若木の根元に集まった一行は、ジョーリアの神権で整えられた土の上で次の催しを静かに思案していた。湿った大地は小さな祭壇のように均され、ヒアンシーの明るい声とイカルンの尻尾が空気を和らげる。
キャストリスは輪の中に身を置きつつも距離を測り続け、救済後の世界でも近づく気配に微かな緊張を覚えていた。それでもアグライアの控えめな歩調とヒアンシーの気遣いが、その緊張を静かにほどいていく。
やがて意識は青い外套と、握り返せなかった手の記憶へ沈み、過去と現在の境界が揺らいでいった。
袖の中で握った指先には、まだわずかな冷たさが残っていた。握りしめるためではなく、力を抜くために一度閉じたはずなのに、爪の先が掌へ触れた感覚を意識した途端、キャストリスはゆっくりと指を開く。
目の前では、ヒアンシーとアグライアが短冊の大きさについて話し合っている。少し離れた場所からは、誰かが紙を束ねる乾いた音が聞こえ、若木の葉が風に擦れる微かな囁きが、その合間を縫うように流れていて――穏やかな音ばかりだった。
だからこそ、今ここにいない誰かの衣擦れが、その中へ紛れ込んだような気がしたのかもしれない。
キャストリスは、膝へ重ねていた手を見下ろした。白い指先のすぐそばで、青い布が揺れていた。もちろん、実際にそこへ外套があるわけではない。
膝に触れているのは自分の衣装で、風を受けているのも若木の葉だけだ。それでも、記憶というものは時として、目で見ている現在よりも鮮やかな輪郭をもって感覚へ割り込んでくる。タナトスの神権を宿してから、とりわけそうした瞬間が増えたように思う。
永劫回帰のすべてを、キャストリスが覚えているわけではない。むしろ、覚えていないことの方が圧倒的に多いのだろう。
遥か以前、永劫回帰という途方もない旅が始まる前に、一度きり歩んだ火を追う旅。カスライナの言葉に応じ、黒衣のフレイムスティーラーと道を共にしたはずの旅路。開拓者さまが加わった火を追う旅と、その先にあった出来事。最後の永劫回帰で目にしたもの。
それらは綺麗に並べられた書物の頁のようには残っていない。場面と場面の境界が曖昧で、時には同じ人の姿へ違う時代の光が重なり、言葉だけが先に蘇って、その声がどこで発せられたものだったのかを思い出せないこともある。――それでも、忘れられずに残った感触だけは、時間の前後を失ってなお不思議なほど鮮明だった。
青い布の厚み。指先へ伝わる微かな重さ。それを掴めば、向こう側に誰かがいるという感覚。そして――自分から伸ばしてもよいと、初めて許された距離。
キャストリスは無意識に袖口を摘まみ、その布を親指と人差し指の間でそっと擦った。似ても似つかない感触だった。それなのに、そのささやかな摩擦が鍵になったように、薄闇の向こうからひとつの声が浮かんでくる。
『僕もタナトスの神権を持っているし、今は効かないよ』
穏やかな声だった。あまりにも穏やかで、キャストリスは記憶の中の自分が、かえって困惑していたことまで思い出した。
差し出された手を見ていた。大きな手だったように思う。剣を握り続けてきた人の手で、節ばった指には傷もあったはずなのに、そのときのキャストリスには細かな傷跡など見えていなかった。ただ、こちらへ向けて開かれた掌だけが、ひどく鮮明だった。
握ってもよい、と言われた。触れても大丈夫なのだと、そう説明された。頭では言葉の意味を理解できた。彼もまたタナトスの神権を宿しているなら、自分の“暗澹たる手”へ耐えられる可能性があるという理屈も、まったく理解できなかったわけではない。
けれど、身体は動かなかった。胸の奥が冷えて、指先から血の気が引き、伸ばそうとした腕が途中で止まった。もし。その一文字だけで、身体は十分に恐怖を思い出すことが出来てしまったから。
もし、彼の見立てが間違っていたら。
もし、神権同士の干渉が予想と違っていたら。
もし、ほんの一瞬触れたことで、あの温かな声が途切れてしまったら。
もし、自分がまた誰かを殺したなら。
それまでにも、キャストリスは数えきれない死を見てきた。自分が望んだものではない死も、自分の手を通して訪れてしまった死も、納棺師として送り出した静かな死も知っていたからこそ、「大丈夫」という言葉一つへ自分以外の生命を賭けることなどできなかった。
たとえ、その生命の持ち主自身が構わないと言ってくれたとしても。彼女は差し伸べられた手を見つめ、指をわずかに持ち上げたところで止まった。
あと少し。腕を伸ばせば届く。指先を開けば、触れられる。たったそれだけの距離が、当時のキャストリスには果てしなく遠かった。
『……ご、ごめんなさい』
記憶の中の自分は、おそらくそう言ったのだと思う。
正確な言葉までは曖昧だった。ただ、喉が締まって声が細くなった感覚と、差し出された手から目を逸らせなかったことだけは残っている。
握りたくなかったわけではない。むしろ、握りたかった。だからこそ、恐ろしかったのだ。死者へ触れることには慣れていた。静かになった指を重ね、乱れた髪を整え、最後の衣を着せることならできる。そこでは、自分の手が新たに何かを奪うことはない。
けれど、生きている人は違った。手を握れば握り返してくれるかもしれない。こちらを見て笑うかもしれない。掌の温度も、脈も、動く指もある。そして、それらすべてを、自分は一瞬で終わらせてしまえるかもしれない。欲しいものほど遠ざけなければならないという習慣は、そうして彼女の中へ育っていった。
そんなキャストリスを、カスライナは急かさなかった。記憶の中で彼がどんな表情をしていたのかは、もうはっきりしない。ただ、差し出していた手を無理に近づけてくることも、臆病だと笑うこともなかった。その代わり、少し考えるような間があってから、彼は別の方法を提案した。
直接触れるのが怖いのなら、布を挟めばよいのだと。青い外套ならば十分に厚い。振り向いてほしいとき。何かを見つけて教えたいとき。立ち止まってほしいとき。話したいことがあるのに、声を掛けづらいとき。どんなときでもいいから、外套の端を引いてみればいい――そんな、ひどく単純な方法だった。
初めて聞いたとき、キャストリスはすぐには返事ができなかった。あまりにも単純だったからだ。自分にとって、人へ触れることは生と死の境界を跨ぐほど恐ろしい行為だった。
それを彼は、布一枚を間へ挟むだけで、「話しかける方法」へ変えてしまった。触れるか、触れないか。殺すか、殺さないか。近づくか、遠ざかるか。それまで二つしかなかった選択の間に、青い外套一枚分の場所が生まれた。
キャストリスは今でも、最初にその布を摘まんだときの感触を覚えている。ほんの端だった。掴むというには弱すぎるほど、指先で僅かにつまんだだけだったと思う。
けれど、外套を引くと、その先にあった人影が止まった。振り返ってくれた。それだけの出来事に、胸の奥が驚くほど大きく鳴った。
声を張らなくてもいい。遠くから呼ばなくてもいい。誰かが自分の手の届く場所にいて、その人へこちらから合図を送ることができる。布越しなら。この距離なら。自分にもできる。
そこから先の記憶には、小さな断片がいくつも残っていた。
道の途中で足を止めてほしくて、外套を引いたこと。見慣れない花を見つけ、伝えようとして端を摘んだこと。声を掛けようか迷った末に、結局何も言えず、ただ青い布へ指を置いただけのこと。彼が歩き始めるのを見て、置いていかれそうな気がして、慌てて掴んだこともあったかもしれない。
そのたびに、外套は彼と彼女の間へ細い橋を架けた。誰かにとっては、ただの衣服だっただろう。風や冷気を防ぎ、戦いの汚れを受け、旅人の背を覆う布。
あの回帰のキャストリスにとって、青い外套は生命へ手を伸ばすための境界だった。越えれば危険なのではなく、その境界があるからこそ、近くまで行くことを許された。
今のキャストリスなら、そのことがよく分かる。
境界とは、必ずしも人を遠ざけるためのものではない。安全な境界があるから、近づけることもある。手袋があるから花を持てるように。布があるから肩へ寄れるように。言葉があるから、胸の奥まで踏み込まずとも思いを伝えられるように。
あの青年は、自分がどうして手を取れないのかを完全には理解できていなかったかもしれない。それでも、できないことを責める代わりに、できる方法を一つ増やしてくれた。その記憶だけは、永劫回帰の果てでも消えなかった。けれど、だからこそ、その後に残った景色は痛かった。
回帰を重ねるにつれ、カスライナの姿は変わっていった。正確には、変わったというより、壊れていったのだろう。
キャストリスが持つ記憶は断片的であり、どの回帰のどの時点だったかまで綺麗に分けることはできない。それでも、以前の彼がどんな人だったのかは覚えている。
彼は、人のいる場所へ、ごく自然に混ざっていく人だった。
老人に頼まれれば荷を持ち、子どもに呼ばれれば足を止め、仲間のくだらないやり取りにも笑って付き合う。誰かが困っていると、自分の用事を後へ回してでも手を貸してしまう。老若男女を問わず、彼の周囲にはいつの間にか人が集まっていた。
火のように激しく燃えるというより、エイジリアの極寒をもやわらかく溶かす冬の陽だまりのような人だった。そこにあることを声高に主張しないのに、近くへ行けば温かい。キャストリスは、人の輪の外からそんな彼を見ていたことが何度もあったように思う。
自分はその輪へ入れなくても、彼が人々の中心で笑っている姿を見ることは嫌いではなかった。むしろ、その光景を遠くから眺めているだけで、ここにはまだ生命があり、明日まで続く営みがあるのだと確かめられるような気がしただから、最後に見た孤独が余計に胸へ残った。
人を避けていたのではない。人から嫌われたから、一人になったのでもない。近づけなくなったのだ。かつてキャストリスが自分の手を恐れて距離を取ったように。
今度は彼の側に、人へ触れられない理由が生まれていた。皮肉なことだと笑えるほど、キャストリスは器用ではなかった。ただ、見ていられなかった。
かつて青い外套を差し出し、彼女へ「ここまでなら近づいていい」と教えてくれた青年が、今度はどれほど厚い布を挟んでも足りないほどのものを、その身に抱えていた。
焔。
それは炉端で薪を焼く穏やかな火ではなかった。生き物へ温もりを与えるためだけの陽光でもない。火種を抱え、力を積み上げ、自己を削りながら次の回帰へ繋いでいくうちに、彼の内側へ宿ったものは、触れるものを焼き尽くしかねないほど強くなっていた。
遠くに立っていても分かるほどの熱。空気を歪ませ、近づくことそのものを躊躇わせる圧。それなのに、その中心にいる本人だけが、逃げることもできない。彼自身の身体すら焼き尽くしかねない
その光景を思い出すと、キャストリスの指先は、今でも冷たくなる。自分と同じだなどと軽々しく言うことはできない。彼が背負ったものの大きさも、永劫回帰の長さも、キャストリスにはすべて理解できないのだから。
けれど、“触れられない”という一点だけならば。そこにある冷たさだけならば。少しだけ分かるような気がした。
人へ近づきたいのに、近づくことで相手を傷つける。抱きしめたいと思うほど、腕を後ろへ引かなければならない。名前を呼ばれて振り向いた先に誰かが立っていても、自分から距離を詰めることはできない。相手がこちらを恐れていなくても、自分自身が、自分を信じきれない。
それがどれほど冷たいことなのかを、キャストリスは知っている。死の力を宿していた頃、彼女の手にはいつも冬があった。
誰かが笑っていても、その温かさへ指を伸ばすことができない冬。人々が肩を寄せ合う場所で、自分だけ半歩後ろへ立つ冬。触れたくないのではなく、触れてはいけないと思うたびに、身体の内側から広がってくる冬。
かつて、その冬へ青い外套を差し入れてくれたのが彼だった。なのに、その彼が最後には、自分より遥かに熱い炎によって、人から遠ざからなければならなくなった。
熱すぎるものと、冷たすぎるもの。正反対のようでいて、その二つは同じ孤独へ辿り着いていた。
キャストリスは、自分の袖を摘んでいた指へ少しだけ力を込めた。記憶には、外套越しに彼の手を取った感触も残っている。
素肌ではない。布一枚分。それでも、手の形は分かった。指の位置が分かった。こちらが恐る恐る力を込めれば、向こう側から同じだけの力が返ってくることも分かった。
抱擁もそうだった。直接肌が触れることはなくても、外套越しに広い背へ手を添えた瞬間、自分以外の身体がそこにあるという事実が、布越しの熱となって伝わってきた。
怖かった。とても怖かった。けれど、それ以上に、嬉しかった。生きている人へ自分から近づき、触れ、その人が触れられた後もそこにいてくれる。そんな当たり前のことを、キャストリスは当たり前として知らなかった。
さらに深く、別の感触が蘇る。雪国のように冷えた空気。痛みに霞む視界。自分の身体を抱き上げる腕。そのとき触れた青年の体温は、これまで知っていたどんな生き物よりも熱かった。
火種を宿していたためなのかもしれない。火傷してしまうのではないかと思うほどだった。けれど、その熱が、ひどく嬉しかった。
『――ああ……あたたかい……』
声が、自分のものなのか、遠い誰かのものなのか、一瞬分からなくなる。
『いのちとは、炎のように、あたたかいものなのですね……』
記憶の中で、誰かの胸元へ頬が触れている。鼓動まで聞こえたかどうかは思い出せない。けれど、温かかった。
死へ近づけば近づくほど冷えていく身体を、生命の側へ引き戻すような熱だった。あの青い外套は、あの回帰のキャストリスにとって、雪の中へ残された陽だまりだった。
だからこそ。だからこそ、今になって考えてしまう。あのとき、最初に差し伸べられた手を。どうして握れなかったのだろう、と。
もちろん、理由は分かっている。怖かったからだ。彼を死なせたくなかった。自分の願いのために、他人の生命を賭けたくなかった。
それは今のキャストリスが振り返っても、間違っていたとは言い切れない。あのときの自分が知っていたこと、経験していたこと、恐れていたことを考えれば、手を引いた判断には理由があった。
それでも、理由があることと、未練が残らないことは別だった。後になって、彼と外套越しに手を取り合えた。抱き上げてもらった。生命の温度も知った。それなのに、その回帰を過ぎれば、同じような時間は二度と訪れなかった。
次の彼は同じ彼でありながら、同じ旅を歩んではいない。次の自分もまた、自分でありながら、その記憶を持って生まれるわけではない。そして永劫回帰の果て、すべてを背負って残ったカスライナは、もう誰かと気軽に手を取り合える身体ではなくなっていた。
あの一度が、最初で最後だった。そのことへ思い至るたびに、キャストリスの胸の奥には、名前をつけにくい小さなしこりが残る。
後悔と言えば、あの頃の自分を責めているようで違う気がする。罪悪感と言えば、彼へ何か取り返しのつかないことをしたようで、それも少し違う。
悲しみだけでもない。ただ、もう一度同じ瞬間へ戻れるのなら、今の自分ならどうするだろうと考えてしまう。
差し伸べられた掌を見る。怖くなる。きっと今でも、一瞬は止まる。それでも、今なら。今の自分なら、震えながらでも、もう少し指を伸ばせるのではないか。せめて布越しではなく、彼が「大丈夫だ」と言ってくれた、その言葉を信じてみようとできるのではないか。
「……どうして、あのときのわたくしは……」
声になりかけた言葉を、キャストリスは唇の内側で留めた。周囲では祭りの話が続いている。誰も彼女へ問いを投げかけてはいない。今ここで口にすべきことではないと分かっていたし、何より、問いの続きまで声へ出してしまえば、本当に過去の自分へ答えを求めてしまいそうだった。
どうして、伸ばしてくださったカスライナさまのお手を、握り返せなかったのでしょう。
答えなら、とっくに知っている。怖かったから。大切だったから。傷つけたくなかったから。そして、人を傷つけたくないという願いが強すぎて、その人が差し出してくれた優しさを受け取ることさえ怖かったから。
キャストリスは俯き、袖口を摘まんでいた指をそっと離した。掌には何も残っていない。青い布の感触も、あの熱も、今ここに実物としてあるわけではない。それでも、外套越しに触れた生命の温度を、自分は覚えている。
すべての回帰を覚えていなくても。大半の道を忘れてしまっていても。あの人が一度、自分へ近づくための方法を考えてくれたことだけは残っている。忘れたくないと思うより先に、忘れられないほど深く。
キャストリスは膝の上へ手を戻し、今度は指を握り込まず、掌を静かに伏せた。若木の葉を撫でた風が、少し遅れて彼女の頬へ届く。その風は、あの冬のように冷たくなかった。
今回はキャストリスの小説情報にある➁内容に若干、踏み込みました。情報量が多すぎて並行して書こうと思って書けるもんじゃねえな……、と冷静になるターンが入りました。