烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 キャストリスは、青い外套越しに触れた記憶と、差し伸べられた手を握り返せなかった理由を胸の内で反芻していた。
 タナトスの呪いゆえに生じる恐れと、それでも確かにあった「嬉しさ」は矛盾せず同居しているはずなのに、言葉にしようとすると必ず別の形へ歪んでしまう。開拓者へ語った回帰の記憶は、やがてファイノン本人へ伝わり、彼は自らを危険な存在として例示しながら、キャストリスの後悔を否定しようとしたという。
 ナヌークや壊滅者と並べられる極端な論理は、彼なりの優しさであると理解しつつも、キャストリスにはそのどれもが本質から遠ざかるように感じられた。しかし、触れたかったという事実だけが、静かに行き場を失っている。


079 横顔に灯を見守る

 だから、この件については極力触れない。少なくとも、自分からは。それが今のところ、キャストリスが見つけた最も穏便な対処法だった。

 そう決めているというのに、開拓者から聞かされた一連のやり取りは、思い出すたびに胸の奥を容赦なく刺してくる。

 あの会話を、どうしてこうも鮮明に覚えてしまっているのだろう。

 

 キャストリスは膝の上へ伏せていた手をそっと持ち上げ、無意識のうちに指先を青い外套の裾へ添えていた。今、彼女の肩を覆うそれは、遠い回帰の中で触れた布とまったく同じものではない。それでも青という色も、風を受けたときに生じる柔らかな重みも、どうしてもあの記憶を連れてくる。

 指先で布を一度摘まみ、ほんのわずかに揺らす。たったそれだけで、外套越しに返された握力まで思い出してしまった。

 怖かったけれど嬉しかったのです、と伝えたかっただけなのに。それがどうして、ナヌークと握手できるか否かという話になってしまうのでしょう。

 ファイノン本人に悪気がないことは分かっている。むしろ逆で、彼はキャストリスが過去の自分を責めないよう、彼なりに念入りな論拠を積み上げたのだろう。その結果、自分を壊れかけの何かへ喩え、こちらの後悔だけを一生懸命に否定する形になっていることまで含めて、あまりにも彼らしい。

 理解できるからこそ、困ってしまう。キャストリスは外套を摘まんだまま俯き、睫毛の下へ滲んできた熱に気づいて、慌てて何度か瞬きをした。

 泣くほどのことではありません、と胸の内で自分へ言い聞かせる。誰かを失ったわけでもない。今のファイノンは、少し離れたところで皆と同じように祭りの相談へ耳を傾けているし、手を伸ばそうと思えば届く場所にいる。

 それなのに、「壊れかけだったから」と彼自身があっけらかんと口にしたらしい事実を思い出すだけで、目の奥が熱くなる。

 泣きたくなるのは、きっと過去の彼が哀れだからではない。そうではない、とキャストリスは思う。壊れていたことを、本人があまりにも事実として扱うからだ。

 傷ついていたことも、孤立していたことも、自分を継ぎ接ぎしなければ立てなかったことも、まるで雨が降っていたとか、道が崩れていたとか、その程度の外的条件を説明するように語ってしまう。その平坦さが、聞いている側にはかえって重い。

 もし今ここで本人の顔を見れば、またあの回帰の彼と重ねてしまいそうだった。だから、見ない。とてもではないが、今は見られない。キャストリスは逃げるように顔を上げ、視線の先をファイノンではなく、その向こうに伸びる若木へ定めた。

 まだ細い枝先で、柔らかな葉が風を受けて揺れている。ちょうどそのとき、集まっていた者たちの間では、アナイクスが先ほど示した案をもとに、祭りの象徴をどのように配置するかという話が進み始めていた。短冊をただ吊るすだけなら、柱や縄を渡す方法もある。

 新しく根づこうとしている木へ人々の願いを託すという発想は、今のオンパロスに不思議なほどよく馴染んでいた。キャストリスは、目元の熱を誤魔化すように一度息を整え、若木を見上げたまま口を開いた。

 

「し、象徴としても妥当だと思います……。根を張り、伸びてゆくものへ願いを託すだなんて……とても理にかなっていますし、アナイクス先生らしいご提案かと……」

 

 わずかに声が上擦った。自分でも分かった。しかし、話題そのものに不自然さはないはずだ。キャストリスはなるべく平静を装いながら、摘まんでいた外套の裾を離し、今度は両手を膝の上へ揃える。幸い、誰かがどうしたのかと尋ねてくることはなかった。

 それが気遣いなのか、単に祭りの話へ意識が向いていたのか、キャストリスには分からない。それでも今はありがたく、彼女は若木の枝先へ視線を固定した。

 

「飾り付けを施す余地もありますし、広さも十分です。……大講義場なら、市民の皆さまも集まりやすいでしょうし」

 

 近くから別の声が続いた。会話の流れが自分から離れていくことに、キャストリスは小さく息を吐く。

 大講義場。人々が集い、言葉を交わし、学び、時には議論を戦わせる場所。そこを願いの祭りに用いるのであれば、確かに悪くない。子どもから老人まで足を運べるし、雨風への備えも考えやすい。若木を中心に据えるなら、飾り付けを広げる余白も十分にある。

 思考を実務へ寄せていけば、胸を締めつけていた記憶の輪郭も少しずつ遠のいてくれる。紙の大きさ。枝の高さ。人の流れ。結びつける紐の長さ。そうした現在の問題を一つずつ考えることは、過去へ引き戻されかけた意識を今へ繋ぎ留めるのに役立った。

 

「植え替えるなら、今からでも出来るよ」

 

 不意に、のほほんとした声が届いた。その声音を聞いた瞬間、キャストリスの肩がごく僅かに跳ねた。聞き違えるはずもない。先ほどまで頭の中で散々、自分をナヌークだの継ぎ接ぎだのと例えていた当人の声だった。

 キャストリスは反射的にそちらを向きかけ、寸前で踏み止まる。だめです。今は、まだ。目が合えば、何でもない顔をする自信がない。

 それどころか、開拓者から聞いたあの会話を思い出してまた涙目になりかねず、そうなれば彼は間違いなく「どうしたんだい?」と尋ねてくる。そこで理由を説明すれば、せっかく避けると決めた話題へ自ら飛び込むことになる。キャストリスは若木を見上げたまま、ひとまずファイノンの姿を視界の端だけへ押しやった。

 その声をきっかけに、人々の立ち位置が少し動いた。若木を囲んでいた輪が緩み、ヒアンシーが立ち上がる。抱えていたイカルンを地面へ下ろし、スカートの裾についた小さな土を払うと、彼女はごく自然な足取りでファイノンの方へ向かった。

 キャストリスは、その桃色の髪が離れていくのを見届けてから、ようやく深く息を吐いた。視界の重心が移っていく。

 

 祭りの設計に必要な相談相手として、皆の意識がファイノンへ向かい始める。その流れの中で、ヒアンシーもまた彼のすぐ隣へ立った。

 若木をもう少し育てたい。その役目をファイノンへお願いできるのなら、どの程度の負担になるのかを先に確認しておきたい。そう考え、話しやすい位置へ移った。しかし、お願いを口にする前に、彼女は一度ファイノンの様子を見ておきたくなった。

 医療者としての習性というほど堅いものでもない。最近の彼については、誰かに頼まれて動き回っている姿を見るたび、つい呼吸の深さや歩調、顔色へ目が行ってしまう。それほどまでに以前の状態が危うかったからでもあり、本人が多少の不調を「大丈夫」の一言で済ませがちだからでもあった。

 今日のファイノンは、少なくとも遠目にはよく見えた。背筋は自然に伸びている。立っている姿勢にも、身体のどこかを庇うような偏りはない。呼吸が妙に浅くなっている様子もなく、会話の途中で胸元へ手を添えることもなかった。

 ヒアンシーは、少し安心する。お願いしてもよさそうです。そう判断し、彼女は声を掛けようとして、顔を上げた。

 そして、止まった。正面から見上げると、ヒアンシーの視線はちょうど彼の胸元のあたりへ届く。そこからさらに顎を上げ、ファイノンの顔を確かめようとする。そのときだった。ファイノンの視線がこちらへ落ちた。

 

「……? どうしたんだい?」

 

 少しだけ首を傾げる。声はいつも通りだった。低すぎず、高すぎず、相手を急かさない柔らかな調子。ヒアンシーが何か言おうとして止まったことへ気づき、理由を待っているらしい。

 

「あ、いえっ。お元気そうでよかったなあ、と思いまして!」

 

 ヒアンシーは咄嗟にそう答えた。嘘ではない。むしろ、今まさに考えていたことだった。ファイノンは一瞬目を丸くしたあと、肩を僅かに揺らして笑う。

 

「はは、”天空”の優秀なお医者さんのおかげだよ。いつも気にかけてくれて、ありがとう」

 

 その笑顔に、目立った疲労の翳りはなかった。目の下へ隈が浮いているわけでもない。頬が痩せ込んでいる様子もなく、唇の色も悪くはない。声に息切れは混じらず、返事をするまでの間も普段と大きく違わなかった。

 そうして一つずつ見れば、ヒアンシーが今この場で心配すべき兆候はほとんど見当たらない。だからこそ。ほんの一瞬だけ。ファイノンの瞳の奥が、光を返さなかったように見えた。

 ヒアンシーは瞬きをする。見間違いだっただろうか。彼の目そのものに濁りがあったわけではない。焦点が定まらなくなったようにも見えなかったし、返事もすぐに返ってきた。ただ、こちらへ視線を落としたその一瞬だけ、晴れた空の下にいるはずなのに、瞳の奥へ光が届いていないような――いつもなら薄く映り込む明るさが消えたような気がした。

 もう一度確かめようとして、ヒアンシーはほんの少し眉を寄せた。けれど正面からでは、どうにも見づらい。身長差のため、いつもの距離で立てば彼女の視線は胸元へ向き、目元を見るにはかなり顔を上げなければならない。そのうえ今は空が明るく、ファイノンの背後から差す光が輪郭を白く縁取っている。角度によっては目元が影へ沈むこともあるだろう。

 結局、ヒアンシーは何気ない風を装って半歩だけ横へ移動した。地面を踏む靴底の感触を確かめながら、今度は斜め下からそっと見上げる。

 ファイノンも、彼女が位置を変えたことには気づいたらしい。何かあるのかと再び訊ねるほどではないものの、視線が自然に追ってきた。

 目が合う。今度は、光が見えた。淡い空の色が瞳の表面へ映り、こちらを見下ろす焦点にも乱れはない。ヒアンシーは表情を変えず、胸の内で今見たものを整理した。

 意識消失ではない。応答遅延もない。立位保持に問題なし。呼吸状態にも、見える範囲で異常はない。眩暈があるなら、視線や足運びに何かしら出てもおかしくないが、それも見当たらない。

 では、本当に逆光だったのかもしれない。光源の位置。顔に落ちる影。空の色。見る角度。それらがたまたま重なって、瞳だけ暗く見えたのだろうか。

 ヒアンシーはすぐに「異常」と決めつけなかった。医術を学んでいればいるほど、一つの兆候だけで結論を急いではならないことを知っている。まして今回拾ったものは、自分自身ですら本当に見えたのか確信できないほど短い変化だった。ただし、見なかったことにするのも違う。彼の場合は、とりわけ。

 ファイノンは自分の身体について、耐えられる範囲と耐えなければならない範囲を、ときどき同じものとして扱ってしまう。痛みがあっても動けるなら動く。疲れていても手伝えるなら手伝う。休んだ方がよい状態でも、「まだ出来る」が先に立つ。

 そのことを責めたいわけではない。彼が長い時間をそうして生き延びてきたのだと、ヒアンシーも理解している。ただ、以前なら必要だった習慣が、救われた今の身体には必ずしも良いとは限らない。

 そして彼自身が気づかない変化なら、周囲が少しだけ覚えておけばいい。今すぐ止めるほどではありません。でも、一応覚えておきましょう。ヒアンシーはそう判断し、医療者としての警戒を完全には解かないまま、それを表へ出さない程度まで緩めた。

 ファイノンはまだこちらを見ている。ヒアンシーが何も言わずに自分の顔を眺めていたためだろう。先ほどより少しだけ不思議そうな表情になり、眉が僅かに持ち上がっている。

 

「本当にどうしたんだい? 僕の顔、何かついてる?」

「い、いえいえっ、何もついていませんよ!」

 

 思った以上に勢いよく否定してしまい、ヒアンシーは慌てて両手を胸の前で振った。ファイノンはその反応に一度瞬きをしてから、可笑しそうに口元を緩める。

 

「ならよかった。土でも跳ねたのかと思ったよ」

「ふふっ、もしついていたらちゃんと教えます。お医者さんですから!」

「それ、医者じゃなくても教えてくれないか?」

「もちろん教えますけどっ」

 

 思わず返すと、ファイノンはまた肩を揺らした。その笑い方もいつも通りだった。少なくとも今は。

 ヒアンシーは胸の内へ小さく残った引っかかりを、無理に取り除こうとはしなかった。何でもなければ、それでいい。空の色かもしれない。逆光だったかもしれない。ヒアンシー自身が顔を上げたタイミングで、偶然まばたきの途中を見ただけかもしれない。

 そうした可能性を一つずつ残しておく。同時に、次に彼の様子を見るとき、目元も少し注意してみる。それで十分だった。

 祭りの計画を相談する場で、本人に自覚症状もないまま診察を始める必要はない。何より、ヒアンシーが今お願いしようとしていることの方で負担を増やさないようにすればよい。彼女は後ろへ回していた両手を軽く組んだ。

 若木を育ててもらう。けれど、今日からずっと力を注ぎ続けてもらう必要はない。開催までにはまだ時間がある。若木そのものも、今すぐ完成形まで育てなければならないわけではない。むしろ根が土へ馴染む時間を取りながら、必要な頃合いで力を借りた方が自然だろう。

 医療者としても、その方が安心できる。お願いするなら、一番負担の少ない形で。ヒアンシーは一度若木へ目を向けた。

 支柱に支えられた細い幹が、風に合わせてほんの少し揺れている。今すぐ大きくならなくてもいい。今日できることを今日の分だけ重ね、必要な日に必要な枝を伸ばせばいいのだ。

 そう思うと、先ほど見えたかもしれない一瞬の陰りについても、少しだけ心の置き場を見つけられた。

 無理をさせなければいい。頼ることと、背負わせることを同じにしなければいい。ファイノンが出来ると言うから全部お願いするのではなく、こちらで時期と量を考えればいい。

 組んだ手を背中側へ戻し、身体をわずかに前へ傾けた。声が必要以上に心配そうにならないように、いつもの調子を意識する。診察ではない。あくまで、祭りの準備についてのお願いだ。

 

「力を注ぎ続けるのも大変でしょうし……イベント前日から、お願いしてもよろしいですか?」

 

 それでも言葉の端へ滲む気遣いまでは隠さず、ヒアンシーは雪雲がほどけるときのような柔らかな声で、彼へ尋ねた。

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