烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

9 / 10
<あらすじ>
 銀河の畔で新生を待つオンパロス。その頭上に広がったのは、神話の頁に記された天蓋でも、祭司たちが語り継いできた比喩でもない。人々は初めて、祈りではなく現実としての星空を見上げる。
 アグライアが主催する天文観察会(アストロノミキ・ヴラディア)に誘われ、ファイノンもまた黄金裔たちと共に空を仰ぐことになった。けれど、淡い紫の星海に彼が重ねて見たのは、オンパロスの未来だけではない。麦の穂を渡る風、夕暮れに沈む紫の空、そして遠い故郷(エリュシオン)の記憶だった。


009 天幕の下にて問う

 かつて、ヒアンシーは開拓者へ向けて問いを投げかけたことがある。

 

『グレーたんの知っている銀河は、どんな空模様なのですか?』

 

 そのときの自分の声を、ヒアンシーははっきりと思い出していた。少しだけ弾んでいて、けれどどこか遠慮がちで、知らないものに触れようとする指先のように、そっと差し出した問い。

 あのときは、ただ知りたかっただけなのです、とわたしは胸の内で小さく呟く。外の世界のことを、グレーたんの見てきた空のことを。閉ざされたオンパロスの中で育った自分には想像もつかない景色を、言葉ででもいいから覗いてみたかったのだと。けれど今になって思えば、それだけではなかったような気がします。

 その時はまだ気づいていなかったのでしょう。胸の奥で、ことん、と小さく転がったもの。見たこともない景色へ、そっと伸ばしかけた指先。空という名は知っているのに、本当の空を知らないまま育った子供が、硝子窓の向こうにある春を、そっと尋ねるような気持ちを。

 それはきっと、憧れと呼ぶにはまだ幼くて、願いと呼ぶにはまだ形を持たない、けれど確かに外へ向かっていた感情だったのだと――今のわたしは、そう思うのです。

 

 だって、今になって、その問いが自分の中へ戻ってきたのですから。

 

 あの時のわたしは、きっと空の色を尋ねたつもりでした。星はどれほど多いのか。天外の夜は暗いのか。開拓者たちは、どのような光の下を旅しているのか。オンパロスの外は――知らないことばかりで、だから、知りたかったのです。

 知らないままでいるには、世界はあまりにも広いと、星穹列車の乗客たちが教えてくれました。けれど今、わたしの目の前に広がっているものは、色の名前だけでは言い表せないものでした。

 さらさら、と風がドームの飾り布を撫でていく。アグライア様の手配した薄布が、星明かりを含んで淡く揺れました。花の飾りが小さく震え、誰かの衣擦れが、夜の静けさに細い波紋を描く。イカルンはわたしの膝元で丸くなり、ふす、ふす、と眠たげに鼻を鳴らしていました。けれどわたしは、その柔らかな背を撫でる手を止めてしまっていました。

 

(ごめんなさい、イカルン。だけど、天空のタイタン(エーグル)の名を継ぐ者としては、気持ち的にはどうしても……!)

 

 空から、目を離すことができなかったのです。

 わたしは、そっと息を吸いました。胸の奥で、とくん、と小さな音がした気がします。たとえば、閉ざされていた窓が開く音。あるいは、長い長い眠りから覚めた世界が、初めてまばたきをする音のように。

 

「……わたし、開拓者さんに聞いたことがあるんです。銀河はどんな空模様なのですか、って」

 

 ぽつりと落とした声は、思っていたよりも小さかった。けれど隣にいたファイノンには届いたらしい。彼は少しだけ顔を傾け、ヒアンシーの方を見た。青い瞳に星明かりが映っている。その光は、どこか遠い故郷の水面にも似ていた。

 彼は、ほんの少しだけ目を細めていた。驚いているというよりは、懐かしいものを見つけたときのような、やわらかな表情で。ヒアンシーはその横顔を見て、胸の奥が静かにほどけていくのを感じる。

 

「うん。君らしい質問だね。知らないものを、怖がるより先に知ろうとするところが」

 

 彼の声は柔らかかった。夜風に混ざれば、そのまま星の方へ流れてしまいそうなほど、静かで軽い。ヒアンシーは一度まばたきをする。彼の言葉に返事をしようとして、すぐには言葉が出なかった。

 怖がるより先に知ろうとする。そう言われてしまうと、少しだけ面映ゆいです。わたしはそんなに立派なものではなくて、ただ――知らないままでは、きっと寂しいと思ってしまうだけなのです。

 ヒアンシーはイカルンの背を、もふ、と撫でた。イカルンが片目を開けて、何か言いたげに鼻を鳴らす。その小さな温もりを指先に確かめながら、彼女はもう一度空を仰いだ。

 

「でも、思っていたより……ずっと静かですね。もっと大きくて、まぶしくて、知らないものばかりで、胸がどきどきしてしまうと思っていました。」

 

 そう口にしながら、わたしは胸元にそっと手を添えました。どきどきしていないわけではありません。むしろ、いつもより少しだけ早く鼓動が刻まれているのを感じます。けれどそれは、嵐の前に窓を叩く雨音のようなものではなくて――雨上がりの水たまりに、最初の星が映ったときのような、静かな揺れでした。

 

「実際、知らないものばかりなのでしょうね。あの一つ一つが遠い世界で、そこには人がいて、町があって、わたしたちの知らない朝と夜があるのだと思うと……わたしの鞄では、とても診察道具が足りません。」

 

 少しだけ冗談めかして言ってみると、近くにいた方が小さく笑ってくださいました。くす、と空気がやわらぎます。わたしもつられて微笑みながら、それでも視線は星々から離せませんでした。

 

 昏光の庭の首席医師ヒアシンシア。

 その肩書きの通り、彼女は医師である。

 

 傷を見れば、手を伸ばします。痛みを聞けば、包帯を探します。熱を測り、脈を取り、眠れない方には眠れる場所を用意したいと願ってしまうのです。それが、あの頃のわたしの歩き方でした。

 ですから、かつて空が閉ざされていたと聞いたときも、ただの神話として受け止めることができませんでした。わたし自身が、エーグルを継いだ黄金裔であるからこそ、なおさらです。

 空が見えないということは、世界の呼吸が半分隠されているようなものだと、わたしは思います。朝が来ても、本当の太陽を知らない。夜が訪れても、本当の星明かりを知らない。月の満ち欠けも、遠い世界の瞬きも、ただ伝承の中に押し込められてしまうのです。

 それは、患者さまの瞳を布で覆ったまま、「もう大丈夫です」と告げるようなものではないでしょうか。わたしは、そっと唇を結びました。

 

 ですが今、布は外されました。

 宇宙は、遅ればせながら答えを返しているのだと、そう思います。銀河はどんな空模様なのかと尋ねた少女へ。天外を夢見た人々へ。そして、終末を越えてなお、まだ自分たちの明日を上手に思い描けずにいる、わたしたちオンパロスへ。

 けれど、その答えは、轟音ではありませんでした。

 神託のように降り注ぐ声でも、勝利を告げる鐘でもなくて。ただ、遠い星々が瞬いているだけ。ぱち、ぱち、と小さな火が灯るように。しん、と凪いだ水面へ光が落ちるように。誰かの泣き声を急かすこともなく、誰かの沈黙を責めることもなく――星空は、ただそこに在りました。

 わたしは、それが少し不思議でした。救われた世界には、もっと明るい音が似合うのだと思っていました。歓声、拍手、祝砲、歌。そうしたものが、全部必要なのだと。

 もちろん、それらも大切でしょう。人々が笑い、手を取り合い、生き延びたことを祝う時間は、きっと何度あってもいいものです。けれど、この夜の宇宙は、まだ泣いてもいい、と告げるように暗かった。まだ忘れなくていい、と頷くように遠く。それでも、もう顔を上げていいのだと示すように、星々は瞬いています。

 花のような銀河の優しさとは、こんなにも静かな形をしているものなのでしょうか。わたしは、イカルンの柔らかな毛をゆっくり梳きました。

 

「ファイノン様」

「なんだい、ヒアンシー?」

「あの空は、――あの暗い空は、わたしたちをもう追ってきたりしないんですよね?」

「……それは、」

 

 彼はすぐには答えなかった。

 紫色の銀河を見上げたまま、彼は穏やかに目を細める。白銀の髪が夜風に揺れ、青い布が一拍遅れてさらりと流れた。その横顔を、わたしはそっと見つめます。星を見ているようでいて、どこか遠く――わたしたちの知らない場所へ、心を伸ばしているようにも見えました。

 その沈黙は、彼の表情も相まって不安にはなりません。むしろ、わたしの胸の奥にあったざわめきを、ゆっくりと撫でていくような静けさがありました。

 

「……そうだね。待ってくれているんだと思う。」

 

 それは、誰を、とは言わない言葉でした。

 オンパロスを。人々を。失われた者の名を。まだ生まれきっていない未来を。あるいは、ファイノン様自身を。

 わたしは、そのどれもを問いませんでした。問いかければ、彼はきっと答えてくれるでしょう。でも、今は――この空みたいに、急がなくていい気がしたから。彼の言葉が嬉しくて、ただ小さく頷きました。

 ファイノン様の横顔は、少しだけ柔らかく見えた。星明かりのせいかもしれないし、わたしの気のせいかもしれない。でも、その表情を見ていると、胸の奥にあった怖さが、少しずつほどけていくのが分かるのです。

 

 遠い未来のことを、わたしは思う。オンパロスはきっと、新たな生命(ほし)として生まれるのでしょう。まだ肉体を持たぬ人々が、いつか本当の大地を踏み、朝に目覚め、夜に眠り、季節の移ろいを数える日が来る。

 その時、この夜のことを誰かが語るかもしれません。初めて見上げた銀河は、怖くなかったと。星明かりは、喪失を消しはしなかったけれど、その隣にそっと座ってくれたのだと――そんなふうに。

 ひゅう、と風が吹く。

 飾り布がふわりと膨らみ、星明かりを受けた花飾りが、かすかに鳴った。ちりん、と小さな音。まるで、遠い宇宙のどこかで鳴った祝福の鈴が、遅れてオンパロスへ届いたみたいでした。

 

 わたしはその音を聞きながら、膝の上のイカルンを抱き寄せました。

 

『銀河は、どんな空模様なのですか。』

 

 あのときの問いを、わたしはまだ覚えています。ずっと、答えを待っていたのだと思います。そして今、宇宙はようやく応えてくれている。

 それは、終末を越えたばかりの世界を急かさない空でした。傷を負った者の歩幅に合わせ、失われた頁の余白を乱さず、ただ静かに開かれている空。わたしたちが立ち止まっても、泣いても、笑っても、何も責めずに見守ってくれる空。

 遠い未来に生まれるオンパロスという新たな生命(ほし)のために、無数の星々が灯した、長く穏やかな祝祭なのだと、わたしは思ったのです。

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