それとも自分自身が運んだものに不調がないことを確認した独り言なのかは、声の向きだけでは分からない。
けれど、その穏やかさがあまりにいつも通りだったからこそ、ヒアンシーは一拍遅れて気づいた。――ほんの一瞬だけ、彼の呼吸が揺れたような気がしたことに。
大きく肩が上下したわけではない。胸を押さえたわけでも、足元をふらつかせたわけでもない。音にすれば、息を吸い直すほどのものでもなく、言葉を出す直前に喉の奥で空気がわずかに引っかかった、その程度だった。けれど、ヒアンシーの耳は、風が短冊を掠める音や、遠くの足音よりも先に、そのわずかな間を拾ってしまった。
光の加減かもしれない、と最初に思った。朝の薄い光は表情の陰影を変える。枝葉の影が頬へ落ちれば、ほんの一瞬、顔色が悪く見えることもある。白い髪が揺れれば、視線が落ちたように見えることもある。加えて、若木を運ぶのはかなりの重労働だった。
ヒアンシー自身が押してもびくともしなかった荷車を、ファイノンは平然と動かしてくれたけれど、だからといって彼の身体に負担がなかったと決めつけてよい理由にはならない。
むしろ、ヒアンシーが運び手ならばとっくの昔に息切れしていた。荷車の取っ手へ両手でしがみつき、顔を真っ赤にして、祭壇の上でぜえぜえと肩を上下させている姿を皆へお見せしていたかもしれない。イカルンに背中を押してもらいながら、「これは訓練ではなく医療用搬送の応用です」と言い訳をしていた可能性もある。だから、植木鉢を運んだ後に息が乱れること自体は、異常ではない。異常ではないからこそ、判断が難しかった。
ヒアンシーは、ファイノンの足元を見た。
重心は崩れていない。踵へ逃げてもいないし、爪先へ不自然に乗りすぎてもいない。手指に震えは見えず、枝を見る視線にも焦点の乱れはない。唇の色も、今すぐ横になってもらわなければならないほど悪くはなかった。声の高さも、普段よりわずかに柔らかいくらいで、痛みを隠すときの妙な明るさとは違うように聞こえる。
けれど、普段の彼なら、状態を確認したらすぐに次へ進もうとする。若木が大丈夫そうだと分かれば、ヒアンシーへ「それで、次は何をすればいい?」と尋ねるか、机の短冊を見て何かを聞くか、話し合いの輪へ何気なく戻るはずだった。
今の彼は、言葉のあとにごくわずかな間を置き、視線を葉先から鉢の土へ落としている。その程度のことだった。だが、その程度のことを気にするのが、ヒアンシーの役目でもあった。
心配かと声に出せば、彼は笑うだろう。「大丈夫だよ」と言うかもしれない。きっと、そう言う。しかも、その声には嘘らしい嘘がない。実際に、彼の中では大丈夫なのだろう。歩ける。話せる。笑える。誰かの手伝いができる。ならば問題ない、という順番で自分の状態を片づけてしまう彼の癖を、ヒアンシーはもう知っている。
だからこそ、体温と脈と呼吸は別のお話です、と言いたくなる場面がいくつもあった。今この場で言うべきか、少しだけ迷った。
ここには皆がいる。七夕の話を聞きに来てくれた仲間たちが、まだ始まっていない企画へ視線を向けてくれている。
この空気を、ファイノンの体調確認から始めてしまえば、祭りは最初から「彼を心配するための場」になってしまう。ヒアンシーがしたいのは、それではなかった。ファイノンの不調を見なかったことにするつもりはない。
けれど、彼を皆の心配の中心へ立たせることだけが治療ではない。時には、本人が自分の役目を手放しても居場所を失わない空気を、先に作る必要がある。
息を吸った。自分の胸の奥に滲み出してきた不安を、無理に消そうとはしなかった。消したふりをすると、あとで必ず動きがぎこちなくなる。
患者の前で慌ててはいけないと教わった頃から、彼女はそれを知っている。怖いときは、怖いまま手順を確認する。迷ったときは、迷ったまま優先順位を決める。今の優先順位は、ファイノンのわずかな呼吸の揺れを心の片隅へ記録しつつ、まずは皆へ企画の意味を伝えることだった。
イカルンが、ヒアンシーの足元で小さく翼を鳴らした。彼女が見下ろすと、相棒は首を傾げ、丸い瞳で見上げてくる。大丈夫ですか、と問われた気がして、ヒアンシーはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ありがとうございます。……大丈夫です、イカルン」
小さく返した声は、周囲の会話に紛れるほどの大きさだった。ファイノンがこちらを見た気配がしたので、ヒアンシーは視線を戻す前に机の上の短冊を整えた。白、赤、淡い青、若葉色。その色の重なりを指先で揃えると、紙の端が軽く擦れ、乾いた音を立てる。その音が、彼女の気持ちを現実へ引き戻した。
これは、夢を語るための祭りだ。
けれど、夢だけで終わらせてはいけない。
紙を切り、木を用意し、会場を借り、人を呼び、当日に動線を作り、短冊を結ぶための紐を準備する。願いを形にするためには、必ず手順がいる。手順があれば、誰か一人に負担を集めずに分けられる。役割を分ければ、ファイノンが何でも引き受けようとしても、「そこはもう別の方が担当しています」と言える。
そう考えると、ヒアンシーの胸にあった不安は、少しだけ姿を変えた。ただ重いものではなく、注意を促す灯りになる。医療の場でも同じだ。危険を見つけることは、恐れるためだけにあるのではない。避けるため、備えるため、安心へ繋げるためにある。
彼女は重ねていた両手をほどき、胸の前で軽く打ち合わせた。ぱん、と澄んだ音が広間に広がった。強すぎない、けれど確かに人の視線を集める音だった。
石床と高い天井がそれを柔らかく反響させ、窓辺の風が余韻をさらっていく。机の短冊が少し跳ね、イカルンが驚いたように小さく鳴いたあと、誇らしげに胸を張った。ヒアンシーはその反応に励まされるように、背筋を伸ばした。
集まっていた黄金裔たちの視線が、少しずつ彼女へ向く。
キャストリスの紫の瞳が静かに瞬き、アグライアの指先が顎から離れる。ケリュドラは膝の上で組んでいた手を解き、話を聞く姿勢へ移った。
サフェルは壁にもたれたまま視線だけを寄越し、モーディスは腕を組み直す。セイレンスは窓辺から身を反転させ、トリスビアスはヒアンシーを安心させるように目を細めた。アナイクスは相変わらず本棚の前に立っていたが、片手の指が本の背から離れていた。
ファイノンもまた、若木のそばで顔を上げた。先ほどの呼吸の揺れは、もう見えない。だからといって消えたとは限らないが、彼がこちらへ向けた笑みは穏やかで、少なくとも今、ヒアンシーの言葉を受け取る余白はあるように見えた。
彼女はその笑みに引き寄せられすぎないよう、全員を順に見る。誰か一人のためだけの祭りではない。皆で空を見上げるためのものなのだと、胸の中で繰り返す。
「皆さま、お時間をいただきありがとうございます」
声は、思っていたよりも澄んでいた。胸の奥で揺れていた緊張が、声を細らせるのではなく、むしろ輪郭をはっきりさせてくれたようだった。広間の空気は冷たすぎず、喉も乾ききっていない。話し出す前に水を用意しておいたことを、ヒアンシーは内心でイカルンへもう一度感謝した。
「昨日、開拓者さんから、天外の文明にある七夕というお祭りを教えていただきました。まだ、わたしも詳しく学び始めたばかりなのですが、とても素敵な催しだと思ったので、オンパロスでもできないかと考えています」
言葉にした瞬間、七夕という音が広間へ落ちた。聞き慣れない響きに、何人かの表情がわずかに動く。ケリュドラの眉がほんの少し上がり、サフェルの耳がぴくりと揺れた。アグライアは発音を確かめるように唇だけを動かし、アナイクスは何かを記憶へ照合しているのか、眼差しを細める。キャストリスは声を挟まず、続きを待ってくれていた。
ヒアンシーは、机の上から試作の短冊を一枚持ち上げた。淡い青の紙片は軽く、指先で支えなければ風に攫われてしまいそうだった。
「このお祭りでは、こうした細長い紙に願いや、これからやってみたいことを書いて、木の枝など、空に近い場所へ結ぶそうです。願いごと、と聞くと、神託や奇跡のように聞こえるかもしれません。でも、開拓者さんのお話を聞いて、わたしは少し違う受け取り方をしました」
紙を持つ手が震えていないか、ヒアンシーは自分で確かめた。
指先にはまだ緊張が残っているが、紙を落とすほどではない。声も、急ぎすぎてはいない。大丈夫、と自分へ言い聞かせるのではなく、今の状態を一つずつ確認する。患者へそうしているのと同じように、自分にも同じ手順を向ける。
「願いを書くということは、自分がこれから何を見たいのか、誰と何をしたいのか、どんな明日を迎えたいのかを、自分の言葉で確かめることなのだと思います。叶うか叶わないかを、すぐに決めるためではなくて……まず、望んでもいいのだと、自分に許すための形なのかもしれません」
そこで、ヒアンシーは一度だけ言葉を切った。単独の沈黙へするのではなく、持ち上げていた短冊を机へ戻し、今度は若葉色の紙片を指先でそっと撫でる動作へ繋げる。紙のざらつきが手袋越しに伝わり、彼女の言葉も少しだけ落ち着いた。
「オンパロスは、終末を越えました。けれど、皆さんも、市民の方々も、まだたくさんのことを抱えていらっしゃいます。復興のこと、住まいのこと、仕事のこと、失われたもののこと。それでも、新生を待つ今だからこそ、役目や義務だけではない未来のお話をしてもいいのではないかと思いました」
その言葉を口にしたとき、ヒアンシーの視界の端でファイノンの白い髪が小さく揺れた。彼がどんな表情をしたのか、真正面から見たわけではない。
だから、何かを感じたとは断定しない。ただ、彼の視線が若木から短冊へ移り、そしてほんの少しだけ、広間にいる仲間たちの方へ向いたように見えた。ヒアンシーは、それ以上を読み取ろうとしなかった。今は、彼の内心を診断する時間ではないのだから。
代わりに、彼女は皆へ向き直る。
キャストリスの姿勢は変わらず真っ直ぐで、聞いてくれていることがその沈黙だけで伝わってくる。アグライアは既に紙の裁断や紐の素材について考え始めているのか、短冊の端を見つめる視線が職人のものになっていて。
ケリュドラは足を組み替え、民の祭りとしてどう位置づけるかを測っているようだった。サフェルは退屈そうな顔を作るのに失敗しており、尻尾の先が先ほどよりも頻繁に揺れていた。
「もちろん、まだ企画の形は整っていません。開催場所や準備物、当日の流れ、市民の方々へどうお知らせするかも、皆さまにご相談したいことがたくさんあります。それで、今日はまず、この催しをオンパロスで開いてよいか、開くならどのような形がよいかを、お話しできればと思っています」
ここまで話して、ヒアンシーはやっと、自分が息を浅くしていたことに気づいた。喉が少し乾き、胸の奥に小さな熱が残っている。けれどそれは、昨日の夜、伝言の石版を握りしめていたときの不安とは違っていた。
人前で話す緊張はある。皆の時間を預かっている責任もある。けれど、それ以上に、言葉が外へ出ていくたび、自分の中でぼんやりしていた願いが少しずつ形を得ていく感覚があった。ヒアンシーは、机の上に置いた短冊から目を上げ、広間の全員へ届くように声を整えた。
「それで、ですね。イベントのことを、もう少し詳しくお話しさせていただこうと思います!」
彼女の声は、思ったよりずっと明るく澄んで、天井へ向かって真っ直ぐに伸びた。音が広間の上部で柔らかく跳ね返り、星の名残を含んだ朝の光の中へ溶けていく。
そんなにも楽しみだったのだろうか、とヒアンシーは自分の声を聞きながら少しだけ不思議に思った。心配も、不安も、見落としてはならない小さな違和感も、確かに胸の底にある。それでも、皆の前で未来の話を始められることが、彼女自身の想像以上に嬉しかったのかもしれない。
我がことながら、わかりません。そう胸の内で結論づけながら、ヒアンシーは次の言葉へ進むため、短冊の束をそっと両手で持ち上げた。
迷ったと、逡巡したで、悩む。