ケファレは決して忘れない。神として市井を見守り、永劫回帰の果てまで無数の人生を記憶し続けた彼にとって、忘れないことは誓いであり、宿命であり、己を前へ進ませるための刃でもあった。
だが、キュレネが編んだ花園に満ちていたものは、墓標ではなかった。失われた名。途切れた声。帰らなかった者を待つ窓辺の灯。ファイノンが記録として守り抜いたものに、彼女は物語を添え、人々がもう一度抱きしめられる温度を与えたのである。
記憶は、ただ重く背負うためだけのものではない。泣きながらでも読み返せるように。懐かしいと呼べるように。失われたものを、失われたまま明日へ渡せるように。
星明かりの花園で、ファイノンはようやく気づく。アナイクスが知りたかったのは、この場所の構造ではない。キュレネという少女が、何を願い、何を残し、どのようにオンパロスを抱きしめたのかだった。
ならば、その物語は自分が書こう。
忘れないためだけではなく、伝えるために。
キュレネという、エリュシオンの娘がいたということを。
レポート用紙に向かう頃には、ファイノンの息は少しだけ弾んでいた。胸の奥に残るざわめきを押さえ込みながら、彼は机の上に木工の花籠を置き、羽ペンを手に取る。
胸の奥にはまだ、花園の星明かりが残っていた。あの場で見たものが、離れようとしてくれない。水差しを見つけて泣いた人。織り柄に故郷を思い出した人。何も言えないまま、ただ古い玩具を見つめていた人。ヒアンシーの震える声も、サフェルの珍しい沈黙も、すべてがまだ耳の奥に残っている。
「彼女の名前をキュレネ……オンパロスは……、ん?」
最初の一文を書いた途端、ファイノンは少しだけ手を止めた。ペン先を紙の上に浮かせたまま、自分の書いた言葉を見下ろす。感じたことをそのまま書いたはずなのに、どこか他人事のように整いすぎている気がしたのだ。
慰め。約束。抵抗。オンパロスはなかったことにはならない。頭の中で並べた言葉を、彼は一つずつ確かめる。どれも間違ってはいない。間違ってはいないけれど、それだけでは少し硬い。まるで、自分のためではなく、誰かに説明するために書いているみたいだった。アナイクス先生に普段提出するレポートなら、それでいいだろう。
けれどエリュシオンのキュレネという少女を語るには、まだ花が足りない。かといって、華やかに飾ってしまうと陽だまりが足りない。
ファイノンはそう思いながら、記録のページに触れていた。読み終えた人が、泣きながらでも少し笑えるような、彼女らしい軽やかさも、まだここには足りない。妖精が飛んではねたような音符の音色も、彼の記録の中では、まだかすかにしか見えてこないだろう。
そう思った瞬間だった。
――「だって、あたしたちはみんな頑張ったんだもの。」
ふいに、そんな声が聞こえた気がした。
ファイノンは蒼穹の瞳をぱちくりとさせる。部屋には自分以外に誰もいない。開いた窓から風が入り、花籠の縁を撫でていくだけだ。
それでも、その声はあまりにも自然に胸の奥へ落ちてきた。昔から知っている声。困難なことほど楽しそうに笑い、悲しいものに花を添え、どうしようもない終わりにさえ次のページを探してしまう、よく知った彼女の声だと。
――「ご褒美くらいあったって、誰も文句を言ったりしないはずよ♪ そうでしょう?」
ファイノンは、思わず小さく笑ってしまった。
こっちのほうが、ずっと彼女らしい、と彼は思った。慰めだとか、約束だとか、抵抗だとか。自分はさっきからそんな言葉を並べていたけれど、キュレネならきっと最後に全部ひっくるめてしまう。
そんなふうに。難しい話を、当たり前みたいな顔で。まるでそれが世界の当然の仕組みであるかのように。そう言って笑う姿が、ファイノンの脳裏に、ありありと浮かんだ。
「そうだね……君なら、そう言うだろうな。」
慰めであり、約束であり、抵抗。そんな言葉を並べながら、ファイノンは自分の書いた一文を見つめていた。キュレネなら、きっと得意げに頷くだろう。けれど最後には、もっと簡単な言葉で締めくくるに違いない。
みんな頑張った。
ただ、それだけのことへと。
その言葉を思い浮かべたとき、ファイノンはわずかに息を吐いた。難しい理屈を、彼女は嫌いではない。むしろ面白がる方だった。だが、それを人の胸に届く場所まで降ろしてくるのが、誰よりも上手かった。
滅びの中で生きた人も。火を追った人も。故郷を失った人も。名前を残せなかった人も。何度も終わりを迎え、それでも明日を諦めきれなかったオンパロスの民も。そして、それを覚え続けた自分も、物語へ編み直した彼女も。――キュレネが言うように、みんな頑張ったのだ。
ならば、とファイノンは思う。眠るための庭があってもいい。泣くための場所があってもいい。失くしたものにもう一度触れて、懐かしいと笑う時間があってもいい。終末を越えた世界に、そんなささやかなご褒美が用意されていたって、きっと罰は当たらない。
「そうだね、キュレネ。君の言う通りだ。」
ファイノンは、羽ペンを走らせる。
先ほどまでの筆致とは、わずかに違っていた。整いすぎていた文章の隙間に、意識して余白を残す。そこに、花が咲くように言葉を置いていく。キュレネが編んだ場所を語るなら、きっとこうでなくてはいけないと、彼は思う。悲しみを消さず、重さを捨てず、それでも最後に、よかったね、と言えるように。
「……永遠の1ページのことを書くなら、やっぱり彼女自身のことも欠かせないよな。」
そう呟いて、ファイノンは小さく息を吐いた。花園を編んだ少女のことを抜きにして、この場所を語ることはできない。慰めも、約束も、抵抗も、その根にはいつだって彼女の願いがあったのだから。
見るものが見れば恋文のような内容になりつつあることに気づかず、ファイノンは書き続けた。おそらくアナイクスが彼のレポートを確認したときには、問答無用で
……
…
ファイノンが風のように駆け去ったあとも、記憶の花園には長い余韻が残っていたと、後に語られる。
青い外套の残像は星明かりの中へ溶け、ヒアンシーとサフェルの呼び声もまた、やがて静かに薄れていったという。だが、その場にいた人々はすぐに動き出すことができなかった。誰もが、それぞれの記憶の前に立ち尽くしていたのである。
それは、美しいからだけではない。
星は降るように瞬き、花々は夢のように揺れている。微睡みの庭には柔らかな静けさがあり、陽だまりの園には名の通りの温もりが満ちていた。だが、それだけならば人はただ感嘆したに過ぎぬ。綺麗だと、素晴らしい場所だと、そう言って終わることもできたであろう。
それは、ただ懐かしさゆえのことではなかった。
花園には、故郷の織り柄があり、家族が使っていた器があり、祭りの日に掲げられた飾りがあった。かつての暮らしを思い起こさせるものが、あまりにも自然に並べられている。もしそれだけであったなら、人々は思い出話に身を委ねただろう。
昔はこうであったと、あの人はこんな顔で笑っていたと、涙を拭いながら語り合うこともできたに違いない。――だが、それは悲しみだけでもなかった。
失われたものは、確かにそこに在った。戻らぬ人も、戻らぬ街も、戻らぬ時間も、この花園では影のように寄り添っている。もしそれだけであったなら、人々はただ俯き続けただろう。すべては終わったのだと、もはや手は届かぬのだと、胸の奥へ痛みを沈めるほかなかったはずである。
しかし、希望があるからだけでもない。
そこは、新たな器を得る日までの揺り籃であり、次の朝を待つための場所であった。終末を越えた民が、もう一度生へ向かうための静かな停泊地。だが、それだけであれば、人はただ前だけを見て歩いたかもしれない。過去を振り返らず、涙を置き去りにして、未来へ進もうとしたであろう。
この花園には、そのすべてが同じ場所にあった。美しさも、懐かしさも、悲しみも、そして希望も。ゆえに、そこを訪れた者たちは、しばし言葉を失ったという。
どれかひとつを選ぶ必要はなかった。泣きながら笑うことも許され、立ち止まりながら進むことも咎められない。失ったものを抱えたまま、次の朝を待つこともまた、否定されることはなかった。
ピンクの妖精こと、桃の黄金裔。キュレネが編んだ花園は、そうした矛盾をひとつも責めることなく、ただ静かに受け止めていたのである。
花園のあちこちで、人々はまだ立ち尽くしていた。
水差しに触れる者がいた。布の模様をなぞる者もいた。古い玩具を子供へ見せる者もいれば、声を殺して泣く者もいた。泣きながら笑う者もいた。何も見つけられず、それでも誰かの記憶にそっと寄り添う者もいたという。
そこには、確かにオンパロスがあった。
失われたものを閉じ込める墓標ではなかった。終末の残骸を並べた陳列棚でもなかった。かつて在った世界の残響として、これから生まれ直す者たちのための揺り籃として、そしていつか本当の星空へ手を伸ばすための入口として、そこに在り続けていたのだと語られる、日常への第一歩であったのだと。
星明かりは、誰の涙も急かさなかったという。風は、誰の沈黙も咎めなかったともいう。花々はただ揺れて。まるで、すべての記憶が次のページへ移る準備を終えるまで、そこに咲き続けると決めているかのようであったと、のちの語り部たちは口を揃えた。
かくしてオンパロス人は、新たな器を得るその日まで、記憶の花園に身を寄せることとなった。
そこは、滅びの残骸にあらず。失われし時代を封じる棺にあらず、終わりし世界をただ悼むための墓標にもあらず。灰の底より拾い上げられし無数の記憶は、ここにて静かに眠りながら、なおも未来へと細き糸を紡ぎ続けていたという。
微睡みの庭には安らぎが宿り、陽だまりの園には温もりが満ちる。星降るドームには、遥か天外へと連なる物語の残響が、絶えずさざめいていたと語られる。
ゆえに人々は、この場所をこう呼び習わした。
――記憶の揺り籠、と。
名を持つ者も、名を残せなかった者も。王も、英雄も、名もなき民も。祝福された栄光も、ありふれた日常も。そのすべてが一冊の物語として編まれ、同じ星明かりのもとに並べられている。
冠は語り、剣は語る。食卓も、玩具も、欠けた水差しも、泥にまみれた靴もまた語る。かつてここに確かな暮らしがあり、確かな命が息づいていたのだと。そして、その物語はいまだ終わりを迎えてはいないのだと。
人々はそこで涙を流したという。懐かしき名を呼ぶ者もあり、静かに微笑む者もあり、ただ立ち尽くし言葉を失う者もあった。だが、それでよいのだと語り部は言う。すぐに前を向く必要はない。忘れる必要もない。失ったものを抱えたままでも、人はなお次の朝を待つことができるのだと。
キュレネが編み上げしこの花園は、そのためにこそ在る。悲しみを急かさず、希望を押しつけず、ただもう一度歩み出すための時を与えるために。
終末を越えし者たちは、ここにて夜明けを待つ。
それは物語の終幕に訪れる沈黙にあらず。すべてが尽き、忘却のみが残る静寂にあらず。むしろ、その逆である。
ここにある沈黙は、次なる物語へと歩み出すためのもの。泣き疲れた心を休めるために。震える手を温めるために。もう一度、大切な名を呼ぶために。ほんのひととき息を整えるための、静かな幕間である。
花園には今もなお、頁をめくる音が絶えぬという。
ファイノンが記ししものを、キュレネが物語へと編み直した。
人々はそのページに触れ、自らが確かに生きていたことを知る。愛したことを知る。失ったことを知る。そして、それでもなお前へ進めることを知るのだと。
いつの日か、新たなる器を得た彼らは、この場所で抱きしめた記憶を胸に、本当の星空へと手を伸ばすであろう。その時、ここで流した涙は足枷とはならず、懐かしさは鎖とはならず、悲しみは壁とはならぬ。それらはやがて、未来を照らす灯火となると語られている。
自らがどこより来たりし者かを忘れぬために。誰と共に歩みし日々であったかを忘れぬために。そして、再び世界へと踏み出すために。
ゆえに、ここは、次なる生命の夜明けを待つための静かな幕間。物語が終わりし後の沈黙ではなく、次の場面へと移るために息を整える、束の間の静寂である。
星明かりは降り続け、花々は揺れ続ける。そして記憶の花園は、いつか人々が再び歩み出すその日まで、過去を抱きしめながら未来を待つ者たちのために、変わらずそこに在り続けるのだと、語り継がれることになった。
「私は”理性”の半神であって、”浪漫”の半神ではないのですが……どうしろと?」
「それで
「再提出をさせるつもりはありませんでしたが、合格は違うのでは?」
「あなたの提出せよ、と言った定義の内にはあてはまるでしょう。まさか、あの子の思ったことをそのまま書きましたと言わんばかりの
「色恋沙汰は専門外ですので、その件の可否について論争するつもりはありません。ですが、ここで合格を通してしまえば、しばらくは掲載されることになります。あの子の心の内側をオンパロス全土にお披露目することになる。それは、――あんまりでしょう、流石に。」
「……それは、そうですが――では、こうしましょう。前半を採用し、後半は手紙なのですから彼女の為に保管するのです。幸い、文章の繋がりが消えても自然に読めますし、言われなければ後半があることは分かりませんから。」
(それはそれであれなのでは……いや、あの子の場合は、周りが多少強引に補助してやったほうが、為になる――か?)
なお、余談ではあるが、この「記憶の揺り籠」という呼び名の由来は――ファイノンが神悟の樹庭にて恩師アナクサゴラス教授へ提出した、とある一篇のレポートにあるのだとか。
※浪漫の小噺
「それで
Q.このときアグライアが「あら、可愛らしい」と言ったのはどうして?
A.エリュシオンで過ごしてた頃の記憶を丁寧に書き起こしつつ、小さな頃の「僕」が当時の「彼女」に思ってたことを綴っていたから。たとえば――
あの頃のことを、僕はよく思い出す。
キュレネとは、約束をしてもしなくても、遊べるときには一緒に遊んだんだ。特別な理由なんてなくて、ただ気が向いたら会いに行って、気がついたら隣にいる、そんな関係だった。
でも、ちゃんと約束をしていたときは、決まって同じ場所に集まった。彼女がよく好んで座っていたブランコか、それとも風に揺れる麦畑の中か。
僕が彼女より早く着いたときには、たまにそのブランコに座って待つこともあったよ。軋む鎖の音を聞きながら、空を見上げて、まだかなって思いながら。
そのときにね、彼女はよく、ささやかなサプライズを仕掛けてくるんだ。気配を消して、そっと後ろに回ってきて、いきなり僕の目を隠して――「だーれだ♪」って。答えなんてわかってるくせに、僕は少しだけ考えるふりをしたりしてさ。そうすると彼女は、くすくす笑うんだ。その声が、まるで音符が跳ねるみたいに軽やかで。
彼女が笑うと、待っていた時間まで、ちゃんと楽しかったものになる気がして。……実は僕、あの笑い声が好きだったんだ。