烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 若木の根を整えるファイノンの手は、静かな大地の呼吸に寄り添いながら、過剰な力を避けて慎重に働いていた。
 ヒアンシーやアナイクス、仲間たちが見守る中、彼は土の状態を調律し、木が自ら伸びる余白を残すことを選ぶ。
 その穏やかな作業の最中、トリスビアスの何気ない一言から、オクヘイマに来たばかりの少年期の姿が語られ始める。背伸びしながら学び、知らぬ都市で必死に振る舞っていた過去は、周囲の興味を引き寄せ、やがて黄金裔たちの笑いと好奇心を巻き込んでいく。


073 昔語り結ぶ友の声

 細々とした抗議は、若木の葉音と広間の笑いの中へ、あっさり吸い込まれていった。

 ファイノンが片手を上げたまま困ったように立っていると、朝の光を透かした若木の葉が、まるで彼の降参を祝う小旗のように揺れる。土の状態を整え終えたばかりの彼は、指先に残る冷たさを逃がすように軽く手を握り直したが、その動作すら、周囲には話題から逃れるための小さな抵抗のように見えた。

 トリスビアスは、そんな彼を見てますます微笑みを深めた。彼女が声を張り上げる必要はなかった。星の降るドームの広間は広いが、先ほどまで祭りの実務に散っていた視線は、今や若木のそばへ集まりつつある。

 椅子の向きが変わる音がした。短冊の試作を並べていたアグライアが手を止め、キャストリスは膝の上で指先を重ねたまま、そっと身を乗り出した。ヒアンシーは記録板を胸元に抱えた姿勢で目を輝かせており、イカルンも彼女の肩の近くでふわふわ浮きながら、何が始まるのかを待っているように首を傾げている。

 

「ファイちゃんったらね、オクヘイマに来たばかりの頃は、ライアちゃんの後ろを本当に一生懸命ついて歩いていたのよ」

「トリビー先生」

「だって、本当のことだもの」

「トリビー先生……」

「階段を上るときも、市場を通るときも、神殿の作法を教わるときも、少しでも見落とさないようにしていたでしょう? でも、目だけはあちこちへ行ってしまうの。初めて見るものが多すぎて、背筋はぴんと伸ばしているのに、視線だけ迷子になっていて」

 

 トリスビアスの声は柔らかく、言葉の端々にからかいではなく懐かしさが滲んでいた。だが、その懐かしさがかえって厄介だった。冗談ならばファイノンも「やめてくれ」と笑って払える。

 けれど、彼女が大切なものをそっと取り出すように語るため、周囲は自然と耳を傾けてしまう。ファイノンは逃げ道を探すように一歩引こうとしたが、すぐ後ろには鉢があり、前にはトリスビアス、横にはアグライアがいる。地形的にも人間関係的にも詰んでいた。

 

「それは、知らない都市だったからだよ。エリュシオンじゃ、礼儀作法も都市の決まりも、オクヘイマみたいに細かくなかったし」

「だから、覚えようとして一生懸命だったのでしょう」

 

 アグライアが静かに続けた。彼女は短冊を一枚、指先でまっすぐ整えながら話している。その動作は工房主らしく丁寧で、語る内容が昔話であっても、まるで布目を揃えるように記憶の端を整えていく。

 

「初めて挨拶の角度を教えたときも、あなたは一度で覚えようとしていました。ですが、力が入りすぎて、礼というより敵へ突撃する前の構えに近くなっていましたね」

「ライアちゃんが直してあげたのよね。肩をこう、そっと下げて。そうしたらファイちゃん、ますます緊張してしまって」

「待ってくれ、二人とも。そこまで細かく覚えている必要はないんじゃないか」

 

 ファイノンの抗議は、今度もあまり効果がなかった。ヒアンシーが記録板を持ったまま、ぱっと顔を明るくしたからである。彼女は医療者として彼の体調を気にかけているときとはまったく違う、純粋な興味と親しみを隠しきれない顔をしていた。

 

「ぜ、絶対カワイイに決まってます! ファイノン様が、礼の角度を一生懸命覚えていらしたんですよね? それはもう、絶対にカワイイです!」

「ヒアンシーまで」

「トリスビアス様、どうかお聞かせください。……わたくしも、ファイノン様が神悟の樹庭へいらした頃のお姿しか、存じ上げませんので……その、オクヘイマへ来たばかりの頃のお話は、とても貴重です」

「キャストリスさん……」

 

 キャストリスの声は控えめだったが、言葉の選び方には明らかな期待があった。彼女は大きく身を乗り出すことこそしなかったものの、膝の上で重ねた指先が少しだけ浮き、視線はトリスビアスとファイノンの間を慎重に行き来している。普段なら遠慮して一歩引くところを、今は好奇心がそっと背中を押しているようだった。

 ファイノンが神悟の樹庭で共に学んだ頃、彼は既にある程度の礼儀を身につけ、戦士としても、仲間としても、落ち着いた立ち振る舞いをしていた。

 少なくとも、ヒアンシーやキャストリスが知る彼は、困った人を放っておけず、場を整える言葉を自然に差し出し、無茶をしても笑って大丈夫だと言う青年だった。その彼が、もっと幼く、知らない都市で背伸びをしていた頃の話など、聞きたくならないはずがない。

 

「やめよう。これは七夕の準備であって、僕の昔話をする会じゃない」

「でも、願いを語る祭りでしょう? 昔の話をすることで、願いが見つかることもあるかもしれないわ」

「それは理屈としては綺麗だけど、今は絶対に僕を逃がさないための理屈だろ」

 

 ファイノンが少しだけ眉を下げて言うと、トリスビアスは悪びれもせずに微笑んだ。否定しないあたり、彼女もなかなか容赦がない。

 広間のあちこちで笑いが広がり、先ほど鉄墓の話題で沈みかけた空気は、いつの間にか温かなざわめきへ戻っていた。ただし、その温かさはファイノンにとって逃げ場のない包囲網でもある。

 

「オクヘイマに来た頃の僕は、礼儀作法とか何も知らなかったし仕方がないだろ……」

 

 彼は結局、土を均す必要もなくなった鉢の前で、言い訳というには弱すぎる言葉を置いた。自分でも、これが反論になっていないことは分かっているようだったが、どうしようもない。

 エリュシオンでは、細かな作法を言葉で教えられるより、見て覚えろと言われることが多かった。相手の動き、手の角度、道具の扱い、間の取り方。そうしたものを観察して真似る癖は、彼の中に深く染みついていたのだろう。

 だから、アグライアの後ろをついて歩いた。トリスビアスの話す声へ耳を傾けた。質問しすぎて、少しだけ困らせたこともある。

 知らないものを知らないままにしたくなくて、けれど知らないと認めるのも少し恥ずかしくて、結局、周囲の衣の裾や袖口を見失わない距離でついて回る。本人は学ぶための合理的な行動だと思っていたのだろうが、見守る側の目には違う形で映ったらしい。

 

「そういえば、ライアちゃんの外套の端を、何度か掴みそうになっていたわね」

「掴んでない」

「掴みそうにはなっていたでしょう?」

「……たぶん、人混みで見失わないようにしただけだよ」

「ええ。そうでしたね。ですが、こちらを見上げて、今の動きはどういう意味ですか、と何度も尋ねてきたあなたは、本当に熱心でした」

「うっ……」

 

 アグライアの声には、穏やかな肯定があった。ファイノンは顔を少しだけ背ける。照れているのか、反論を諦めたのか、外からは分からない。ただ、耳の先がわずかに赤くなっていることに気づいたサフェルが、壁際で口元を押さえた。

 

「坊や、昔から人の後ろをちょこちょこついて回るタイプだったんだ? へえ、今とあんまり変わらないじゃん」

「サフェルさん」

「何? あたしは事実確認をしてるだけだよん」

「楽しそうに事実確認をしないでくれ」

 

 サフェルは肩をすくめ、尻尾をくるりと巻いた。彼女のからかいは軽く、逃げ足も速い。ファイノンがそちらへ反撃しようとすれば、彼女はすぐ別の話題へ飛び移るだろう。実際、彼女はアグライアの方へ目を向け、にやりと笑った。

 

「で、裁縫女。坊やはその頃からそんなにお利口だったわけ?」

「あら、あなたも聞きたいのですか?」

「聞きたくないとは言ってないでしょ。ただ、あとで弱みとして使えるかもしれないし」

「弱みというより、愛らしい思い出です」

「本人に効いてるなら弱みだよん」

 

 ファイノンはそこで否定しようとして、やめた。否定した瞬間、効いていることを認める形になる。彼は若木の枝先を見上げ、短冊を結ぶならどの枝がいいかを真剣に考えるふりをした。

 しかし、考えるふりをしても、周囲の会話は耳に入ってくる。キュレネだったら、顔を覗き込んでわざわざ続けてくるやつだこれ。どうしよう、無性に逃げ出したい。聞こえてはいるし、イベントの話を続けるなら居るべきだろう。いつものことだと思えばいいのに、それが出来ない。

 

「ファイちゃんはね、褒められると少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑うのよ。でも、褒めてほしいとは言わないの。だから、こちらが気づいて褒めてあげると、今度は恥ずかしくなって少し離れようとするのよね」

「それは、さすがに誇張があるんじゃないかな」

「今も似たようなことをしているわ」

「? …………!」

 

 トリスビアスにそう言われ、ファイノンは若木の枝を見上げたまま固まった。反論の余地を探したら、現在進行形で一歩離れようとしている自分に気づいてしまったらしい。

 口を開閉し、やはり無意識に一歩下がってしまった。ヒアンシーが小さく「本当です……!」と感動したように呟き、キャストリスも口元へ手を添えた。表情を明るくする彼女たちの反応に悪意はない。悪意がないからこそ、ファイノンはますます居たたまれなくなる。

 モーディスが壁際から低く笑った。大きな声ではないが、ファイノンの耳にははっきり届いた。彼はゆっくりとそちらを見た。モーディスは腕を組んだまま、面白がるように顎を少し上げている。自分の話はされていないから安全圏にいる、とでも言いたげな態度だった。

 それを見た瞬間、ファイノンの表情が変わった。恥ずかしさに押されていた眉が戻り、蒼い眸が妙に澄む。広間の何人かが、その変化に気づいて「あ」と言いかけた。穏やかな青年が、幼馴染か戦友に対してだけ見せる、少し負けず嫌いな色である。

 

「モーディス」

「何だ」

「ずいぶん楽しそうじゃないか」

「事実として面白いからな。救世主にも、人の後ろをついて回る時代があったというだけの話だ」

「僕の話だけで盛り上がるのは不公平だろう。どうせなら、彼の小さな頃の話もしてやってくれ」

 

 ファイノンはそう言って、モーディスの肩を掴むために歩き出した。先ほどまで若木のそばで逃げ場を失っていたはずなのに、反撃となると妙に足取りが軽い。

 アナイクスが「直後に歩き回るな」と言いかけたが、ヒアンシーがすぐ近くで彼の顔色と呼吸を見て、小さく首を横に振った。無理をしている歩き方ではない。むしろ、先ほどよりも年相応の元気が戻っている。

 モーディスは逃げなかった。戦略的撤退などの文字がないらしいから、逃げるという選択肢がそもそも彼の中にあるクレムノス辞書に薄いのかもしれない。ファイノンが肩を掴むと、彼は視線だけで受け止めた。

 二人の距離が近くなると、広間の空気がまた別の種類の賑やかさを帯びる。祭りの実務会議から、仲間内の口喧嘩へ。境目は曖昧だが、どちらもこの場に必要な時間だった。

 

「フン、HKSめ。俺の幼少期のほとんどはステュクスだ!」

「僕の幼少期のほとんどだってエリュシオン崩壊からだよ!」

「張り合うところか、そこは」

 

 サフェルがすかさず突っ込んだが、二人には聞こえているのかいないのか分からなかった。ファイノンはモーディスの肩に手を置いたまま、少しだけ身を乗り出す。モーディスも負けじと顎を引き、まるで刃ではなく言葉で間合いを測る戦士のように睨み返した。

 

「そもそも、ステュクスでは人間と呼べる存在がほとんど居ない。語り部など当然いるはずもないな!」

「何言ってるんだ。語り部ならいるじゃないか」

「誰だ」

「君自身だよ。君が覚えているなら、少なくとも君の話は君から聞ける」

「俺に俺の幼少期を語らせるつもりか」

「僕だって今まさに、本人の前で本人の昔話をされているんだけど」

 

 理屈としては妙に通っていた。モーディスは一瞬だけ黙り、すぐに鼻を鳴らす。周囲から笑いが起きる。

 ケリュドラは椅子の上で頬杖をつき、呆れたように目を細めながらも止めない。セイレンスは表情を大きく崩さなかったが、視線は二人の応酬を静かに追っていた。キャストリスは驚いたように目を丸くし、ヒアンシーは完全に観客の顔になっている。

 

「ならば、お前も自分で語ればいい。オクヘイマで袖を掴みかけた救世主の話をな」

「だから掴んでないと言ってるだろ」

「掴みかけたのだろう」

「そこを強調しないでくれ」

「見苦しいぞ、HKS」

「その略称もそろそろ説明してくれないかい?」

「説明する必要はない。お前には伝わっている」

「伝わっているから納得していないんだよ」

 

 二人のやり取りは速かった。剣と剣が触れ合う代わりに、短い言葉が火花を散らす。相手の言い分を最後まで待つようで、実際には半拍先で切り返しを用意している。

 だが、不思議と険悪ではなかった。声は荒くても、間合いは近くても、そこには互いが倒れない程度の力加減がある。ファイノンが本当に嫌がるところまでは踏み込まず、モーディスが本気で怒るところまでも進まない。長く共に戦った者たちだけが持つ、乱暴で親密な調整だった。

 トリスビアスはその様子を眺め、くすくすと笑った。

 

「モーディスちゃんも、こうして見るとファイちゃんと同じくらい負けず嫌いね」

「同じにするな」

「同じじゃないよ、トリビー先生。僕はもう少し穏やかだ」

「どの口が言う」

 

 モーディスの即答に、今度はアグライアまで小さく笑った。ファイノンは抗議しようとして口を開き、周囲の反応を見て一度閉じる。

 どうやら、この場に味方はいないらしい。いや、ヒアンシーなら味方をしてくれるかもしれないと思って視線を向けると、彼女は両手で記録板を抱えたまま、目をきらきらさせていた。

 

「ファイノン様の少年期と、モーディス様の少年期……どちらも、とても貴重なお話ですね」

「ヒアンシー、そこは助けてくれる流れじゃないのかい?」

「す、すみません。ですが、知りたい気持ちが勝ってしまって……!」

 

 正直な返答に、ファイノンは責める言葉を失った。彼女は本当に申し訳なさそうに眉を下げているのに、瞳の期待だけは隠しきれていない。キャストリスも隣で小さく頷いてしまったため、同期二人からの援護は完全に失われた。イカルンまで元気よく鳴いた。相棒枠の票は、どうやら昔話賛成へ入ったらしい。

 

「ほら、民意だぞ」

「モーディス、君さっき票に関して突っ込んでいなかったか?」

「都合のよい民意は採用する」

「それはカイザーの前で言っていいことなのかい?」

 

 ケリュドラの視線が二人へ向いた。彼女は責めるでもなく、ただ面白いものを見るように唇の端を上げた。

 

「民意を都合よく扱う者には、相応の責任を取らせればよい。続けろ」

「カイザーまで……」

 

 ファイノンの肩が少し落ちる。だが、その落ち方には本気の落胆ではなく、賑やかな降参の色があった。彼はモーディスの肩から手を離し、若木の鉢へ戻ろうとしたが、サフェルがすかさず逃げ道を塞ぐように横へ立った。

 

「まあまあ坊や。そんなに嫌がることないじゃん。カワイイ少年期の話くらい、ちょっと分けてくれたっていいでしょ」

「サフェルさんは絶対あとで盛って話すだろう」

「盛らない盛らない。ちょっと色を足すだけ」

「それを盛ると言うんだよ」

「祭りの宣伝担当としては、物語性も大事にゃ」

「まだ宣伝に使うつもりなのかい?」

 

 広間にまた笑いが広がった。短冊、若木、会場導線。つい先ほどまで並んでいた実務の項目が、少しの間だけ遠のく。

 代わりに、黄金裔たちの間へ古い時間が呼び戻されていた。戦場ではなく、終末でもなく、誰かが誰かの後ろをついて歩き、誰かが礼の角度を覚え、誰かが知らない街で背伸びをしていた時代の話である。

 

「ですが、実際にファイノンは熱心でしたよ」

 

 アグライアが、静かに話を戻すように言った。彼女の声に笑いは残っていたが、からかいの輪郭は少し薄くなっていた。教師が生徒の姿を語るときの、丁寧な温度がそこにある。

 

「分からないことを、分からないままにしませんでした。武器の扱いも、礼儀作法も、都市での振る舞いも、誰かへの声のかけ方も。少し不器用なところはありましたが、知らないことを恥じるより、覚えることを選んでいました」

「褒め方が真面目になると、余計に恥ずかしいんだけど」

「では、可愛らしかったという話へ戻しましょうか」

「戻らなくていいよ!」

 

 ファイノンが即座に返すと、トリスビアスは楽しそうに笑った。ヒアンシーもキャストリスも、先ほどより柔らかな顔をしている。

 二人が知っているファイノンと、トリスビアスやアグライアが知っている少年のファイノンが、少しずつ同じ一本の線につながっていく。完璧な英雄としてではなく、知らないことに緊張し、褒められれば照れ、背伸びをしながら歩いてきた一人の人として。

 それは、祭りの準備とは直接関係ないようでいて、どこかで確かに関係していた。願いを書くためには、未来だけでなく、過去の自分も少しだけ見つめる必要がある。

 何を望んできたのか。何に手を伸ばしていたのか。誰の後ろを追い、誰の隣へ立ちたかったのか。笑いながら語られる昔話の中にも、短冊へ書く前の願いの芽のようなものが隠れている。

 もっとも、今のファイノンにとっては、そんな綺麗なまとめよりも、目の前の包囲網からどうやって抜け出すかの方が切実だった。

 彼は若木の支柱を確認するふりをしながら、もう一度モーディスへ視線を向ける。攻め先を変えるしかない。そう判断したのだろう。蒼い眸が少しだけ悪戯っぽく細まった。

 

「でも、本当に君の昔話も聞きたいな。ステュクスでどうやって過ごしていたのか、僕たちが知らないことは多いだろう?」

「興味本位で聞くな」

「僕の昔話を興味津々で聞かれている今、それを言われても説得力がない」

「俺は聞いていない。聞こえているだけだ」

「その言い訳、どこかで聞いたな」

 

 アナイクスがわずかに視線を上げた。鉄墓の中で聞こえていた、という先ほどの発言を思い出した者も何人かいたようで、笑いが一瞬だけ慎重になる。だが、ファイノンはすぐに気づき、しまったという顔をしたあと、慌てて話を軽い方向へ押し戻した。

 

「つまり、聞こえているなら参加しているのと同じってことだよ。だからモーディスも観客じゃなくて当事者だ」

「強引な論法だな」

「先生、今の論法は何点?」

「採点以前に、前提が雑です」

「厳しい……」

 

 アナイクスの容赦ない評価に、サフェルがまた笑った。アグライアは短冊を重ね、トリスビアスは若木の葉を見上げながら微笑む。

 キャストリスは少しだけ肩の力を抜き、ヒアンシーは記録板に何かを書きかけて、昔話まで記録してよいのか迷ったのか手を止めた。イカルンがその筆先を覗き込み、彼女は慌てて記録板を胸元へ戻す。

 

 見慣れた二人の応酬は、そこでさらに速度を増した。どちらが先に言葉を投げたのか分からないほど、短い文が次々と交わされる。

 ファイノンが「君だって小さい頃は大人しくしていた時期があったんじゃないか」と言えば、モーディスは「記憶にない」と返し、ファイノンが「記憶にないだけで否定できないだろ」と続ければ、モーディスは「ならばお前の袖掴み未遂も否定できんな」と斬り返す。サフェルが「袖掴み未遂、語感がいい」と余計な合いの手を入れ、ファイノンが「採用しないでくれ」と言う頃には、広間はすっかり仲間内の騒動に包まれていた。

 それは、かつて戦士たちだった者が、ほんの少しだけ子ども時代へ戻される時間だった。誰も本当に幼くなったわけではない。背負ってきたものも、失ったものも、消えたわけではない。

 けれど、誰かの昔話に笑い、からかわれて顔を背け、別の誰かへ話題を押しつけることができる。それだけの余白が、今の広間にはあった。

 やがてファイノンは、モーディスの反撃を受け続ける不利を悟ったのか、少しだけ顎を上げた。先ほどまで防戦一方だった青年の顔に、今度ははっきりと勝負を仕掛ける色が浮かぶ。モーディスもそれを察したように、腕を組んだまま目を細めた。

 

「そもそも、モーディス。ステュクスの話を語れる人がいないって言うけど、君のことを見ていた人が一人もいないとは限らないだろ」

「何を言っている」

「君が覚えていないことでも、誰かが覚えているかもしれない。だから、僕の話ばかり掘り返すのは公平じゃないと思うんだ」

「まだ公平(それ)にこだわるか」

「もちろん。こういうときこそ、公平さは大事だよ」

 

 ファイノンの声は明るかった。広間の笑いもまだ続いていた。だが、その言葉の端がどこへ向かうのか、数人はそこで少しだけ身じろぎした。

 トリスビアスは目を細め、アグライアは短冊を重ねる手を止める。アナイクスは、先ほどまでの採点者めいた顔から、何か余計な扉が開きかけていることに気づいた学者の顔へ変わりつつあった。

 けれど、ファイノンはまだ笑っていた。自分がどれほど危うい境目へ足をかけているかを、少なくともこの瞬間には、深刻なものとして扱っていないようだった。ただ、昔話の押しつけ合いに負けたくない青年として、モーディスへ向き直っている。

 

「語り部ならいるじゃないか」

 

 ファイノンがそう言ったところで、若木の葉がさらりと鳴った。朝の光は変わらず明るく、短冊はまだ誰の願いも載せていない白さのまま机に並んでいる。笑いの余韻が広間に残り、次の一言を待つ沈黙が、ほんの少しだけ長く伸びた。




 これが噂の! やんちゃ坊主どものバトルだ!!
めちゃくちゃ楽しかったです。やりとり可愛くて和む~……
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