若木を囲んだ対話を契機に、黄金裔が進める天外由来の行事企画は、やがて市民の間へ噂として広がり、資材や人手の自発的な提供へと変わってゆく。
ヒアンシーは現場で受け入れを担いながら、計画が「与えられる催し」から「共に作る営み」へ変質していく過程を目の当たりにする。
議場での慎重な検討を待たず、現実はすでに動き始めていた。市民会エクレシアでの説明は途上にあるにもかかわらず、布や木材、工具までもが各地から持ち込まれ、準備は想定を超えて加速していく。知らぬ間に「待つ企画」は「参加する日常」へと変わりつつあった。
羽ペンの先に残ったインクが乾ききるころには、ヒアンシーの周囲を行き交う音もまた、ひとつ前の瞬間とは微妙に姿を変えていた。
木槌の軽い打音に混じって、先ほどまでは遠かった重い足音が石床を伝い、一定の間隔でこちらへ近づいてくる。荷車の車輪が軋む音とも、大地獣が土を踏み締める響きとも違う。硬い靴底が地面を噛み、身体へ預けた重量を一歩ごとに受け止めている、訓練された人間の歩き方だった。
「殿下、石材を運び終えましたよ。オクヘイマの彼らが工芸品の作成に取り掛かるそうですが、クレムノス式の工芸品は飾られないのでしょうか」
「そうですよ! 異文化交流、と言うのであれば、我々の再現できなかった技術も今なら!」
張りのある声が二つ重なり、ヒアンシーはバインダーへ向けていた顔を少しだけ上げた。声の調子だけでも、だいたいどこの人々なのか見当がついてしまう。
呼び掛ける相手を「殿下」と呼び、朗らかな会話でありながら戦場で号令を飛ばすようによく通り、しかも異文化交流の話から自然に自国文化の優位性へ踏み込んでいく。その組み合わせに当てはまる者たちは、オンパロス広しといえど、そう多くはなかった。
足音が、一つ。二つ。
ヒアンシーの横を、大柄な男たちが通り過ぎていった。肩へ担いでいるのは切り出された石材であり、大人が両腕を回してようやく抱えられそうな塊を、一人につき一つどころか二つ重ねている者までいる。
それでも腰が沈む様子はなく、石を下ろすときばかりは衝撃で欠けさせないよう、膝を使って慎重に荷重を逃がしていた。
ごとり、と最初の一つが置かれる。続いて二つ目が積まれ、石と石の角が触れ合う乾いた響きが足元を渡った。
その音だけなら工事現場のどこにでもありそうなのに、石材を支えていた腕には金属製の装具が巻かれ、肩から垂れた外套の端には使い込まれた革の匂いが染みついている。わずかに漂う油と鉄の匂いまで含めれば、祭りの準備をしているというより、これから城壁でも築くのではないかと思えてしまう。
「わぁ……」
思わず漏れた声を聞きつけたのか、石材を下ろした一人が振り返った。
「どうされました、天空の聖女殿。置き場所はこちらで間違いありませんかな?」
「は、はいっ。場所は合っています。そうではなくて、その……すごいなあ、と」
「石が、ですか?」
「それを持っていらっしゃる皆さんが、ですねぇ……」
視線を石材から男の腕へ移して答えると、相手は一瞬だけきょとんとして、それから歯を見せて笑った。
何がおかしかったのかまではヒアンシーには分からない。ただ、隣で石を下ろしていたもう一人まで肩を揺らし始めたので、褒め方として妙だったらしいことだけは察せられた。
「この程度なら、クレムノスでは運搬訓練にもなりませんよ」
「そうそう。城壁補修なら、この三倍は担ぐ」
「三倍……」
ヒアンシーは彼らの背丈と石材とを順番に見比べ、それから自分の腕を見る。試しに両手を少し持ち上げてみたところで、もちろん何の意味もない。彼女がこの石を持ち上げようとすれば、力を込めた瞬間に腰か腕のどちらかを痛める未来が容易に想像できた。
医師としてなら、そういう無茶をした人間に「どうして持てると思ったんですか」と眉を下げながら治療する側なのだから、試そうとも思わない。思わないけれど、目の前で平然と運ばれると、同じ人間という分類そのものに少々疑問を抱きたくなる。
「ひとまず、受領数を確認させてくださいね。大きいものが――一、二、三……」
「十五です。中型が二十六、小型が三十四。加工場へ直接回した分は別になります」
「もう数えてくださってたんですか?」
「物資の数を把握せず戦場へ運ぶ兵はいませんからな」
「なるほどぉ……」
祭りの準備なのだが、返ってくる理屈が完全に軍需輸送である。
ヒアンシーは口元を緩めながら羽ペンを取り、申し出のとおり数量を書き込んでいった。一度確認した数字は本人たちの記憶と別の者が持つ控えとで一致しており、積み方も大きさごとに分けられている。
扱うものが剣や盾から建築用の石へ変わったところで、運搬という仕事そのものへの几帳面さまでは変わらないらしい。
(それにしても……)
改めて積まれた石材を見上げた。クレムノスと聞けば、まず戦士を思い浮かべる者は多いだろう。戦争と紛争の歴史を持ち、子どもの頃から身体を鍛え、戦場で名を立てることが誇りとして語られる国だった。
剣や槍を持つ姿なら、ヒアンシーにもいくらでも想像できる。重い盾を構え、傷を受けても前へ進み、仲間の背を守る姿も、長い旅の中で実際に目にしてきた。
けれど、いま彼らの手にあるのは武器ではない。肩に掛かっていた縄が解かれ、石を傷つけないよう布が挟まれ、運搬を終えた者の一人はしゃがみ込んで石目を確認している。
別の一人は職人らしい男へ近づき、どう削れば模様が崩れないかを訊ねていた。剣を握れば人の命を奪える掌が、いまは石の表面を傷めないために指の腹で慎重になぞっている。
その光景を見ているだけで、さきほど胸の内へ生まれた思いが、また少し具体的な形を得ていくようだった。
未来を作るというのは、何も新しいものだけを選ぶことではない。ずっと持っていたものを、これまでとは違う目的のために使えるようになることだって、きっと立派な変化なのだ。
「しかし、本当にオクヘイマ式ばかり並べるつもりではありますまいな?」
最初に声を上げていた男が、積み終えた石材を腰へ手を当てながら見回した。先ほどまでの笑顔とは打って変わって、眉間にはいかにも不満らしい皺が寄っている。
「向こうの連中、もう彫金師を四人も呼んでいるぞ」
「四人どころではない。さっき五人目が工具箱を抱えて通っていった」
「ほら見ろ。油断したら会場じゅうを金細工で埋める気だ」
ヒアンシーは羽ペンを止めた。少し離れた場所では、当のオクヘイマ人たちが布飾りと木製の支柱を囲みながら寸法を測っている。こちらの会話はまだ届いていないようだが、そのうち誰かが聞きつければ、簡単には済まなさそうな気配がある。
「ええと、皆さん。まだ何をどのくらい飾るかは決まっていませんから、そこはこれから――」
「ああ、ヘファイスティオンに同意見だ。技術者も材料も、作成する場所もあるから、今なら再び伝統工芸品を作ることだって可能なはずだぜ」
少し後ろから、別の声が割って入った。ヒアンシーが視線を向けると、先に来た二人よりやや軽装の男性が、肩に掛けていた革手袋を外しながら歩いてくるところだった。彼の後ろにも複数人が続いており、それぞれ石材のほかに槌や鑿の入った工具袋を持っている。
「プトレマイオス殿もそう思われますか! 散々『野蛮人』だと言われてきた我々とて、余裕さえあれば武器ではなく道具を手に取ることのできること示せる場ではありましょうぞ!」
「そこまで言われてたんですか……?」
ヒアンシーの声は誰にも拾われなかった。
「当然だ。剣と槍しか作れない連中と思われたままでは、先祖へ顔向けできん。我らの鍛造技術が戦具だけのものではないことくらい、オクヘイマ人にも分からせるべきだろう」
「そうとも! かつて王宮の柱頭を飾った獅子文様など、今なら完全な形で再現できるはず!」
「私は古式の酒杯を推しますな。宴で使える」
「祭りに酒杯を大量に並べてどうする」
「使えばよかろう」
「子どもも来るんですよー?」
とうとうヒアンシーが少し大きな声を出すと、男たちはぴたりと口を閉じた。
数人分の視線が一斉に集まる。戦場ならば敵が怯みそうな圧なのに、ヒアンシーが眉を下げて見返していると、やがて一人が咳払いをして横を向いた。
「……では、装飾用に」
「それなら検討できますね」
「酒は?」
「飲酒できる方だけ、別の場所でお願いします」
「承知した」
意外なほど素直だった。ヒアンシーは胸の内で小さく息を吐き、再び羽ペンを紙面へ戻した。こういうところは、クレムノス人らしいといえばらしい。声は大きいし、議論はすぐに熱を帯びる。自分の意見を引っ込めることを潔しとしない人も多い。
それでも、理由を示して真正面から止めれば、少なくとも聞く耳まで失っているわけではない。もっとも、納得したあとで別方向から押してくる可能性は十分にあるのだけれど。
「オンパロスの兵法や軍法などのほとんどはクレムノス出典ですしね。
今度は、工具袋を床へ下ろしていた男が平然と付け加えた。ヒアンシーの羽ペンが、紙面すれすれで止まった。
「……あのぉ」
「なんでしょう、ヒアンシー殿」
「異文化交流って、たしかにお互いの文化を見せ合う場ではありますけど、勝敗を決める催しではないですからね?」
「もちろん理解しておりますとも」
「本当です?」
「ええ。戦ではありません」
「でしたら、その……『見せつけてやる』というところを、もう少しこう、穏やかに……」
「技術によって相互理解を深める、と」
「そうですっ。それです!」
「そのうえで、どちらの技術が優れているかは見る者が決めればよろしい」
「そこはまだ競うんですねぇ……」
どうにも完全には抜けないらしい。ヒアンシーが困ったように笑うと、クレムノス人たちも悪びれる様子なく笑った。
聞いていた周囲の市民からも、ちらほらと笑い声が漏れる。すると、それまで少し離れた場所で寸法を測っていたオクヘイマの職人が、とうとうこちらへ顔を向けた。
「聞こえてるぞ、クレムノス!」
「ああ、聞かせている!」
「言っておくが、聖都の彫金技術を甘く見るなよ!」
「誰が彫金だけで勝負すると言った!」
「やっぱり勝負になってるじゃないですかぁ!」
ヒアンシーが両手を少し広げて声を挟むと、双方からまた笑いが起こった。喧嘩ではない。少なくとも今は。怒気の混ざらない野次が飛び、返された言葉に肩を揺らし、そのままそれぞれの作業へ戻っていく。
終末期ならば、国家同士の確執に火がつけば、それが命に関わる衝突へ変わる可能性を誰も笑えなかっただろう。だからこそ、こんなにも軽々しく張り合い、相手の言葉へ言い返し、そのあと同じ場所で作業を続けられるということ自体が、ひどく贅沢なものに思える。
クレムノス人の一人が石材へ鑿を当て、試しに小さく槌を振るった。かん、と澄んだ音が響く。戦場で聞く金属音より軽く、けれど力強さはよく似ていた。
二度目。三度目。規則正しく打たれるたび、石の表面から細かな欠片がこぼれ落ち、最初はただ角張っていた面へ一本の線が刻まれていく。刃を振るうために鍛えた腕が、いまは何かを壊すのではなく、形のなかった石から模様を取り出すために使われている。
「わあ、……これ、何の模様になるんですか?」
「まだ下書きですが、獅子です。クレムノスでは古くから、王家だけでなく門扉や公共施設にも使われていました」
「へえ……。戦いの象徴なんでしょうか?」
「それもありますが、それだけではありません。家を守るもの、帰還を迎えるもの、子どもの健やかな成長を願うもの。土地によって意味は違いますな」
答えながら、男は鑿の角度を変える。
「武具の意匠にも使われるので、他国にはそちらばかり知られていましたが」
「じゃあ、今回は別の意味も知ってもらえますね」
「そのつもりです」
槌を振るう腕は太く、掌には幾つもの古い胼胝が残っていた。その傷が何によってできたものなのか、ヒアンシーには分からない。剣かもしれないし、槌かもしれないし、過去の戦いで負った傷も混ざっているかもしれない。けれど、今その掌が生み出そうとしているものだけは、はっきりしている。
誰かを傷つけるためではない。誰かの前へ置き、見てもらい、自分たちが何者だったのか、これから何を残していきたいのかを伝えるためのものだった。
ヒアンシーはバインダーの余白へ、「クレムノス伝統工芸――展示候補」と小さく書き加えた。その横へ、獅子文様、酒杯は要相談、と続けてから、最後の一語だけを二重線で囲む。
「ヒアンシー殿、酒杯の扱いが妙に厳重ではありませんか?」
「だって、放っておいたら本当に大量に作りそうですし」
「さすがにそこまでは――」
「どうだろうな」
「おい」
また笑いが弾けたところで、別の足音が近づいてきた。三つ。四つ。五つ。
すでに周囲は人の往来で満ちている。それでもヒアンシーは、不思議とそちらの足音だけを拾うことができた。みな一定の歩幅で、石材を運んだ後だというのに乱れていない。途中で誰かが何かを言えば短く返し、荷を置く位置だけ確かめて、それぞれが持ち場へ散っていく。
そして最後に、もう一つ。六つ目。
それまでの足音よりわずかに重く、けれど何かを誇示するような踏み方ではない。周囲の者たちが自然と半歩ぶんだけ道を空け、先に来ていたクレムノス人が振り返る気配がした。
「殿下、こちらで全部です」
「加工場へ回した分は?」
「報告済みです。石質の確認も済んでおります」
「そうか。ならば、後は職人へ任せろ。運搬組は水を飲んで休め」
「まだ働けますが」
「働けることと休まなくていいことは同義ではない」
「……承知しました」
低く落ち着いた声だった。その一往復だけで、先ほどまで「この程度は訓練にもならない」と笑っていた男が、素直に水場の方へ歩き出していく。ヒアンシーはそれを横目で追いながら、口元へ小さな笑みを浮かべた。
やはり、と思う。彼らが「殿下」と呼ぶ人物は、クレムノスの中でもたった一人しかいない。面倒見の良い彼ならば、石材を運ぶ者たちへ仕事だけ任せて、自分だけ先に戻ることもしないだろう。最後の荷が収まるまで付き添い、作業が終われば次に必要なことを確かめ、そのうえで休むべき者まで休ませる。
羽ペンを紙面の上で滑らせる速度を、ヒアンシーは心なしか早めた。大、中、小。それぞれの石材の数をもう一度確認する。先ほど聞いた数量と紙面の数字は一致している。加工場へ直接送られた分については別欄へ印を付け、クレムノス側から提案された工芸品についても忘れないよう追記し、最後の一文字を書き終えて、羽ペンの先を少し浮かせる。
それからようやく顔を上げた。
案の定、少し離れたところに立っていたのは、霧に包まれた混乱と戦争の都市国家クレムノス、その王位継承者だった。火を追う旅の中ではオクヘイマの戦士『モーディス』として槍や拳を振るい、多くの者にとっては戦場の只中に立つ姿の方が記憶へ強く焼きついている男でもある。
その手には槍がなかった。片方の腕には運搬に使ったらしい革紐が巻かれ、もう片方の手には石粉がわずかに付着している。衣服の肩には細かな白い粉が残り、髪も普段よりほんの少しだけ乱れていた。つい先ほどまで彼自身も石材を運んでいたのだろうと、説明されなくても分かる姿だった。
周囲で話していたクレムノス人たちが彼へ道を空ける。モーディスは積まれた石材を一瞥し、それから試作途中の獅子文様へ視線を移した。
「殿下、異文化交流と銘打つ以上、クレムノスの工芸も展示すべきだという話をしていたところです」
「オクヘイマの連中ばかりに好き勝手させるわけにもいきますまい」
「聖女殿からは、勝負ではないと念を押されましたが」
「勝敗を決める必要などなかろう。出来の良いものを作れば、それで十分だ」
騒いでいた男たちが一瞬だけ黙った。ヒアンシーもまばたきを一つする。もっと煽るのかと思ったのに、予想よりずっと穏当だった。
ところが、モーディスは彫りかけの獅子を指先でなぞり、石粉を軽く払ったあと、低い声のまま続けた。
「しかし、そうだな。せっかく復活したことだ、存分に見せつけてやるといい」
「殿下!」
「やっぱりそっちなんですねぇ……」
思わず零れた声に、モーディスの視線がこちらへ向いた。真正面から目が合う。
ヒアンシーの知る彼は、大柄な体格や鋭い眼差しだけを見れば、初対面の者を緊張させるには十分な迫力を持っている。それでも、いま向けられた視線には戦場で見せる鋭さとは違う落ち着きがあり、彼女の姿を確かめると、その眉間にあった僅かな険がほんの少しだけ緩んだ。
モーディスは石材の山を回り込み、ヒアンシーの前まで歩いてくる。近づくほどに、革と金属、それから石粉の乾いた匂いが微かに混じっていた。
「……久しいな、天空の」
以前なら、その呼び名にはタイタンの火種を追う者としての意味が強くまとわりついていた。けれど、いま聞こえた声音には、役目を呼び戻すような硬さはない。昔から知る者へ、昔からの呼び方がそのまま口をついて出ただけのようにヒアンシーには聞こえた。
だから彼女も、肩へ掛かりかけていた昔の重さをわざわざ拾い直すことなく、いつもの調子で笑みを返した。
「お久しぶりです、モーディス様。わたしのことは、ヒアンシーで構いませんよ」
そう伝えながら、ヒアンシーは胸元のバインダーを抱え直した。背後では再び鑿の音が鳴り始め、クレムノス人たちが獅子の意匠をどう仕上げるかについて早くも言葉を交わしている。そのさらに向こうからは、負けじとオクヘイマの職人たちが金属を打つ音まで返ってきた。
剣戟ではなく、槌と鑿と職人たちの声が互いを追いかける。
戦いを知りすぎた国の者たちが、今日は武器を置き、その腕で自分たちの文化を形へ変えようとしている。ヒアンシーはその賑やかな音の只中でモーディスを見上げながら、また一つ、準備の場に増えた新しい響きを静かに耳へ留めていた。