星の降るドームにて、ヒアンシーは七夕まつりの象徴として「願いを結ぶ若木」を提案する。
ファイノンはその意図を汲み取り、若木の整備に協力することを受け入れるが、永劫回帰にまつわる重い記憶の断片が場に影を落とした。
ヒアンシーは彼に過度な負担をかけぬよう条件を添えて正式に依頼し、仲間たちも役割を分担しながら準備へと動き出す。夢として語られた祭りは、土と紙と人の手によって、現実の計画へと形を変え始めてゆく。
076 距離に灯を留める
若木の根元には、つい先ほどまで皆が覗き込んでいた土の匂いが、まだ湿り気を帯びて残っていた。ジョーリアの神権によって整えられたその一角は、ただ苗を植えるためだけの穴ではなく、まるで小さな祭壇のように、土の粒の重なり方から水の含み方までが静かに調えられている。
ヒアンシーは膝に手を添えて身を乗り出し、柔らかく盛り上がった土が崩れずに形を保っている様子を、イカルンの尻尾をふわふわ揺らしながら、たいそう興味深そうに眺めていた。
人の手でなら、土を均し、石を除き、根が通りやすいようにほぐすには相応の時間がかかる。けれど、神権によって施された盛り付けは、手早いというより、土そのものが「そうあるべき形」を思い出したような自然さを帯びていた。水分は多すぎず、乾きすぎず、若木の細い根を受け入れるにはちょうどよい重みを持ち、外側へ向かって少しずつ空気を含むように柔らかくなっている。
その滑らかな曲線を見つめながら、これなら短冊を結ぶための若木も、きっとびっくりせずに根を伸ばせますね、とヒアンシーは弾むように呟いた。
その声に合わせるように、イカルンの尻尾が小さく跳ねた。隣でヒアンシーの桃色のツインロールが、光を含んでふわりと揺れ、その柔らかさに目を引かれる者がいたとしても不思議ではない。少し離れた場所でアグライアの歩調に合わせていたはずなのに、キャストリスもまた、その揺れを視界の端で追った瞬間、緊張していた肩からわずかに力が抜けるのを感じた。
近づいてもよい距離と、近づきすぎてはならない距離。その二つを測る癖は、救われた後のオンパロスにもなお、キャストリスの身体に深く残っていた。
周囲には黄金裔たちがいて、ヒアンシーがいて、アグライアがいて、セイレンスたちの声も遠くない。祭りの計画を話し合う穏やかな場であり、ここには剣戟の音も、弔いの鐘も、死の気配に脅えて息を殺す必要もなかった。
それでも、誰かの袖がふと風に揺れて近づくだけで、胸の内側に冷たい指先を差し込まれたような感覚が走り、キャストリスは反射的に自分の手の位置を確認してしまう。
アグライアはその歩調の乱れを、きっと視界の端で拾っていたのだろう。金の糸を思わせる長い髪をわずかに揺らし、キャストリスを急かすでも、気遣いを過剰に言葉へするでもなく、ただ半歩だけ速度を落としてくれた。触れないまま寄り添うその距離の取り方は、裁縫における糸の張りに似ている。強く引きすぎれば布は歪み、緩みすぎれば形を保てない。そのちょうどよい加減を、アグライアは言葉より先に身につけている人だった。
キャストリスは小さく息を吸い、指先が袖の内側へ隠れていることを確かめてから、ヒアンシーの隣へ歩み寄った。
土の匂いに混じって、若木の青い香りが薄く漂っている。切られた枝の匂いではなく、これから伸びようとする葉の匂いだった。その生々しいほど瑞々しい気配に、キャストリスの喉はかすかに強張ったが、同時に、ここにあるものは終わるためではなく育つために植えられているのだと、ゆっくり理解することもできた。
「お隣、失礼いたします……」
声は、思っていたよりも小さくなった。キャストリスは自分でもそれに気づき、もう少し明るく言えればよかったでしょうか、と一瞬考える。
しかし、無理に繕えばかえって手元の緊張が増してしまいそうだった。ヒアンシーは振り向くと、キャストリスの声量や表情を特別扱いすることなく、いつもの柔らかな笑みを浮かべて、膝の上で揺れていたイカルンを少しだけ抱え直した。
「えへへっ、どうぞどうぞ。キャスたんも、こっちから見た方が分かりやすいですよ。ほら、土がふんわりしていて、若木も息がしやすそうなんです!」
ヒアンシーの言葉には、医療者が患者の呼吸を案じるときの優しさと、祭りの準備に胸を躍らせる少女の明るさが、同じ温度で混ざっていた。
キャストリスはその響きに頷き、膝を折る前に、まず周囲の影の位置を見た。自分の裾がヒアンシーの膝に触れないか。袖がイカルンの尻尾へ引っかからないか。アグライアがすぐ後ろにいるため、身を引く際にぶつからないか。
そうした確認をひとつずつ済ませてから、スカートの裾を両手で整え、布が地面へ広がりすぎないよう慎重にまとめて、ようやく静かにしゃがみ込む。
ふわふわと揺れるヒアンシーの二つの尻尾のような髪は、近くで見ると、空気を掬って形を変える淡い雲のようだった。キャストリスはそれを微笑ましく思いながらも、指先が無意識に丸まっていることに気づき、袖の中でそっと開いた。
今の自分なら大丈夫だと、頭では分かっている。かつて触れる者すべてに死を与え、近づく者にすら恐怖を強いた“暗澹たる手”は、もはや彼女自身を呑み込む闇ではなくなっていた。死の力は消えたわけではないが、荒れ狂うものではなく、呼吸の仕方を覚えた刃のように、必要なときだけ形を取るものへ変わりつつある。
その変化がどこから来たものなのか、キャストリスは断言できなかった。
オンパロスが救われたこと。歳月の彼方に刻まれた永遠の一頁を経たこと。
思い当たる理由はいくつもあったが、どれか一つだけを選び取れば、かえって本質から遠ざかってしまうような気がした。キャストリスの身体は、今では以前よりずっと自然に力を制御できる。うっかり誰かを死なせてしまうかもしれないという恐怖に、眠る間も起きる間も怯え続ける必要はない。
けれど、恐怖から解放されることと、恐怖を覚えなくなることは違う。転生してからオンパロスが救われるまでの時間に染みついた習性は、祝福のように一夜で洗い流されるものではなかった。
誰かの生命がすぐ近くにある。たったそれだけで、キャストリスの臓腑は、冷たい水を内側から注がれたように縮む。
ヒアンシーの呼吸が近い。イカルンの尻尾が揺れる。アグライアの衣擦れが背後で鳴る。どれも穏やかで、何ひとつ自分を責めていない音なのに、それらが「生きているもの」の証として耳へ届いた瞬間、キャストリスの手首から肘へかけて細い緊張が走った。
この場から離れるべきだ、と昔の身体が言う。もう少し近くで見ても大丈夫です、と今の理性が答える。
キャストリスはその二つを争わせるのではなく、どちらの声も聞いたうえで、裾の端を自分の膝の上へ折り込んだ。逃げないことが勇気なのではない。逃げたいと思った身体を叱らず、今はここにいてもよいと、少しずつ教え直していくことが必要なのだと、彼女は最近になってようやく覚え始めていた。
「本当に、土が綺麗に整っているのですね……。手で触れても、崩れたりはしないのでしょうか」
キャストリスが問いかけると、ヒアンシーは嬉しそうに目を細め、指先で土の表面に近づきすぎない程度の位置を示した。
彼女の動きには、患者の傷口を扱うときのような慎重さがある。触ってはいけないから触らないのではなく、触れる前に相手の状態を確かめる。その当たり前の手順が、キャストリスには妙に眩しかった。
「表面はふんわりしていますけど、下の方はちゃんと支える形になっているみたいです。ジョーリア様の神権って、ただ大地を動かすだけじゃなくて、根が欲しがる隙間まで考えてくださるんですね。わたしも、こういう土の整え方は診療所のお庭で試してみたいです!」
「ヒアンシーさまのお庭でしたら、きっと花も薬草も喜ばれますね……。根が苦しくない場所で育つことは、生き物にとって、とても大切なことでしょうから」
言い終えてから、キャストリスは自分の言葉が少しだけ重く響いたかもしれないと思った。けれど、ヒアンシーはその重さを無理に軽くせず、ふわりと頷くだけだった。アグライアもまた、若木の枝ぶりを確かめるように視線を移しながら、手袋を嵌めた指先を顎の近くへ添え、静かな声で言った。
「根が息をできる土壌でなければ、枝葉だけを飾っても長くは保ちませんもの。祭りのための象徴としてだけでなく、後に残るものとして扱うなら、最初の支度は丁寧であるべきです。」
アグライアの言葉は、いつもながら布を裁つ刃のように澄んでいた。キャストリスは頷き、若木へ視線を落とした。細い幹はまだ頼りなく、支柱がなければ少し強い風にも傾いてしまいそうだったが、その頼りなさにはみすぼらしさではなく、これからの時間を許されているものだけが持つ余白があった。
終末の中では、弱いものは弱いまま踏み潰されることが多かった。育つまで待つという考え自体が、どれほど贅沢で、どれほど尊いものだったのか、救われた後になってから思い知らされる。
キャストリスは、袖の中で指をもう一度開いた。指先はまだ冷えていたが、震えは先ほどより小さい。周囲にいる者たちの距離は近く、少し身じろぎすれば布越しに触れてしまいそうなほどだった。けれど、その近さは迫ってくるものではなく、互いに同じ若木を覗き込むために自然と生まれた輪の形をしている。
ヒアンシーが隣で息を弾ませ、アグライアが背後から企画としての実現性を測り、少し離れたところでは他の黄金裔たちの声が、支度の道具や会場の広さについて交わされている。
触れることを許される世界。触れなくても、同じ場所にいてよい世界。キャストリスはその両方を、まだ自分のものとして受け取りきれていなかった。
開拓者ならば、多少こちらが慌てて距離を測り損ねても、冗談めかした一言で空気を変えてくれる。
あの人は恐ろしいほど自然に、死の気配と隣り合わせの場所へ踏み込んでくることができた。躊躇がないというより、躊躇を知らないのではないかと思うほどで、その危うさに何度も胸を冷やしたが、同時に、誰かが近くにいてもよいのだとキャストリスへ生命の温もりを教えてくれた存在でもあった。
そしてもう一人、遠慮なく触れられる相手を挙げるならば、永劫回帰の記憶から掘り起こせば掘り起こすほど、驚愕の事実を何度も叩き出す青年ファイノンだろうか。
今は穏やかな声で人々の願いを聞き、若木の成長にまで手を貸そうとしているあの青年は、キャストリスの記憶の底で、何度も異なる距離から現れる。初めて会ったはずの場面に、どこか懐かしい声が残っている。知らないはずの道に、彼が先に立っていたような気配がある。
すべてを鮮明に覚えているわけではないのに、忘れてしまったと断じることもできない断片が、タナトスの神権に触れるたび、薄い膜の向こうで揺れるのだ。
どうやら、永劫回帰の中で、彼は幾度となく黄金裔たちの人生へ関わってきたらしい。そう理解するまでに、キャストリスは何度も自分の記憶を疑った。
自分だけが見ている幻なのか、それとも救済後の世界に残った神権の残響なのか。けれど、他の黄金裔たちもまた、言葉にしきれない形で彼の面影をどこかに抱えているらしいと分かるにつれ、キャストリスの疑念は、少しずつ別の重みに変わっていった。
永劫回帰のすべてを覚えていない者たちの中にも、“もっとも鮮烈だった記憶”として残るものがある。その記憶が温かなものなのか、痛ましいものなのかは人によって違うのだろうが、少なくとも、何もなかったことにはならなかった。
「キャスたん? 土、見えづらいですか?」
ヒアンシーの声に、キャストリスは瞬きをした。若木を見ていたつもりが、いつの間にか土の向こうにない景色を追いかけていたのだと気づき、頬へ薄く熱が差す。
友人である彼女は心配そうに首を傾げていたが、その視線に詰問の鋭さはない。医療者として見逃さない目と、友人として待ってくれる目が、同じ青空の下で静かにこちらを見ている。
「い、いえ……よく見えています。少し、考え事をしてしまって……。こんなに穏やかな支度を、皆さまと一緒にできることが、まだ少し不思議で」
キャストリスはそう答えながら、膝の上で重ねた手をほんの少しだけ緩めた。袖口から覗く指先は、土へ触れるにはまだ遠い。
以前ならばその距離すら恐ろしく、誰かに見咎められる前に身を引いていたはずだった。今は、隣にヒアンシーがいて、背後にアグライアがいて、若木が呼吸しやすい土に守られている。その輪の中で、キャストリスは逃げずに座っている。
「不思議なの、わかります。わたしも、こうしてみんなで何かを楽しみにしながら準備していると、胸のあたりがふわふわするんです。診療所で患者さんの回復を待つときとは、少し似ているけど、でも違っていて……きっと、元気になった後の予定を一緒に考えている感じなんでしょうね」
ヒアンシーはそう言って、若木の葉を見上げた。まだ数えるほどしかない葉は、風が通るたびにかすかに震え、その細い動きがイカルンの尻尾の揺れと重なって見えた。キャストリスはその光景を見つめ、胸の奥に残る冷たさが完全に消えたわけではないことを知りながらも、その冷たさだけが今の自分を決めるものではないのだと、静かに息を吐く。
近くにある生命は、今も怖い。けれど、怖いからこそ大切に扱いたいと思える。手が届く距離に誰かがいることは、危険を孕むだけでなく、同じものを見て、同じ音を聞き、同じ未来の支度をするための距離でもあるのだと、キャストリスは若木の根元に整えられた土を見ながら、少しずつ確かめていた。
まだ触れられないものは多い。けれど、触れられないまま隣にいることなら、今の自分にもできるのかもしれない。そう思えた途端、キャストリスの膝に折り込まれていたスカートの裾が、風に小さく揺れた。
アグライアが紙の寸法について誰かへ問いかける声が背後で響き、ヒアンシーがそれに応じて、短冊を結ぶ高さや子どもたちが参加しやすい位置について楽しげに案を出し始める。
二人の会話を聞きながら、袖の中で開いた指先を、もう一度だけ静かに握った。握りしめるためではなく、力を抜くために。誰かへ触れるためではなく、いつか触れるかもしれない日のために。
若木はまだ細く、土はまだ整えられたばかりで、祭りの形も輪郭を得たばかりだった。けれど、その場に集まった者たちの声が、少しずつ一本の枝へ光を結ぶように重なっていくのを聞きながら、キャストリスは自分がその輪から離れずにいることを、ほんの小さな進歩として受け止めた。
死を恐れ、触れることを恐れ、それでも同じ未来の準備へ膝を並べている。その事実は、若木の根に含まれた水分のように目立たないが、確かに彼女の内側へ染み込んでいた。
別の作品書き始めたばかりに文体が混ざり始めたァ……どうしようか。