人波の中へ消えていくファイノンを見送りながら、ヒアンシーは彼の休息の欠如に気づくという違和感を抱く。
昨日から続く過密な作業、夜の資料作成、そして“休んだ”と認識されない休憩の積み重ねが浮かび上がる。医師としての直感は警鐘を鳴らし、彼女はモーディスへ相談する。周囲の黄金裔や家族の懸念も重なり、ファイノンを休ませる必要性を共有した二人は、彼の故郷の麦畑へと導く案を選ぶ。
そこは彼にとって戦いの外の記憶へ還る場所だった。静かな休息へと導く決断が下される。
モーディスが木材の集積場所へ向かうあいだにも、祭りの準備は彼の左右を絶え間なく流れていた。
石材置き場を離れれば、槌と鑿の硬質な音は少しずつ遠ざかり、代わって木材同士が触れ合う鈍い響きや、荷車の車輪が乾いた地面を削る音が近づいてくる。抱えた布を落としかけて笑う者がいれば、結び紐を肩へ掛けた子どもたちが大人に追い返され、少し先では見覚えのない職人同士が紙面を挟んで何やら寸法を相談していた。
誰も武器を持っていない。怒号に似た大声が飛んでも、それは敵の位置を知らせるものではなく、板をどこへ置くのかを尋ねるための声だった。重い荷物を運ぶ者の肩へ汗が浮いていても、傷ついた仲間を担いでいるわけではない。道の端で休んでいる者も、次の出撃を待っているのではなく、本当に水を飲み、身体を冷ましているだけだった。
モーディスは、その光景を横目に歩いた。悪くない。わざわざ口に出すほどでもないが、少なくともクレムノスの者たちが武器以外のものを手にし、それを誰に命じられるでもなく面白がっている姿は、王宮の古文書をいくら積み上げるより、彼にはよほど確かなものに見えた。
だからこそ、その中心を縫うように動き続けていた白銀の男について、ヒアンシーから面倒な話を聞かされたことが少々腹立たしい。
『力のつよい方が、ファイノン様を麦畑にお連れしてくださればなあ、と思いまして』
あの医者は、柔らかな声で随分と露骨なことを言う。しかも、横にいた小さな大地獣まで揃ってこちらを見上げていた。あれを偶然だと言い張るつもりなら、いっそクレムノスの議場へ連れてきて外交を任せてもよいのではないかとすら思う。
モーディスは眉間へ残っていた皺を指で一度押さえ、それから手を下ろした。頼まれたから来たわけではない。少なくとも、そういうことにしておく。ヒアンシーの話が事実なら確認する必要がある。それだけだ。
働けることと休まなくていいことは同じではない。先ほど自分で部下へ言った言葉を、まさか数刻も経たぬうちに別の男へ当てはめることになるとは思わなかったが、だからといって言葉の意味が変わるわけでもない。
もっとも。
(あいつが本当に休んでいないなら、だが)
モーディスは他人の自己申告をそのまま信用するほど素直ではないが、逆に医師が心配したというだけで病人扱いする気もなかった。
ファイノンは弱くない。それは誰より知っている。刃を交えれば、こちらが一瞬でも判断を誤ったところへ容赦なく踏み込んでくる。力だけではなく、相手の動きを読む速さも、状況に応じて攻め方を変える柔軟さもある。本気で動くあの男を、身体が弱った人間へ向けるような目で見れば、それこそ本人から笑われるだろう。
だから確かめる。疲れているのか。それとも単に、ヒアンシーが過保護になっているだけなのか。その程度なら、見れば分かる。長く戦った相手の呼吸や重心は、顔色を見るより正直だ。
木材置き場へ近づくにつれ、人の声が多くなった。同時に、別の音も混じり始める。地面を踏みしめる、重く柔らかな足音。一歩ごとに土が僅かに震え、積まれている板材の端が細かく鳴る。戦獣の歩みほど硬くはないが、人間の体重では出ない響きだった。
やがて道が開ける。モーディスはそこで足を止めた。
「……何をしている」
誰へ向けたわけでもなく、低い声が漏れた。木材の集積場所には、想像していたより多くの大地獣がいた。一頭や二頭ではない。
小さなものは、人の腰ほどの背丈しかない。丸みを帯びた頭を揺らしながら木材の匂いを嗅ぎ、誰かが横を通るたび長い尾をぱたぱたと動かしている。その奥にはさらに大きな個体が二頭いて、背へ組まれた簡易の運搬具に数本ずつ丸太を固定されていた。
そこまではいい。問題は、その群れの中央だった。
「素晴らしい……実に素晴らしいですよ! この脚部の接地面積を見なさい、ファイノン! 柔らかな地盤でこれだけの荷重を受けながら沈下を最小限に抑えている。爪の開き方にも意味があるはずです、いや、待ちなさい、今そこを動かないでください!」
アナイクスが地面へ膝をついていた。片手には筆記具。反対の手には板状の測定器らしきもの。眼前には一頭の大地獣の前脚があり、その周囲の土には何本もの線が引かれている。
本人は倒れていない。むしろ異様なほど元気だった。
「アナイクス先生、それ、木材を運ぶための歩幅を測ってたんじゃなかった?」
「その目的も含まれています。ですが観察の過程で未知の情報を得た以上、捨て置く理由がありますか?」
「いや、ないけど」
「ならば問題ありません。ああ、次は旋回時の重心移動を――」
「先生、荷物を先に届けないと日が暮れるよ」
「……五分です」
「さっきも五分って言ってたよね?」
「学術上の五分と日常生活における五分を同一視しないでいただきたい」
「同じ五分だと思うなあ」
聞き覚えのある笑い声が返る。
モーディスは声の方へ視線を動かした。
いた。大地獣の群れの向こうで、ファイノンが長い木材を一本抱えている。肩へ載せるでもなく、両腕で重心を確かめながら運び、少し離れた台の上へ置く。その動作に危なげなところはない。足取りは軽く、腰も落ちていない。木材を下ろしたあとに大きく息を吐くこともなく、そのまま隣の束へ視線を向けていた。
髪は先ほどよりわずかに乱れ、青い外套にも木屑が目立つようになっていた。それでも、そこに崩れと呼べるものはない。
顔色は悪くなく、腕の動きにも鈍りは見えない。呼吸も一定で、作業の合間に乱れる気配すらなかった。モーディスは少し離れた位置に立ったまま声を掛けず、そのままもう一度だけ様子を測るように視線を留めていた。
「ファイノン兄ちゃん、これってこっちでいい?」
子どもの声が、作業場の喧騒の隙間を縫うように飛んだ。ファイノンは木材へ伸ばしかけていた手を止め、その声の方向へと振り返る。
「どれ?」
「この縄。短い方と長い方」
「ああ、それなら長い方は荷台用だよ。短い方は飾りの固定に使うから、向こうの机に持っていってくれる?」
「分かった!」
「走らなくていいからね」
「はーい!」
子どもが駆け去る足音が遠ざかるのを見送る間もなく、ファイノンは再び木材へ手を伸ばした。その指先が板の縁に触れかけたところで、別の方向から声が飛ぶ。
「すまない、この板は加工場でいいのか?」
「厚い方ならそうだよ。薄い板は会場へ直接送るって話だったはず――あ、待って」
ファイノンは持ち上げかけていた木材をいったん元の位置へ戻し、呼ばれた方へと迷いなく歩み寄った。足取りに急ぎはないが、躊躇もない。誰かに呼ばれれば自然にそちらへ向かう、その癖のような動きが、周囲の喧騒の中でも妙に目立って見える。
板材の前に立つと、彼はその表面へ視線を落とし、わずかに角度を変えながら端を指先で軽く叩いた。乾いた音が短く返り、その響きの違いを確かめるように、もう一度だけ慎重に触れる。
「これは反ってるから、机には使わない方がいいな。補強材に回そう。印を付けておくよ」
「助かる」
「うん。加工場にはこっちを持っていって」
男が去ると、周囲の喧騒は一瞬だけ薄くなり、すぐに別の呼び声や荷車の軋みがその空白を埋めた。ファイノンはその流れに遅れることなく戻り、先ほどと同じように木材へ手を伸ばすと、迷いのない動作でそれを持ち上げた。
重さを確かめるように一度だけ肩の位置を調整し、そのまま運び、所定の場所へと置く。その一連の動きには淀みがなく、まるで最初からそこに組み込まれていた手順をなぞるだけのようだった。
そこで終わるかと思われたが、視線がわずかに横へ逸れた瞬間、積まれていた縄の一本が緩み、端が地面へと垂れているのに気づく。
同様に気づいたらしいファイノンはすぐに足を止めると、しゃがみ込んでそれを拾い上げ、手慣れた所作で結び直した。結び目を確かめるように軽く引き、問題がないことを確認して立ち上がる。その直後、大地獣が次の荷を運ぼうと身を動かし、運搬具の角が近くの木箱へとぶつかりかけた。
「おっと、そっちは狭いよ。こっちから行こうか」
すぐ横へ回り込み、掌をそっと見せる。
大地獣がゆるやかに頭を向けた。ファイノンはゆっくりと二歩退きながら誘導する。荷を積んだ巨体がそれに合わせて向きを変え、木箱の角を危なげなく抜けたところで、彼はその首筋を軽く撫でた。
「よし。ありがとう」
「うぉーん」
「うん、もう少しだけお願いね」
大地獣の声へ返事までしている。モーディスは腕を組んだまま、その様子をしばらく言葉も挟まずに見ていた。
まだ声は掛けない。身体は動いている。むしろ過剰なほど滑らかに、次から次へと作業へ手を伸ばしている。疲労で判断が遅れている様子もない。呼吸も乱れず、動作の切れも鈍っていない。
ならばヒアンシーの心配は杞憂か。そう結論づけるには十分な材料が揃っているはずなのに、どこか腑に落ちない違和感だけが、喉の奥に小さな棘のように残った。
何だ、とモーディスは低く呟きながら目を細め、視線だけでファイノンの動きを追った。木材を運び、縄の緩みを見つければ即座に結び直し、大地獣の進路がわずかに乱れれば迷いなく手を添えて誘導する。
その合間に市民から投げかけられる問いへも自然に応じ、さらに別の木材の状態へと目を向けては必要な確認を済ませていく。どれも個別に見ればただの作業に過ぎないはずなのに、そこには一瞬の停滞も挟まれず、次から次へと途切れなく繋がっていた。
モーディスはその流れを追いながら、問題は仕事の量そのものではないと直感する。むしろ、終わりと次の始まりのあいだに本来あるはずのわずかな間隙が、最初から存在していないこと――その異様な連続性こそが、彼の目に引っかかっていた。
一本の木材を運び終えたその瞬間でさえ、普通ならほんのわずかに生まれるはずの空白が、ファイノンの動きには見当たらなかったのである。
次に何をするかを思案する間もなく、喉を潤すために水へ向かうでもなく、周囲の状況を改めて見渡すでもなく、誰かの指示を待つために立ち止まるでもない。ただ一度終えたという事実だけが静かに置かれ、その直後にはもう視線が別の方向へと滑っている。
手が空くよりも早く、身体が次の対象へと自然に向かっていた。頼まれていない仕事であっても視界に入れば拾い上げ、誰かが迷っている気配があればその場へ歩み寄る。倒れかけた縄があれば結び直し、わずかに位置のずれた箱があれば無言のまま整え直す。そのどれもが意図的な選択というより、呼吸の延長のように途切れなく繋がっていた。
そして、周囲に明確な困りごとが見当たらないときでさえ、彼の視線は止まらない。次に崩れそうな場所、次に手が足りなくなりそうな箇所を探すように、静かに場全体へと巡り続けていた。
(……なるほどな)
モーディスの眉間へ、自然と皺が寄った。
ヒアンシーが言っていた。
『必要なものを取るついでに別の物を運び、誰かが困っていれば手を出し、用が済めば次を探す。放っておけば、いつまでも何かをしている』
その言葉を、ただの観察報告に過ぎないと思っていた。いや、正確には、自分が似たようなことを口にした記憶すらあった。昔からそういう男だと、軽く片づけていたに過ぎない。だが、こうして目の前で動きを追ってみれば、その認識がいかに雑だったかが分かる。
ファイノンは忙しそうには見えなかった。それが、かえって厄介だった。
眉をひそめているわけでもなく、義務に追われているような硬さもない。呼びかけられれば自然に笑い、返事の声は軽く、隣を通る大地獣に向ける視線さえ穏やかだった。誰かに礼を言われれば「よかった」とだけ返し、そのまま次の作業へと足を向ける。
その一つ一つは、どれも過剰ではない。むしろ丁寧で、余裕すら感じさせる所作だった。楽しんでいるように見える、と言っても差し支えない。
だからこそ、周囲はそれを止めない。よく動く手だと、都合のいい働き手として受け取っている。そして本人もまた、その認識から外れていないように見えた。少なくとも、今目の前で繰り返されている動きだけを切り取れば、そこに異常と呼べるものは何一つない。
ただ問題は、その「何一つない」が、昨日の朝から途切れていないというヒアンシーの言葉が事実だとした場合に限って、静かに形を変えるという一点だった。
「ファイノン! こちらを!」
アナイクスの声。
「何?」
「この個体とあちらの個体で角の湾曲率が違います。同じ種族分類で処理するのは早計だと思いませんか?」
ファイノンは積み上げていた木材から顔を上げた。
「先生、僕に聞いて分かると思う?」
「分からない者の疑問は、それだけで価値があります」
「それ、僕を褒めてる?」
「事実を述べています」
「そっか」
笑いながらアナイクスの方へ歩きかける。その途中だった。
荷台に積まれていた木材の一本が、固定用の縄の緩みを拾って静かに滑り落ちる。乾いた木肌が他の材に触れ、ぶつんと短い破裂音のような響きを残した。
丸太がわずかに傾く。真下に人影はない。致命的な危険というほどの状況ではなかった。近くにいた者が気づけば、手を伸ばすだけで十分に支えられる程度の、ほんの一瞬の綻びにすぎない――それでもファイノンは反射的に身体を向けた。
ファイノンの片手が反射的に伸びた瞬間、空気がわずかに震え、落下しかけていた木材は重力に引かれる軌道を外れたまま、まるで見えない手に支えられたかのように滑らかに持ち上がり、そのまま元の積み上げ位置へと静かに収まっていく。
それはジョーリアの力による介入だったが、派手な発現や圧倒的な制御というよりも、崩れかけた均衡を指先でそっと整えるような、ごく僅かな修正に過ぎず、周囲の空気すら大きく揺らさないまま事象だけを正しい位置へ戻していた。
ファイノンはその一連の変化を特別な出来事として扱う様子もなく、視線を一度だけ木材へ向けて状態を確認すると、何事もなかったかのように縄へ手を戻し、先ほど中断した結び目をそのまま自然な動作で締め直していった。
「ここ、少し緩んでたみたいだね。次から二重にしておこうか」
「あ、ああ。すまん」
「大丈夫。誰も怪我してないし」
近くにいた市民へ笑い掛ける。そして、そのままアナイクスの方へ歩みを向けた。モーディスの腕が、組んだまま僅かに強く締まる。
別に権能を使ったこと自体が問題なのではない。あの程度なら負担と呼ぶほどでもないだろう。だが、必要と見れば躊躇なく自分が埋めに入る。誰かが手を伸ばすよりも早く、物が落ちるよりも早く、問題が問題として認識されるよりも先に。
その癖は、戦場を離れても変わっていなかった。敵の攻撃を受ける前に割って入る。崩れた陣形へ迷いなく踏み込む。誰かの穴を埋め、次に崩れる場所へ先回りする。
戦場では、それは確かに長所だった。実際、何度その動きに救われたか分からない。だが今は、ただの祭りの準備に過ぎない。
丸太が一本傾いたところで即座に世界が崩れるわけではない。縄が一本緩んでいたとしても、通常なら後から結び直せば済む話だ。市民が板の置き場に迷ったところで、せいぜい数分の遅れが生じるだけだろう。
だが、積み上げ方や固定の仕方次第では、その一つの乱れが連鎖して荷崩れを起こし、近くにいる者へ怪我を負わせる可能性もある。モーディスはその程度の危うさを見落とすほど鈍くはなかった。同じように、ファイノンも、自分の目に入ったものを素通りしなかった。
(貴様は、いつまで戦場にいるつもりだ)
それでも。喉元まで出かかった言葉を、モーディスは飲み込んだ。違うのだ。あれは戦場だと思って動いているわけではない。
表情を見れば分かる。むしろ逆だ。
ファイノンは、この状況そのものを楽しんでいる。人が未来のために働いていること。自分の手を貸すだけで、誰かの仕事がわずかでも前へ進むこと。何かを守るためではなく、何かを作るために力を使えること。そのすべてが、彼の動きを止めない理由になっていた。
無理を押しているわけではない。止まるべき理由を、本人がまだ見つけていないだけだ。そしてそれは、見ている側からすれば、むしろ厄介な種類の頑丈さだった。
「ファイノンの兄さん!」
また別の声が、周囲の喧騒に紛れながらもはっきりと届いた。今度は若い男のものだった。
「ここの木材、会場まで全部運んでいいのか?」
「待って。細いのを十本くらい残しておいて。アグライアが装飾の試作に使うって言ってたから」
「分かった。何本だ?」
「十――」
ファイノンが答えかけて、視線を束へ落とす。
「いや、十二にしておこう。失敗した時の予備があった方がいい」
「了解」
「それと、重い方は大地獣に任せていいよ。無理して持たなくても――」
「ファイノンの兄さんも持ってるじゃないか」
男が笑いながら肩を揺らした。ファイノンは自分の腕に抱えていた板へ一瞬だけ視線を落とし、その重さと角の感触を確かめるように指先を添えた。
「ああ、これは近かったから」
「近かったからって量じゃないだろ」
「平気だよ。このくらいなら」
笑う。男も笑い返し、そのまま荷物の方へと戻っていった。モーディスは無言のまま、そのやり取りを視線だけで追う。特別な出来事ではない。どこにでもある、作業の合間の軽い応酬に過ぎないはずだった。だが、その「軽さ」こそが引っかかる。
このくらいなら、という判断。それはヒアンシーが口にしていた言葉と、奇妙なほど重なっていた。この程度なら問題ない。まだ平気だ。まだ行ける。一つ一つを切り取れば、確かにどれも事実だろう。
その板を持てるかと問われれば、持てる。もう一往復できるかと問われれば、できる。一人の問いに答えられるかと問われれば、答えられる。だから全部やる。
そうして積み上がった結果だけが、本人の中では計算から抜け落ちている。どれだけの回数それを繰り返したのかという総量だけが、最初から存在しないものとして扱われている。
「……HKSが」
低く零した声は周囲の喧騒に溶け、ファイノンの耳には届かない。それで構わない。モーディスはもう少しだけ観察を続けた。
体調そのものに大きな問題はない。少なくとも今すぐ座らせなければ倒れるような切迫は見えない。呼吸は深く、一定に保たれている。歩幅にも乱れはなく、木材を持ち上げる際の重心も崩れていない。視線はぶれず、会話への反応も遅れがなかった。
戦場であれば、まだ前へ出せる程度の動きだった。――だが、ここは戦場ではない。その事実を、モーディスはようやく明確な輪郭として認識した。戦えるかどうかで休息の要否を測る理由は、もはやどこにも存在しない。
視線の先で、ファイノンがまた一つの作業を終えていた。アナイクスの測定に付き合い、角度について短く応じ、区切りがついたところで自然に立ち上がる。その動きに淀みはない。終わったという感覚すら薄いまま、次の行動へ移るための呼吸だけがそこにあった。
一瞬だけ、両手が空く。ようやく区切りが生まれたように見えた。モーディスでさえ、そこで一度は「止まるか」と思考を置いた。
しかし、その予測はすぐに裏切られる。ファイノンの視線がわずかに右へ流れた。そこにあったのは、空になった水樽だった。
誰かが困っているわけではない。呼ばれたわけでもない。ただ、そこに空のまま置かれているというだけの状態。それを見た瞬間、ファイノンは当然のように歩き出した。モーディスの眉間に刻まれていた皺が、さらに深くなる。
樽へ向かう足取りは迷いがない。持ち上げる動作も、確認も、すべてが一連の流れとして組み込まれている。そして恐らく、その途中で別の荷車や資材の歪みを見つければ、同じように手を伸ばすのだろう。
次へ、また次へ。区切りという概念そのものが、最初から存在していないかのように。このまま放置すれば、日が傾くまでこの連鎖は途切れない。
日が落ちれば、今度は当然のように「暗くなったから片付けを」と言い出すだろう。片付けが終われば終わったで、「明日の準備だけ確認しておこう」と続けるに決まっている。そしてそれは、ヒアンシーの言葉を思い返すまでもなく、すでに昨日の時点で実際に起きていたことなのだ。
モーディスは腕を解いた。大地獣の背で縄がわずかに揺れ、結び目が乾いた音もなく位置を直す。風は木材の乾いた匂いを運び、遠くでは職人たちの笑い声が途切れ途切れに混じっていた。誰も死なないし、誰も追われていない。今ここでファイノンが一つ仕事を残したとしても、それを拾う手はいくらでもある。拾われなければ、明日やればいいだけの話だ。
それができる世界を作るために、散々戦ってきたのではなかったか。ならば、その世界は本当に成立しているのか。確かめるべきは理屈ではない。まず、この男自身にそれを使わせる必要がある。
モーディスは空の樽を抱えて歩き始めたファイノンへ視線を据え、静かにその進路へ踏み出した。
いきなり掴むつもりはない。それは、弱者を寝台へ運ぶような行為とは違う。相手はファイノンだ。本気でこちらを振り切るつもりなら、腕力だけでどうにかできる相手ではないことを、彼自身が一番理解している。
だから、まずは言葉で止める。そのために、ここまで黙って様子を見ていた。あの男が何をしているのか。何故止まらないのか。それを確かめもせずに命令だけを置けば、王が臣下へ休めと告げるのと何も変わらない。
モーディスが今から止めるのは、救世主でも、壊れかけた永劫回帰の器でもない。目の前で、空の樽まで当然のように抱え込んでいる、ただの友人だ。
その距離まで歩み寄ると、ファイノンがようやくこちらの影に気づいたようだった。白銀の頭が上がる。青い瞳がモーディスを捉え、驚いたように一度だけ瞬く。モーディスはその顔を正面から見据えたまま、足を止めた。