オクヘイマとクレムノスの職人が同じ祭りの場で技を競い合う中、ヒアンシーは“命を賭けない張り合い”の異文化交流の光景を見守っていた。モーディスは石材運搬として関わり、外交の名の実態を淡々と語る。
やがてファイノンが現れ、資材配置と調整の中心として自然に場へ溶け込む。彼の提案で作業は円滑に進み、さらにアナイクスと大地獣の木材搬送計画へと話題は広がっていく。その裏でヒアンシーは、彼がなお働き続ける姿に小さな違和感を抱き始める。
人波の向こうへ遠ざかっていく青い外套を見送りながら、わたしはしばらく、そのまま手を胸のあたりまで上げていました。
ファイノン様は途中で一度、木材を抱えた市民の方に呼び止められたようでした。進みかけていた足を止めて振り返り、相手が指し示す方角へ目を向ける。何か二言、三言ほど交わしたあと、自分でも資材の端へ手を添えて置き場所を少し直し、それからまた別の誰かに声を掛けられていました。
立ち止まっているようで、休んではいません。けれど、そのときのわたしは、それをまだ深刻なものとして捉えてはいませんでした。
皆さんと同じ未来の中で、ファイノン様も忙しくしている。そのことが嬉しかったのです。神話の中で誰にも追いつけない場所を走るのではなく、お祭りの準備で人から人へ呼ばれ、木材が足りないだとか、展示場所が狭いだとか、先生が大地獣さんに夢中になっているだとか、そんなことで歩き回っている。わたしには、それがとても健やかなことに思えました。
「……アナイクス先生、大地獣さんに囲まれて倒れていたりしないといいんですけど」
小さく零すと、すぐ隣からモーディス様の低い声が返ってきます。
「あれは大地獣程度で倒れる男なのか?」
「大地獣さんだからこそ、ですよ。先生、大好きなんです」
「……そういうものか」
「そういうものですっ」
胸を張って答えてから、先ほどファイノン様から聞いた話を改めて頭の中で並べてみます。大地獣さんと一緒に木材を運ぶアナイクス先生。
きっと運搬だけで済むはずはないでしょう。木材の強度を調べて、その途中で大地獣さんの歩幅に気づいて、運搬効率を計算しようとして足跡を測り、そうしているうちに角の形がどうだとか鱗の構造がどうだとか、荷物とは別の話へどんどん進んでいく先生の姿が、目に浮かぶようでした。
神悟の樹庭にいた頃もそうです。アナイクス先生は普段なら、質問へ順序立てて答えてくださいますし、分からないものは分からないと言ったうえで調べようとされます。
それなのに大地獣のこととなると、ときどき知識欲というものが身体から溢れてしまったような状態になるのでした。
(あまりの”先生らしさ”に、想像するとちょっと可笑しいですね)
口元へ浮かんだ笑みをそのままに、わたしはバインダーへ視線を戻しました。石材の受領数をもう一度確かめて、酒杯の項目には念のため印を付けておく。
クレムノスの工芸品については後で他の皆さんにも共有しなければいけませんし、オクヘイマ側の展示面積も増えているのですから、配置図にも修正が必要でしょう。
紙面へ羽ペンを滑らせながら、一つずつ、次にやることを考えていきます。木材。布。短冊用の紙。休憩場所。子どもたちが走り回ることを考えた通路幅。水場の位置。
わたし自身にも、まだまだ仕事はありました。だからでしょうか。颯爽と立ち去っていった青い外套を、あまりにも自然に見送ってしまったのは。
羽ペンの先が、紙面へ触れる寸前で止まりました。
(……あれ?)
ほんの小さな違和感でした。
何かを見落としたとき、頭の隅へ細い棘が引っ掛かるような感覚。わたしは視線を紙へ向けたまま、先ほどのファイノン様の姿を思い返します。
呼吸は乱れていませんでした。足取りも軽かった。顔色も、わたしが見た限りでは悪くありません。受け答えも普段どおり。「まだまだ行けるよ」と笑った声に無理をしているような掠れはなく、本人が本当にそう感じているのだろうということまで分かるくらい自然でした。
そこまではいいのです。問題は、そこではありません。
(ファイノン様、昨日も早朝からずっとお仕事をされてましたよねっ?)
思い出した瞬間、わたしは羽ペンを持ったまま顔を上げました。
もうファイノン様の姿は見えません。人の流れの向こうへ、すっかり消えてしまっています。
昨日。たしか、日の光がまだ低いうちから、資材を運ぶ人たちの間に白銀の髪を見掛けています。若木の周辺を確認して。市民会へ渡す情報を整理して。会場候補になっている場所を見回り。途中で誰かに呼ばれて運搬を手伝い。
食事の時間には姿が見えなくなったので休んでいらっしゃるのかなと思ったのですが、後から聞けば別の区域で必要な資材を確かめていたらしく、そのあとも夕方近くまで人と話していました。
では夜は。ちゃんと眠ったのでしょうか。そこまで考えたところで、わたしは昨夜遅くに受け取った準備資料を思い出しました。
追加された搬入経路。
誰が作ったのか確認したとき、たしか――。
「……ファイノン様でしたよね」
声に出してしまいました。
「何がだ」
モーディス様がこちらを見る。
「昨日の追加資料です。夜に届いた運搬経路の見直し、ファイノン様がまとめてくださったものだったはずで」
「知らん」
「そうですよね、モーディス様は昨日こちらにいらっしゃいませんでしたし……」
それなら、朝から働いて、昼も動いて、夕方まで仕事をし、少なくとも夜には資料を作っている。
今朝はどうだったでしょう。わたしがここへ来た時点で、すでにファイノン様は別の場所の準備を進めていたと聞いています。何時に起きたのか。あるいは、何時まで起きていたのか。
お休みは、いつされているんでしょうか。わたしはゆっくり羽ペンを置きました。倒れた。熱が出た。呼吸が苦しくなった。痛みを訴えた。医師として人を見るとき、分かりやすい症状だけを待っていてはいけません。もちろん、それらは重要な情報です。けれど、そうなってから初めて休ませるのでは遅いこともあります。
食事は取れているか。睡眠は足りているか。仕事と仕事の間に身体を休める時間があるか。本人が「大丈夫」と言っていても、その大丈夫が「健康だから大丈夫」なのか、「まだ動けるから大丈夫」なのか。
そこはまったく違います。特にファイノン様の場合、なおさらでした。彼の「まだ行ける」は、本当にまだ行けるのです。それが困るのです。
もう少し動けば倒れてしまう人なら、本人にだって危険が分かりやすい。眩暈がする、手が震える、息が切れる。身体の方から、そろそろ止まってくださいと教えてくれる。
けれど彼は、長すぎる旅の中で「動ける限り動く」という基準をあまりにも身体へ馴染ませてしまっています。終末期には、それでなければ間に合わなかったのでしょう。一つの判断が遅れれば誰かが死ぬ。一度休めば、その間にも世界が壊れていく。身体が動くなら次へ行く。まだ立てるなら戦う。
そうして何千万もの回帰を走った方へ、今日から平和になりましたので疲れる前にお休みください、と言ったところで、身体の使い方まで一夜で変わるはずもありません。だからこそ、彼が笑って「元気だよ」と言える時ほど、生活そのものを見なければいけないのです。
「……うーん」
思わず腕を組みました。
「何だ」
「ちょっと困りました」
「何がだ」
「ファイノン様です」
モーディス様の眉が少し動いた。
「さっきまで元気そうだったが」
「はい。元気そうでした」
「なら何が問題だ」
「元気そうであることと、お休みを取っていらっしゃることは別問題なんですよ」
自分で口にして、少し前のモーディス様の言葉を思い出します。働けることと、休まなくていいことは同義ではない。なるほど。あれはとても良い言葉です。
わたしは感心しながらモーディス様を見ると、彼の方はなぜ急に見つめられたのか分からないらしく、眉間の皺を少し深めました。
「モーディス様」
「何だ」
「先ほど、とても良いことを仰ってましたね」
「何の話だ」
「働けることと、休まなくていいことは同義ではない、です」
「ああ」
「まさしくそれです!」
「……何がだ」
声が一段低くなりました。わたしは少し前のめりになりながら、今まで思い出したことを順番にお話ししました。
昨日の早朝から姿を見ていたこと。昼間も資材の調整を続けていたこと。夕方まで人と話していたこと。夜には追加資料を作っていたこと。今朝も、わたしが来るより前から既に動いていたらしいこと。
「なので、おそらく長時間働き続けていらっしゃるんです。もちろん、途中で食事や小休憩くらいは取ってくださっていると思いたいですけれど……しっかり何もせず休む時間となると、ちょっと見つからなくて」
モーディス様はすぐには答えませんでした。わたしの顔から、ファイノン様が消えていった方向へ視線を移す。遠くでは、人々が木材を運んでいます。その向こうへ青い外套はもう見えません。
「本人へ聞けばいいだろう」
「もちろん聞きます。でもファイノン様の場合、『休みました』の内容から確認しないといけないんですよねぇ」
「どういう意味だ」
「移動中に座りました、とか。資料を読みながら食事しました、とか。人を待っている間は何も運んでませんでした、とか」
「それは、……休みではないだろう」
「そうなんですっ」
思わず強く頷いてしまいました。
モーディス様の眉間へ、別の種類の皺が増えたように見えます。
「……そんなことを言うのか、あいつは」
「言いますね」
「何故だ」
「本人にとっては嘘ではなく、休憩の一種だからです」
これがまた難しいのです。悪意を持って誤魔化しているなら、こちらももっと強く言えます。でもファイノン様は、本当に「その間は休んでいた」と思っていることがあります。
終末期と比較すれば身体を酷使していない。戦闘もしていない。命を削るような権能も使っていない。だったらこれは休息。そんな基準になってしまうのも、彼が歩いてきた年月を考えれば理解できなくはありません。理解できることと、許していいことは別ですが。
「あとでアナイクス先生のところへ行かれるなら、木材を運ぶときにまたこちらへ来てくださると思います。そのときに、ちゃんと確認してみましょう」
「それで休んでいなかったら?」
「休んでいただきます」
「本人が拒んだら」
「……休んでいただきます」
もう一度言いました。
モーディス様が無言になる。わたしも黙りました。
風が吹き、バインダーへ挟んでいた紙の端がぱらぱらと鳴ります。その音を聞きながら、わたしは過去に試した手段を思い出しました。
「イカルン」
「ぷる?」
少し離れたところで資材の見張りをしていたイカルンが、こちらへ顔を向けました。わたしは手招きをして、近づいてきた彼の頬へそっと触れます。
「もしファイノン様がお休みを拒否されたら、また風で草原に押し倒すというのはどうでしょうか」
「ぷるる……」
イカルンが、なんとも言えない声を出しました。思い当たることがあるのでしょう。わたしにもあります。
以前、似たようなことをしたことがあるのです。どう言っても休んでくださらないので、もう仕方ありませんと、イカルンにお願いして風で草の上へ押し倒しました。
倒すところまでは成功しました。柔らかな草の上でしたし、怪我もありません。そのまま少しくらい横になっていてくだされば良かったのですが。ファイノン様は数秒ほど空を見上げてから、「? ……ありがとう、ちょっと身体が伸びたよ」と起き上がり、そして仕事へ戻りました。
(あれは寝かしつけとは言えませんでしたね……)
わたしは遠い目になりかけて、慌てて戻します。
「うーん……イカルンの風だけでは有効打にならないんですよねぇ」
「何を悩んでいる」
「ファイノン様を寝かしつける方法を……」
「
モーディス様の声が、わずかに低くなりました。わたしが振り向くと、彼は訝しげに眉を潜めたままこちらを見ています。
「はい」
「寝かしつける?」
「はい」
「……あいつを?」
「はいっ」
念を押すように三度答えると、モーディス様はしばらく黙り込みました。その視線がゆっくりと人波の向こうへ向かいます。先ほどファイノン様が歩いていった方角。
わたしはその横顔を見ながら、そう言えば、と思い出しました。ファイノン様とモーディス様は、火を追う旅の中でも何度も肩を並べた仲間です。
競い合うことも多かったようですし、互いの強さを知っているからこそ遠慮なく言えることもあるのでしょう。少なくともわたしが「休んでください」とお願いする時とは、違う言葉が届くかもしれません。
「モーディス様なら、ファイノン様がお疲れかどうか分かりますか?」
「知らん」
「そんな即答を……」
「だが」
そこで彼の言葉が一度止まりました。
金色の目が、遠くに向けられたまま細くなる。
「以前よりは、無駄に動く」
「無駄に?」
「必要なものを取るついでに別の物を運び、誰かが困っていれば手を出し、用が済めば次を探す。放っておけば、いつまでも何かをしている」
「……ああ」
思い当たりすぎて、わたしは小さく声を漏らしました。
まさしく、それです。
「休むのが苦手なんですよね」
「昔からだろう」
「昔より分かりにくくなった気もします。今は戦いではありませんから」
怪我をしているわけでもない。血を流しているわけでもない。だから、周囲も「働き者ですね」で見過ごしてしまいやすい。本人も、平和な仕事なのだから無理ではないと思っている。けれど身体にとって、休息が不要になるわけではありません。
特にファイノン様は、今やっと「生き延びるためではない身体の使い方」を覚えている途中なのです。わたしがそこまでお話しすると、モーディス様は小さく鼻から息を吐きました。
「……そういえば」
「はい?」
「麦畑に寝転ばせておけ、と言われた」
「麦畑?」
思いがけない単語に、わたしは目を瞬きました。
「誰からです?」
「何人かにだ」
「ファイノン様のご両親からの御言葉ですか?」
「……それもあるが、歳月の巫女の、」
「キュレたんの……?」
そこまで聞いたところで、モーディス様の視線が横へずれました。今ここにいないキュレネのことを思い出しているようには見えません。もっと近い場所。わたしもつられて、そちらへ顔を向けます。
少し離れた資材置き場の脇に、長い耳を持つ男性が立っていました。荷物を運ぶ人たちの邪魔にならないよう道の端へ寄り、けれど作業そのものへ注意を向けているというより、何度も同じ方向へ視線を送っています。ファイノン様が立ち去った方角へ。
眉尻は少し下がり、腕を組んではいないものの、片手でもう片方の手首を掴んでいました。何処かでお見掛けしたことがあるお顔。それに、あの耳。
「……あっ」
声が出ました。キュレたんのお父様です。
気づいてから周囲を見れば、その少し前まではファイノン様のご両親らしき方々も一緒にいらしたようでした。今は別の作業場所へ向かわれるところなのか、少し離れた場所で足を止め、キュレネのお父様の肩をそれぞれ一度ずつ叩いてから歩いていくところが見えます。
ご挨拶できなかったのは残念ですが、その三人の距離が思っていたよりずっと近いことに、わたしは少し目を丸くしました。
「ご親族同士で交流がおありなんですね」
「俺に言うな」
「でもモーディス様、先ほどお話されていたんでしょう?」
「一方的に捕まっただけだ」
返事が少しだけ早かった。
わたしはモーディス様を見る。
彼はすでに別の方向を向いています。なるほど。
「そうなんですねぇ」
「何だ、その顔は」
「いえ、何も?」
「なら笑うな」
「笑ってませんよぉ」
口元へ手を添えながら答えたので、あまり説得力はなかったかもしれません。でも、それ以上言うのはやめました。
誰が誰を心配しているのかを、本人が口にしないのに勝手に説明するのは無粋でしょう。ただ、わざわざ覚えていて、わたしへ伝えてくださったという事実だけで十分でした。
ファイノン様を休ませたいと思っているのは、わたしだけではない。黄金裔だけでもない。彼のご両親も。キュレネの家族も。きっと本人が思っているよりずっと多くの人たちが、彼が働いて何かを支えてくれることより、今日は少しくらい何もせずにいてほしいと思っている。
そう考えると、「麦畑」という場所まで、急に違って聞こえました。ただ柔らかい場所だから、ではないのでしょう。
エリュシオンの麦畑。
ファイノン様がまだ救世主でも、世界を背負う存在でもなかった頃から知っている風景。戦う必要のない少年が、陽の下を走り、家族と暮らし、キュレネと同じ景色を見ていた場所。
休息というものを、ただ身体を横たえる行為としてではなく、「何も背負わなかった自分へ戻る時間」として考えるなら、あそこほど似合う場所はないのかもしれません。
(それなら……)
わたしはゆっくりモーディス様へ目を向けました。背が高く、力も強い。ファイノン様と長く戦ってきたので、彼がどのくらい本気で抵抗しているかも分かる。そして何より、先ほど部下へ「働けることと休まなくていいことは同義ではない」と言った方です。
これ以上ないほど適任に見えてきました。
「モーディス様」
「嫌な予感がする」
「まだ何も言ってませんよ?」
「顔に出ている」
そんなにでしょうか。わたしは両頬へ手を当ててみました。イカルンも横からわたしを見上げ、それからモーディス様を見る。
「ぷるる」
「……何だ」
モーディス様の目が、少し細くなりました。わたしはできるだけ何でもないことのように、視線をファイノン様が向かった先へ流します。
「力のつよい方が、ファイノン様を麦畑にお連れしてくださればなあ、と思いまして」
「……」
「わたしでは、もし拒否されてしまったら運べませんし」
「……」
「イカルンの風も、先ほどお話しした通り有効打にはなりませんでしたし」
「ぷるる」
「イカルンもそう言っています」
「今の鳴き声のどこにそんな意味があった」
「気持ちですっ」
モーディス様が額へ手を当てました。深い溜息が落ちます。けれど、否定はされません。なので、わたしはもう少しだけ続けました。
「なんだかんだで、モーディス様はファイノン様のお身体のこともよく分かっていらっしゃるでしょう? どこまでなら言葉で止まるか、どこからなら本当に連れていく必要があるのかも、きっとわたしより判断しやすいです」
「貴様は医者だろう」
「わたしは休んでいただく必要があるかを判断します。どうやって連れていくかは、適材適所ということで」
「便利な言葉だな」
「良い未来を作るには、みんなで得意なことを持ち寄るのが大事ですから」
少し前まで話していた異文化交流と同じ理屈を持ち出すと、モーディス様はとうとうこちらを睨むように見ました。怖い顔ではありますが、本当に怒っている時とは違うことくらい、わたしにも分かります。
「ファイノン様だって、皆さんが得意なことを持ち寄れるようにずっと走り回ってくださってるじゃないですか」
「ああ」
「なら今度は、彼が苦手なことを誰かが手伝ってもいいと思うんです」
「……休むことか」
「はい」
答えると、モーディス様の視線がまた遠くへ動きました。わたしには、その横顔から何を考えているのかまでは分かりません。ただ、先ほどまで深く寄っていた眉間の皺が、一度だけ僅かに緩んだあと、また元へ戻ったのが見えました。その様子へ、これ以上お願いを重ねる必要はない気がしました。
実際、永劫回帰の中でも、どうしても休んでくださらないファイノン様を止めるため、モーディス様のお力を借りたことはあります。
その時だって、最初から無理やり引きずっていったわけではありません。何度か言葉を交わし。ファイノン様の様子を見て。それでも駄目なら腕を掴む。必要なら担ぐ。そういう押し際と引き際は、わたしよりずっと身体で分かっていらっしゃるのでしょう。
最後に念押しするように、わたしはちらりとモーディス様を見ました。その隣でイカルンも顔を上げる。わたしの視線。イカルンの視線。二つを受けたモーディス様は、しばらく無言でした。
そして。
「……はぁ」
今日一番深いのではないかと思うほどの溜息を吐きました。額へ添えていた手を下ろす。それから、ファイノン様が立ち去った方向へ身体を向けました。
「モーディス様」
「何だ」
「よろしくお願いしますね」
「俺はまだ何も言っていない」
「はいっ」
「……聞いているのか?」
「聞いてますよぉ」
モーディス様は何か言いたそうにこちらを見ましたが、結局それ以上は何も仰いませんでした。大きな背中が人の流れへ入っていく。クレムノスの人たちが彼へ声を掛けようとして、向かっている方向を見たあと、何故か途中で口を閉じました。代わりに一人だけ、分かったような顔で頷いている方がいます。
何を察したのでしょう。わたしには分かりません。ただ、モーディス様は振り返りませんでした。数歩進んだところで片手だけを上げ、後ろ手にひらりと振る。
それが了承なのか、もう分かったから黙っていろという意味なのかは判断できませんでしたが、どちらにしても向かう先は同じです。
「ありがとうございます、モーディス様!」
少し声を張って、その背へ送りました。返事はありません。けれど、歩幅が変わることもありませんでした。イカルンと顔を見合わせる。
「ぷるる」
「はい。わたしたちは、わたしたちのお仕事を進めましょうか」
頭を撫でると、イカルンは嬉しそうに目を細めました。わたしもバインダーを抱え直します。
周囲では相変わらず槌の音が響いています。オクヘイマとクレムノスの職人たちは、また何か意匠について言い合っている。荷物を運ぶ人が通り過ぎる。誰かがわたしを呼ぶ。未来のための準備は、何一つ止まっていません。だからこそ、その中でたった一人くらい、少しだけ立ち止まってもいいはずです。
わたしはモーディス様が消えていった人波の向こうを一度だけ見てから、次に呼んでくださった方へ向き直りました。願わくば、今度こそ、ファイノン様にも「働けること」と「休まなくてもいいこと」は違うのだと、ちゃんと分かっていただけますように。
これはヒアンシー視点で進めたかったんだ……。
ちょっと硬いか……?