クレムノスとオクヘイマの職人たちが集い、異文化交流の名のもとに祭りの準備が進む中、ヒアンシーは石材運搬の様子を記録する。
武器を捨て道具を手に取る人々の姿に未来の兆しを見出すが、そこへモーディスが現れ、作業は新たな局面へと動き出した。石を武器ではなく文化へと変える試みの中で、各地の誇りがぶつかり合いながらも協調へ向かう。
モーディスの到来は場の空気を引き締め、ヒアンシーはその変化を静かに見守る。準備は続き、未来の祭りはまだ形を探していた。
モーディスの背後では、槌と鑿の音が途切れることなく続いていた。ひとつの石へ刻まれていた獅子の輪郭は、先ほどよりわずかに深くなっている。
削り落とされた白い欠片が作業台の端へ溜まり、そのすぐ向こうでは別の職人が金属板へ下絵を写していた。誰かが寸法を読み上げれば別の誰かが復唱し、間違いがないことを確かめてから槌が振り下ろされる。
オクヘイマ側からも負けじと金属を叩く高い響きが返ってきて、そのたびクレムノスの男たちがちらりとそちらを見ては、口元へ戦場とはまるで違う種類の笑みを浮かべていた。
ヒアンシーは胸元のバインダーを抱え直しながら、その音の中に立つモーディスを見上げた。大きな身体にも、肌へ走る赤い紋様にも、鋭い金の瞳にも変わりはない。
戦場であれば、彼が一歩前へ出ただけでその場所へ一本の防壁が引かれたように見えたものだが、今は足元に武器一つなく、腕へ残っているのも石を運んだ白い粉と革紐の跡くらいだった。
少し前には、部下へ水を飲んで休むよう命じていた。働けることと、休まなくていいことは同義ではない。
彼がそう言えば、つい先ほどまで石の重さなど訓練にもならないと豪語していたクレムノス人でさえ、多少の不服を顔へ出しながらも水場へ向かう。王冠を戴いていなくとも、彼らが彼を「殿下」と呼び、その声へ自然に耳を傾ける理由は、ヒアンシーにもなんとなく分かる気がした。
けれど、その当たり前のような光景を目にするとき、ヒアンシーの中にはいつも、ごく小さな引っ掛かりが残った。今ここにいるモーディス様が、あまりにも自然だからこそだった。
仲間の疲れを気に掛け、運んだ石の数を確かめ、自国の工芸品を復活させる話へ耳を傾けている。クレムノス人もまた、戦争のためではなく祭りのために集い、自分たちの文化をどんな形で残すのかと声を弾ませている。
それらのどこにも、おかしなところなどない。むしろ本来なら、こうであって然るべきだったのではないかとさえ思えてしまう。だからこそ、ヒアンシーは知っていた過去との隔たりを意識せずにはいられなかった。
モーディスは、クレムノスの皆にとって、一切の代わりがいない唯一の存在である。都市国家クレムノスの王家へ生まれた、ただ一人の王位継承者。メデイモスという名を与えられ、王と王妃の子として抱かれ、戦士たちに囲まれて育ち、いつの日か父から未来を託される。そのような人生が本来用意されていたのかどうかを、今となっては誰にも断言できない。
ただ、少なくともヒアンシーたちが知る永劫回帰の中で、その道筋はあまりにも長く、あまりにも繰り返し捻じ曲げられていた。
暗黒の潮。ライコス。
そして、人の運命そのものへ染み込むように入り込み、もともとそこにあった怒りや恐怖を膨れ上がらせ、やがて本人すら見分けられないほど異なる人生へ変えてしまう、「壊滅の因子」。
マダム・ヘルタがそれを猛毒に喩えたことを、ヒアンシーはよく覚えている。身体へ入る毒なら、濃度を測ることができる。血液を調べ、臓器の損傷を確認し、解毒剤が存在するなら投与もできる。症状がどこから始まったのかを辿れることもある。
けれど、人の人生へ入り込んで、愛情を恐怖へ、警戒を猜疑へ、守ろうとする意志を破壊へ変えてしまう毒には、どこまでが本人で、どこからが毒なのかという境界さえ見えなくなる。
その恐ろしさを思うたび、ヒアンシーは、今のモーディスの家族を見たときに感じた戸惑いを思い出してしまう。
一度ではない。十度でも、百度でもない。三千三百五十五万三百三十六回。ヒアンシー自身がそのすべてを体験したわけではないし、モーディスだって一度一度を完全な形で記憶しているわけではない。それでも、ファイノンが背負ってきた永劫回帰の記録を知った今となっては、その数字だけが持つ異常な重さを、単なる統計として扱うことなどできなかった。
生まれたばかりの赤子がいる。まだ自分で立てない。言葉も知らない。父の顔と母の顔を、家族という言葉と結びつけることすらできない。その小さな身体が、王の決断によって死の川へ投げ捨てられる。
そして世界が終われば、また生まれる。また投げ落とされる。また死に近づく。そうして同じ世界が、ほんの少し形を変えながら繰り返される。
ヒアンシーは考えただけで指先が冷えるような感覚を覚え、バインダーを抱く腕へわずかに力を込めた。
ステュクスへ流されたメデイモスは、その内部で何度も死と再生を繰り返した。食料も、家族も、彼へ人の言葉を教えてくれる者さえない場所で、それでも九度の冬を越え、やがて死の川から這い上がった。
黄金裔への覚醒と不死の肉体。それだけを聞けば、神話の英雄らしい響きになる。けれど、ヒアンシーには、それを力強い物語だけとして聞くことはできなかった。
九年という時間は、医療者でなくとも分かるほど長い。ひとりの赤子が、自分の足で歩き、言葉を覚え、食べ方を覚え、人との距離を覚え、自分が何者なのかを少しずつ形作っていくはずの年月である。――その時期を死の川で生き延びることに費やした子どもが、やがて地上へ戻り、駆け付けたクレムノスの孤軍と合流し、それからさらに十年ものあいだオンパロス各地を奔走する。
そこで呼ばれた名の一つが、不死なるメデイモス殿下。孤高の獅子。そして今では、「紛争」の火種を追い、その火種を継いだ者として、紛争のタイタン・ニカドリーと呼ばれることさえある。
呼ばれた本人は、いちいち訂正することもなかった。実際、永劫回帰の中には、彼がニカドリーとして在った結果も存在する。
けれどヒアンシーにとっては、目の前で工芸職人の作業を覗き込み、石の削り方にまで口を挟んでいる男と、ひとつの神話へ変換されてしまった「不死の王子」という呼び名との間には、どうしても埋まらない距離があった。
「殿下、こちらの意匠はいかがでしょう」
職人の声で、ヒアンシーの意識が現在へ引き戻された。モーディスは差し出された石板を受け取り、少し角度を変えて光へ翳した。削られた線へ指を沿わせ、やがて顎をわずかに引く。
「悪くない。ただ、ここは王家の紋章へ寄せすぎだ。祭りへ出すなら、門衛が使っていた意匠の方がいいだろう」
「なるほど。民間式で?」
「ああ。王宮の歴史だけがクレムノスではない」
「承知しました」
職人は素直に頷き、石板を受け取ると、仲間たちのところへ戻っていった。
ヒアンシーはその背を見送ったあと、再びモーディスを見る。王宮の歴史だけがクレムノスではない。何気なく聞けば、それだけの言葉だった。
けれど、父を殺して王となり、その王をまた殺した者が次の王になるという血の連鎖さえ、かつてはクレムノスの王座へ組み込まれていた。そこへ生まれ、自ら父を討ち、それでも玉座へ座らなかった男がそう言うと、言葉の奥にはヒアンシーの知らない重さまで沈んでいるように聞こえる。
その父親が――今では、どう見ても愛妻家なのである。
ヒアンシーは初めて現在のオーリパン王夫妻をきちんと見た日のことを思い返し、思わず唇を少しだけ結んだ。あれは驚いた。本当に驚いた。
王妃の歩調が少しでも遅れれば、オーリパン王は何も言われる前に速度を緩める。重いものを持とうとすれば先に手を伸ばし、座る場所を見つければ、自分が腰を下ろすより先に彼女の椅子を確認していた。
王妃の方も王を遠ざける様子はなく、あれこれ世話を焼かれれば呆れたように眉を上げることこそあれ、その手を振り払ったりはしない。言い合っているように見えても、気づけば同じ方向へ歩いている。
そして息子へ向ける態度となれば、なおさらだった。モーディスほどの大男を捕まえて、いつまで幼子だと思っているのだろうと問いかけたくなるほど気に掛ける。食事は済ませたのか、身体に異常はないか、無茶はしていないかと確認し、本人が露骨に眉間の皺を深くしても、まるで意に介さない。
モーディス本人は、そのたび顔をしかめたり、短い返事で会話を終わらせようとしたり、ひどい時には無言のまま遠くを見ることもあった。
当事者ではないヒアンシーにはその沈黙の意味までは断定できない。過去の記憶と目の前の両親とを、彼がどのように折り合わせているのかは彼自身の領分だ。でも、ただ、困惑しているらしいことだけなら、視線の置き場を失う様子や、返事までに生まれる珍しい間から十分に窺えた。
無理もありませんよね、とヒアンシーは思う。実父から三千三百五十五万三百三十六回ほどステュクスへ投げ落とされた記憶がある息子と、胎を痛めて生を授けた我が子をそのたび死の川へ落とされた記憶を持つ母親。
そして彼らの眼前には、それらの記憶とまるで繋がらないかのように妻を気遣い、息子を気遣う現在のオーリパン王がいる。
同じ顔。同じ声。同じ名。なのに、そこから選ばれる行動だけが、あまりにも違う。
もしも永劫回帰の記憶を持たない誰かが現在の彼らだけを見たなら、あれほど冷酷な父王が存在したなど、とても信じられないのではないだろうか。
―― 「壊滅の因子は、人の人生を狂わせる猛毒よ」
マダム・ヘルタの声が記憶の中へ蘇る。
あの人ならば、そこへ必要以上の感傷を付け加えたりはしないだろう。毒がどのような仕組みで作用し、どれほどの演算結果を歪ませたのかを淡々と分類し、そのうえで対処法を探すに違いない。
ヒアンシーも医療者として、その考え方自体はよく分かる。人が病によって別人のようになったとき、症状だけをその人の本質だと決めつけてしまえば、本来そこにあったものまで見失う。もちろん、病だから何をしても許されるという話ではない。傷つけられた側の痛みは消えないし、起きた出来事そのものを無かったことにもできない。
けれど、病によって歪んだ行動と、その人が元から持っていたものとを切り分けようとすることは、治療を考えるうえで欠かせない。そう考えるなら――オーリパン王にも、ずっと何かは残っていたのかもしれない。
それをヒアンシーが初めて知ったのは、ファイノンからだった。
全てを見て。全てを聞いて。あり得た人生も、壊れた人生も、救えなかった人生も、ほんの僅かに形を変えられた人生も背負ってきた彼は、現在のクレムノス人があまりにも家族思いであることを知っても、驚愕した様子を見せなかった。
むしろ、「ああ、やっぱり」とでも言いたげに納得していた。それが不思議で、以前ヒアンシーたちが訊ねたことがある。なぜそんな顔をするのですか、と。ファイノンは一度目を瞬かせたあと、本当に何でもないことを話すような調子で答えた。
『えっ、オーリパン王って結構愛妻家だよ。何度目かの回帰で分かったことなんだけど、王妃様が妊娠したあと王様はずっと彼女の負担を減らすために色々勉強したことを本にしてたんだ』
ヒアンシーはそのとき、聞き間違えたのだと思った。
『……本、ですか?』
『うん。本』
『オーリパン王が?』
『そうだよ』
『王妃様の、ご負担を減らすために?』
『うん』
あまりにも迷いのない答えに、ヒアンシーだけではなく、その場にいた者たちの何人かまで同じような顔をしていた気がする。ファイノンはそんな周囲の反応を見て、どうしてそんなに驚くのだろうという具合に首を傾げていた。
後から実物に近い記録を確認すると、その本にはきちんと題名まであった。
『悪阻と戦う女戦士を支えるには』
題名だけ聞けば、実にクレムノスらしい。妊娠期の体調管理すら「戦う」という語彙で捉えてしまうあたり、戦士の国らしさが抜けきっていない。
けれど、中身は意外なほど細やかだった。王妃がどのような匂いを嫌がったのか。食べられるものと食べられないもの。体調が悪化しやすい時間帯。眠れる姿勢。身体への負担を減らすには何を変えればよいか。上手くいかなかった方法と、その理由らしきもの。
華々しい戦記でも、王としての訓示でもなく、ひとりの夫が妻の苦しみを少しでも軽くするために試したことを記した、エッセイとメモを掛け合わせたような日誌だった。
医療者であるヒアンシーは、内容を読むほどに妙な気持ちになったものだ。医学的に見れば、訂正したくなる箇所もある。経験則だけで書かれている部分もあったし、それは個人差がありますよ、と余白へ書き込みたくなるところも少なくなかった。
それでも。少なくとも、無関心な人間が作る記録ではなかった。
妻の苦痛を見ていた。何がつらいのかを知ろうとしていた。一度失敗すれば別の方法を試し、役に立ったことは残そうとしていた。それは、ヒアンシーが現在目にする愛妻家のオーリパン王と、確かに繋がって見えた。けれど、それ以上にヒアンシーたちを絶句させたのは、その次にファイノンが口にした話だった。
『……ファイノン様』
『うん?』
『今、前半と後半が一緒にあってはいけない文章になっていませんでしたか?』
『僕もそう思う』
『ですよねっ?』
『でも、本当にそうだったんだ』
困ったように眉尻を下げて笑われてしまえば、ヒアンシーにもそれ以上どう返してよいのか分からなくなる。何より不可思議なのは、そのおくるみが一時の気まぐれなどではなかったことだった。
内側は赤子の肌を傷つけないよう柔らかく、寒さから守れる素材を重ねる。外側は岩へ打ちつけられても裂けにくいよう、鞣した革を何層にも加工する。身体を締めつけすぎず、それでいて衝撃でほどけない編み方を選ぶ。そのための技術を得るべく、オーリパン王は制圧した地域から職人を呼び寄せ、何度も改良させていたらしい。
つまり、息子を死の川へ投げ落とすという行為だけを見れば、疑いようもなく残酷である。
なのに、その直前まで。少しでも寒くないように。岩へぶつかって傷つかないように。できるだけ丈夫な布で包むように。父親としての愛情らしきものが、最も凄惨な行為の内部へまで、消え切らずに残っていた。
ヒアンシーには、それが笑ってよい話なのか、泣くべき話なのか、今でもよく分からない。ファイノンが当時参考にされた文献の題名や、地域ごとに異なる革の加工方法までつらつらと挙げ始めたときには、さすがに話が細かすぎて、そちらの方へ意識を逃がしたくなったほどだった。
ところが、その場へモーディスを呼びに来たらしいケラウトルスの顔色が、文献の名が増えるたびに少しずつ居たたまれないものへ変化していった。
『……それは王家の旧記録庫に残っておりますな』
やがて彼が絞り出すようにそう告げたことで、ファイノンが数千万の記憶を混ぜて妙な冗談を言っている可能性まで完全に消えた。
ヒアンシーはケラウトルスとファイノンとを交互に見た。モーディスも同じように二人へ視線を向け、ややあって片手で額を覆った。その指の隙間から覗く眉間には、見事なまでの皺が寄っていた。何を考えていたのかは、もちろんヒアンシーには分からない。
ただ、長い沈黙のあとで零れた低い息が、戦場で敵を前にしたときよりよほど深かったことだけは覚えている。
そうした小さな痕跡を拾い集めていけば、ひとつの仮説へ辿り着く。クレムノスの人々は、もともと戦うことそのものを愛していたのではないのかもしれない。
家族を守りたい。仲間を守りたい。帰ってくる者を迎えたい。自分たちが暮らす土地を失いたくない――そのために強くなり、いつしか強さそのものが文化となり、戦いの歴史が積み重なった結果として、「戦争の国」という側面ばかりが外から見えるようになったのかもしれない。
今、ヒアンシーの目の前で職人たちが彫っている獅子にだって、戦いだけではなく、家を守るもの、帰還を迎えるもの、子どもの健やかな成長を願うものという意味が残っていた。
(もし本当にそうなら……)
オーリパン王が最後の最後まで息子を柔らかなおくるみへ包んだことも。モーディスが戦場で民を庇い続けたことも。クレムノスの人々が今日、武器ではなく道具を握りながら、それでも互いの腕前を競おうと大声を上げていることも。
一本の根から枝分かれしたものとして見ることができる。だからこそ、「壊滅の因子」というものが恐ろしいのだと、ヒアンシーはあらためて思う。
何もないところへ残酷さを作るのではなく。守りたいという気持ちがあれば、それを過剰な恐怖へ変える。強くありたいという願いがあれば、それを他者を踏みにじる力へ変える。愛情があれば、その愛情さえ残したまま、相手を傷つける選択へ追い込む。全部を消して別人にするのではなく、その人が本来持っていたものを使って、その人生を最も残酷な方向へ捻じ曲げる。
ならば、現在の穏やかなオーリパン王を見たモーディスや王妃が、簡単に「本当はこちらだった」と割り切れるはずもないだろう。
過去に傷つけられたことは事実である。今、愛されていることも事実である。どちらか片方を偽物にしてしまえば楽になるのかもしれないが、人の記憶はそんなに都合よく診断書の項目へ分けられるものではない。
ヒアンシーはそういう痛みへ、勝手に名前を付けない。まして「家族なのだから許せるでしょう」とも思わない。ただ、今度こそ誰にも運命を捻じ曲げられない場所で、彼らが自分たちなりの距離を探せるだけの時間があることを願う。そのための時間は、もう終末に奪われなくていいのだから。
そのことを思うと、ヒアンシーの視線は自然と、目の前に広がる作業場へ戻っていった。獅子が彫られている。酒杯の試作品について、まだ誰かが諦め悪く相談している。オクヘイマ側から「その程度か」と野次が飛び、即座に「完成してから吠えろ」と返事が飛ぶ。
モーディスはそれを止めるでもなく、騒ぎが本当の諍いへ変わらない程度にだけ視線を配りながら立っている。
過酷ではあるのだろう。きっと、これからも何一つ傷つかず生きていけるほど優しい世界ではない。それでも、誰かの心へ植えつけられた「壊滅」に人生そのものを奪われる世界より、ずっと優しい。
黎明を灯すために、ファイノンにとっての
三千三百五十五万三百三十七回目の永劫回帰。
その最後に近い世界では、ファイノンが
クレムノスの家族が、家族として在ること。誰かが武器ではなく道具を手に取る余裕を持つこと。敵国同士だった者が、口喧嘩をしながら同じ祭りを作ること。明日の予定を立てること。誰かの帰りを待つこと。誰かと一緒に笑うこと。過酷だけれど、確かに優しい世界だった。
ヒアンシーは、目の前で槌を振るうクレムノス人たちを眺めた。石から少しずつ姿を現す獅子の鼻先へ陽光が触れ、その輪郭の下では、帰還を願う古い文様が一本ずつ丁寧に彫り込まれていく。
きっと、こういうものだったのだろう。
黄金裔たちが望んでいたものは。英雄が命を投げ出した先に、もっと大きな英雄譚が待っている未来ではない。人が家族を愛し、喧嘩をし、文化を誇り、疲れれば水を飲み、翌日の仕事について話せるような世界。
その当たり前を守るために、あまりにも多くのものが失われた。そして三千三百五十五万三百三十七回目の世界では、たしかにその景色へ近づくことができた。――そこに、ファイノンとキュレネがいなかったことをのぞけば、だけれど。