烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 広間に残る笑いの余韻の中、ファイノンはモーディスとの軽口から過去の永劫回帰へと踏み込み、鉄墓の内側での記憶と黄金裔たちとの歪んだ歴史を無自覚に露わにする。
 場は一転して沈黙と緊張に包まれ、各々がその重さを受け止めきれぬまま言葉を失う中、彼だけが変わらぬ調子で過去を語り続けていた。


075 若枝に結ぶ明日路

 ヒアンシーは顔を上げ、言葉を始めるために、ほんの少しだけ前へ進んだ。靴裏が白亜の床を擦る音は小さい。けれど、その一歩で広間の視線がゆっくり彼女へ戻ってくるのが分かった。

 ファイノンの言葉で沈みかけた空気はまだ完全には軽くならず、短冊の白さも、若木の葉音も、どこか慎重な静けさを帯びている。だからこそ、ヒアンシーは息を吸う前に、記録板を胸元から少しだけ離した。抱きしめたままでは、言葉まで自分の内側へ閉じ込めてしまいそうだった。

 目の前にいるファイノンは、若木のそばで穏やかな顔をしていた。先ほど自分が何を言ったのか、どれほどのものを零したのか、完全に分かっていないわけではないのだろう。分かっていないかもしれません……。

 けれど、彼の表情はもう、誰かが困っていないかを確かめる方へ向いている。自分の痛みがどう見えたかではなく、場を重くしてしまったか、ヒアンシーの企画を止めてしまったか、そちらを先に気にしているように見えた。そう見えたから、ヒアンシーは胸の奥で少しだけ眉を下げる。

 落ち着くんです、と彼女はもう一度だけ自分に言い聞かせた。今この場でファイノン様の全部をほどくことはできない。ほどこうとしてはいけない。

 彼が後ほど話すと約束したなら、その約束を受け取り、今は祭りを前へ進める。夢や願いを語る場を作るということは、過去を見なかったことにすることではなく、過去を抱えたままでも明日の準備をしてよいと示すことなのだから。

 

「ええと……先ほど、少しだけお話しした、願いを結ぶ木のことなのですが」

 

 ヒアンシーが口を開くと、ファイノンが若木から彼女へ視線を移した。蒼い眸には問いがある。叱られるのだろうか、確認されるのだろうか、あるいは企画の説明が続くのだろうか。いくつかの可能性を静かに待つ目だった。

 ヒアンシーは、その目にまっすぐ処置や叱責を置く代わりに、両手を上下に広げて、若木の高さを示すような仕草をした。

 

「願いを結ぶのなら……わたしたちが願った星空(そら)に近くて、しっかりと大地に根を張るものがよいかと思いまして。今回は、アナイクス先生のおすすめで、実物を用意してもらったんです!」

 

 言葉にしてみると、自分でも少し照れくさかった。星空に近いもの。大地に根を張るもの。まるで詩のようで、実務会議には少し浮いているかもしれない。

 けれど、七夕をただの飾りにしたくなかった。紙を結ぶためだけなら、柱でも、紐を張った枠でも、仮設の棚でも構わない。だが、オンパロスで願いを結ぶなら、空へ伸びるだけでなく、地に足を置くものがよかった。

 終末を越えたあと、誰もがまだ揺れている。家を直し、仕事を戻し、失ったものの名前を呼び直し、明日を考える練習をしている。

 願いは空へ投げるだけでは遠すぎる。けれど、土へ埋めるだけでは見上げる理由をなくしてしまう。だから、根と枝を持つものがいいと思った。大地から水を吸い、光へ向かって伸び、風を受けてもすぐには折れず、けれど支えを必要とする若い木。今のオンパロスに、少しだけ似ている気がした。

 ファイノンはヒアンシーの説明を聞いて、若木を見上げた。細い葉が彼の視線の先で揺れる。彼はすぐに答えず、鉢の土、支柱、枝の広がり、天蓋の高さを順に確かめるように目を動かした。先ほどまで神権を使ったばかりなのに、もう木の負担の方を考えている顔だった。

 

「ああ、それで……。本番でも、この木が参加する予定なのかい?」

「そのつもりですよ~。もちろん、無理のない形にしたいので、枝にたくさん結びすぎないようにしたり、予備の紐を張ったり、台を用意したりする必要はあると思うのですが」

「はは、了解。じゃあ、やっぱり植えるまではしっかり盛っておこうか」

 

 ファイノンはそう言って、若木の根元へもう一度視線を落とした。既に土は落ち着いている。けれど、彼の目にはまだ調整できる余地が見えているらしい。

 ヒアンシーは慌てて一歩近づきかけ、それから彼がこちらへ軽く手を上げたのを見て足を止めた。無理はしない、という約束を覚えている合図のようだった。

 

「ファイノン様。先ほども整えていただいたばかりですし、追加でお願いするなら、きちんとお願いの形にさせてください」

「お願いの形?」

「はい。これは、わたしの思いつきだけではなく、皆さまに協力していただく催しになります。ですから、ファイノン様にも、ただその場で手を貸していただくのではなく……正式に、お願いしたいんです」

 

 ヒアンシーは記録板を机へ置き、両手を前で揃えた。胸の奥にはまだ、先ほどの永劫回帰の話が沈んでいる。

 信じてもらえなかったのは自分の力不足だと、彼は言った。その言葉を今すぐ否定したい気持ちはある。けれど、否定を投げつけることだけが支えではない。役目を一人で抱え込ませないためには、こちらが何を望み、どこまでを頼み、どこから先は止めるのかを、ちゃんと言葉にしなければならない。

 

「本番まで、この若木が元気でいられるように、状態を一緒に見ていただけませんか。必要があれば、土や根を整えることもお願いしたいです。でも、ファイノン様の体調に負担が出るようなことは、しないでください。わたしと、アナイクス先生と、皆さまの前で約束した範囲でお願いします」

 

 言いながら、自分の声が少し硬くなったことに気づく。お願いと制限が同時に入ってしまった。だが、それでよかった。ファイノンは、頼られることを断らない。だから、頼む側が境界線を持たなければならない。ヒアンシーはそう思い、彼の返事を待った。

 ファイノンは目を丸くした。ほんの少し、意外そうな顔だった。頼まれることそのものには慣れているはずなのに、条件まで渡されると受け取り方が変わるのかもしれない。彼は若木の幹へ視線を戻し、それからヒアンシーを見た。

 

「うん。分かった。若木のことは手伝うよ。体調の方も、ちゃんと止まる。ヒアンシーと先生が止めたら止まるし、少し疲れたら座る。それでいいかな」

 

 その返事に、ヒアンシーは頷いた。胸の奥で、硬く結ばれていたものが少しだけほどける。完璧ではない。彼の「少し疲れたら」の少しは、時々まったく信用ならない。けれど、約束は増えた。彼が自分で言葉にした約束なら、あとで確認することができる。

 

「はい。ありがとうございます。では、若木係のファイノン様、ですね」

「係になるんだ」

「もちろんです。七夕まつりには、紙係、紐係、会場係、読み書き補助係、救護係、それから若木係が必要ですので!」

 

 ヒアンシーが少し明るめに言うと、広間の空気もそれに合わせて動いた。サフェルが「係が増えたにゃ」と肩をすくめ、アグライアが「分担表が必要ですね」と即座に応じる。ケリュドラは「役目があるなら責任者を置け」と言い、アナイクスは「樹木管理に関しては観察項目を定義します」と淡々と続けた。

 重さは消えていない。けれど、人の声が戻ってくる。ヒアンシーは、その戻り方に少しだけ救われた。

 

 ファイノンは若木の根元へしゃがみ直した。膝をつくのではなく、すぐ立てる姿勢で片足を少し引き、指先だけを土へ近づける。

 ヒアンシーは彼の横顔を見る。顔色は悪くない。呼吸も乱れていない。先ほどより少し疲れの色はあるが、目の焦点ははっきりしている。彼が約束通り、出力を抑えているのかを見極めるように、ヒアンシーは自分の呼吸を静かに整えた。

 土が動き始める。大きく盛り上がるのではなく、鉢の内側で粒が寄り合い、根元を包む角度が変わる程度だった。

 だが、ヒアンシーにはそれがとても不思議に見えた。土が意志を持ったかのように、ずもも、と柔らかく蠢き、若木の足元へ寄っていく。水を含んだ匂いがわずかに強まり、朝の空気に新しい土の香りが混じった。光は葉を透かし、幹の影がファイノンの手元へ細く落ちている。

 奇跡というより、手入れに近い。ヒアンシーはそう思った。神権と呼べば遠くなるが、今の彼の手つきは、患者の枕の高さを直すときや、眠る子の布団をそっと掛け直すときに似ていた。相手が楽に呼吸できるように、必要な分だけ支える。動かしすぎず、押しつけすぎず、自分で戻れる余地を残す。

 

「肥料も上等なものを使っているようだね」

 

 ファイノンが土を見ながら言うと、アナイクスの目がわずかに光った。問いを待っていたようでもあり、説明の機会を逃すまいとしているようでもある。彼は腕を組んだまま、若木の方へ歩み寄った。

 

「当然です。根の定着を優先するなら、急激な成長促進より土壌環境の安定が重要です。助教授の選んだ苗木は枝ぶりこそ控えめですが、根の張り方が素直で、移植への耐性も比較的高い。七夕という催しの象徴にするなら、見栄えだけで選ぶより、数日から数週間の管理に耐えられる個体を選ぶべきでしょう」

「うん。先生らしい選び方だ」

「褒めても、事後確認は免除しません」

「まだ何も言ってないよ」

「あなたは言う前に顔に出ます」

「ええ……」

 

 そのやり取りに、ヒアンシーは思わず小さく笑った。先ほどまで張り詰めていた胸が、ようやく少しだけ息をした気がする。アナイクスは相変わらず厳しい。ファイノンは相変わらず褒めて誤魔化そうとする。だが、その相変わらずが、今はとてもありがたかった。

 キャストリスも、若木へ近づいてきた。彼女はファイノンの作業を邪魔しないよう、少し距離を置いて足を止める。手袋の指を胸元で重ね、葉の揺れを見上げた。

 

「この木に、皆さまの願いが結ばれるのですね」

「はい。枝に結べる数には限りがあるので、全部を直接この木に、というわけにはいかないかもしれません。でも、一番最初の象徴として、ここに立ってもらえたらと思っています」

「象徴……。はい、とてもよいと思います。空へ伸びているのに、根は見えないところで支えられているのですね」

 

 キャストリスの言葉は静かだった。彼女が何を重ねているのか、ヒアンシーには断定できない。ただ、その視線は若木の葉だけでなく、鉢の中の見えない根へ向けられているように見えた。ヒアンシーは頷き、短冊を一枚手に取った。

 

「願いって、見えるところに書くものですけど、願えるようになるまでには、見えないところでたくさんの支えがあると思うんです。だから、この木がいいなと思いました。根があって、土があって、水があって、支柱があって、皆で見守って、それでやっと枝に紙を結べるんだなって」

 

 言葉にしながら、ヒアンシーは自分がこの祭りに何を託したかったのか、少しずつ分かっていく気がした。市民のため。オンパロスのため。新生を待つ今だから。

 どれも本当だ。けれど、それだけではない。願いを語る場所があれば、誰かが自分を不要だと思う前に、別の誰かがその願いを見つけられるかもしれない。紙に書かれた言葉を通して、言えなかった望みの端を拾えるかもしれない。

 ファイノンが、自分の願いをどこまで言葉にできるのかは分からない。キュレネのことも、鉄墓のことも、彼が自分へ向ける厳しさも、全部を一枚の紙に収めることはできないだろう。けれど、たとえ最初は何も書けなくても、短冊を手に取る時間があればいい。願いを書いていいと、誰かが彼に言える場があればいい。

 

「ヒアンシー?」

 

 ファイノンに呼ばれ、彼女ははっとした。彼は土から手を離し、少し不思議そうに見上げている。どうやら、考えが顔に出ていたらしい。ヒアンシーは慌てて微笑みを整えた。

 

「はい。大丈夫です。少し、考えごとをしていました」

「疲れてないかい?」

「それはわたしの台詞ですよ、ファイノン様」

「あ、そうだった」

 

 彼が素直に頷くと、周囲から小さな笑いが起きた。ヒアンシーはその笑いに乗せて、わざと少しだけ胸を張る。

 

「ですから、若木係の最初のお仕事はここまでです。このあと一度、座ってください。お水も飲んでいただきます」

「はい」

 

 返事があまりにも素直だったので、ヒアンシーは逆に目を瞬いた。ファイノンは困ったように笑い、土のついた手袋を軽く払う。

 

「約束したからね」

 

 その一言で、ヒアンシーの胸がきゅっと温かくなった。

 約束が守られた。たったそれだけのことなのに、彼が自分の体調を他人の言葉と同じ場所へ置いてくれたようで、嬉しくなる。

 もちろん、一度で安心しきってはいけない。次も、その次も、必要なら何度でも約束を重ねる必要がある。それでも、今日のこの小さな一歩は、確かに現実の側へ置かれたのだ。

 ファイノンが椅子へ向かうと、アナイクスも当然のようについていった。脈を測る気配である。ファイノンは「座るだけだよ」と言ったが、アナイクスは「座った状態で確認します」と返し、ヒアンシーは「お願いします」と深く頷いた。

 サフェルが「監視が二人体制になってる」と笑い、モーディスが「妥当だ」と短く言う。ファイノンは少しだけ肩を落としたが、逃げなかった。

 その間に、アグライアとセイレンスは机の上で短冊の試作を分類し始めた。色ごと、厚みごと、紐を通す穴の有無ごとに並べられていく。アグライアの指は迷いなく紙を選び、セイレンスは裁ち鋏の刃を光にかざして、同じ幅へ切るための目安を確かめている。

 

「紙帯で願いを隠す仕様も試しましょう。見せたい願いと、見せたくない願いで結び方を変える必要があります」

「穴の位置は統一した方がよい。紐を二重に通せば、風で落ちにくくなるだろう」

「では、細い紐と平紐の両方を用意します。サフェル、あなたは市民の方々へ説明する文言を考えてください」

「にゃにゃっ、またあたしに仕事が飛んできた! まあ、説明なら任せなよ。『願いを書いて、空にひょいっと結んじゃおう』みたいな感じでいい?」

「軽すぎます」

「じゃあ、裁縫女が上品版を作って、あたしが市民に伝わる版を作る。それでどう?」

「採用しましょう」

「え、採用されると逆にびっくりするんだけど」

 

 サフェルが尻尾を跳ねさせ、アグライアが涼しい顔で紙を重ねる。その横で、キャストリスは読み書き補助のために、子どもや高齢の市民が座れる場所を用意した方がよいと提案した。トリスビアスは、絵を描くための色材や、願いを書く前に手を拭ける布を用意してはどうかと穏やかに続ける。

 ケリュドラは会場の警備と誘導の配置を整理し、セイレンスは人の流れが枝の近くへ集中しすぎないよう、結ぶ時間帯を分ける案を出した。

 ヒアンシーはそのすべてを記録板へ書き留めようとして、すぐに追いつかなくなった。イカルンが横から板を支え、彼女は慌てて項目だけを大きく分ける。

 紙、紐、会場、補助、警備、救護、若木、広報。文字が増えるたび、昨夜の伝言から始まった小さな思いつきが、輪郭のある計画へ変わっていくのが分かった。

 夢だったものが、予定になる。予定だったものが、役目になる。役目が分かれれば、誰か一人が全部を背負わずに済む。ヒアンシーは、その当たり前のようでいて難しい変化を、記録板の上に増えていく項目として見つめた。

 

 少し離れた椅子では、ファイノンが水の入った杯を両手で持っていた。アナイクスが何かを確認し、彼は素直に頷いている。

 顔色は大丈夫。呼吸も落ち着いている。ヒアンシーはそれを遠目に確かめ、胸の内で小さく安堵した。完全に安心できるわけではない。けれど、今はひとまず、彼が椅子に座って水を飲んでいる。それだけで、今日の大きな進歩だった。

 

 若木の葉がまた風に鳴った。根元の土はしっかり盛られ、支柱はまっすぐ立ち、枝はまだ白紙の短冊を待っている。そこには、まだ誰の願いも結ばれていない。けれど、もう何も始まっていないわけではなかった。

 ヒアンシーは記録板に最後の項目を書き足した。「当日までの確認」と記し、その下に、若木の水やり、短冊の試作、市民への案内、救護席の準備、ファイノン様の体調確認、と並べる。最後の項目だけ少し私情が混じっている気がしたが、必要事項なので問題ない。たぶん。

 

「皆さま、ありがとうございます。これで……本当に、準備を始められそうです!」

 

 そう言うと、広間のあちこちから頷きが返った。

 キャストリスはやわらかく微笑み、アグライアは試作の紙束を揃え、ケリュドラは許可した以上は成功させろと言わんばかりに顎を上げる。

 サフェルは「忙しくなりそうだねえ」と笑い、セイレンスは既に必要な寸法を測り始めていた。トリスビアスは若木を見上げ、まるでこれから結ばれる願いまで見守るように目を細めている。

 ヒアンシーは、机の上の短冊を一枚手に取った。まだ何も書かれていない紙は、指先で支えなければすぐに揺れるほど軽い。

 けれど、それを結ぶための木があり、紙を切る人がいて、紐を選ぶ人がいて、案内する人がいて、守る人がいて、見守る人がいる。軽い紙は、もう一人きりではなかった。

 

 昨夜、彼女の胸の中にあった七夕まつりは、柔らかな夢だった。

 今日、星の降るドームの広間で、その夢は仲間たちの手に渡り、紙の厚みと土の匂いと水の重さを持ちはじめた。空へ願いを結ぶための準備は、まず大地の上で始まる。ヒアンシーは白い短冊をそっと机へ戻し、若木の葉音を聞きながら、企画が現実へ移る最初の朝を静かに見届けていた。




明日路:造語だす。明日へ続く路、というニュアンス。
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