人が集う場を、ひとつの木で囲う――その発想は、若木を前にしたファイノンの言葉から始まった。
ヒアンシーはその意図を受け取り、枝の広がりと人々の動線を重ねながら、祭りの設計を静かに組み立てていく。やがてファイノンは、若木へ直接触れ、根の張りと力の通り方を確かめるため、ごく小さな成長の試行を行った。
大地の匂いが立ち、土がわずかに呼吸するように動き、木は劇的ではない変化を見せながら確かに育つ。その様子を見守るヒアンシーは、奇跡よりも「生きて伸びる過程」に心を寄せ、やがてその姿を「素敵です」と言葉にした。支柱と紐の調整を終えた若木は、まだ支えを必要としながらも、自ら立とうとする気配を確かに宿していた。
役目が決まったことで、ファイノンの表情にもどこか区切りがついたらしい。彼は最後にもう一度、支柱と幹を繋ぐ紐の位置へ目を落とし、結び目が樹皮へ食い込んでいないことを指先で確かめた。
それから膝を伸ばして立ち上がると、衣服へついた細かな土を手の甲で軽く払い、ヒアンシーたちの方へ向き直る。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ」
「あっ、はい! ありがとうございました、ファイノン様」
「こちらこそ。面白そうな話に混ぜてくれてありがとう。準備、頑張って」
軽く片手を上げる仕草は、救世主だとか黄金裔だとか、そうした大仰な名とはまるで結びつかない。近所へ使いに出かける青年と変わらない気軽さで、ファイノンは踵を返しかけた。
けれど、ヒアンシーはそこで一つ気になっていたことを思い出した。
「そういえば、ファイノン様。これからはどちらへ?」
「ん? 壺職人のお爺さんのところ」
あまりにも普通の答えだったため、ヒアンシーは一度頷いた。
そして、一拍遅れて首を傾げる。
「……壺職人さん?」
「ああ」
「壺を作りに行かれるんですか?」
「いや、僕は見てるだけだよ」
「見てるだけ……?」
ますます分からない。ファイノンは自分でも少し説明しづらいらしく、頬を指先で掻いてから苦笑した。
「弟子たちが最近よくサボるらしくてね。お爺さん本人が怒っても慣れてるから効かないし、目を離すとすぐどこかへ行くらしいんだ。それで、“今日はお前さんがそこに座って見ていてくれ”って頼まれたんだよ」
「ファイノン様が、ですか?」
「僕が」
「……ずっと?」
「たぶん?」
ヒアンシーは、そこで思わず想像してしまった。
そして、その背後かすぐ近くに、何をするでもなく腰を下ろしているファイノン。
オンパロスを救った英雄。長い永劫回帰を越えた救世主。タイタンの神権と火種をその身へ宿し、今や黄金裔の中でも並ぶ者を探す方が難しいほどの力を持つ青年――そんな人物が、腕を組むでもなく、怒鳴るでもなく、おそらくいつもの穏やかな顔でただ作業を見ている。
ぱっと見では近所のさわやかな好青年のように見える人だけれど、果たして、職人たちは集中できるのだろうか。少なくともヒアンシーなら、背中へ妙な汗をかきそうだった。
「……それ、皆さん緊張しませんか?」
「やっぱり、そう思うよね?」
ファイノンの返事が妙に早かった。
どうやら本人も同じ疑問を抱いていたらしい。
「僕も言ったんだ。“僕が後ろで見てたら、逆にやりづらくないか?”って。でも、お爺さんは大丈夫だって言うし」
「大丈夫なのでしょうか……」
「気になったから、弟子たち本人にも聞いてみたよ」
「直接聞かれたんですか?」
「だって、本人たちが嫌なら意味ないだろ?」
それは確かにそうなのだけれど、とヒアンシーは思う。
ただ、当人たちを前にして、「救世主に監視されるのは嫌です」と正直に答えられる人がどれほどいるのだろう。
「なんてお返事だったんですか?」
問いかけると、ファイノンは少しだけ眉を寄せた。困っているというより、いまだに答えの意味を測りかねているような顔だった。
「“むしろ気が引き締まるんだ”って」
「……ああ」
ヒアンシーは納得した。
「なるほどです」
「納得できるのかい?」
「はい。なんとなく分かります」
「僕にはいまいち分からないんだけど……」
ファイノンが本気で不思議そうにしているものだから、ヒアンシーは笑いを堪えきれなかった。
「だって、ファイノン様が見ていらっしゃるんですよ?」
「うん?」
「サボれないじゃないですか」
「……僕、何も言わないけど」
「言わなくてもですっ」
「そんなものかなあ」
首を傾げるファイノンの様子に、近くで話を聞いていたサフェルが小さく吹き出した。
「救世の坊や、アンタは自覚なさすぎなんだよぉ。仕事サボろうとして振り向いた先にアンタがいたら、そりゃ手ぇ戻すでしょ」
「どうして?」
「どうしてって……」
今度はサフェルまで言葉に詰まった。
モーディスが少し離れた場所から、低く呆れた声を投げる。
「貴様が何もせず立っているだけでも、十分な圧力になるという話だ」
「モーディスまで?」
「自覚しろ」
「別に睨んだりしないよ?」
「そういう問題ではない」
(……フレイムスティーラーとしての圧が出てるのかな?)
即答され、ファイノンはとうとう納得できないまま黙った。その横顔を眺めながら、ヒアンシーはまた笑ってしまう。
少し前まで、彼の体調や力の使い方について神経を尖らせていた。それ自体は必要なことだったし、これからも忘れるつもりはない。それでも、こうして「壺職人のお爺さんの弟子を見ていてほしい」という頼み事を真面目に引き受け、それがなぜ効果的なのか理解できずに首を傾げている姿を見ていると、胸の中へ残っていた小さな緊張が少しずつほどけていった。
世界を救った人が、その後ずっと世界規模のことだけをしなければならない理由などない。今日の誰かが困っているなら、そちらへ行く。重い荷物を運ぶ日もあれば、道を直す日もある。子どもの頼み事を聞く日も、壺職人の弟子たちがサボらないよう、ただ近くへ座っている日もある。
そんな使われ方をする“救世主”という言葉なら、ヒアンシーは少し好きかもしれないと思った。
神殿の奥へ飾られて遠くから祈られるのではなく、市場を歩き、職人に名前を呼ばれ、頼まれれば「いいよ」と答える。そうして日常の中へ埋もれている方が、少なくとも今のファイノンには似合って見えた。
「では、お弟子さんたちが今日はたくさん壺を作れるよう、見守ってあげてくださいね」
「そうするよ。……でも、本当に見てるだけでいいのかな」
「もしサボりそうになったら、にこっと笑ってあげればいいと思います!」
「それ、余計に怖くない?」
「えっ(ファイノン様の笑顔なら、すごく力を貰える気がするのに)」
「え?(母さんもキュレネも笑顔で叱ってくるからなぁ……)」
二人で顔を見合わせる。サフェルがまた笑った。
「行くのではなかったのか」
モーディスは会話を切り上げるように片手を振る。ファイノンは最後まで腑に落ちない顔をしながらも、ヒアンシーたちへもう一度手を上げた。
「とりあえず行ってくるよ。若木のこと、何かあったら呼んでくれ」
「はい。行ってらっしゃいませ、ファイノン様!」
「行ってきます」
そうして今度こそ、ファイノンは立ち去っていった。
白と青の後ろ姿が、人の行き交う道へ混じっていく。誰かが彼へ気づいて声を掛ければ、足を止める。少し言葉を交わし、笑って、また歩き始める。
遠ざかっていくたびに特別な人物らしさが増すのではなく、むしろ街の景色へ溶け込んでいくのが、ヒアンシーにはどこか不思議だった。
やがて人影の向こうへ姿が隠れる。ヒアンシーはそれを見届けてから、ゆっくり若木の方へ振り返った。ファイノンが去ったからといって、話し合いまで終わったわけではない。むしろ、若木をどう育てるかという大きな役目が決まったことで、今度はそれ以外の細部へ手をつけられる。
少し離れたところでは、キャストリスが企画の記録へ目を通していた。先ほどまで僅かに潤んでいた目元も、今ではいつもの落ち着きを取り戻しているように見える。紙面へ視線を落とし、一つ読み終えるごとに静かに頷き、気になる箇所があれば指先を止めた。
「キャスたん、どうですか?」
ヒアンシーが近寄って声を掛けると、キャストリスは顔を上げた。
「はい……。今のところ、大きな問題はないかと思います。開催場所についても、皆さまの出入りを考えれば、大講義場が適しているのではないでしょうか……」
「ですよねっ。枝を広げる場所もありますし!」
「ええ。ただ……短冊をあまり低い位置へ集中させてしまいますと、人が集まりすぎるかもしれません。お子さまが利用される場所と、大人の方々が結ばれる場所を……少し分けてもよいのかもしれませんね」
「あっ、それいいですね!」
ヒアンシーはすぐに手元の紙へ書き加える。子どもが自分で届く高さ。大人が利用する枝。翼獣へ頼む高所。さきほど頭の中だけで描いていた区分が、文字になった途端、急に現実味を帯びた。
その向こうでは、アグライアがすでに別の作業へ移っている。彼女は若木の周囲をゆっくり歩きながら、増えた枝の一本一本へ視線を走らせ、その長さや分岐の位置を確かめていた。隣にはセイレンスがいて、何やら紙の幅について話している。
「この程度の枝なら、紙を大きくしすぎるべきではないでしょう。願いを記す余白は必要ですが、重さで枝先を下げてしまっては本末転倒ですもの」
「それなら、縦長にするのはどうだ。文字数も確保できるし、風に揺れた時も綺麗だろう」
「紐も長すぎれば絡んでしまいますね」
「ふむ……だが、短すぎても結びにくいな。子どもが扱う分だけ、少し太い紐にしてみるのはどうだ?」
ヒアンシーは思わず耳を傾けた。紙一枚、紐一本。ほんの少し前まで、祭りというものは「願いを書いて木へ結ぶ」という一文で説明できるほど簡単に思えていたのに、実際に皆で開催しようとすれば、次から次へと決めることが出てくる。
楽しい。誰かが一つ提案すると、別の誰かが「それなら」と先を考える。問題が見つかれば、困ったことが増えたというより、祭りの輪郭が一つ細かくなったように感じる。
「紙は何色にしましょう?」
「いくつか用意してもいいんじゃないか?」
「願いの種類で色分けする方法もありますけれど……そこまで決めてしまうと、書く方が迷われるかもしれませんね」
「好きな色を選べる方が楽しそうです!」
ヒアンシーが加わると、セイレンスが笑った。
「それがよさそうだ。願いまで分類されてしまったら、少し窮屈だろう」
「はいっ。叶えたいことって、きっと一種類じゃありませんから」
健康でいたい。誰かとまた会いたい。仕事が上手になりたい。遠くへ行ってみたい。美味しいものを食べたい。誰かと一緒に暮らしたい。何かを作りたい。ただ明日も笑っていたい。どれが大きく、どれが小さい願いということもないのだろう。願う本人にとって大切なら、それでいい。
ヒアンシーはそう思いながら、若木へ目を向けた。ファイノンが少し力を貸したことで、新しい葉が数枚増えている。それでもまだ、木というには幼い。
支柱が幹の横へ寄り添い、緩められた紐が風のたびに僅かに動く。先ほどより力強くなったとはいえ、大講義場を囲う未来とはまだ遠い。その遠さが嫌ではなかった。
完成していないから、これから皆で手を入れられる。昨日より少し大きくなり、明日はまた別の変化を見せる。祭りの準備も同じだ。今日すべてを決めなくてもいい。開催までの日々を使って、少しずつ整えてゆけばいい。その考えに辿り着いたところで、ヒアンシーは手元の予定表を見た。
「そういえば……開催日はどうしましょう?」
その一言で、周囲の視線が集まった。
会場。若木。短冊。役割分担。いくつもの話をしてきたが、肝心の「いつ開催するか」がまだ正式には決まっていなかった。開拓者には一ヶ月後と言って、そのための準備を進めてはいるけれど。
アグライアが手元の紙から顔を上げる。
「準備期間を考えれば、あまり早すぎるのは避けるべきでしょうね」
「若木の植え替えもありますし……根づくまでの時間も必要かと」
キャストリスが続ける。ヒアンシーも頷いた。
ファイノンは何度かに分けて育てると言っていた。移植直後へ力を加えるのではなく、土地へ馴染む時間を置く。そこから枝を少しずつ伸ばし、短冊の重みへ耐えられる程度まで育てる。それとは別に、紙や紐を用意し、市民へ開催を知らせ、会場も整えなくてはならない。
「二週間だと、少し忙しいでしょうか……」
「不可能ではないだろうが、急ぐ理由もないだろう」
セイレンスの言葉に、ヒアンシーは予定を頭の中で組み直す。急ぐ必要はない。終末が迫っていた頃とは違う。いつまでにこれをしなければ全部が失われる、という期限ではない。
自分たちで日付を決め、その日へ向かって準備できる。そんな当たり前のことへ気づいたとき、ヒアンシーの胸の奥が少しだけ温かくなった。
「では……一ヶ月くらい、どうでしょう?」
口にすると、自分でもちょうどよい気がした。
一ヶ月。若木が根づく時間。皆が少しずつ準備する時間。市民へ話が伝わり、「どんな願いを書こう」と考える時間。当日そのものだけではなく、そこへ向かって楽しみに待つための時間だ。
「一ヶ月後なら、紙や装飾品の準備にも余裕がありますね」
アグライアが静かに頷いた。
「市民への周知も十分だろうな」
セイレンスも同意する。キャストリスは予定表へ視線を落とし、しばらく日付を確認した後、柔らかく頷いた。
「わたくしも……よいと思います。急いで形だけ整えるより、皆さまが楽しみに待てる方が……きっと、この催しには似合うかと」
「ですよね!」
ヒアンシーは、ぱっと笑った。日付が定まる。それだけで、まだ仮の線ばかりだった企画が、一つの約束へ変わったように感じられた。
一ヶ月後。その日になれば、ここで話している皆だけではなく、オクヘイマの人々が大講義場へ集まる。今は空っぽの枝へ、願いが結ばれる。何が書かれるのだろう。考えるだけで、ヒアンシーは少しそわそわした。
誰かの願いを勝手に覗くのはよくないかもしれないけれど、本人が見えるように結んだものなら、自然と目に入ることもあるだろう。
キャストリスは何を書くのだろう。アグライア様は。セイレンス様は。モーディス様は。サフェル様は。そして、先ほど壺職人のところへ向かったファイノン様は。
そこまで考えたところで、ヒアンシーは自分の願いについて何も決めていないことへ気づいた。
企画を立てることばかり考えていた。願いを書く祭りを開くのに、自分の短冊の中身は真っ白なままだ。
でも、それでいい。一ヶ月ある。その間に考えればいいのだから。そんなことまで嬉しく感じる。ヒアンシーは書き込みの増えた企画書を胸の前へ抱え、改めて周囲を見渡した。
キャストリスは細かな項目を確認している。アグライアとセイレンスは、紙と紐の試作品についてもう次の話へ進んでいた。サフェルはいつの間にか少し離れたところで、若木の枝へ何枚くらい結べるかを勝手に数えているらしい。モーディスはその様子を眺めながら、ときどき短い意見を差し挟む。
誰か一人がすべてを決めたのではない。それぞれが違うところを見て、違うことへ気づき、それを一つの祭りへ寄せていく。
ファイノンが言った通り、その方が祭りらしいのかもしれない。皆で作るからこそ、皆が参加できる。準備する者と楽しむ者が完全に分かれているのではなく、準備することまで含めて祭りの始まりなのだ。
ヒアンシーはそんなことを考えながら、若木のそばまで歩いた。午後から続いていた話し合いの間に、空の色はずいぶん変わっている。
ヒアンシーはそんなことを考えながら、若木のそばまで歩いた。午後から続いていた話し合いの間に、空の色はずいぶん変わっている。
昼の強い青は薄れ、西の端には淡い金色と紫が滲んでいた。オクヘイマの建物も、日中より輪郭を柔らかくし始めている。
風にも僅かな涼しさが混じっていた。若木の葉が揺れる。先ほど開いたばかりの新葉は、まだ他の葉より色が淡い。薄い緑の表面へ夕暮れの光が乗り、揺れるたびに明るさが変わる。ヒアンシーは少し腰を屈め、支柱の根元へ目を遣った。
土は落ち着いている。紐も緩みすぎてはいない。ファイノンが離した後も、若木は自分の根でそこに立っている。
「大丈夫そうですね」
誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。――もちろん、まだ支えは必要だ。今日少し育ったからといって、明日には大木になるわけではない。雨が強ければ守らなければならないし、風が吹けば支柱が必要になる。水もいる。土の具合も見なくてはいけない。
それでも昨日よりは、少しだけ強い。その「少しだけ」が、今のヒアンシーには妙に大切に思えた。
オンパロスも、きっとそうなのだろう。世界が救われたからといって、その瞬間に何もかもが完成したわけではない。壊れた場所は直さなくてはいけない。暮らしも作り直す。身体を休める必要のある人もいる。過去へ置いてきたものを、まだうまく手放せない人だっている。
それでも、昨日より今日。今日より明日。
目を凝らさなければ分からないほど小さな変化を積み重ねていけばいい。支柱があるうちは、支えてもらえばいい。いつか外せる日が来たら、そのとき外せばいい。急がなくていい。ファイノンが若木へ言ったように、ちゃんと立てるようになってからでいいのだ。
ヒアンシーは若木を見上げた。枝と枝の隙間に、深まり始めた空が見える。まだ星はほとんど見えなかったけれど空の青が群青へ変わり始めるにつれ、高いところから一つずつ、小さな光が浮かび始める。その最初の一つを見つけたとき、ヒアンシーは思わず目を細めた。
「では、一ヶ月後」
背後から聞こえてきた声へ振り返る。最後の確認に入ったらしい。ヒアンシーは皆のもとへ戻り、企画書を開いた。
「オクヘイマの大講義場をお借りして、開催ということでいかがでしょう?」
一瞬だけ、全員の視線が交わる。反対する声はなかった。むしろ、ここまで積み重ねた話がようやく一つの形へ収まったことを確かめるように、それぞれが小さく頷いている。ヒアンシーも胸元で企画書を抱え直し、弾む声で答えた。
「決まり、ですね!」
その一言を境に、張り詰めていたわけでもない空気がさらに軽くなった。
「では、明日から紙の手配を始めましょう」
「飾りについても候補をまとめておこう」
「若木の植え替え日は、ファイノン様とも相談しないとですね!」
「告知を出すなら、内容が固まってからの方がよいでしょう……」
次々と声が重なる。一ヶ月後と決めたばかりなのに、もう明日の準備が始まっている。ヒアンシーはそのやり取りを聞きながら、ふと笑った。
願いの祭り。その名前さえ、まだ正式に決まっているわけではない。遠い星の風習を教えてもらい、せっかくだからやってみようと話し、木をどうしよう、紙はどうしよう、いつにしようと皆で考えただけ。
それなのに、もう自分の中では大切な予定になっている。一ヶ月後の未来へ、今日の自分たちが約束を置いた。それはとても小さな約束だった。世界を救うとか、運命を変えるとか、そんな大きなものではない。ただ、一ヶ月後にここへ集まって、願いを書こうという約束。
ヒアンシーには、それで十分だった。未来に予定がある。明日より先の話をしてもいい。一ヶ月後に笑っているつもりで、今日を過ごしていい。それ自体が、今のオンパロスにとっては何より確かな希望なのかもしれない。
再び若木へ目を向ける。日が落ちるにつれ、葉の色は少しずつ影へ溶けていた。けれど完全な黒にはならない。高い空へ現れ始めた星の光を受け、新緑の縁だけがかすかに銀色を帯びている。
きらきらとした葉は、一ヶ月後にはどれほど増えているだろう。その枝へ皆の願いが結ばれたなら、この木はどんな姿になるのだろう。
紙の色で賑やかになるのかもしれない。紐が風に揺れ、葉と触れ合って小さな音を立てるのかもしれない。枝を埋め尽くすほど願いが集まれば、木の姿そのものが見えにくくなることだってありそうだ。
それでも、きっと綺麗だろう。誰か一人の願いだけではなく、それぞれ違う方向を向いた願いが同じ枝に並んでいる。叶うものもあれば、すぐには叶わないものもある。途中で願いそのものが変わる人だっているだろう。
それでいい。願えること。未来を思い浮かべられること。そのための場所があること。ヒアンシーが始めたいと思ったのは、きっとそういうものだった。
若木はまだ細く、支柱に支えられている。風が吹けば揺れるけれど今日、少しだけ根を広げ、葉も増えた。昨日より確かに強くなった。ヒアンシーは、そんな若木の姿へ、今の自分たちを無理に重ねようとはしなかった。
木は木だ。人は人だ。オンパロスという世界もまた、それらとは違う。けれど、育つために時間が必要だということだけは、どれにも同じように当てはまるのかもしれない。
焦らず。支え合い。少しずつ。いつか自分自身の根で、今より強く立てるように。ヒアンシーは胸の前で重ねていた指先を、ほんの少しだけ強く結んだ。
祈りというほど大げさなものにするつもりはなかった。けれど、言葉へしなければ消えてしまいそうな小さな願いが胸へ浮かぶ。
どうか、この試みがうまくいきますように。一ヶ月後、皆が笑って集まれますように。短冊へ書かれた願いが、ひとつでも多く、明日へ向かう力になりますように。そして、この世界に生きる人々が、願うことそのものを諦めなくてよい日々が続きますように。
そんなことを考えているうちに、若木の葉へ最初の星明かりがそっと触れた。風に揺れるたび、小さな光が葉から葉へ渡っていく。ヒアンシーはそれをしばらく見つめた。
今日の若木には、まだ一枚の短冊も結ばれていない。その何もない枝先にこそ、これから書かれる言葉のための場所が残されている。空白は、足りないものではなく、これから満たせる余白なのだ。そう思うと、夕暮れの終わりに残った静けさまで、少し明るく感じられた。
ヒアンシーは小さく息を吸い、星明かりを受ける若木へ、誰にも聞こえないほどの声で願った。どうかこの試みが、より良い明日に繋がりますように。
ファイノンってすれ違い通信を大量に起こしてそうだな……。
ちなみに、ヒアンシーも完全に働きすぎて感覚麻痺ってるので、一ヶ月でイベントの準備ができる派です。黄金裔マジお休みください。っていうのが目に見えるだろうな、と思った場面。
お祭りの運営側を担当したことのある身としては、どれだけ準備に時間を費やしたか……。一ヶ月なんてとてもじゃありませんがTA☆RA☆N☆って、と言うしかない。一年前から準備しても途中で色々と増えたり減ったりしますからね、大変だったけど楽しかったです。