若木の下で始まった何気ないやり取りは、やがてファイノンの過去へと火を移し、トリスビアスやアグライアの証言により、彼の「オクヘイマに来たばかりの頃」の姿が語られていく。
ヒアンシーやキャストリスの好奇心も加わり、場は一気に昔話の渦へと傾いた。
逃げ場を失ったファイノンはモーディスへ矛先を向け、互いの幼少期を巡る軽妙な応酬が広間に笑いを広げていく。
笑いの余韻が広間に残り、次の一言を待つ沈黙が、ほんの少しだけ長く伸びた。
その沈黙はまだ明るい。短冊は机の上で白いまま整えられ、若木はファイノンの手で足元を落ち着かせたばかりで、葉の先に朝の光を小さく揺らしている。
誰もが、今の彼の言葉を昔話の押しつけ合いの延長として聞く準備をしていた。袖を掴みかけた少年、礼の角度に力が入りすぎた少年、褒められると嬉しそうにしてから離れようとした少年。その次に続くのも、同じように少し恥ずかしくて、笑える記憶なのだろうと。
ファイノン自身も、その温度のまま言葉を継いだ。蒼い眸は明るく、口元には勝負に一歩踏み込むときの悪戯めいた笑みがある。モーディスへ反撃できる材料を見つけた若者の顔であって、歴史の深淵を掘り返そうとする者の顔ではなかった。
「ステュクスで野垂れ死にそうだった君を、フレイムスティーラーとしての僕が、文明に触れられる程度に育てたこともあるんだから、僕だって君の幼少期のことを語れるよ! 何なら最後の永劫回帰では、君のご両親や件の友人たちは健在だったんだろう? ふふん、僕の方が有利だね」
「ぐッ」
モーディスの喉から、言葉になりきらない音が落ちた。腕を組んでいた姿勢は崩れない。だが、肩の線がわずかに硬くなり、視線が一瞬だけファイノンから外れた。
その反応を、ファイノンは単純に「言い返された」と受け取ったのかもしれない。勝ち誇るほどではないが、少しだけ満足そうに顎を上げている。
「はうぁっ」
別の方向から、ヒアンシーの声が小さくひっくり返った。記録板を抱える手が胸元できゅっと強まり、イカルンが心配そうに彼女の肩先を覗き込む。
キャストリスは膝の上で重ねていた指を動かしかけ、そのまま止めた。アグライアは短冊を揃える手を机の上へ置いたまま、紙の端を見つめている。トリスビアスの微笑みは消えなかったが、瞳の奥の光だけが少し静かになった。
サフェルが何か茶化そうとして、口を開いた。けれど、音になる前に閉じる。尻尾の先が床近くで一度だけ揺れ、それきり止まった。
ケリュドラは椅子の上で頬杖を解き、背を起こす。セイレンスは窓辺から半歩だけ身を離し、風に揺れていた髪を耳の後ろへ払った。アナイクスは、表情の大半を理性で保っていたが、記録を取る指が止まっている。
ほんの数呼吸前まで、広間にあったのは昔話の羞恥と笑いだった。だが、ファイノンの一言は、その笑いの底を抜いた。底の下にあったものは暗闇ではない。もっと古く、もっと広く、数えきれない反復の中で積もった時間そのものだった。
永劫回帰の最後の回帰において、ファイノンは鉄墓の内側で戦っていた。外の世界では、彼は存在しなかったことになっていた。
だから今の彼が語った「最後の永劫回帰」の記憶は、外側で過ごした日々の思い出ではない。欠けていない記憶、消されてもなお消えなかった認識、鉄墓の内側から拾い続けた断片、あるいは戻ってきたあとも彼の中に残り続けた、誰にも測れない記録だった。
そのことを、ファイノンは説明しなかった。必要だと思わなかったのか、今は口喧嘩の最中だから省いたのか、どちらかは分からない。
ただ、彼は当然のように覚えている。記憶の欠如などない。自分がいなかったことにされた世界のことさえ、まるで遠くの部屋で聞こえていた会話を思い出すように扱っている。
「……お前」
モーディスがようやく声を出した。低く、少し掠れていた。怒鳴るには近すぎ、黙るには刺さりすぎた声だった。彼はファイノンを睨むように見たが、その視線にはいつもの力任せな挑発だけでは収まらない揺れがあった。ファイノンはそれを受けても、首を傾げる。
「何だい?」
「それを、勝ち誇る材料にするな」
「え、今のは君が語り部はいないって言ったから……僕だって語り部になれるはずだろ? まさかそんな権利ないって言うつもりかい? それは、……そうかもしれないけど、」
「そうではない」
「じゃあ、どうして?」
「……だからといって、その話題を」
モーディスの言葉は、そこで止まった。続ければ何かを認めることになる。怒りか、痛みか、あるいは受け取ってしまった過去の重さか。外から断定できるものではなかったが、拳を握る手に力が入り、腕の筋が浮いたことだけは確かだった。
ファイノンは少しだけ困った顔をした。自分の言葉が場の空気を変えたことには気づいている。だが、何がどの角度で刺さったのか、まだ測りかねているようだった。
彼にとっては、モーディスの幼少期を語る権利が自分にもある、という反撃だった。空気がこうなってしまうまでは自信ありげで、少なくとも、最初はそうだった。けれど、その反撃の根拠は、永劫回帰の中で彼が何度も見てきたものだった。
かつて、リュクルゴスの企てによって、黄金裔たちの運命は幾度も歪められた。
誰かの役割が狂わされ、誰かの出会いが失われ、誰かの救われるはずだった手が届かなくなる。紙に書かれた設定を悪意ある指で擦り替えられたように、人生の入口そのものがねじ曲げられる回帰があった。
そこに置かれた者たちは、自分が本来どのような道を歩むはずだったのかも知らないまま、歪んだ環境の中で息をしていた。
その中で、フレイムスティーラーは彼らを見つけた。使命の真っ只中で「変数」を待ちながら、惑星を生き永らえさせるために数多の生命と敵対する宿命を背負った環境であったのだから――見つけてしまった、とも言えるだろう。
火を追う旅へ戻すべき駒としてではなく、狂わされた人生を持つ一人の人間として、彼は敬意と尊重を以て彼らの前に立った。
奴隷以下の価値観で扱われる日々に沈みかけていた者にも、檻の中で名前より先に値札を貼られた者にも、泥水の溜まり場に顔を伏せたまま起き上がれなかった者にも、彼は同じように声をかけたのである。
泣き虫な少女となって、火を追う旅の幕開けを告げるどころか、人前で声を出すことすら恐れていた者がいた。夢幻の海洋から抜け出せず、濁った水の浅瀬に顔をつけたまま、浮かび上がろうとしなかった者がいた。ステュクスの川辺で野垂れ死にかけ、身体をうまく動かせないまま、預言の戦士になれなかった者がいた。
不慮の事故で身内を亡くし、進むべき道どころか帰る家すら失った者がいた。聖女ではなく魔女として葬られかけた者がいた。絢爛豪華な調度品の一つとして翼を手折られ、檻に閉じ込められた金糸雀のように扱われた者がいた。嘘を突き通せず泣き崩れた大嘘つきがいた。
血を見ることが怖くなり、前線から退くことを選んだ者がいた。火を追う旅の道半ばで未知への探求を抑えられず、自分自身を素材として差し出そうとした者もいた。
それらは、今この広間にいる者たちと完全に同じ人生ではない。だが、無関係でもない。別の回帰で、別の歪みの中に置かれた、同じ名を持ち、同じ魂の輪郭を持つ誰かたちだった。
彼らの何が現在の本人へどこまで届くのか、誰にも簡単には言えない。けれど、ファイノンは覚えている。顔も、声も、手の震えも、怒りも、逃げたいと言えずに目を伏せた沈黙も。
彼は永劫回帰に苛まれながらも、それらの運命に反旗を翻した。
誰かの人生を愚弄するな、と怒ったこともあったのだろう。嫌だと思うなら今のうちだよ、と逃げ道を示したこともあったのだろう。
黄金裔として火を追う旅へ進むことが正しいと決めつけるのではなく、彼らが望むならその軌道へ乗せ、望まないなら別の道を選べるように手を伸ばした。けれど、最終的には多くの者が火を追う旅へ戻った。戻るしかなかったのか、戻りたいと願ったのか、その違いさえ、回帰の数だけ揺れたはずだった。
つまり、カスライナに育てられたことのない黄金裔――当代タイタンは、もはや誰ひとりとして例外なくいないと言っても過言ではなかった。
その事実は、語り方によっては美談になってしまう。何度世界が狂っても、彼は仲間たちを見つけ、支え、立ち上がらせたのだと。
だが、美談として受け取るには、支払われたものが多すぎる。幾度も同じ人々を見つけ、幾度も別の痛みを見届け、幾度も手を伸ばし、幾度も信じてもらえず、それでも次の回帰へ進む。そんなものを、ただの献身と呼ぶには、あまりにも惨い。
しかも、永劫回帰の中で黄金裔たちは、まんまとリュクルゴスの企てへ乗せられた。次第にフレイムスティーラーと敵対し、彼の人間性や希望を根こそぎ粉砕し、あまつさえ彼の言葉こそが妄言であり虚言であると叩きつけ、喧嘩を吹っ掛け続けた回帰があった。
今この場にいる彼らが、同じ記憶を同じ重さで持っているわけではない。だが、ファイノンは覚えている。彼がそう言わなくても、その記憶の一端が今の一言から漏れた。
アグライアの指が、短冊の角に触れたまま止まっていた。薄い紙は彼女の指先の下で歪んではいないが、整える動作も再開されない。
ケリュドラは玉座ではない椅子に座りながらも、背筋を真っ直ぐにしている。その眼差しは王としてのものに近かったが、唇は先ほどより硬い。キャストリスは顔を伏せすぎないようにしているのか、視線を若木の根元へ置き、膝の上の手袋に皺を作っていた。
トリスビアスは、ファイノンへ向ける笑みを完全には消さなかった。消せば彼が気づくからかもしれないし、消さずにいることが彼女の選んだ支え方なのかもしれない。ただ、目元のやわらかさの奥に、深い時間を見つめる静けさがあった。
セイレンスは一歩も動かず、けれど先ほどまで風に任せていた髪を、今は指でしっかり押さえている。サフェルは軽口をどこかへ落としてしまったように、口元へ浮かべた笑みを薄くした。
そしてアナイクスは、記録を取る手を止めたまま、ファイノンを見ていた。学者としてなら問いは無数にあるはずだった。どの回帰か。どの条件で設定が狂わされたのか。記憶の保持形式は何か。最後の回帰における「存在しなかった」状態と認識の残存はどのように両立したのか。
だが、彼がすぐにそれを口にしなかったのは、今この場で問うべきではないと判断したからか、あるいは問うための呼吸を整える時間が必要だったからか、外からは分からない。
「……ファイノン様」
ヒアンシーが呼んだ。医療者の声ではなかった。同期としての、仲間としての、柔らかいが少し震える声だった。ファイノンは彼女の方を見て、眉を下げる。
「あれ。ごめん、また変なことを言ったかな」
その言い方が、さらに場を黙らせた。変なこと。彼は今の話を、そう括ろうとしている。幼少期の話題を押し返すための、少し強めの反撃。相手が言い返せなくなる材料。たぶん、それくらいの箱へ入れてしまおうとしている。
モーディスが、深く息を吐いた。怒鳴るためではなく、自分の中で何かを押さえるための呼吸に見えた。
「変なことではない」
「じゃあ、何だい」
「……軽く言うことではない」
「うん。それは、そうかもしれない。ごめん、君の過去の話だもんな」
ファイノンは素直に謝った。謝り方に反発はない。だが、その素直さが、また別の痛みを生んだ。責められたから謝る。場を重くしたから謝る。そういう順序が見えてしまう。彼は、自分が何を背負ってきたかを誇示したわけではない。むしろ、相手を困らせたことの方を先に気にしているように見えた。
「でも、君のことを悪く言いたかったわけじゃないよ。あのときの君は本当に大変だったし、少しずつ立てるようになって、言葉を覚えて、怒れるようになっていくのを見るのは……」
そこまで言って、ファイノンは言葉を止めた。広間の空気を見たのだろう。続ければ、もっと深いところへ触れると気づいたのかもしれない。彼は困ったように笑い、言葉の向きを変えた。
「とにかく、僕だけ昔の話をされるのは不公平ってことだ」
「お前は、本当に」
モーディスの声は低かったが、先ほどのような鋭さは少し薄れていた。代わりに、どう扱えばいいのか分からないものを前にしたような荒さが残る。ファイノンはそれを見て、また少し眉を下げた。
「怒った?」
「怒っている」
「あ、やっぱり」
「そこではないところで怒っている」
「ええ、君って難しいな……」
そのやり取りに、サフェルがようやく小さく息を吹いた。笑いと溜息の中間のような音だった。
「坊や、難しいのはあんただよん。今の話、普通に投げるものじゃないからね?」
「うん。気をつけるよ」
「その『次から気をつける』で済ませようとするところも含めて言ってるんだけど」
「ええと……じゃあ、今から気をつける?」
「そういう問題じゃないにゃ」
軽い声が戻りかけたが、完全には戻らない。笑うには重く、泣くには明るすぎる。そんな中途半端な温度のまま、広間はしばらく呼吸を探した。
若木の葉だけが、風を受けて淡く鳴っている。根元の土は落ち着き、幹は少しだけまっすぐになったばかりだった。その若木が、まるで今の場を支える小さな柱のように立っている。アナイクスが、ようやく口を開いた。
「エリュシオンのファイノン。確認しますが、あなたはその回帰群の記憶を欠損なく保持している、という理解でよろしいですね」
「うん。欠けてはいないよ。僕は永劫回帰を含む、それ以前の記憶も欠損なく保持している、と認識してもらって構わない。ケビンの頃の記憶は、少し朧げなところもあるけど、オンパロスに転生して以降のことなら一切忘れていない。――ケファレの名に誓える」
その言葉は、誇示でも強弁でもなく、ただ事実を並べるときのように平坦だった。誓いの名を口にしてさえ、声の温度はほとんど揺れない。むしろ揺れなさすぎることで、そこに積み重なっている時間の重さだけが逆に際立つようだった。
アナイクスの指が、無意識のうちに自分の袖口を一度だけ押し、そこにある布の感触で思考の輪郭を確かめるように止まる。
ヒアンシーは記録板を持つ手を途中で固め、書き留めるべき言葉の量と、その言葉が持つ意味の重さの釣り合いを測りかねたまま息を詰めた。キャストリスは吸いかけた呼吸をそのまま喉の奥に留めてしまったように肩をわずかに揺らし、視線だけが一瞬、若木からファイノンへと戻る。
欠けていない、と彼は言った。だがその「欠けていない」という事実は、単に記憶が保存されているという意味に留まらない。
助けたことも、助けられなかったことも、信じてもらえなかったことも、敵対されたことも、そのすべてが等しく彼の中に残っているという宣言でもあった。しかもそれを、痛みとしてではなく、確認可能な情報のように扱っている。その在り方が、かえって周囲の沈黙を深くしていく。
「最後の永劫回帰では、あなたは鉄墓の内側にいて、外側の世界においては存在しなかったことになっていたはずです。それでも外部の推移を把握していたのですか」
「把握っていうほど綺麗なものじゃないけど、覚えてはいるよ。聞こえてた、というか、残ってた、というか。……説明が難しいな」
「でしょうね。難しいでしょうね。難しくなければ困ります」
アナイクスの声は冷静だったが、冷静であろうとする意志が混じっていた。彼は一度だけ目を伏せ、すぐにファイノンを見る。問いは続けられる。けれど、彼は今すぐすべてを聞き出そうとはしなかった。
「後ほど、時間を取りなさい」
「うん。必要なら」
「必要です」
「分かった」
その即答に、ヒアンシーがほっとしたような、けれどまだ安心しきれないような顔をした。ファイノンはそれを見て、今度はちゃんと頷いた。約束に近い動きだった。彼女がそれを受け取ったのか、記録板を抱える手から少し力が抜ける。
重い沈黙を破ったのは、意外にも開拓者だった。
列車組は少し離れた場所でやり取りを聞いていたが、彼女は腕を組み、ひどく真剣な顔でファイノンを見ていた。その表情は、深刻さと何か余計な好奇心の間で危うく揺れている。
「ファイノン、どんな気持ちだったん?」
場の空気が、また別の意味で止まった。なのかが「ちょっと星!?」という顔で彼女を見た。丹恒は静かに目を閉じ、これは止めるべきか、もう遅いかを一瞬で判断しているようだった。ファイノンは、問いの重さを測るように少し考えたあと、あっさり答えた。
「ああ、まあ、内部分裂させることがリュクルゴスの目的だったんだし、君たちに信じてもらえなかったのは僕の力不足だろうから」
その返答は、見事なまでに自分へ打ち返された。問いが投げた球を、場外どころか質問者の足元へ戻すような答え方だった。
開拓者は口を半開きにし、次の言葉を失った。なのかは両手を頭の横へ持ち上げ、今すぐこの開拓者を回収しなければならないという使命感を顔に浮かべた。丹恒は額へ手を当てる寸前で止まり、静かな諦念を伴って開拓者の襟首へ視線を向けた。
「星」
「はい」
「今の質問は、だいぶ危険球だったぞ」
「はい……自爆しました……」
なのかは、開拓者の襟元を掴むような勢いで近づき、魚釣りよろしく吊し上げる真似をした。実際に吊り上げたわけではない。
だが、動きの勢いだけなら十分にそれに近い。丹恒は開拓者の肩へ手を置き、深く頭を下げる方向へ穏やかに誘導する。床へ額をめり込ませるほどではないが、本人がそのくらいの気持ちで沈んでいく様子に、サフェルが「列車組も大変だねえ」と小さく呟いた。
その騒動で、広間にわずかな笑いが戻った。完全な笑いではない。だが、息をするための隙間にはなった。ファイノンは開拓者を責める様子もなく、「そんなに気にしなくていいのに」と言いかけ、ヒアンシーとアナイクスの視線を受けて、途中で口を閉じた。
どうやら、今の場ではそれを言わない方がいいと判断したらしい。学習している。それでも、彼の表情にはまだ、自分が返した言葉の危うさを完全には理解していないような明るさが残っていた。
信じてもらえなかったのは自分の力不足。そう言えるほど、彼は自分を責めることに慣れている。慣れすぎている。
けれど、慣れているからといって、それを周囲が受け入れられるわけではなかった。
「それは、お前一人の責ではない」
短い言葉だった。王としての裁定にも似て、しかし戦場の命令ほど硬くはない。ファイノンはそちらを見て、少し困ったように笑う。
「ありがとう、カイザー。でも、僕がもう少し上手くやれていたら、違ったかもしれないだろう?」
「仮定で自分を裁くな。民を裁くにも証拠が要る」
「……証拠って、……カイザーらしいね」
「褒めても判決は変わらん」
そのやり取りに、今度はもう少しだけ笑いが広がった。ファイノンが褒めて誤魔化す癖を、ケリュドラまで把握し始めている。
アナイクスが「判決という語彙の選択は悪くありません」と妙なところで頷き、サフェルが「そこ採点するんだ」と呟く。重さは消えない。だが、場は少しずつ、人の声が戻るところまで浮上していった。
ヒアンシーは記録板を胸に抱いたまま、ゆっくり息を吸った。彼女のまつげが小さく震え、それから顔を上げる。
自分へ何か言い聞かせているように唇を結び、次に話すべきことを探している。彼女がこの祭りを始めたいと言った理由は、きっと今この瞬間にもつながっている。夢や願いを語る場は、過去を消すためにあるのではない。消えない過去を抱えたまま、未来の方へ手を伸ばすためにある。
ファイノンは若木のそばに立っていた。先ほど整えた土は、彼の足元で静かに落ち着いている。葉は柔らかく、幹はまだ細く、けれど倒れてはいない。
黄金裔たちの視線は、彼と若木の間を行き来していた。誰も、何もなかったことにはできない。だが、何もかもをここで暴き尽くすこともできない。
落ち着くんです、落ち着くんですよ、と言葉にしないまま、ヒアンシーは胸の中の波を押さえるように一度だけ記録板を抱きしめた。そして、今はまだ祭りの準備に戻るべきだと判断したのだろう。彼女は小さく息を整え、若木の方へ視線を移した。
成長促進は可能である。ファイノンは無理のない範囲で手伝えると言い、アナイクスは条件付きで許可し、ヒアンシーはそれを見届けた。
ならば、次に伝えるべきことがある。願いを結ぶ木が、なぜこの木である必要があったのか。空へ近づくだけではなく、大地に根を張るものを選びたかった理由を。
広間の空気は、まだ完全には明るさを取り戻していない。けれど、若木の葉音がその沈黙を細く支えていた。ヒアンシーは顔を上げ、言葉を始めるために、ほんの少しだけ前へ進んだ。
油断したところで激重情報をぶっこんでくるのがファイちゃんだと思ってます。
入れ忘れてたけど、後付けで入れると不足する部分が出てくるので、そっとSOERU! なお、メモ書きなので、ごちゃあ。
荒笛:密猟者に乱獲された卵から孵り、サーカスや劇などの芸を仕込まれるのに違法な場所や道具を使われて傷だらけな日々。他の団を見てもそんなことはなく、環境に不審を抱き、憂さ晴らしのために荒笛へ辛く当たるだけだった集団を前に人間不信になった。しかし、ある日、暗黒の潮に襲われて、これもまた天命かと諦観する中、フレイムスティーラーに救出されて生涯の相棒のもとまで慈しんで育てて送り出してもらった。まるで天父のようだった。