そこは、失われたものを閉じ込める墓標ではない。終わった世界を悼み続けるための棺でもない。オンパロスに生きた者たちの記憶が、次なる生命の夜明けを待つために身を寄せる場所――“記憶の揺り籠”である。
水差しに触れて涙する者。布の織り柄に故郷を思い出す者。古い玩具を前に言葉を失う者。人々はそこで、失くしたものが消えていないことを知った。懐かしさも、悲しみも、希望も、すべて同じ星明かりの下に置かれている。
慰めであり、約束であり、抵抗。だがキュレネなら、きっとそれだけでは終わらせない。
――だって、あたしたちはみんな頑張ったんだもの。
その声に導かれるように、ファイノンは羽ペンを走らせる。かつて終末を越えた世界に、泣きながらでも笑えるだけの、ご褒美があってもいいのだと。
008 天涯の下にて仰ぐ
銀河の畔で新生を待つオンパロス。その空に広がる星々の海原を、ファイノンは静かに見上げていた。かつて人々が思い描いていた天蓋とは、まるで異なるものだと感じている。
いや、正確には――彼もまた、オンパロスの空を「知っていた」とは言えないのかもしれない。ケビン・カスラナが知るのは、地球の空で、彼がオンパロスに取り込まれて見た空はすでに壊滅に侵された暗雲だった。次に目を覚ました時に見たものは、エリュシオンの空である。オンパロスの内側であり外側でもある故郷も例外はなく、その空に浮かぶ輝きは
そして、その頃の人々に語り継がれた空とは、神話の頁に描かれたエーグルの
伝承には太陽があり、月があり、星々があった。けれど、それらはいつだって物語の中にしか存在しなかった。手を伸ばしても届かず、目を凝らしても輪郭を結ばない――そんなものとして、彼もまた受け取っていたはずだった。
見たことないはずなのに、どこかで知っている。そんな遠さをぼんやりと抱いていたからこそ、夜空とは、オンパロスの民にとって祈りに似ていたのだと、ファイノンは思う。
そして今、その祈りが頭上にある。
永遠の1ページの
けれど、そこにあったのは、息を潜めていた者たちを拒む空ではなかった。どこまでも続く漆黒の闇ではない。無数の星々が鋭く瞬く、冷たく無機質な空でもなかった。
淡い紫色の大渦が、しん、と広がっている。銀河そのものを溶かし、柔らかな器へと流し込んだかのような色だった。濃い紫は夜の深みに沈み、薄い藤色は星明かりを受けて滲み、ところどころに青や白の光が、さらさらとほどける糸のように散っている。
光は鋭く刺さるのではなく、薄い雲母を通したように柔らかく濁り、巡り、重なり、また離れていく。その内側で、無数の星々が眠るように輝いていた。
オンパロスとは違う空を観察するイベント――
しかし、アグライアが主催するその催しは、華やかでありながらも、天文観察のための静けさを損なわないよう整えられていた。風に揺れる金糸の飾りが淡くきらめき、足元を照らす灯りは必要最低限に抑えられている。
その光景を、ファイノンは少し離れた場所から黄金裔の仲間と一緒に眺めていた。祝祭の名残を帯びた空気の中で、人々は思い思いの場所に身を横たえ、語らい、ときに言葉を止めて、ただ頭上に広がる星空を見上げている。誰もが同じ方向を見ているはずなのに、その表情はひとつとして同じものがなかった。
あの一件以降、
ある日はアグライアが「せっかくの観察会なのだから」と半ば強引に腕を引き、用意された寝台や飾り付けについて説明しながら会場を案内してくれた。
彼女の言葉は、布地の質感や光の落ち方にまで及び、現役の
彼女の後ろ姿を追いながら、ふと、ここに至るまでの道のりを思い出す。カイザー亡き後、オンパロスの指導者として立ち続けてきたのは、他でもない彼女だった。
深窓の令嬢であったはずのアグライアが、見えない責任に押し潰されそうになりながらも火を追う旅へ踏み出し、半神となる代価に人間性を削りながらエスカトンを乗り越えたことを、ファイノンは知っている。
「ほら、ぼんやりしていないで。ふふふっ、せっかくの夜なのですから、ちゃんと見てください」
だからこそ、今の彼女の姿が、どこか眩しく見えた。
閉ざされていた眼が再び光を映し、色彩を受け取り、穏やかに微笑んでいる。じゃじゃ馬と言われる、おてんば娘の頃も知ってるけれど、その頃と似ているような気がした。声色は跳ねたり跳んだりひっくり返ったり、それでも上品なのだからアグライアの嫋やかな品格が伺えるようだ。一朝一夕で身に着くようなものではないと身に染みているので、すごいなぁ、と思う。
その変化を、彼は言葉にすることなく見つめていた。オクヘイマの守護者として立ち続けたアグライアは、立場ゆえに出来なかったことを取り戻すように、この観察会を楽しんでいるのだろう。そう思うと、彼女に腕を引かれるまま歩くことも、悪くないと感じられた。
またある日は、ヒアンシーが温かな飲み物を手に訪れ、「今日は流星が見えるそうですよ」と微笑まれながら、大工が不足していると声に駆けつけてあくせく働くファイノンの腕を引かれた。
気づけば、彼はそのまま腰を下ろしていた。急なことで困惑していたこともあり、断る理由を探すよりも先に、身体が従っていたのだ。
途中からは、神悟の樹庭で学友だったキャストリスも加わり、星空を絵に描くという試みに挑むことになった。どうしてそんな流れになったのか、ファイノンにはよく分からない。ただ、ヒアンシーに手渡された湯気の立つ杯を受け取りながら、彼は静かに息をついた。
「温かいですね~」
「……うん」
「これを飲んだらわたしたちも描き始めちゃいましょうか」
「……うん」
「ファイノン様?」
「……うん」
「あら。ふふ、もうすこしだけ星を見上げましょうか。あっ、ピンク色の星がありますよ、ファイノン様!」
「……うん、うん?」
こうして、誰かと並んで空を見上げている。
戦いの合間に顔を合わせることの方が多かった仲間たちと、ただ空を見上げたり、他愛のない話をしたりする。それだけのことが、どこか現実味を欠いているようにも思えたのだ。
しかし、第三者から見れば、それは穏やかな光景のようだった。アグライアは受付の向こうで微笑ましそうに様子を眺め、ヒアンシーは隣で静かに星を指し示し、キャストリスは真剣な面持ちで筆を走らせている。
けれどファイノンにとっては、その静けさこそが、まだ少しだけ遠かった。もっとも、絵を描いている最中に近くまで来ていたらしいアナイクスから「何故その審美眼を、あなたは自分の服装に向けられないのですか」と本気で驚かれた時には、さすがに困ったように笑うしかなかったが。
(そこまで言われるほどだろうか……。ファッションは確かに考えなくちゃいけないことがあって大変だけど、絵を描くだけながら……書き写すだけだし……記憶力には自信があるし……)
内心で首を傾げながらも、ファイノンは反論を飲み込む。言い返そうと思えばいくらでも言葉は浮かんだが、それを口にしたところで、きっとアナイクスはさらに真剣な顔で問い詰めてくるだろうと分かっていたからだ。実際、彼自身も
ファイノンとしては、そこまで言うなら、と色彩検定を受けるためにアグライアのもとへ通い、目頭を押さえながら合格証を受け取った経験まである。彼が最終的に行き着いた極値は、好きなものと好きなものを組み合わせれば良いだろう、という発想だった。とはいえ、「感受性豊かで満点ですね」と合格だったのだから、そこまで酷くないはずだと密かに思っている。
では、服装の組み合わせについてはといえば、アグライアやハートヌスから何度も注意されたものの、色彩に関しては思い入れのあるファイノンは押し曲げることは出来なかった。
紫色はキュレネの外套やエリュシオンの夜明けの色だ。黄金は、黄金裔の地の色であり、アグライアやモーディスの色であり、なによりエリュシオンの小麦の色だった。
(切り離せるものじゃない)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに固まる。理屈ではなく、もっと深いところで拒んでいる感覚だった。色を切って離すということは、関係なくとも大切な人たちを斬りつけるような気がして、どうしても出来なかった。
だから、ファッションの一件はアグライアに任せきることにした。自分で選べば、きっとまた同じ色を重ねてしまうと分かっていたからだ。
そのような経緯をたどり、「救世主」としてファイノンが纏うことになったのは、聖騎士然やら王子然やらと評判の清廉潔白な装いだった。
それは、彼女が手ずから仕立ててくれたものでもある。袖を通すたび、わずかに胸の奥がざわめく。かつてただの村人だった頃、想像の世界でしか眺めることができなかった騎士の姿。その輪郭が、今は自分の身体に重なっているのだと気づくたびに、どこか現実味のない感覚が残った。
それでも、初めてそれを受け取ったとき、立派な人になれたようで、高鳴る胸を抑えきれずに足を向けたのは、やはり
期待するように、気後れしたように、やってきた少年を見た二人はすでに笑っていた。「作り甲斐がある」と、どこか楽しげに。あのときの空気は、今でもはっきりと思い出せる。
それからというもの、予備を仕立ててくれたり、私服まで用意してくれたりと、彼の周囲にはいつの間にか衣装が増えていった。ときおり向けられる、どこか子供を見るような眼差しも――あの頃の自分を知っているからこそなのだろう、とファイノンは静かに受け止めている。
また、別の日には、トリビーたちが当然のように両隣を占領し、星座の形を好き勝手に見立てては、次々とファイノンへ同意を求めてきた。
彼はそのたびに、少しだけ考える間を置いてから、ひとつひとつに真面目に答える。その答えの中でも、エリュシオンでも見かける仔山羊のようだと例えた星の並びは、思いのほか気に入られたらしく、トリビーたちは何度も同じ形を指さしては笑っていた。
顔ぶれは日ごとに入れ替わり立ち替わる。
それでも、気づけばいつも誰かが隣にいた。ひとりで来たつもりでも、いつの間にか肩が触れそうな距離に誰かが座っている。空を見上げる視線の端に、必ず黄金裔の気配がある。
ひとりではいさせない、というより。ひとりにしておかない、と決めているようだった。そのことに、自棄を起こしたり暴走したりはしないけれど、と思っても、ファイノンは何も言わない。ただ、隣にある温もりを拒むこともなく、同じように空を見上げるだけだった。
(……似ている)
ファイノンは、そう思った。
夏空を映したような澄んだ
麦の穂を揺らす、さざ波の音が聞こえてくるようだった。ファイノンは、その色を知っている。夜へ沈む直前の、あの一瞬。昼でもなく、夜でもない、世界が息を止めるような時間の色。エリュシオンの空が、紫へと傾いていくあの瞬間に、よく似ていた。
人々が初めての星空に息を呑む中で、ファイノンだけが、わずかに異なる遠さを見ていた。星の向こうに、さらに星を見るように。空の奥に、別の空を重ねるように。
それは、誰にも共有されない距離だった。けれど、孤独とは少し違うと、彼自身もどこかで理解している。胸の奥に静かに沈んでいるのは、失われたものへの痛みではなく、確かにそこにあったという確信に近い何かだった。
エリュシオン。
麦の穂が風に揺れ、夕暮れの光がなだらかな丘を黄金に染める場所。
終わりと始まりの境界線。
(僕らの故郷だ……)
そう思ったのは、ほとんど反射に近かった。視線は星海へ向けられたままなのに、意識だけが遠くへ引き戻される。誰かに語るためではない、ただ自分の内側で確かめるような感覚だった。
夜が訪れる直前、エリュシオンの空は一瞬だけ、昼でも夜でもない色へと変わる。青は紫へと傾き、白い雲は火の名残を抱き、遠い地平には、まだ消えきらない太陽の温もりが残っている――そうだった、とファイノンは思い出す。
風が吹けば、ざあ、と麦畑が鳴った。その音を、幼い頃の彼は波のようだと思っていた。エリュシオンには本物の海もあった。丘を下り、小さな桟橋まで駆けていけば、潮の匂いがして、波が木杭を叩く音も聞こえる。けれど、夕暮れの麦畑が一斉に揺れるとき、それもまた、故郷にあるもうひとつの海のように感じられたのだ。
両親から任された仕事を終えて、あるいは途中で、穏やかな金の波に包まれながら昼寝をするのが好きだった、と彼は静かに思い返す。その後、少女が起こしに来てくれる瞬間も。「またここで居眠りしてたのね?」――そう言う春風のように柔らかなその声も、麦のざわめきのことも。
ここには、あの麦畑はない。土の匂いも、夕餉の煙も、遠くから呼ぶ声もない。それでも紫の空だけが、あの日の夕暮れによく似ていた。夜へ沈む寸前、世界が一度だけ息を止めるような色。明日へ移る前に、今日という日をそっと閉じるための光。
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
ちり、と軽いものではない。封じられた炉心の底で、燃え尽きたはずの烈日が一瞬だけ身じろぎするような音だった。魂も肉体も呑み込もうとした火種は、今も彼の内側にある。ただ、氷に覆われ、使命に縫い留められ、長い沈黙を強いられているだけだと、彼自身がよく知っている。
その奥底で、ぎしり、と熱が軋む。そういうとき彼は、拳を握りしめてなんとかやり過ごしてきた。凍った湖面の下で春を待つ水などという、優しいものではない。身の内にあるそれは、春が来れば氷を割り、岸を削り、眠っていた世界ごと押し流してしまいかねない奔流だ。
けれど今だけは、その激しささえ紫の星明かりに包まれ、自分の深いところで静かに沈み込ませることが出来ている。仲間を傷つける前にどうか破棄してくれと、ただ思う。
ファイノンは少しだけ目を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは、故郷の空だけではなかった。終末に焼かれた劫火の空。暗黒の潮に呑まれた絶望の空。仲間たちの名を呼ぶ暇さえなく、ただ走り抜けるしかなかった永劫の空。
数え切れないほど繰り返した朝と、数え切れないほど失った夜。それらを抱える天蓋は、いつも何かを隠していた。何かを奪い、何かを終わらせるために、彼の頭上へ重く沈んでくるものだった。だからだろうか、とファイノンは思う。彼にとって空とは、見上げるものというより、背負わされるものに近かったのかもしれない。
それでも今、頭上に広がるこの空は、彼に何も命じてこない。戦えとも、走れとも、救えとも言わない。ただ、そこに在るだけだ――そう感じているのは、きっと自分だけではないのだろう、とぼんやりと思った。
それは奇妙なことだった。彼にとって、美しいものはいつも守るべき対象であり、失われる前に抱え込むべきものだった。花も、街も、笑い声も、誰かの眠りも、誰かの明日も。見つけた瞬間に、守らなければならないものへ変わっていく。そうして彼は、両腕に抱えられるだけ抱え、背中に負えるだけ負い、足元が砕けても前へ進んできた――それが当然だと、疑いもしなかった。
――「いつか、相棒が背負えないくらいビッグリするぐらいビッグな銀河を見せてあげる!」
開拓者が言ったように、この星空だけは、彼の腕に収まらない。収まらないほど広く、支えきれないほど遠い。けれど、だからこそ美しいのだろう。
誰か一人が背負わなくてもよい光。誰か一人が燃え尽きなくても、そこに在り続けるもの。オンパロスの民が見上げ、黄金裔たちが見上げ、子供も、大人も、老いた者も、同じように息を呑むことのできる空。
ファイノンの指先が、ほんのわずかに動く。握るものを探したわけではない。剣も、火種も、使命も、そこにはなかった。ただ、落ちてきた星明かりが握り込んだままの手のひらに触れたような気がして、彼は無意識にそれを確かめる。
もちろん光は掴めない。指の間をすり抜け、さら、と淡くほどけて消えていく。けれど、その儚さは、砕けた氷塊や爆ぜた火花のようには、不思議と痛くなかった。それどころか、触れられないままでも、そこに在ると知っているだけで、十分なのだと――そんな感覚が、静かに彼の内側へ落ちていった。