黄金裔たちが幾度も繰り返した永劫回帰の果てに、クレムノスは戦ではなく文化を編む未来へと歩み始めていた。
石を刻み、金属を打ち、互いの技を競い合う喧騒の中で、モーディスは民と並び立ち、かつて紛争の象徴と呼ばれた男とは思えぬほど自然にその場へ溶け込んでいる。
ヒアンシーはその姿に安堵を覚えながらも、壊滅の因子が捻じ曲げてきた無数の過去を思い返し、愛と暴力が同じ根から生まれ得ることの残酷さに言葉を失う。やがて彼女は、ファイノンが幾度もの回帰の記憶を背負いながらも未来を託した意味を噛みしめるのだった。
ファイノンとキュレネがいなかったことをのぞけば。その一文を胸の内で言葉にした途端、ヒアンシーは、ほんの少しだけ抱えていたバインダーの角へ指を滑らせた。
目の前には、彼らがいなかった世界では辿り着けなかったかもしれない景色が、何の気負いもなく広がっている。命を賭ける必要のない張り合い。明日へ持ち越しても構わない議論。負けたところで、もう誰も死なない競争。
石を削る音がして、オクヘイマの職人とクレムノスの職人が互いの技術へ好き勝手に口を出し、数歩離れたところでは運搬を終えた者たちが木陰で水を飲みながら、次はどちらの工芸品を目立つところへ置くべきかとまだ議論を続けていた。
ヒアンシーは、その一つ一つを見つめていたかった。医師が治療を終えた患者の歩幅を見送るような気持ちで、今ここにあるものが本当に続いていくのだと、何度でも確認していたかった。だからこそ、過去を思い返したままではいけないと、軽く息を吸った。
石粉と乾いた土の匂いに、どこかから運ばれてきた木材の青い香りが混じる。風が吹けば、作業台の上に積まれた紙の端が鳴り、遠くではイカルンが誰かの呼び声へ短く返事をしている。現在は、目の前で忙しく動いている。
「そう言えば、モーディス様は石材担当なのですか?」
手元の記録へ視線を落としながら問い掛けると、モーディスは積み上げられた石材の方へ一度目をやった。
「ああ、アグライアから異文化交流のためにと声が掛かり、ケラウトルスや父上から外交と思って参加せよと」
「外交……」
ヒアンシーは、羽ペンを動かしかけた手を止めた。その言葉から真っ先に思い浮かんだのは、きらびやかな衣装を纏った使節団でも、長机を挟んで文書を読み上げる会談でもない。
つい先ほどまで石材を担ぎ、衣服へ白い粉を付けたまま立っているモーディスの姿と、その後ろで「オクヘイマより見事なものを作る」と息巻いているクレムノス人たちだった。
「外交って、こういう感じでしたっけ……?」
「知らん。俺は言われた通り来ただけだ」
「ふふっ、モーディス様らしいですねぇ」
モーディスは何が可笑しいのだと言わんばかりに片眉をわずかに上げたが、抗議まではしなかった。むしろ、それ以上に気になったのは「アグライアから」という部分だった。
異文化交流。言葉にしてしまえば柔らかな響きがあるけれど、実際に異なる国の文化を同じ場所へ持ち込むとなれば、そんなに簡単なものではない。
ヒアンシーは無意識に、少し離れた作業場へ視線を向けた。オクヘイマの職人が、金属板へ細かな意匠を彫り込んでいる。その隣ではクレムノスの職人が、石へ大胆な線を刻みながら、ちらちらと相手の手元を気にしていた。
目が合った。一方が鼻を鳴らした。もう一方が口の端を吊り上げる。また槌が鳴った。今のところ、それだけで済んでいる。
けれど、外交と言ったって、自国の文明に圧倒的な自信をお持ちのオクヘイマ人と、同じく自国の強さと歴史へ一切の妥協なく誇りを掲げるクレムノス人は、昔からよくよく対立しがちなのである。
ヒアンシーが知る限りでも、戦術、建築、装飾、食文化、鍛冶技術と、議題を問わず火種は見つかる。
オクヘイマ側が「洗練」と言えば、クレムノス側は「実用性のない飾り」と返す。
クレムノス側が「堅牢」と言えば、オクヘイマ側は「粗野」と評する。
互いの知識や技術を本気で低く見ているというより、自分たちのものへ誇りを持っているからこそ簡単には譲らないらしく、外から眺めているぶんには面白くとも、間へ入って調整する者にとってはなかなか大変である。終末を越えた今でも、そこはお変わりないらしい。
「その外交というのは、モーディス様が間に入ってまとめられたんですか?」
「いや」
あまりにも即答だった。ヒアンシーは瞬きをする。
「違うんですか?」
「俺は石を運んだだけだ」
「でも皆さん、一緒に作業されてますよね?」
「ああ」
「喧嘩もされてませんし」
「あれを喧嘩に含めないのならな」
モーディスが顎で示した先から、ちょうどよく声が飛んできた。
「その線では獅子ではなく肥えた猫になるぞ、オクヘイマ!」
「そちらこそ彫りが深すぎる! 祭りの飾りに城門の威圧感を持ち込むな!」
「何だと!」
「聞こえなかったか!」
ヒアンシーは口を閉じた。モーディスも黙った。
数秒ほど見守る。
「……まあ、手は出てませんね」
「ならば問題あるまい」
「モーディス様、判断基準がクレムノスなんですよぉ」
そう言いながらも、ヒアンシーは少し笑ってしまった。けれど、本当に不思議ではある。言葉は多少荒い。声も大きい。それでも、誰も工具を置いて相手へ詰め寄ったりはせず、むしろ言い返しながら作業を続けている。先ほどなどオクヘイマの職人が、クレムノス側の鑿の刃を見て「それでは細部が潰れる」と自分の工具を貸していたくらいだ。
表面上は張り合っていても、必要な技術は交換している。互いの文化を認めると言葉にするより、よほど素直な交流なのかもしれない。とはいえ、そこへ至るまで何もなかったとは考えにくかった。
「でも、最初からこんな感じだったんでしょうか」
「何がだ」
「オクヘイマのみなさんとクレムノスのみなさんです。異文化交流をしましょう、と言って、それでは仲良く一緒に作りましょう、なんてすぐにはならなそうだなあって」
ヒアンシーが首を傾げると、モーディスは答える代わりに少しだけ視線を横へ動かした。その反応だけでも、何かあったのだろうという気がしてくる。
「もしかして、大変でした?」
「俺は知らん」
「またそれですか?」
「俺は本当に、石を運んだだけだ」
そこまで言われて、ヒアンシーはますます分からなくなった。
(では、誰が……?)
アグライアなら交渉そのものは得意だろう。相手の誇りを傷つけず、しかし必要な譲歩は引き出し、気づいた時には全員が彼女の描いた線の上を歩いているような調整さえできそうだ。
けれど今回、アグライアは他にも多くの準備を抱えている。市民会とのやり取り。資材の配分。会場候補の調整。黄金裔同士の役割分担。そのすべてをしながら、クレムノスとオクヘイマの職人たちを一人ずつ説得して歩いたとは考えにくい。
では、ケラウトルスはどうだろう。もちろん外交上の手続きには関わっているだろうが、今の話を聞く限り、彼自身が「外交と思って参加せよ」とモーディスを送り出す側だったらしい。うーん、とヒアンシーは考えながら、無意識に羽ペンの軸を頬へ当てた。
そのときだった。
「力仕事なら彼らも気兼ねなく参加できるだろうから、僕が声を掛けたんだ」
モーディスの背後から、まったく別の声がした。
柔らかく、よく知っている。それなのに、つい先ほどまで記憶の中で何千万もの年月と一緒に思い返していた声が、あまりにも当たり前の距離から聞こえてきたため、ヒアンシーの思考はきれいに止まった。
「ファイノン様!」
名前を呼びながら顔を上げる。最初に見えたのは、モーディスの肩だった。それから、その向こう側。
「やあ」
大柄なモーディスの肩越しから、白銀の髪がひょこりと覗いていた。ファイノンは少し身体を横へ傾けるようにして、こちらへ顔を出している。
青い外套の肩口には細かな木屑らしきものが一片だけ付着しており、陽光を受けた白銀の髪も、いつもよりほんの少しだけ無造作に流れていたけれど、その顔にはいつもの柔らかな笑みがある。
先ほどまでヒアンシーの胸中にあった三千三百五十五万三百三十七回という数字も、神の御許へ向かった最後の戦いも、未来へ残してきた唯一の未練も、その笑顔の表面からは何一つ見えなかった。ただ、祭りの準備を手伝っている一人の青年がいる。それだけだった。
だからヒアンシーの中へ残っていた過去の重さも、一瞬だけ行き場を失った。欠けていた。先ほどまで、たしかにそう考えていた。あの優しい世界には彼とキュレネがいなかったと。けれど今は。
「ファイノン様、いつからそこに?」
「今来たところだよ。資材の配置を確認しに来たんだ」
「びっくりしましたぁ……」
「ごめんごめん」
眉尻を下げて笑う表情が、本当にいつものファイノンだった。
今度は、いる。石を削る音の中に。誰かが口喧嘩をする声のそばに。明日のための作業表へ名前を書き込める場所に。
未来を託して消えていく人物としてではなく、その未来の中を歩いて、資材の置き場所を確認しに来る人として存在している。
ヒアンシーはその事実へ何か言葉を付けようとしたものの、結局、何も言わなかった。口にすれば、必要以上に大きな意味へ変わってしまいそうだったからだ。
「それで、ファイノン様がクレムノスのみなさんにお声掛けを?」
「うん。最初は石材の運搬を頼めないかって話をしただけだったんだけどね」
ファイノンはモーディスの横へ出てきながら、作業場を見渡した。
「オクヘイマ側だけで全部を作るより、それぞれ得意な人に参加してもらった方がいいと思ったんだ。クレムノスの人たちは重いものを運ぶのに慣れてるし、それなら最初から入りやすいかなって」
「そこから工芸品のお話に?」
「そうそう。石を運ぶなら加工場所まで行くだろう? それで向こうの職人がオクヘイマの彫刻を見て、『クレムノスにも似た技術がある』って話になって」
「似てなどいない」
モーディスが横から低く訂正した。ファイノンが瞬きをする。
「そうなの?」
「似ているなどと言えば、あいつらがまた騒ぐぞ」
「ああ……」
ファイノンは作業場へ視線を向けた。
「だから、その曲線が軟弱だと言っている!」
「美しさというものを理解しろ、野蛮人!」
「誰が野蛮人だ!」
ちょうどそのとき、声が飛び交っていた。
「……うん。似てないってことにしておこうか」
「その方が賢明だ」
ヒアンシーは堪えきれず笑った。
「お二人とも、そこはもう少し文化的な解決をしてくださいよぉ」
「僕は十分文化的にしてるつもりなんだけどな」
「貴様が両方へ好きに作れと言った結果があれだろう」
「だって、止める必要ないと思って。喧嘩しないなら好きなものを作ればいいし、置く場所なら調整できるだろ?」
「それで展示場所を倍にしたのか」
「……よく知ってるね」
「石材の搬入先が増えたからな」
「あっ」
ファイノンの視線が一瞬だけ泳いだ。ヒアンシーは、やっぱり、と笑う。おそらく最初から、細かな計画を組み上げて両者をひとつの作業へ押し込んだわけではないのだ。
参加しやすい入口を一つだけ用意した。まずは石を運ぶという単純な作業から始めさせ、その先で互いの技術が自然と目に入るようにした。やがて自分たちにも作れるのではないかと誰かが言い出す。
ならば作ってみればいい。場所が足りなければ増やし、必要な資材が増えれば別の場所から回すだけだ。そうやって、出てきた意欲を止めずに道だけ少し広げていった結果、気づけばオクヘイマとクレムノスが同じ祭りの中で技術を競い合っていたらしい。
きれいに整えられた外交とは少し違う。けれど、人が自分から動きたくなる余地を残すという意味では、ひどくファイノンらしいやり方だった。
「でも、ありがとうございます。おかげで展示もかなり賑やかになりそうです」
「僕は声を掛けただけだよ。作るって決めたのはみんなだから」
「その声掛けが大事なんですよ」
「そうかな」
「そうですっ」
ヒアンシーが強めに頷くと、ファイノンは少し困ったように笑った。本人にとっては本当に、それほど大したことをした感覚がないのだろう。
昔からそういうところがある。道を切り拓き、危険を退け、誰かが歩ける場所を作ったあとで、自分はただ必要なことをしただけだと言う。けれど、今目の前にあるものは、終末の中で彼が何度も選んできた「必要なこと」とは少し違っている。
誰かの命を救うためではない。滅びを遅らせるためでもない。祭りを少し賑やかにするため。互いの文化を知る機会を増やすため。クレムノスの職人たちが、自分たちの技術をもう一度形にするきっかけを作るため。その程度のことへ力を使える。ヒアンシーには、その「程度」がとても大切に思えた。
「ところでファイノン様、こちらへ来られたということは、石材はもう終わりですか?」
「ああ。ひとまず今ので最後だね」
ファイノンは積み上がった石へ目を向け、数を確かめるように視線を動かした。
「加工場へ直接持っていった分も確認してきたし、ここへ来る途中でオクヘイマ側にも伝えてある。追加が必要なら、たぶんクレムノス側と相談すれば大丈夫だと思うよ」
「わあ……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ファイノンは軽く手を振った。
彼の視線はすぐ次の場所へ移っていた。石材置き場の奥。そのさらに向こう。人の出入りする通路と、別の資材置き場へ続く道。ヒアンシーには、ただ周囲を確認しているように見えた。
「ひとまず今ので最後で、次は木材を集めるんだよね」
「はい。今朝の時点では、まだ加工に回せる量が少し足りなかったはずです」
「そっちはアナイクス先生が、相棒の――ちび大地獣と一緒に準備を進めてるようだったから、
「アナイクス先生と、ちび大地獣さんが?」
ヒアンシーは少し首を傾げた。アナイクスが木材の選定や必要量の計算へ関わっていること自体は不思議ではない。強度や寸法、加工効率を考えるなら、むしろ適任だろう。
問題は、その後半である。
「大地獣さんも、運んでくださるんですか?」
「うん。ちょうど力を貸してくれる子がいたみたいで。アナイクス先生がものすごく喜んでたよ」
「ものすごく」
「ものすごく」
ファイノンが同じ言葉を重ねた。ヒアンシーの頭に、神悟の樹庭にいた頃のアナイクスが浮かぶ。
大地獣に関する資料を前にした時の目。生態について語り始めた時の速度。普段ならば理路整然と組み立てられる言葉が、好きなものを前にすると妙な熱を帯び始める様子。
「……先生、大丈夫でしょうか」
「僕も少し気になってる」
「倒れてませんよね?」
「さっき見たときは大丈夫だったよ」
「さっき」
「うん」
「今は?」
「だから確認して来ようかと思って」
その返答があまりにも滑らかで、ヒアンシーは一度だけ目を瞬いた。けれど、すぐにアナイクスの様子を想像してしまい、そちらへ意識が持っていかれる。
大地獣に囲まれた先生。興奮する先生。木材の選定を忘れて大地獣の観察を始める先生。――ありそうである。とてもありそうである。
「先生なら、木材より先に大地獣さんの計測を始めてしまいそうですねぇ……」
「もうやってるかもしれない」
「止めた方がいいのでは?」
「作業が進んでるなら、まあいいんじゃないかな」
「ファイノン様、先生に甘くありません?」
「好きなものを調べてる時のアナイクス先生、楽しそうだし」
「それはそうですけどぉ……」
ヒアンシーは少し困ったように笑った。本人も楽しみながら作業が進むなら、それに越したことはない。
市民たちが自分の得意なことを持ち寄っているのと、きっと同じなのだろう。誰かから割り当てられた仕事を義務としてこなすのではなく、自分ができること、自分が好きなことを持ってくる。
クレムノス人は石を運び、職人は工芸を形にし、アナイクスは知識を手繰って全体の理を整え、大地獣はただそこに在る力として荷を支えている。そしてファイノンは、そのあいだを歩きながら、人と人のあいだに生まれたわずかな空白を見つけては、言葉や手振りでそっと埋めていく。それぞれが思い思いに動いているようでいて、その動きはいつの間にか噛み合い、ひとつの祭りという形へと静かに収束していった。
若木の下で「どんな未来を見たいか」と言葉にしたときには、まだ輪郭だけだったものが、今は木材や石材や人の足音という、触れられる形へ変わり始めていた。ヒアンシーはそのことが嬉しくて、自然と声を明るくした。
「ありがとうございます。お疲れ様です、ファイノン様」
「はは、まだまだ行けるよ」
返ってきた声にも、苦しそうなところはなかった。ファイノンはいつもと変わらない様子で笑っている。肩が落ちているわけでも、呼吸が乱れているわけでもない。言葉の切れも軽く、視線もはっきりしていた。
だからヒアンシーも、その時点ではただ、「元気そうでよかった」と受け取った。
「……っと、次があるから僕はこれで。アナイクス先生が大地獣に囲まれて倒れていないか確認しなくちゃいけないんだ」
そう言いながら、ファイノンは片手を軽く上げた。
「ああ」
モーディスが短く応じる。ヒアンシーもつられて手を振った。
「がんばってください!」
「うん、二人も」
ファイノンは振り返りざまにそう返すと、人の往来する作業場の中へ軽い足取りで歩き出した。白銀の髪が陽光を弾き、青い外套の裾が人々の間を抜ける風に揺れる。途中で誰かから声を掛けられれば立ち止まり、短く答え、それが済めばまた次の場所へ向かっていく。
ヒアンシーは、その姿が人波の向こうへ遠ざかるまで、しばらく目で追っていた。
ほんの少し前まで胸の内へ浮かべていた、ファイノンとキュレネだけが欠けた優しい世界。今は、その世界の続きに彼がいる。
文化を誇る人々の横を歩き、祭りの資材を確認し、先生が大地獣に囲まれて倒れていないか見に行くと笑っている。
そんな、ごく普通の用事を次々と抱えて忙しそうにしていることさえ、ヒアンシーには一度だけ微笑ましく映った。彼が神話の向こう側ではなく、皆と同じ明日の中を走っているのだと分かるからだった。