キャストリスは若木のもとで、無意識に青い外套の感触を指先に探していた。それはかつて永劫回帰の旅路で、カスライナと呼ばれた青年が差し出した「触れられない者同士の距離」だった。
布一枚を介した接触は、恐怖と安堵の狭間で初めて許された他者との繋がりであり、彼女にとって生命へ手を伸ばす唯一の橋でもあった。しかしその一度きりの機会で、彼女は差し出された手を握り返すことができなかった。
今も残るのは、温もりと冷たさが交錯する記憶と、届かなかった掌への静かな後悔だけだった。
若木を撫でて渡った風は、あの冬のように冷たくなかった。それでもキャストリスの掌には、もうそこにない青い外套の感触がしばらく残り続け、指を閉じれば布越しの熱まで蘇ってしまいそうで、彼女は膝の上に伏せた手を動かさなかった。
差し伸べられた手を握れなかったことには、理由がある。
キャストリスには、タナトスの呪いがあった。だから、触れてしまったあとのことを考えるたびに怖くなったのだ。傷つけたくなかった。相手が「大丈夫」と言ってくれても、その言葉ひとつへ生命を預けるほど、自分の力を信じることができなかった。
あのときの自分を責めるつもりはないし、今のキャストリスに同じ状況が訪れたとして、本当に迷わず手を伸ばせるのかと問われれば、きっと一拍は止まるだろう。けれど、それと、握りたかったという思いまで無かったことにしてしまうのは違う。
嬉しかった。青い外套越しとはいえ、自分から生きている人へ触れられたことも、触れた後にもその人がそこにいてくれたことも、こちらが恐る恐る指へ力を込めれば向こうから同じだけの力が返ってきたことも、そのすべてが、嬉しかった。
それだけなのに、その「嬉しかった」を当の本人へ説明することが、ひどく難しい。
なぜなら、ファイノンという青年は、自分自身が関わる話題となると、時折こちらが想像もしなかった方向へ理屈を組み立ててしまうからだった。
もしキャストリスが、先ほど胸の内で形になりかけた問いをそのまま彼へ差し出したならば、どうなるだろう。
『どうして、あのときのわたくしは、伸ばしてくださったお手を握り返せなかったのでしょう……』
おそらくファイノンは、最初こそ困ったように瞬きをする。それから少し考える。真剣に考える。そして、恐らくこう言う。
『あはは。自分で言うのもなんだけど、僕の手を握りたくなかった……とか?』
想像しただけで、キャストリスは胸の奥へ細い針を落とされたような感覚を覚えた。
違います。そうではありません。むしろ逆なのです、と、その場にいたなら両手を振って否定したくなるだろう。
もっとも、そんな発言をモーディスやアナイクスが聞けば、キャストリスが訂正するより先に、「“出来なかった”と“しなかった”は別だ」とでも言って止めてくれるに違いない。モーディスなら眉間へ深い皺を寄せ、アナイクスなら眼鏡の奥から呆れを隠しもしない視線を向けそうで、そこまで容易に想像できてしまうことが、いっそ悲しかった。
問題は、ファイノンが冗談でそう言うわけではないことだった。彼は、自分の手を握らなかったキャストリスを責めたいわけではない。むしろ、完全に逆なのだ。
キャストリスが恐れたことも、手を伸ばせなかったことも、当時の彼自身を考えればあまりにも当然であり、妥当であり、何ひとつ悔いる必要などないと、本人だけが頑として譲らない。
そのことをキャストリスが知ったのは、ほんの少し前、開拓者へ思わずあの回帰の話をしてしまった後だった。
なぜそんな話になったのだったか、始まりはもうよく覚えていない。開拓者は時折、こちらが構える暇もないほど自然に過去の話へ入り込み、気づけば胸の奥へ仕舞っていたものまで聞いていることがある。
そのときも、青い外套の話から、外套越しに初めてファイノンの手を握ったことへ移り、最後にはキャストリス自身が、『あのとき、本当は……とても、嬉しかったのです』と零したのである。開拓者は、いつものように妙な茶化し方をしなかった。目を少し丸くしたあと、何度か静かに頷いていた。
それだけだったから、キャストリスも話したことを後悔せずに済んだのだが――後日、その開拓者がいかにも「ちょっと聞いてよ」と言いたげな顔で戻ってきた時点で、何かが起きたのだと察するべきだった。
『ファイノンに話したよ』
そう告げられた瞬間、キャストリスはしばらく声が出なかった。
『……な、なぜ……?』
『いや、だって本人がずっと勘違いしてるっぽかったから』
『そ、それは……そうかもしれません、けれど……』
けれど、心の準備というものがある。もっと言えば、一生本人へ伝えずともよかったのではないかとさえ思う。
開拓者の悪気のなさそうな顔を見る限り、おそらく本当に善意からだったのだろう。キャストリスが握れなかったことを悔やんでいるのなら、「あのときは嬉しかった」と本人へ伝われば、少なくとも双方の誤解は解ける。理屈としては正しい。理屈としては。
ところが、開拓者が続けて語ったファイノンの反応は、キャストリスが期待していた方向へは一歩も進んでいなかった。
『一応ちゃんと伝えたんだよ。キャストリスが、あのときすっごく嬉しかったって。手を握りたくなかったわけじゃないって』
『……はい』
『そしたらさ、ファイちゃん、本気で嫌そうな顔して』
『……はい?』
『「僕は嫌だ」って』
何がどうしてそうなったのか。キャストリスは、その時点ですでに理解を諦めかけた。
開拓者によれば、ファイノンは腕を組み、珍しく眉を寄せ、何か納得のいかない話を聞かされたような顔をしていたらしい。
キャストリスが嬉しかったという話そのものを否定したわけではない。ただ、「あのとき手を握れなかったことを今になって悔やむ必要がある」という部分を、断固として拒絶したのだという。
そして彼は、自分の主張を証明しようとした。そこからが長かった。開拓者が最初に再現した彼の言葉を、キャストリスは今でもほとんどそのまま覚えている。
『正直、例えに出すのもどうかと思うんだけどさ――相棒。ひび割れだらけで、黄金の血を垂れ流してる男って聞いたら、普通は何を想像する?』
どうして、その例えから始めたのでしょう。聞いた瞬間、キャストリスはそう思った。開拓者も同じような疑問を抱いたらしく、話の先を読めない声音で答えたらしい。
『うーん、……色々?』
『なかでも?』
『ナヌークとか? ボロボロだし!』
『うん。世間一般なら、
キャストリスは、その再現を聞いたところで額へ手を当てたくなった。待ってください。どうしてご自身とナヌークを同じ例示の中へ並べてしまわれるのでしょう。しかも、質問の誘導があまりにも露骨だった。
ひび割れている。黄金の血を流している。危険そうである。その特徴だけを抜き出せば、確かに当時のカスライナと壊滅の星神の姿に表面的な共通点を見出すことはできるのかもしれない。
だからといって同じものとして扱ってよいはずがない。何より、キャストリスが恐れていたのは「見た目が怖かったから」ではなかった。彼を傷つけることが怖かったのだ。
その最も重要な部分が、ファイノンの論証から綺麗に抜け落ちている。ところが彼の説明は、そこでは終わらなかったらしい。開拓者は途中から少し楽しそうになっていた。人の困惑を面白がっていたのか、それとも、あまりにもファイノンらしい理屈の展開に笑いを堪えられなかったのか、キャストリスには判別できなかった。
『で、次にマダム・ヘルタを持ち出した』
『……マダム・ヘルタさまを?』
『うん。「マダム・ヘルタだって、
その時点でキャストリスは、質問の設定そのものに問題があるように思えてならなかった。
ナヌークの手を握れるか。その問いへ「嫌だ」と答える者が多いことは、彼女にも理解できる。そもそも親愛の証として握手を求めるような相手ではないし、存在そのものが「壊滅」という運命の極点にある。
けれど、それを根拠にして、「だからキャストリスがカスライナの手を握れなかったのも当然だ」へ繋げるのは、いくら何でも飛躍が大きすぎる。
問いを変えればよいのだ。マダム・ヘルタへ、ファイノンの手を握る必要がある場合、握れますか。そう尋ねれば、おそらく答えはまったく違う。
必要性があるならば、マダム・ヘルタは躊躇しないのではないか。スクリューガムも同様だろう。少なくとも、外見上ひび割れているという理由だけで相手へ触れることを拒絶する人々ではないと、キャストリスには思える。
つまり、質問が悪い。最初の前提からかなり悪い。
それでもファイノン本人は、自分の理屈が十分通っていると思っていたらしい。それどころか、話はさらに妙な方向へ進んだ。
『そもそも、
ファイノンがそう訊いたところで、開拓者は少し考えたあと、『
『え、壊滅者がそう? 壊滅者ってなんだい?』
そこでファイノンは一度、本筋を見失ったらしい。知らない言葉を聞けば確認するのは彼らしいが、今はそこではないでしょう、とキャストリスは話を聞きながら心の中で訴えた。しかし開拓者が説明へ入るより早く、ファイノン自身が考え直したという。
『――でもたぶん違うと思うよ。だって、僕は
その言葉だけは、妙に温度が違ったと開拓者は言っていた。つい先ほどまで「普通は何を想像する?」などと気軽に例を並べていた声が、その瞬間だけ低くなったらしい。
キャストリスには、その声音を直接聞いたわけではない。だから、そこにどれほどの憎悪があったのかを断言することはできなかった。それでも、開拓者が再現の途中で少しだけ笑みを薄くしたことから、軽い冗談ではなかったのだろうとは察せられた。そして、その重さを本人が引きずることもなく、話はすぐ元へ戻ったらしい。
『とにかく、“無理”って意見が多くなるはずだ。……だから、キャストリスさんの反応は普通だよ』
そこで終わってくれれば、まだよかった。自分を危険な状態だったと認識し、他者が距離を取ることを当然と考えている。そこまでなら、キャストリスにも彼なりの配慮として受け取れたかもしれない。しかし、ファイノンは証拠を積み上げることにした。
『あのときの僕って、氷で
開拓者によれば、そこで彼は少し言葉に詰まったという。何か適切な表現を探していたらしい。キャストリスは、話を聞いている時点で嫌な予感がした。
そして、その予感は外れなかった。
『……ええっと、ゾンビっぽい……って言って伝わるのか?』
キャストリスは無言になった。
『……フランケンシュタイン……も文明が違うか』
キャストリスはさらに無言になった。
どちらも開拓者から意味を補足してもらわなければ十分には分からなかったが、説明を聞いたところで安心材料は一つも増えなかった。
むしろ、なぜファイノンはそこまで懸命に、自分が「握りたくなくても当然の状態だった」と証明しようとしているのだろう。彼の論証が成功すればするほど、キャストリスの言いたかったことから遠ざかっていく。
『……とにかく壊れかけだったから、無理矢理継ぎ接ぎしてたんだよ。恐怖を感じるのも当たり前のことなんだ』
開拓者が最後まで再現し終えたとき、キャストリスはしばらく返事をできなかった。これほどまでに、これっぽっちも嬉しくない全肯定というものがあるのだろうか。
怖かった。その通りです。
近づけなかった。その通りです。
触れることができなかった。ええ、その通りなのです。
だからあなたは悪くない、という結論までなら、まだ分かる。キャストリスが本当に伝えたかったのは、そのさらに奥だった。
怖かったけれど、触れたかった。近づけなかったけれど、近づきたかった。手を握ることができなかったけれど、差し伸べてもらえたことが嬉しかった。青い外套越しにようやく触れられたとき、どれほど胸がいっぱいになったのか。その話だったはずなのに。
なぜか本人は、自分がどれほど不気味で、危険で、壊れかけていたかを一生懸命説明している。
『……開拓者さま』
『うん』
『その……ファイノンさまは、本当に、そのように……?』
『かなり真面目に』
『……勘弁してください……』
思わず零れた言葉へ、開拓者は肩を震わせた。笑わないでください、と言いたかったが、それを口にすれば余計に笑われそうで、キャストリスは唇を結ぶしかなかった。
それでも、腹立たしいとは思えなかった。困る。とても困る。どうしてそうなるのですか、と問い詰めたくはなる。その理屈の根にあるものまで見失うほど、キャストリスは彼を知らないわけではなかった。ファイノンは、自分が怖がられたことを傷として数えていない。
むしろ、自分があの状態だったにもかかわらず、誰かが怖がったことを後悔していると知れば、その後悔を取り除く方へ動く。そのためなら、自分をどれほど酷い例へ置いても構わないらしい。ナヌークと並べても。壊れかけの死体のようなものへ喩えても。自分の姿を「恐ろしくて当然だった」と切り捨てても。
キャストリスが「怖がった自分」を責めずに済むなら、彼自身の側の尊厳など、論証の材料としていくらでも削ってしまう。
そこが、彼の厄介なところだった。彼はキャストリスの記憶を否定しているわけではない。嬉しかったという感情を嘘だと言っているわけでもない。
ただ、その嬉しさと一緒に残ってしまった後悔だけを、どうにかして取り除こうとしている。しかも、その方法があまりにもファイノンらしく、自分の方を低く見積もることで相手を肯定するものだから、肯定された側にはまるで救われた感じがしない。
むしろ、別の場所が痛くなる。キャストリスは、開拓者から聞かされた話を何度思い返しても、最後には同じところへ辿り着いてしまう。
あの手を握れなかった自分を、彼は責めていない。それどころか、責める余地などないと本気で思っている。そのこと自体は、ありがたい。
けれど。
だからといって、ご自分をナヌークと並べなくてもよいのです。壊れかけだったと何度も説明しなくてもよいのです。わたくしは、あなたが怖かったから悲しいのではありません。怖くても、それでも手を取りたかったほど嬉しかったのだと――ただ、それを知っていただきたいだけなのです。
言葉にしてしまえば簡単に見えるのに、本人を前にすると、おそらくまた別の理屈へ連れていかれてしまうのだろう。
そう考えると、キャストリスはあの話題を自分から持ち出す勇気をすっかり失ってしまった。開拓者へ話しただけで、これなのだから。直接ファイノンへ問いかけたなら、次は何と比較されるのか分からない。ナヌークで済めばまだよい方なのかもしれない、と考えてしまった時点で、何かがおかしい。
それ以来、青い外套の話や、あの回帰で初めて触れられたときの話題が誰かの口から出そうになると、キャストリスはなるべく静かに聞き役へ回るようになった。
嘘をつきたいわけではない。忘れたいわけでもない。むしろ、大切だからこそ、自分の中でそっと抱えていたかった。
外套越しに返された握力も、腕の中で知った生命の熱も、あの人の手へ伸ばしきれなかった自分の指も、どれか一つだけを「正しかった」「間違っていた」と切り分けるのではなく、すべて同じ記憶として残しておきたい。
そして何より、もし再び本人から、『でも、怖かったんだろ? だったら普通だよ』と真っ直ぐ肯定されてしまえば、今度こそ本当に何と答えてよいのか分からなくなる。
怖かったことを認めれば、彼は満足してしまう。嬉しかったことを伝えれば、彼は「でも」と続ける。どちらも本当なのに、一つだけを救おうとするから、もう一つが置いていかれる。
そんな不器用な優しさに出会うたび、キャストリスはどうにも怒れず、ただ困って、少しだけ胸を痛めることしかできなかった。
だから、この件については極力触れない。少なくとも、自分からは。それが今のところ、キャストリスが見つけた最も穏便な対処法だった。
油断してると刺してくる男……(震)