若木の育成と七夕企画の準備は、ついに具体的な役割分担と開催地の選定へと進んでいた。
ファイノンは支柱と紐の状態を確かめたのち、壺職人の工房へ向かい「見守るだけの役目」を引き受けることに。彼の存在が職人たちの緊張を生む一方で、それもまた作業を正す力となると受け止められていた。
残された一行は若木の枝配置や短冊の仕様を詰め、願いを結ぶ祭りの形を少しずつ整えていく。やがて開催日は一ヶ月後、会場はオクヘイマ大講義場に決定。まだ何も結ばれていない若木の枝には、これから書かれる無数の願いの余白だけが静かに残されていた。
084 民らは明日を描く
若木を囲んで交わされた言葉が、まだ風のなかに残っているような気がしていた。誰がどんな願いを持っているのか、どんな景色をこれから見てみたいのか、一人ずつ声に出して確かめ合ったあの時間が終わったあとも、話し合いそのものがそこで立ち止まったわけではない。人から人へ渡された言葉は、手のひらで温められた種のように、ヒアンシーたちの知らない場所へまで運ばれていったらしい。
そのことを実感したのは、なんでも黄金裔が再び、停滞した
そんな噂が大空に浮雲が寄り集まり、やがて雨粒を呼ぶように、まことしやかにオンパロスの市民たちの間へ広がっていった。どこで最初の一滴が落ちたのかは、ヒアンシーにも分からない。若木を囲んだ話し合いの場から誰かが持ち帰ったのかもしれないし、黄金裔の誰かが知り合いへ話したものが、パンを買う列や水場の立ち話を経て伸びていったのかもしれない。
朝にはまだ「何かをするらしい」だったものが、昼には「天外の祭りをするらしい」へ育ち、その翌日には「願いを書いて木に結ぶのだそうだ」と、いつの間にやら肝心なところまで届いていたのである。
「ヒアンシー様。こちらの紙にも、願いを書くんですか?」
「これは資材の受け取り表なので、願いを書いてしまうと後で大変なことになりますねぇ。短冊は別に用意しますから、もう少し待っていてください」
「ああ、やっぱり違うのか。娘が『細長い紙なら何でもいい』って言うもんだから」
「ふふっ。娘さん、ずいぶん気が早いですね。でも、まだ内緒ですよ? 正式に決まっていないこともありますから」
声を潜めて人差し指を唇の前へ立てると、日に焼けた男性は「もちろん」と言いながら、どう見ても誰かへ話したくて仕方がない顔で笑った。
腕には切り出した木材が三本抱えられており、その後ろでは別の男性が「おい、そこに積むんじゃない、乾かす方が先だ」と声を飛ばしている。言われた方も言われた方で、「分かってるって」と返しながら置き場所を変え、積み直すついでに隣の材木の傾きまで直していった。
ヒアンシーはその一連の動きを目で追ってから、胸元に抱えていたバインダーへ視線を戻した。羽ペンの先を紙面へ滑らせ、木材三本を受領済みとして書き加える。午前中だけでも数字は何度も書き直され、予定していた数量へ届くどころか、品目によっては余剰まで出始めていた。
本当なら、まだそのような段階ではなかったはずなのである。
黄金裔の仲間内で大筋の了承を得て、その次に、元老院に取って代わりつつある市民側の合議組織――オンパロス各地から集まった人々の意見を取りまとめる<
エスカトンで「火を追う旅」についての会合より久しく開かれた場は、かつての議場ほど厳めしい沈黙に支配されているわけでもなく、かといって軽薄な喧騒に流されるほど緩くもない。両者のあいだに揺れる境目のような空気を保っており、長い間「決定」という言葉に慎重であり続けてきた人々の癖が、椅子の軋みや視線の交わりの端々に、まだわずかに残っていた。
どこで開催するのか、どのくらいの人数を想定するのか、必要な資材は何か、安全上の問題はないか。机の上に並べられた議題は、紙に書き起こしてしまえば単純な箇条書きに過ぎないのに、実際にそれを一つずつ口に出して確認していくと、その背後にある現実の重さがじわじわと輪郭を持ちはじめる。
場所を決めるということは、ただ空き地を選ぶことではなく、人の流れや日照、風の通り道、資材の搬入経路まで含めて考えることを意味していたし。
人数の想定は単なる数字ではなく、食料や水、休息のための空間、そして何より「そこに集まる人々が互いにぶつからずに過ごせるか」という、目に見えない調整を伴っていた。
さらに、天外由来の風習をどのようにオンパロスへ取り入れるのかという点になると、議場の空気は一段と慎重さを増した。
誰かが異文化を拒んでいるわけではない。ただ、これまで「外から来るもの」は常に、戦いや災厄と結びついて語られてきた歴史がある以上、祝祭という形であっても、それをどう受け止めるかには自然と時間が必要になる。短冊という紙片一枚を取っても、それを単なる装飾と見るのか、願いを託す媒体と見るのかで、意味はまるで変わってしまうのだ。
ヒアンシーはその場で、できるだけ言葉をほどきながら説明を重ねた。
医療の現場で患者に処置の内容を伝えるときと同じように、専門用語をそのまま投げるのではなく、相手の生活にあるものへ置き換え、手触りのある比喩へ落とし込んでいく。けれど、それでもなお、すべてを一度に理解してもらうことは難しい。理解の速度は人それぞれであり、納得の形もまた一つではないからだ。
議場のあちこちで、小さな相談が生まれては消えていく。隣同士で顔を寄せ合い、低い声で何かを確かめる者。腕を組んだまま天井を見上げ、過去の記憶と照らし合わせているような者。すぐに頷くのではなく、一度視線を落としてからゆっくりと息を吐く者。それぞれの反応が、まだ「決定」ではなく「検討」の段階にあることを静かに示していた。
(……所謂、企画の立ち上げ段階と申しましょうか)
誰かが「ならば資材はこちらで融通できる」と言い、別の誰かが「人手ならばこの地区から出せる」と応じる。そのやり取りはまだ即断ではなく、あくまで仮の提案に過ぎないはずなのに、そこには確かに「自分たちも関わる」という意思が見えた。
ヒアンシーはその変化を、言葉よりも先に空気の揺らぎとして感じ取っていた。机の上に置かれた紙が、誰かの手の動きに合わせてわずかに震える。
その震えは不安ではなく、むしろ新しいものに触れたときの落ち着かない期待に近い。まだ形になっていない計画が、少しずつ人の手の中で現実の重さを帯び始めている、その過程そのものが、すでに始まっているのだと分かる程度には。
ところが、市民たちにとっては、「正式決定まで静かに待っている」という選択肢の方が、どうやら不自然になり始めていたらしい。
「こちら、布地を持ってきたんですけど。使えそうなものだけ選んでもらえます?」
今度は籠を抱えた女性が声を掛けてきた。覗き込むと、端切れからまだ一枚ものとして使える布まで、色も厚みも違う生地が几帳面に折られている。
「わぁ、こんなにたくさん。ありがとうございます。ですが、新しい布まで入っていますよ?」
「仕立て直す予定だったんです。でも、急ぎじゃないし、全部使うわけでもないでしょう? 余ったら返してもらえばいいですよ。それに、せっかくなら明るい色があった方が華やかになるんじゃないかって」
「では、使わせていただく分だけ記録しておきますね。返却するものと混ざらないよう印も付けておきましょう。お名前を伺っても?」
ヒアンシーが訊ねると、女性は少し照れたように鼻先を掻きながら名乗った。その後ろから「うちにも余ってるぞ」「こっちは染料ならある」と別の声が重なり、ヒアンシーは思わず顔を上げる。
いつの間に集まったのだろう。三人、四人と列が増えていて、誰もが手ぶらではない。縄の束を抱えている人、木箱いっぱいに工具を詰めてきた人、使えるか分からないがと古い金具を袋ごと差し出す人までいた。
「皆さん、待ってくださいね。順番に確認しますから。イカルン、そちらの箱が倒れないよう見ていてもらえます?」
傍らにいたイカルンが小さく鳴き、翼を広げて積み荷の方へ駆けていく。その風に煽られて紙の端がふわりと持ち上がったので、ヒアンシーは慌てて手のひらで押さえた。
羽ペンを耳へ掛け、片手で紙束を整えながら、もう片方の手で受け取った縄の太さを確かめる。薬草や包帯とは用途がまるで違うのに、物資を分類して不足を把握し、人手を必要な場所へ繋ぐ作業にはどこか馴染みがあった。
昏光の庭で患者が一度に運び込まれた時だって、何より大切なのは、全部を自分一人で抱え込まず、何がどこに必要なのかを見落とさないことだった。
それでも今、目の前に積み上がっていくものが包帯でも薬瓶でもないというだけで、胸の奥に触れる感覚はずいぶん違った。
誰かの傷口を塞ぐためではない木材。夜を越えるための防壁ではない石材。怪我人を運ぶ担架へ変わるのではなく、祭りのための台や机になっていく板。
生き延びることだけを目的に集められたのではない物資が、人の手から人の手へ渡っていく。その事実に気づくたび、ヒアンシーの指はほんの少しだけ止まり、それから何事もなかったように次の項目を書き込んだ。
「彫金師はどこだ? 飾りの試作を見てもらいたいんだ!」
「こっちは石材が足りないぞ! 誰か運び込んだって聞いたんだが!」
「彫刻刀の刃が欠けた! 鍛冶師に回してくれ!」
「それ、昨日も欠けさせてなかったか?」
「石が硬いんだから仕方ないだろ!」
そんな声が、右から左へ、遠くから近くへ、途切れる暇もなく飛んだ。聖なる都オクヘイマの商業区でもよく耳にした、売り手と買い手と職人が互いの声を押し退けるように行き交う賑やかさとよく似ているけれど、今ここにある響きは、以前と同じようでいて少し違う。
値段を競う声でもなければ、明日の糧を確保するための切迫した怒号でもない。誰もが「これをしたい」「それなら自分ができる」と、まだ形になってもいない何かのために声を上げていた。
ヒアンシーは医師として、静かな部屋を好む患者を何人も見てきた。痛みが強い時には物音そのものが負担になるし、不安に晒された心には、小さな声さえ鋭く刺さることがある。
その一方で、静かすぎる部屋がかえって人を怯えさせることも知っている。誰かの足音がする、隣室から会話が聞こえる、遠くで食器が触れ合う。それだけで、自分が世界から切り離されていないと確かめられる人もいる。
人の声というものは、不思議だ。今の「歳月の彼方」――永遠の一ページに満ちているのは、まさしくその種類の生活音なのだろう。
終末を越えたばかりの頃、ここにはもっと静かな時間が流れていた。
それが悪かったわけではない。むしろ必要な時間だったのだと思う。長い長い戦いを終えた人々が、ようやく剣を握らなくていいと知り、明日の食料も襲撃への備えも考えず、陽だまりの中で身体を伸ばすように過ごす時間。
それまで存在しなかった余白を恐る恐る確かめ、急かされることなく立ち止まる日々は、傷を負った心にとって休息そのものだった。
けれど、休息とは、永遠に動かないことではない。熱が下がった患者が最初に寝台から起き上がる時のことを、ヒアンシーは何度も見ている。
足を床へ下ろしても、本当に立ってよいのか分からず、しばらく自分の膝を見つめる人がいる。窓の外を眺めながら、退院したら何をしよう、とぽつりと言う人もいる。
治療する側にとって、その一言は傷が塞がったという報告と同じくらい大切だった。今日を越えられるかだけではなく、明日何をするかへ気持ちが向く。それは、生活へ帰っていく兆しだからだ。
オンパロスも、きっと同じなのかもしれない。陽だまりのようにぽかぽかとした微睡みの中で揺蕩っていた時間から、人々は少しずつ身体を起こし始めた。
まだ完全に新生したわけではない。「歳月の彼方」は依然として、新しい世界が訪れるまでの巨大な待合室のような場所ではある。それでも、待っているからといって、何も始めてはいけない理由にはならなかった。
「ヒアンシー様、この飾り方、天外ではどうするんです?」
声のする方へ振り向くと、木片を二つ抱えた若い職人が立っていた。一方には星のような模様、もう一方には植物の葉を思わせる線が彫られている。
「ええと……七夕そのものには、たぶんこれは使わないと思います」
「じゃあ駄目か」
分かりやすく肩が落ちたので、ヒアンシーは慌てて首を横へ振った。
「いえいえ、そういう意味ではありませんよっ。天外のものを一から十まで同じように再現しないといけない決まりもありませんし。せっかくオンパロスで開くんですから、こちららしいものがあっても素敵だと思います。ただ、わたしだけでは決められないので、皆さんで確認しましょう?」
「なるほど。なら、もう何種類か彫ってみるか」
「わ、仕事が早いですねぇ」
「こういうのは思いついた時にやるんですよ。後に回すと忘れちまうから」
職人は先ほどまでの落胆が嘘のように木片を抱え直し、仲間らしい人々が集まる一角へ戻っていった。途中で誰かに呼び止められ、試作品を見せ、今度は三人ほどで身振りを交えながら話し始める。その様子を追っていたヒアンシーの視界の端を、別の人が板材を担いで横切った。
以前なら、黄金裔が何を決めたのか、神託は何を示したのか、次にどちらへ進めばいいのかと、誰かの言葉を待つ時間がもっと長かったように思う。
それも当然だった。
オンパロスには、長い間、空の外側という概念そのものが遠かった。「天空」のタイタン・エーグルがその眼を閉じ、天外へ届く道を禁じたことで、人々が知ることのできる世界には明確な縁があった。
空は見上げることこそできても、その向こうへ何が続くかを自由に確かめることはできない。星空の彼方に別の文明があり、異なる歴史を歩んだ人々が暮らし、オンパロスでは想像もされなかった技術や習慣が存在するという話は、ほんの少し前まで神話よりも現実味の薄いものだった。
だから、天外の情報が開かれ始めたばかりの頃、人々が戸惑ったこともヒアンシーは覚えている。知らないことは面白い。けれど、知らないことは怖い。
昨日まで世界だと思っていた場所が、今日になって巨大な星海の片隅に過ぎないと知れば、自分たちの常識がどこまで通用するのか不安になるのも無理はない。
ヒアンシー自身だって、星穹列車の人々から初めて聞く話に何度目を丸くしたか分からなかったし、開拓者がさらりと口にする天外の常識を、後からアナイクス先生へ確認したくなったことだって一度や二度ではなかった。
未知には、人を立ち止まらせる力がある。けれど、「開拓」というものは、怖くなくなるまで待ってから進むことではないのだろう。
「ねえ、ヒアンシー様!」
今度はもっと高いところから声が飛んできた。見れば、資材箱のそばで数人の子どもたちが手を振っている。危なっかしい場所に近づいていないことを確かめてから、ヒアンシーも手を振り返した。
「どうしました?」
「天外にも木ってあるの?」
「ありますよ」
「大地獣は?」
「大地獣とまったく同じ生き物がいるかは分かりませんけど、オンパロスにはいない動物さんが、それはもうたくさんいるそうです」
「空の向こうにも海がある?」
「海のある星もあるそうですよ」
「じゃあ、雨も?」
「降るところもあるみたいですねぇ」
「こっちと同じじゃん」
一人がそう言えば、隣の子がすぐさま「でも違うんだろ」と返した。
「どんな魚がいるんだろ」
「魚じゃないのが泳いでたりして」
「海が赤かったりするんじゃない?」
「それはちょっと怖くない?」
「見たことないんだから分かんないだろ!」
あれはなんだ。これはなんだ。あっちは何をするものだ。どうやって動くのだ。なぜそんな形をしているのだ。どんな意味があって、どんな人が使って、どんな土地で生まれたものなのか。
問いは問いを呼び、一つ答えれば二つ増え、その二つへ答えようとすれば、今度は三つも四つも知らないことが顔を出す。まるで雨を受ける湖の水面へ無数の波紋が生まれていくようで、聞いているヒアンシーまで可笑しくなり、頬が緩んだ。
「皆さん、そんなに一度に聞いたら、わたしも分からなくなっちゃいますよ。あと、分からないことは分からないって言いますからね?」
「ヒアンシー様でも知らないの?」
「知らないことなんて、たくさんありますよ。だから、お勉強するんです」
「アナイクス先生みたいに?」
「先生ぐらいになると、知らないことを見つけたら喜んで飛びつきそうですねぇ」
子どもたちが笑う。その声につられて、荷物を運んでいた大人までこちらを見て笑った。
誰かが知識を持っているから、その人だけに答えを委ねるのではない。知らなければ訊ねる。教わったら試してみる。合わなければ、自分たちに合う形へ変えてみる。まだ誰も答えを知らないのなら、一緒に考えてみる。
それがたぶん、星穹列車の人々が言う「開拓」の、ずっと小さくて生活に近い姿なのだろうと、ヒアンシーは思った。
もはやオンパロスは、黄金裔が先頭に立たなければ、何も動かない世界ではない。神託が示されなければ、進む方向を選べない世界でもない。誰かが未来を背負い、その背中だけを見て人々が後ろからついていく世界でもない。
目の前では、一人の職人が別の職人へ工具を渡している。少し離れた場所では、布を持ってきた女性たちが色の組み合わせを相談している。市民会の者らしい男性は、人の流れを邪魔しないよう資材置き場の場所を変えようと周囲へ声を掛け、先ほどの子どもたちは、手伝える仕事を探して大人たちの間をうろうろしていた。
「走らないでくださいねー! 資材がありますから、転んじゃいますよー!」
「はーい!」
返事だけは立派で、速度が少ししか落ちなかったので、ヒアンシーは眉尻を下げたまま笑った。イカルンが心得たように子どもたちの方へ駆けていき、翼でさりげなく進路を塞ぐと、今度こそ歩き始める。
それを確認してからヒアンシーはバインダーへ目を戻し、いつの間にか増えた新しい申し出を、空いていた欄へ一つずつ書き込んでいった。
紙面の上では、ただ数字が増えているだけに見える。木材が何本。布が何枚。縄が何束。協力できる職人が何人。運搬を申し出た者が何人。
その一つ一つの数字の向こう側には、「やってみたい」と手を挙げた人がいる。誰かに命じられたからでもなく、黄金裔へ恩を返さなければならないからでもなく、自分たちがこれから暮らしていく場所で、何か面白そうなことが始まるのなら加わってみたいと、自分の足でこちらまで歩いてきた人がいる。
つい先ほどまで、七夕はヒアンシーたちが考えた企画だったはずなのに、気づけばもう、彼女たちだけのものではなくなっていた。寂しい、とは思わなかった。むしろ逆だった。
治療した患者がいつまでも医師の手を必要とし続けることを、良い治療とは呼ばないように。守った世界がいつまでも英雄の指示を待ち続けることだって、きっと本当の意味で救われた姿ではないのだ。
誰かが支えなければ倒れてしまうから手を伸ばす時期があって、その手の温度を受け取りながら、自分で立ち上がる時期があって、やがて支えられていたことを忘れるくらい自然に歩き出せる日が来る。そういう瞬間を、病室でも、昏光の庭でも、長い旅の途中でも見てきた。
ならば今、目の前にあるこの騒がしさは、オンパロスがようやく寝台から足を下ろした音なのかもしれない、とヒアンシーは胸の内でそっと思った。
目を閉じれば、木を打つ音がする。誰かを呼ぶ声がする。笑い声の向こうから、石と石の触れ合う乾いた響きが届く。
風が人々の衣服の裾を揺らし、積み上げられた布の端をめくり、イカルンの翼の羽毛を柔らかく逆立てていく。その風はどこかへ答えを運んでくれるわけではなかったけれど、誰もそのことを困ってはいなかった。人々はもう、自分たちで問いを拾い、自分たちで答えを探し、自分の好きな道を自分の手で拓こうとしている。
ヒアンシーは新しく書き終えた一行のインクが乾くまで、ほんの少しだけ羽ペンを浮かせた。
視線を上げれば、人の間を抜けた向こうに空がある。かつて世界の果てと同じ意味を持っていた空は、今では、その先にも何かがあると知ったうえで見上げる空になっていた。
境界がなくなったわけではないし、知らないものへの怖さがすべて消えたわけでもない。それでも、知らないから閉じるのではなく、知らないなら知りたいと顔を上げる人々がいる。
それは、